曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 出雲演劇鑑賞会

ユ・ドンジュンがどんな詩を書いたか分かってもらえたと思う。
私は戦前の朝鮮と日本を背景にしたものは芝居と言わず、映画や本と言わず、向き合う前から気分が重苦しくなり、辛くなるのが分かっているので、今回も心弾ませて10月31日を待つ気持ちにはなれなかった。
だが公演が近づきこの芝居の脚本・演出がシライケイタであることに改めて気が付いた時、この人が去年見た「獅子の見た夢」の脚本を書いたことを思い出した。その瞬間、私はこの芝居はいい芝居に違いない。見ごたえのある芝居のはずだと思ったのである。
戦前の地方の貧しい無学な百姓が、一人娘に信じた道を行けと獅子舞で見送る話だった。魂が震えるほど感動した芝居だったが、「星をかすめる風」も私の期待通りの芝居だった。

この芝居は福岡刑務所の看守杉山が殺されたところから始まる。新任の若い看守渡辺は所長から犯人捜しを命じられる。杉山は朝鮮人受刑者に暴力をふるうので死神と恐れられ憎まれていた。それくらい杉山の暴力はひどいものだったのだ。
渡辺は杉山のポケットから一遍の詩を見つけたことによって、受刑者の一人、平沼東柱こと尹東柱ユ・ドンジュンが何らかの鍵を握っているのではないかと思うが、「自分は645番ではない。平沼東柱でもない。尹東柱だ」と言うドンジュンの口を開かせることはできなかった。

その頃、刑務所内では朝鮮人受刑者が次々と体の不調を訴えていた。
受刑者の健康管理を受け持っている九州大学から派遣された医者は、刑務所内で働く受刑者からけが人を除き、健康な者だけを働かせるようにしていた。けが人は正しいデーターを取れないと言うのがその理由だった。
だが受刑者の体調は悪くなるばかりだった。

1944年の4月に投獄されたドンジュンは、翌1945年2月16日に獄死する。その短い獄中で何があったのか?渡辺はドンジュンや杉山と心を通わせていた一人の美しい看護婦からドンジュンが死んだ後に杉山殺しの真犯人を教えられ、杉山とドンジュンの真実の姿を教えられる。

杉山を殺したのは医者だった。医者は健康な朝鮮人受刑者で人体実験をしていたのである。そのためにけが人は実験対象から外されていたのだが、それを察した杉山はあえて受刑者に暴力をふるいひどいけがをさせて人体実験から救っていたのだ。杉山は医者を問い詰めた。本当は人体実験をしているのではないかと。医者は杉山の口を塞いだ。

朝鮮人受刑者にとっては凧揚げだけが唯一の楽しみだった。彼らはわざと凧糸を切り、その凧が塀の外空高く飛んでゆくのを、自由を求めるわが身に託して喜んでいた。飛べ、飛べ、どこまでも。
実はその凧をひそかに作っていたのは杉山だったのである。それだけではない、その凧に杉山はドンジュンの詩を書いていたのだ。
塀の外ではその凧を拾い、詩を写し取ってくれる少女がいたのだ。
米軍の大空襲があった翌日、杉山とドンジュンが一番心配ししたのは少女の身だった。少女は助かっていた。杉山とドンジュンは喜ぶ。ドンジュンの詩も守られたのだ。

福岡刑務所ではもう一つ秘密の活動が行われていた。それは朝鮮人受刑者による脱獄トンネル堀りだった。ドンジュンも加わっていたが、ある日、ドンジュンは謎の地下室に突き当たる。そこはかつての拷問室で今は使われておらず、沢山の本が埃をかぶっていた。それは禁書処分された本だった。それを見たドンジュンはこの部屋を自分たちの図書館にすることを思い立つ。
ドンジュンは脱獄には懐疑的だった。福岡刑務所を脱獄しても真の自由は得られない。それよりも本を読む喜びを知り、本で学び、本当の魂の自由を得るべきだと考えたのだ。ドンジュンは読書仲間を増やして行く。その方法も刑務所ならではであった。二人一組で一冊の本を読むのだ。
方法はこうだ。一人がわざと懲罰をくらって懲罰房に入るのだ。そしてそこから順番に自分たちだけの図書館に入り込み一冊の本を読む。懲罰が終わって元の牢に戻ると、彼は読んだ本の内容を待っていた男に教える。
すると今度はその男が懲罰を食らって懲罰房に入り、図書館に潜り込むとその先を読み進める。これを繰り返して一冊の本を読み終えるのだ。
こうして囚人たちは、「罪と罰」や「アンナ・カレーニナ」や「ハムレット」などを読みすすめて行ったのである。

看護婦は杉山の過去も知っていた。杉山はノモンハン事変でロシア軍の捕虜になりすさまじい拷問を受け、囚われの身の辛さを骨の髄まで知った男だったのである。それゆえ異国の刑務所に囚われた囚人たちに同情し、何とか力になってやろうとしていたのだ。
ドンジュンは詩人として魂の自由を得ることが人を救うことになると信じていた。

看護婦の話が終わった時、渡辺は「私は嫉妬してます」と言う。
この時、私は一瞬誰に嫉妬しているのかわからなかった。杉山やドンジュンが心を開いてくれた看護婦に対してなのか、それとも看護婦に対して心を開いた二人に対してなのか、あるいは二人の心の奥に秘められていた美しいものそのものに対してなのか。今ではどれでもいいし、それら全部をひっくるめてもいいような気がしている。
渡辺は戦後BC級戦犯として裁判に掛けられる時、この刑務所であったことをすべて話すと語る。

どんでん返しがラストに一つある。
実はトンネル堀りは所長が企んでいたことだったのだ。囚人の一人331号が満州に金塊を隠したという作り話を信じ、331号を脱走させ、金塊を山分けするつもりだったのである。囚人たちはそんなこととは知らず脱獄用のトンネルを掘っていたのだ。
こういう話や地下の図書館の話もすべてフィクションである。戦後出版され、ベストセラーになった本の作者が創ったものだと思う。
日本で逮捕されてから、わずか1年7ヶ月後に死んだユ・ドンジュンのことはほとんど何もわかっていないので、フィクションの余地はいくらもある。奇想天外過ぎると思われる向きもあると思うが、私はそうは思わない。ドンジュンの魂の自由を求める願いが強ければ強いほど作家も想像の翼を羽ばたかせるのだ。
人体実験については、私の若い頃だったろうか、戦時中、九州大学で人体実験が行われていたと言う話が、週刊誌に取り上げられたことがあり、月刊誌にも載ったことがあったような気がする。まったく根も葉もない話ではない。噂はあったのである。

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10月31日に出雲演劇鑑賞会で青年劇場『星をかすめる風』を観たが、感想をうまく書くことができないでいた。なぜだろうと考えたら、まずこの芝居には推理要素がある上に、回想が多く、同時進行の話が二つあったりして、分かりやすくまとめるのがとても難しいのだ。さらに難しくしているのが、これが最大の問題なのだが、物語の中心人物である尹東柱(ユ・ドンジュン)という詩人の視点でドラマが進まず、あくまでも尹東柱と彼の書いた詩の魂とも言うべきものが明らかにされて行く形をとっていることにある。いわばこの物語の主役を占めるのは詩の魂なのである。
芝居の展開と彼の詩の魂をどううまくシンクロさせて書けばいいのか、さんざん悩んで、ふと、そうだ、彼がどんな詩人であったかをまず分かってもらってから、次に(出雲演劇鑑賞会・その2)で芝居の展開を読んでもらえば理解しやすいのではないかと思ったのです。
1917年中国吉林省北間島の開拓民の子として生まれ、1932年15歳で中学入学。4年の時平壌の中学に転校。詩は17歳の頃から書き出し、1938年21歳。現延世大学文科入学。1941年24歳。延世大学卒業。卒業記念に『空と風と星と詩』の出版を思い立つが果たせず、自筆で3部を作る。そのうちの一冊が戦後刊行の尹東柱の詩集の原本になる。
1942年25歳。立教大学に留学。留学のために創氏改名し平沼東柱となる。同年同志社大学に転学。
1943年26歳。独立運動の容疑で逮捕され多数の本と日記を押収される。多数の詩の草稿ノートも押収されたであろう。1944年27歳。朝鮮語で詩を書いたことで治安維持法違反の罪で懲役2年の判決を受け、福岡刑務所に投獄される。1945年2月16日27歳2ヶ月。獄死。死因は不明。
短い生涯で残した詩はとても少ない。日本でも書いたはずだが、立教大学時代に書いた5編を朝鮮に送ったものしか残っていない。
だが戦後、『空と風と星と詩』が刊行されると、尹東柱は国民的詩人として愛された。
その詩集の巻頭に置かれたのが「序詩」である。
芝居の冒頭で舞台のスクリーンに、この詩が映し出される。

序詩

死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを、
葉あいにおきる風にさえ
私は思い煩った。
星を歌う心で
すべての絶え入るものをいとおしまねば
そして私に与えられた道を
歩いて行かねば。

今夜も星が 風にかすれて泣いている
(1941.11.20)

その詩集の最後に置かれたのが「星を数える夜」で、芝居のラストシーンで尹東柱が朝鮮語で朗々と読み上げ、その日本語訳が後ろのスクリーンに映し出されるのである。即ち、この芝居は詩集「空と風と星と詩」の最初の詩で始まり、最後の詩で終わるのだ。

星を数える夜

季節が過ぎてゆく空には
秋がいっぱいみなぎっています。

私はなんの懸念もなく
秋の奥の 星々をすべてかぞえられそうです。

胸の中にひとつふたつ刻まれる星を
今のこらずかぞえきれずにいるのは
たやすく朝がくるからでありますし、
明日の夜がまだ残っているためでもありますし、
いまなお私の青春が尽きてはいないからであります。

星がひとつに追憶と
星がひとつに愛と
星ひとつにわびしさと
星ひとつに憧れと
星ひとつに詩と
星ひとつにオモニ、オモニ

お母さん、私は星ひとつに美しい言葉をひとつずつ唱えてみます。
小学校で机を同じくした子どもたちの名前と
佩(ぺー)、鏡(キョン)、玉(オク)、こんな異国の少女たちの名前と
早くもみみどり児の母となった乙女たちの名前と、
貧しい隣の人たちの名と、鳩、子犬、兎、ラバ、麞(のろ)、
「フランシス・ジャム」「ライナー・マリア・リルケ」、
このような詩人の名を口にしてみます。

これらの人たちはあまりにも遠くにいます。
星がはるかに遠いように、

お母さん、
そしてあなたは遠く北間島におられます。

私はなにやら慕わしくて
この数限りない星の光が降り注ぐ丘の上に

自分の名前を一字一字書いてみては、
土でおおってしまいました。

夜を明かして鳴く虫は紛れもなく
恥ずかしい名を悲しんでいるのです。

ですが冬が過ぎ私の星にも春がくれば
墓の上にも緑の芝草が萌えるように
私の名の文字がうずもっている丘の上にも
誇るかのように草が一面生い茂るででありましょう。
(1941.11.5)

※麞(のろ):鹿の一種

今年のいずも演劇鑑賞会で一番期待していた作品。去年の加藤健一と佐藤B作の「サンシャイン・ボーイズ」が面白かったので、加藤健一がどんな曲亭馬琴を演じるのかとこの日(8月6日)を楽しみにしていたが、今回は芝居を観る前に「駐車場係」を務めることになった。
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鑑賞会は沢山の会員サークルで運営されているので、公演ごとにサークルが「駐車場の整理」「舞台道具の搬入」「搬出」その他、もろもろの手伝いをしなければならないのだ。私は去年は歳を理由にさぼったのだが、皆、協力しているのに知らんぷりするのも申し訳なく、今年はお手伝いに。
右の写真がその駐車場。市民会館は右手の建物。わがサークルはこの広い駐車場を受け持ち、3つの入り口に3人、奥に3人の6人が立ち、満車になるまで車の出入りを管理するのだ。
私は奥に立ち車を案内する役。
5時半前にはこの日のお手伝いの集会があり、加藤健一(馬琴)と加藤忍(嫁のお路)のお二人の感謝の挨拶がある。加藤健一がこんなに小柄な人だったのかと驚く。若い時からもっと背が高くすっきりした役者だと思っていた。舞台に立つと大きく見えるものなのだなあと今さらながら納得する。
そして、いよいよ初めての駐車場係。ところが5時38分から、上演10分前までの6時20分まで約40分余り、夏の夕日が照り付ける中、立ちっぱなし。農作業は7時過ぎから始めて8時前には終わり、夕方は陽が落ちてから水やりしかしない77歳にはひどくこたえる。
「やばいなあ、せっかく楽しみにしていた芝居なのに、寝ちゃうぞ」とぼやく。

ところが、2時間25分(休息15分)の長い芝居の間、私は一度も眠気に襲われることなく最後まで観たのであった。こんなこと初めてのことだった。「サンシャイン・ボーイズ」の時でさえ、一瞬眠りに落ちていたのにである。
理由は明らかだった。最初から最後まで、身につまされた話だったからである。
心を病む妻に悩む姿は妻の介護で一行も書けなかった私を思い出させた。目が次第に見えなくなっておびえる姿に、今の私の目のかんばしくない状況を重ねる。
馬琴はこれだけではない。最大の悩みは育て損ねた一人息子。病弱で体も心もどんどん弱くなってゆく。そして病んだ妻も病んだ子も持って行き場のない怒りを大声で爆発させる。
馬琴は悲鳴を上げる。なにもかもどうして自分は背負わなければならないのか。自分は滝沢解(とく)ではなくて、曲亭馬琴として八犬伝を書きたいのにと。
そんな馬琴の持って行き場のない怒りは息子の若い嫁お路にもささいなことで爆発する。
お路も気の毒な嫁だ。有名な流行作家滝沢馬琴の一人息子の嫁と聞いて二つ返事で結婚したら、婿は父のおかげで医者にしてもらったが、ろくに薬も作れず、嫁のお路の方が腕を上げる体たらく。引きこもりで、お路の浮気を疑り、ささいなことで怒り、どんどん精神を病んで行く。
お路は嘆く。自分の実家のように、明るく楽しくお茶を飲み、冗談を言い合って笑うような家庭であってほしいと。ところが馬琴は冗談などは言下に否定する。くだらぬ、時間の無駄だと。
お路は嘆き、ため息をつくが、彼女は底抜けに明るくたくましい嫁だった。それは持って生まれた天性だったのかもしれない。
口うるさい馬琴に叱られながらもくじけずに滝沢家の嫁になって行く。
この舞台で秀逸なのは、息子宗伯の声を風間杜夫、馬琴の妻お百の声を高畑淳子が演じていることだ。二人は一切登場することなく、家の別室で喚き、怒鳴り、絶叫し、感情を爆発させまくる。そのたびに馬琴とお路は右往左往させられるのだ。二人の声だけの出演が異常な狂った家を際立たせ、馬琴の苦しみをこれでもかと際立たせるのだ。
馬琴にできることはお路に八つ当たりすることしかない。だが、お路はすべてを受け入れる。どんな時も明るく前向きな嫁は馬琴を励まし、力づけようとする。馬琴の右目が見えなくなって、口述筆記するしかなくなるが、その代筆する者もいなくなった時、お路が代筆を申し出る。呆気にとられる馬琴。
お路は嫁いだ時、八犬伝の一巻を半分も読めず、難しくて放り投げた女である。
「漢字には偏とツクリがあるのを知っているのか?」
しかし、馬琴に手取り足取り漢字を習いながら代筆を続ける。
三年後、ついに馬琴は左目も見えなくなるが、三年後馬琴は八犬伝を書き上げる。28年かかった物語の最後の六年を嫁のお路と書き上げたのである。
書き上げた時、馬琴はお路に名前を与える。その名は琴童。お路が琴と童の文字を書いた時、私は目頭が熱くなった。
ここまできた時、この舞台の主役はお路になっていたのだ。
この舞台を見て思った。馬琴がえらいのはもちろんだけど、人として一番えらいのはお路のような人間なのだと。いつも明るく、どこまでも前向きで、優しく、思いやりがある人間。

パソコン修理中の6月22日に大社うらら館で観劇したものです。しばらくパソコンが使えなかったので遅ればせながら報告するものです。これは出雲演劇鑑賞会主催の演劇ではありませんが同じ演劇のジャンルなので出雲演劇鑑賞会のカテゴリに入れておきました。東京演劇集団と言う劇団が上演するもので山陰で初めてのバリアフリー演劇です。バリアフリー演劇というのはあらゆるバリア(=障害)を取り払って、どんな人でも(=どんな障害を持った人たちも)、健常者と一緒にお芝居を鑑賞し楽しもうという演劇です。
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今回は「出雲の精神保健と精神障がい者の福祉を支援する会ふあっと主催」でした。
目が見えない人、耳が聞こえない人などなどあらゆる障がいを持った人がどうやってお芝居を楽しむことができるのか、何も知らなかったので一体どうするのだろうと、しばしば通っているうらら館に行ったが、上演前からすべてが初体験ばかりだった。
まず上演前に出演者全員が舞台に上がって自己紹介するのだ。ヘレン・ケラー役はこんな声で、身長は何センチぐらいで、髪型はこんな感じで、こんな感じの衣装を着ている。靴はこんな感じの靴を履いていて、歩くとこんな音がすると、どんどんと舞台を踏み鳴らす。すなわち、これは目が見えない観客や、耳が聞こえない観客が役者をイメージしやすいようにあらかじめレクチャーしておくのだ。
この他にも舞台上には手話通訳者(この人はお芝居にも一部参加する)がいて、舞台背景にはバリアフリー日本語字幕が浮かぶ。ライブで音声ガイドがあり、適宜舞台説明もある。
障がい者には行き届いた配慮と感心したが、健常者にはうるさすぎないのかなあと思ったが、これはすべて裏切られることになった。
すなわち主人公ヘレン・ケラーは三重苦の少女で目が見えず、耳が聞こえず、話すこともできないので、この主人公のなすことすべてが観客には理解不能なのであるが、障がい者のための日本語字幕や音声ガイドが私たちのような一般の観客の理解を助けてくれるのである。
この芝居に誘ってくれたのは娘である。まだ3歳半の子もつれて一緒に診るつもりだったが、孫が熱を出したので私だけが観劇したのだが、その娘から「どんな障がいがある人も見に来るし、連れて来るから、上演中に大声を出す子もいれば、ヘレン・ケラーがカップを投げつけたら、『あんなことをしたらいけないねえ』という子がいたりするのよ」と聞いていた。
確かに、上演中、何度も意味不明の大声を何度もあげる障がい者もいた。
ところが不思議なことに私はそれをうるさいとも観劇の邪魔になるとも思わなかったのである。
劇場という所は上演中に私語をするのはタブーである。絶対に許されない。それくらい劇場は神聖にして犯すべからざる場所なのになぜだろう。
答えは簡単だった。三重苦の少女ヘレン・ケラーと教師アニー・サリバンの戦いともいうべきドラマを見ているうちに、ヘレン・ケラーの障害はヘレン・ケラーだけの障害ではなく、私のすぐ隣の障害になっていたのである。あの大声も私の隣人の声であり、それは劇場全体の声になっていたのだと思う。
逆に言えば障害はヘレン・ケラーだけではない、私たちの身の回りのどこにでもあるものなのである。みんなそれを肌に感じながら舞台を見ているのだ。
舞台と観客席は不思議な一体感を作り出していたのだ。
ラストの有名な場面は涙なくしては見られないものだった。
舞台には実際に水が出るポンプが設置されていて、ポンプを押すと水が流れ出る。ヘレン・ケラーは両手ですくって顔をぬぐう。そしてアニー・サリバンから教わったWATERの指文字を一つ一つアニー・サリバンの手のひらに押し当ててゆく。(ABC…に相当する指の形が決まっていて=それを指文字と言う)
W・・・A・・・T・・・E・・・R・・・WATER
WATER=水を認識した瞬間だった。そして、
T・・・E・・・A・・・C・・・H・・・E・・・R・・・TEACHER
TEACHER、アニー・サリバンを先生と認識した瞬間だった。
この日の体験は私にとってまったく新しい感動だった。

6月4日はいずも演劇鑑賞会の公演『母』(大社うらら館)
『母』とは小林多喜二の母セキである。と言ってもそもそも小林多喜二を今の人はほとんど知らないのではないだろうか。小説家である。知られている小説は『蟹工船』一作のみ。なんだ、一作だけかと言ってはならない。若くして特高に虐殺された多喜二はもっともっといっぱい書きたい小説があったのに、書くことが出来なかったのだから。
この芝居は三浦綾子(と言ってもこれまた今の人は誰も知らないだろうが、昭和の時代の有名な女流作家)の多喜二を描いた長編小説を舞台化したものである。多喜二が虐殺されてから30年後の、高度成長が始まる頃の昭和38年に、セキが雑誌社の取材を受けるところから始まる。
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実は私は『蟹工船』は読んでいない。大学生の頃、読まないといけない本と思いながらも、テーマが重く暗い先入観があり、読むのが辛そうでいつかそのうちと思いながら手に取ることがなかったのだ。
だがあれから半世紀を過ぎ、この芝居を見て、私の多喜二像は根底から覆った。それが母セキの自分と我が子を語る言葉だった。セキは語る。
セキは家が貧しく学校にも通えず、字も書けず、13歳で結婚して多喜二をふくめて6人の子を育てたのだが、家はいつも明るく、楽しかった。子供達もみな明るく育ち、特に多喜二は人を笑わせるのが上手で常に笑いの中心にいた。無学だが明るい母。この母がいるからこの子たちがいる。そういう家庭だったのだ。多喜二は初めから小説家を目指していた訳ではない。それも驚きだった。学生時代はスケッチが上手く、水彩画ばかり描いていたが、厄介になっていた親戚(学費と生活費を得るために働いていた)からもっと働けと叱られ、絵筆を取り上げられてしまい、それから原稿用紙に字を埋めるようになったのである。
この明るく楽しい若者が絵を描き続けていたらどうなったのだろう。特高に虐殺されることはなかっただろうにと思うと運命の残酷さに言葉もなかった。
この若者は小説を書くのも、貧しい人たちのために書くのだと明るく語る。のちに共産党に入る。
私はこういう心優しい若者と共産党の政治的イメージがどうにもそぐわないのだが、私の若い頃にもこういう若者は沢山いたように思う。共産党よりももっと過激な方向に突っ走ってしまう若者たち。若さゆえとしか私は説明の言葉をもたない。
小説は世に少しずつ受け入れられ、『蟹工船』で注目を集めるようになる。世は満州事変が勃発し、日本では治安維持法が施行される。多喜二には特高の尾行がつくようになる。そして逮捕され。数時間の拷問で殺されてしまう。それはまさに虐殺だった。
拷問の跡が残る遺体にセキは語り掛ける。
「ほれっ、多喜二、もう一度立ってみせねか。みんなのために、もう一度立って見せねか」
その場面を見て、私は思った。セキは昔の明るく楽しい多喜二に呼び掛けているのだと。みんなを笑わせた多喜二に。あの多喜二こそが本当の多喜二。みんなの多喜二だと。
無学な母だからこその言葉。その言葉こそが限りなく尊く、真理をついている。
同じような言葉に、去年の演劇鑑賞会『獅子の見た夢』でも出会った。それは無学な父が愛する娘に投げかけた言葉だった。
私たちのように中途半端に勉強した人間が一番始末に負えないのかもしれない。

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