曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 出雲石見いまむかし風土記

3月11日島根県立出雲歴史博物館で、弥生ブロンズネットワークリレー講座①研究者と巡る出雲の歴史『出雲大社周辺を歩く』と言う講座が開かれた。コロナでこの類の催しは軒並み中止になっていて、去年あたりからぼつぼつ再開していたが用心してずっと休んでいたが、天気も良くなったのでそろそろよかろうと3年ぶりに歴博に行く。参加者は20人ほど。ほとんど60代70代の年寄りばかり。まるでゴールデンウィークのような陽気の中、1時間半ほど解説を聞きながら歩く。今日歩くのは出雲大社の東側、北島国造館のある方である。
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写真で分かりにくいが青がぐるりと回ったコース。左の緑がが出雲大社境内の松並木。その上が本殿。右隣が古代出雲歴史博物館。

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       ⑴                ⑵
⑴が出雲大社ならびに神郷図(鎌倉末14世紀)
⑵が杵築大社近郷絵図(寛文5年・1655年ごろ)
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     ⑶            ⑷
⑶は江戸初期の大社境内に周辺を再現配置した図
⑷は天保杵築惣絵図
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       ⑸               ⑹
⑸は身逃神事図屏風(19世紀個人蔵)
⑹は慶長出雲大社境内図(北島国造家屋敷図)(1630年代頃)

⑴⑵でBとあるのが北島国造家を示している。二つBがあるのは境内北の山側にあるのが昔の北島国造家の位置を示していて、右手東側にあるBが現在の北島国造館を示している。
⑶を見ると江戸時代初期には今の北島さんがあるところには神宮寺や大日堂、本願屋敷などの仏教施設ががあることが分かる。これは神仏習合の長い歴史を示す施設である。正確には出雲大社がいつから神仏習合したかはよくわからないが鎌倉以前には坊さんに支配されていた。日本の神社が長い間神仏習合して仏教に支配されていた歴史を今の人はほとんど知らない。今の出雲大社はずっと昔から今の神さびた出雲大社と思ってお参りしているのだ。
本願とは禅坊主のことである。本願屋敷で出雲大社の財務を預かっていたのである。禅坊主は寺院経営で鍛えられているので昔か錢勘定に長け、金儲けがうまかったのである。この出雲大社を支配した禅坊主がどこから来たかと言うと、出雲の一の寺、鰐淵寺(がくえんじ)から乗り込んでいた。鰐淵寺は出雲大社の殆ど裏山にあると言ってよい。尾根道を通ってくればすぐなのである。
日本中の神社は神仏習合に苦しむのであるが、出雲大社は山崎闇斎(闇斎)の垂加神道の影響を受ける。神仏習合から抜け出そうとし始めるがそのためには理論武装しなければならず、本居宣長の復古神道をもってようやく神仏分離に到達する。そういう話は無茶苦茶好きでもっと話を聞きたいのだがさらりと触れたただけで終わる。時間が出来たら本も読んだりして勉強したい。ちなみに私が知っている限りでは出雲大社は江戸時代に幕府に願い出て神仏分離を果たしている。これは早い方であると聞いている。一番早かったかどうかは知らない。
この後、北島国造館から命主社、真名井の清水、出雲井社を巡りますが今日は書き切れないので後日報告します。

出雲弥生の森博物館で職員リレー講座として「出雲国風土記はどう書き写されたのか――徳川家康から本居宣長・千家俊信まで――」が行われた。コロナ禍でずっと休止になっていた職員のリレー講座の久しぶりの再開である。
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風土記は和同6年(713)に作成が命じられたが、延長5年(925)には太政官符で「中央に集められた風土記が失われたため、諸国の国府にある風土記を進上せよ。もしなければ国内を探し求め再提出せよ」と通達されている。
風土記は中央に提出されて約200年で失われたことになる。925年に再提出された風土記がどうなったのか分からないし、どれだけ集まったのかも分からないが、完本に近い内容で現在残っているのは出雲国風土記の写本だけである。
その写本がどのようにして書き写されて来たかの講義である。
いろいろな写本を系統樹のように見せる講義かと思っていたがどうしてなかなか奥の深い講義であった。

出雲国風土記で年代がはっきりしているのは細川本。肥後熊本の細川家に伝わる写本である。これは慶長2年(1597)に細川幽斎が徳川家康の所持本を書写し、校正した写本である。
細川幽斎の息子忠興は明智光秀の娘ガラシャと結婚している。元細川総理大臣の先祖である。
幽斎は明智光秀との関係が深かったが実に世渡りが上手く、秀吉とも家康とも交誼を結んでいた。
では家康はこの風土記を誰から借りて写したのか。
京都の公家冷泉為満から借りている。有名な冷泉家である。この時、冷泉為満と義兄の山科言経は天皇から勅勘を受けていた。山科言経も有名な資料的価値のある日記を残している。二人は武家方に赦免を求めるために家康に近づき、歓心を得るために古文書や典籍を利用したと思われる。その中に出雲国風土記があったらしい。

次に知られているのは日御碕神社本と呼ばれる写本である。これは出雲の日御碕神社に家康の子で尾張藩主の徳川義直が書写して贈ったものである。
では義直が所持していた写本の来歴はと言うとはっきりしない、奥書がない。
家康が死後蔵書は御三家に分けられたが義直の蔵書に出雲国風土記はない。そもそも家康が所持していた内府御本がどこへ行ったのか分からなくなっている。
ところでこの日御碕神社本は出雲に贈られたのに出雲では広がっていない。後継本は江戸で広がる。

徳川義直が出雲国風土記を日御碕神社に贈った理由。
奥書に「是神国之徴兆也」ある。背景には神儒一致思想があった。日本は神国であり出雲国風土記には儒家神道理想の古代の姿が描かれているとした。

その後、日御碕神社本は林羅山の周辺から伝播する。
榊原忠次(徳川四天王榊原康政の孫)、脇坂安元(賤ケ岳七本槍脇坂安治の次男)、山鹿素行(山鹿流兵学)などへ……。

本居宣長へ伝わる出雲国風土記
明和8年(1771)谷川士清、伊勢の人。塾を開き医業を継ぐ。この人が「佐々木氏本」を書写した。それを宣長が書写した。
「佐々木氏本」は奥書から関祖衡(そこう)と言う人が、日本橋の古本屋街で購入したもの。おそらく林羅山の弟子から流布したものと思われる。

千家俊信と出雲国風土記
出雲国造75代俊勝の三男。大阪で垂加神道を学ぶ。
文化3年(1806)訂正出雲国風土記を刊行。初めて印刷出版した。
天明6年(1786)内山真龍が風土記を調べるために出雲へ来た時に俊信は弟子となり、後に宣長の弟子になる。出雲に国学を広める。

時代によって変わる書写の目的

細川本の時代
秀吉による天下統一がなり、朝鮮出兵の時代だったが国内は太平であった。家康は連日茶の湯や将棋の見物などして過ごしていた。動乱の世が一時的に収まり、短い期間だったが、和歌や古典籍への憧憬が甦った時代であった。

近世前期
日御碕神社本の時代。林羅山の神儒一致思想の時代に引き継がれる。出雲風土記に古代社会の理想を見た。
出雲で当初日御碕神社本が広まらなかったのは、当時出雲はまだ神仏習合の考えが根強く残っていたから。杵築(出雲)大社が仏教支配から脱するのはもう少し後になる。

近世中後期
国学が広がり、古典研究を重視するようになる。儒教や仏教が入る以前の日本を研究しようという姿勢で出雲国風土記に向き合うようになる。

荒っぽくざっくりとまとめたので説明不足の所があると思うが、一冊の本を厳密に写そうとした人々の精神世界や思想的背景に敬意を表さずにはいられない。わしらはただコピーを取るだけだからな。コピペからは何も生まれない。昔の人はただ写しただけでは終わらない。対抗本を持って来て写本とまた校正するのだ。徹底している。それでも誤写や脱字が出る。対抗本にも誤写や脱字がある。それらを校正しながらより正しい本へ迫ろうとする。すごい。

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左)3月まで勉強していた高見家文書。長賢暦禄。高見家と言うのは出雲市内の南の大地主。そこの当主の日記である。
右)4月から勉強する三木家文書。三木家は出雲市内の北の大地主。元は宇多源氏の血を引く由緒正しき武士の家系を記録した文書である。
通い始めてこの春で4年目になるが、この間、先生は自分が読むだけでは勉強にならないから、誰か読みませんかと促すのだが、遠慮しいで何事も控えめで恥ずかしがり屋の生徒たち(殆どが60歳以上)は誰一人手を挙げようとしなかった。とうとう先生は業を煮やし、昨秋、「これからは強制的に指名します」と宣言。一番狼狽したのは儂だ。何しろ生徒の中で一番不勉強であることには自信があったのだ。
予習はしない、復習もしない。ただ当日に来て先生が読むのをただひたすら書き込むだけを繰り返していたのだ。授業は月一回だから次に来た時には前回のことはきれいに忘れている。自分でも呆れるくらい進歩していないことは痛いほど分かっている。こんなことではいけないと思っているのだが兎に角忙しい。予習は無理でもせめて復習だけとおもってもどうしても時間が取れなかったのである。
かくして新方式の授業が始まったのだが、皆、ちゃんと手を挙げて読んで行くではないか。勿論、読めないところは沢山あるが、先生が助け舟を出してくれる。先生が指名しなくても次々と誰かが読んでくれる。儂は当てられたら困るなあとひやひやしていたのだが杞憂に終わる。3月まで一度も読まずにすんだのだが、4月からはそうも言えなくなる。さすがにそろそろやらないとカッコ悪い。この一ヶ月時間を作って三木家文書を読み進める。と言っても、まとまった勉強時間は取れないから食後30分だけとか、今日は半頁とか、二、三行だけとか進める。
三木家文書の前に高見家文書長賢暦禄がどのようなものか紹介する。

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上の文書を一部拡大した。真ん中に「四十二の賀祝下古志上古志村」と読める。これは「四十二歳の祝いに下古志と上古志村…」云々と書いてあるのだが、これは文政年間の記録。これが天保に入ると筆者は年を取り、字はもっとひどくなり、誤字脱字はあるはで先生も「こりゃ読めんから飛ばしましょう、ははは」という始末。
4月17日から「三木家文書」に入る。
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高見家文書と比べたら随分読みやすい。これは高見家文書のように当主が書いたものではない。公儀に提出する由緒書だから、いくら大地主とは言え当主が書いたしろものなど恐れ多くて提出できない。こう言う物を書くには書き役のような人間がいて書くことになっているのだ。だから一字一字きちんと書いてあり読みやすいのだ。両方を比べてみよう。
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上が三木家文書。赤線は『にて』と読む。『ニ而』のくずしである。
下が高見家文書。ピンクが同じ『にて』である。同じ『にて』でも書き手によってこんなに違う。初めは戸惑ったが『にて』とはこんなものだと思えば慣れて来て、文脈からこんな感じの字が出て来たら『にて』だと分かるようになる。
三木家文書だがいくら読みやすいと言っても読めないところがいくらも出て来る。
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水色は『所持』、橙は『候(そうろう)』、緑は『扨(さて)』、黄色は『以前』。
通して読むと『所持つかまつり候。さてまた五代以前……』となる。
『候』の崩しは頻繁に出て来るのでさすがに覚えたが、『所持』や『扨』や『以前』は何度もお目にかかっているはずなのに予習復習をしない不勉強が祟って読めなかった。大いに反省する。
考えてみたら、予習復習の時間が少しはとれるようになったのは、妻や母の面会がコロナの所為で出来なくなったからだと気が付く。妻や母には申し訳ないがもうしばらく余裕のできた時間を勉強に使わせてもらおうと思っている。
明日は荒神谷博物館で『風土記談義』。これはただ聞いていればいいだけだから楽である。月に一度の息抜きで、学問的な雰囲気を愉しむ時間である。

今年初めての風土記談義がある。昨年の3月から10月までコロナで中止になっていて、11月に再開してから3回目の談義。
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コロナ以前は日曜日の午前中に100人近くの人数が集まっていたのだが、再開後は密を避けるために午前午後の二部制になり、儂は午後の部になる。人数も減り今日は30人もいなかったと思う。先生は午前と午後同じ談義を二度しなければならないから大変だ。一時間談義をしたところで窓を全開にして数分間空気を入れ替えながら後半30分の談義を進める。窓際の儂は震えあがるほど寒かった。
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荒神谷博物館内から眺めた冬枯れの公園。正面に古代ハスの池があり、その向こうの林の奥に大量の銅剣が埋まっていた。
初めの一時間は出雲風土記を読み進めながらの談義。宍道湖の向こう島根半島の秋鹿(あいか)郡大野郷の項は5行しかないのだが、2回の談義でもまだ終わらない。談義だからただの古文の解釈では終わらない。話は自由に飛び、関連する地理や天文など風土記の世界の全体像を描こうとしていると儂は理解している。今日は原本を離れて、大野郷にある大野津社についての話。江戸時代に書かれた「風土記抄」や「雲陽誌」などには素戔嗚尊(すさのおのみこと)がヤマタノオロチを退治した後、オロチの角や骨が流れて来たのを祀ったとか、オロチの角と骨にまつわる言い伝えが載っているというお話。
後半の30分は講師が変わって風土記逸文の談義。
逸文と言うのは古い書物に「〇〇国の風土記にこのように書かれている」と、紹介されている一文を言う。長い文章もあるが多くは短く、ほとんどの国の風土記は残っていないので、真偽のほどが定かではないのだが、残された貴重な資料である。
今日は伯耆国(鳥取県西部)風土記の逸文。
昔、伯耆国はハハキの国と呼ばれていたようだ。
そこには、『てなづち・あしなづちの娘、稲田姫をヤマタノオロチが吞もうとしたので、稲田姫は山中に逃げたが、母が遅かったので、姫が「母来ませ、母来ませ」と言ったことから、この国を「母来(ハハキ)の国」と名付け、後に
「伯耆(ハハキ)の国」とした、云々』と『諸国名義考』という書にはあるという話。
儂は腰を抜かすほど驚いた。
てなづち・あしなづちの娘、稲田姫がヤマタノオロチに呑まれると言う話は出雲風土記の代表的なお話である。
それがなぜ伯耆国風土記にそっくりそのまま載っていて、しかも伯耆国の国名の由来にもなっているなんて一体どういうことなのだろう。
しかも、講師の体験によると、昔、鳥取に住む親せきの小学生の子が、スサノオのヤマタノオロチを退治する話をとても誇らしげに語ったと言う。
神話がどうやって作られて行き、どうやって伝承されて行くのか、深い闇を垣間見た気がした。

風土記談義が午後の部になってから、終了後、近くの温泉に行くことにしていて、今日は3回目。
荒神谷博物館のすぐ側をロマン街道という玉造まで山の中を抜ける道がある。その道を5分も走ると途中から山陰線の荘原駅方向に降りる道がある。
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その途中にあるのが日本三美人湯の川温泉にある「ひかわ美人の湯」。矢印がその駐車場。
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ここは湯もいいが露天風呂が最高。とても広く、しかも屋根付きの湯が二つあり、一つは打たせ湯になっている。露天風呂を三つも楽しめる。午後から時折り白いものが舞ったが温まった身体には逆に心地良かった。この三、四日は春になったように暖かかったがまた明日あたりから寒くなるようだ。雪だるまのマークが出ていた。もう雪はいい。

12月13日、1年ぶりに安来の月山富田城へ行く。歴史資料館に富田城のジオラマが出来たことを知り、何としても見に行かねばと思っていたのだが忙しくてなかなか行けなかった。このところの好天気に誘われ、思い切って富田まで車を飛ばす。京羅木山の南の山腹を越える古道を想像するのが楽しいので、一年前と同じ432号線を走って広瀬に出る。
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資料館野外の模型。
1千畳平。2太鼓壇。ここで刻を知らせる太鼓を打った。3花の壇 4山中(さんちゅう)御殿。城主の居館があった。 5七曲り。険しい登り道。 6三の丸。 7二の丸。 8本丸。
A菅谷口。 B御子守口。 C塩谷口。 富田城に入る道はこの三つ。
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北から見た富田城。
イは新宮党の本拠。尼子国久館跡。尼子最強軍団新宮党の本拠。毛利元就の策略にかかって、尼子晴久に攻められ滅びる。これによって尼子氏は滅亡の道を辿る。
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南から見た富田城。C塩谷口。
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安来歴史資料館に展示されたジオラマ。これを見たくて来たのだが、これは江戸時代初めの堀尾氏時代の復元ジオラマである。高石垣が築かれ、屋根は瓦葺きになっている。尼子氏時代には高石垣はなく、屋敷の屋根も板葺きか茅葺である。だが、このジオラマを見れば、山の尾根筋に無数の削平地を作り、そこに曲輪を作り、城の防備としたことが分かる。武家屋敷も山の中に集められていることがわかる。恐らく尼子時代もこのように家臣団の屋敷は山の中にあったと思われる。これは戦国時代の城のかたちとしてはとても珍しいものである。
戦国時代、城は詰めの城と言って、戦いの時だけに籠るもので、普段は山の下に住む。このように山の中に居館を建て、家臣団も住まわせるのは、他には南近江の守護大名六角氏の観音寺城など数えるほどしかない。
富田城のある月山(がっさん)も、観音寺城もとても大きい山で、拡がりを持っているという共通点がある。戦国時代の山城作りは山の形も変わるほどに掘って、削ってを徹底する。削平地が沢山できれば曲輪も沢山できる。自然とそこに家を建てるようになったのではないだろうか。
Bの御子守口から4の山中御殿に行く道自体はだらだらと上るゆるやかな道で、七曲りのような急峻な細い道でもない。今も山中御殿跡近くに民家もある。このような山容の特性が作り出した城なのかと推測している。
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A菅谷口入り口               B御子守口入り口
道が狭くて対向車とすれ違えないと注意が出ていたので引き返す。数年前に初めて来た時は無謀にも侵入し、無事山中後殿に辿り着きそのまま下って、Bの御子守口に出た。菅谷口から入った道は険しく曲がりくねっていた。
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C塩谷口入り口
手入れしてなくて荒れている。民家の裏で、その先侵入止めの竹が置いてあったので入らず。

1→2→3→4→5→6→7→8の道順で月山山頂を目指す。
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1千畳平                   2太鼓壇から下を見る
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3花の壇                   花の壇から山中後殿へ
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4山中後殿入り口             御殿敷地奥を望む(東側)
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御殿敷地奥の雑用井戸         御殿敷地奥の菅谷口へ通じる出入口
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御殿北側                  御殿西側の塩谷口へ通じる出入口
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七曲り登り口
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七曲り途中の山吹井戸。奇麗な湧水。
七曲りは昔は整備されてなくて、足元は悪く、急坂部分の手すりもなかったように思う。昔は山中御殿まで車で来たが、今回は千畳平から歩いているので喘ぎながら登る。一年間、夕食後の30分の散歩をしていたからこそ登れたと思う。すれ違った地元の人から、頂上に着いたら十分に休んでから降りないと膝を痛めますよと忠告される。
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6三の丸石段                三の丸から二の丸を望む
尼子時代にはこのような石垣はない。
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7二の丸から京羅木山を望む。     二の丸から本丸を望む
富田城を攻めた大内義隆や毛利元就は富田川をはさんだ京羅木山に陣を構えた。
二の丸と本丸の間は深い堀切で隔てられている。山頂を深く掘って作ったものである。この二の丸からは備前焼の大きな甕が三つ見つかっている。水をためたのではないかと言われている。
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二の丸下の本丸へ通じる道       8本丸
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本丸奥の勝日高守神社。        本丸から中海を望む
遠く霞んで見えるのが島根半島。写真ではよく分からないが島根半島の美保関まで見える。右手から美保関に向かって伸びる弓ヶ浜(出雲国風土記で国引きの綱の役目をした)も見える。こうして見ると安来の港がいかに天然の良港だったかよくわかる。美保関では船の帆の大きさで通行税を決めていた。
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左の写真。手前の山はジオラマで青線で囲った部分の一部。 ジオラマでは小さな削平地が沢山あったが、堀尾時代にはすでに放置されていたのでこのように木々が鬱蒼と生い茂っている。
右の写真。山頂から3花の壇4山中御殿を見おろす。
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大土塁                     御子守口へ下りてゆく途中の景色
左の写真。山中御殿から御子守口へ降りる途中にある長さ130m、頂上部幅20メートルもある大土塁。山中御殿を守るために作られた。
右の写真
御子守口へ降りる道の途中は階段状に田圃が続いている。こういう所もジオラマを見ると、一部には家臣団の屋敷があったのだろう。写真向かって左側は切り立った崖で曲輪もあるが、右側にも武家屋敷がなければ守りにはならないことに気が付く。
お昼は二の丸でコンビニで買ったお握りを食べ、ゆっくり休んで降りるも、七曲りを降りたところで足がよろめき思わず手すりにしがみつく。

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