曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 出雲石見いまむかし風土記

4月28日の補欠選挙の前日、私は隣家に電話した。「投票用紙が送って来ないんだけどどうしたんだろう」「選挙があるのは島根1区ですよ。出雲は2区ですよ」と笑われた。道理で静かなはずだ。世間で騒がれているわりには静かだなあと思っていたのだ。
結果が出た後の翌日、畑で近所の主婦二人を交えて選挙の話。一人は60代後半、一人は70代前半。60代主婦はなんと亀井亜希子の応援に行ってたと言うのでビックリ。選挙区でもないのに手伝いに行ってたとは。「他県の人からは保守王国なんて言われて馬鹿にされているみたいでねえ」「ほんとよね、応援した甲斐があったわねえ」
まさか60代主婦と70代主婦からこんな台詞が出て来るとは。当地は出雲でも昔ながらの古い風習が未だに残っていると言われている土地柄なのにである。「ま、これからが、どうかよねえ」と今回が一過性のものかどうかまで言及するほど冷静に見ているところもなかなかのものである。出雲の老年主婦もたいしたものだと改めて見直す。
日本中の小選挙区の中でたった一つ自民党が独占していた議席を今回初めて奪ったのが亀井亜希子。父親が亀井久興という自民党代議士で、亀井亜希子も小政党を渡り歩き今回は立憲から立候補した訳だが、実はこの亀井亜紀子はその血筋を遡ってゆけば、このブログでもしばしば取り上げ、わたしが小説を書いている多胡辰敬につながるのである。
辰敬の子孫の話もブログでは何回か書いているが(最終章10章の後日談にも書いた)忘れている人もいれば最終章は読んでいない人もいるでしょうから改めて紹介することにします。

岩山城で自害した多胡辰敬には一男一女があり。その娘が結婚したのが湯永綱。湯氏と言うのは今の玉造温泉あたりを領した国人領主で尼子氏でも有力な武将だった。辰敬の娘と永綱の間に生まれたのが湯新十郎である。尼子氏が毛利に滅ぼされた後、この新十郎が山中鹿之助のもとに馳せ参じて尼子再興のために戦う。鹿之助は若くて豪胆有能な新十郎をいたく可愛がる。この時、鹿之助は尼子の重臣だった亀井氏の長女と結婚し亀井鹿之助と名乗っていたが、鹿之助の兄が死んだために山中家を継がなければならなくなる。尼子の名家亀井の名が絶えることを惜しんだ鹿之助は、妻の妹を新十郎に娶わせ新十郎に亀井姓を名乗らせる。亀井新十郎の誕生である。亀井新十郎は山名鹿之助が毛利に殺された後は尼子再興の中心となって秀吉に仕え、尼子びいきの秀吉からも可愛がられる。
有名な話がある。秀吉が毛利攻めをしている時、秀吉は毛利を滅ぼしたら亀井茲矩(これのり・新十郎改め)に出雲半国を与えると約束した。ところが本能寺の変で信長が殺されたので秀吉は毛利と講和し中国大返しをする。茲矩との約束も毛利と講和してしまったので果たせなくなってしまった。
秀吉は気の毒に思い、茲矩に望みの国を与えるから欲しい国を申し出るように言うが、茲矩は琉球を征服するから琉球を下さいと言い秀吉をいたく喜ばせる。秀吉は茲矩に琉球守と言う受領名を与えた。正式な受領名の中に琉球守という受領名はない。後にも先にも一時的であったが琉球守を名乗ったのは亀井茲矩ただ一人である。この後、茲矩は因幡国鹿野城主に取り立てられ一万三千五百石の大名となり、秀吉没後は関ヶ原の戦いでは東軍につき、三万八千石となる。
そして、その子政矩(まさのり)の時、津和野藩主となって四万三千石を領す。
以後、亀井家は津和野藩主として明治に至り、今回の補選で当選した亀井亜希子に続くのである。
ところで、亀井家の次女を娶った新十郎であるが夫婦の折り合いが悪く暫くして別れてしまう。その再婚の相手が、多胡重盛の娘である。即ち辰敬の長男の娘。新十郎にとっては従妹になる。新十郎は母が辰敬の娘で、妻は辰敬の孫ということになる。津和野亀井家の初代は母から辰敬の血を受け継ぎ、再婚した妻からも辰敬の血を受け継いでいるのである。

去年の暮れから犬の散歩コースを新内藤川の南の田園地帯に広げた。
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そこで出会ったのがこの景色。冬の朝日の中に静かにたたずむ小さな社(やしろ)。新内藤川の土手を歩いていれば遠くに見えるのだがまじかに見たことはなかった。この日の朝は近くを通りかかった時、これまで感じたことのないとても清らかですがすがしいものを感じて思わずスマホで撮影した。それからは散歩の途中、立ち寄っては写メする。
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遠くから見ると広い田圃のなかにぽつんとある小さな小さな社である。
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個人の田圃の中にある。昔からあるのか、それとも田圃の所有者が作ったものかはわからない。
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社には新屋荒神社とある。平成2410月吉日建立。ご神体は2つの石である。
新屋(にいや)荒神社(こうじんしゃ)と読むのだと思う。「新屋」とは調べたら「新しく作る家」他に「本家と分かれて分家をたてる」と言う意味があった。畑先生に聞いたらこの荒神様は畑先生が子供の頃からあったと言うから80年以上も昔からあったことは確かだ。ただしここらは田んぼの区画整理をしているので昔から同じ場所にあったのか、移動したのかは分からないと言う。今もどの程度の規模かわからないが祭りをしているそうだが、私は見たことがない。

小さな石の御神体が二つあるところを見ると、いつの頃からか田んぼの中に小さな荒神様があったが、社が古くなったのか、廃れたので新しく社を作り直し敷地も整備し、「新屋荒神社」と名付けたのではなかろうか。

我が家の先祖が享保年間に没しているので、このあたりが開墾されたのはそのあたりと思われる。それ以前はこの辺から海岸まではずっと荒れ地だったし、さらにそれ以前、杵築大社(出雲大社)が出来た頃はこの近くまで神門(かんど)水海という入海になっていたので、この荒神様の起源がそれほど大昔に遡ることはないと思われる。

だが私は朝日を受けるこの小さな社を見た時、出雲人の魂を揺さぶられるような感動を覚えた。その理由が私には解る。それはこの数年間、「出雲国風土記」を荒神谷博物館の「風土記談義」で学んできたからだと思う。古代出雲人は石や岩、泉や川、古木などに神が宿ると信じて祀り社としたのだ。そして、風土記を編纂した時、「出雲国風土記」では郡内の社をすべて書き出した。我が家のある辺りが昔は「出雲郡」だったか「神門郡」だったか境目にあってよくわからないのだが、「出雲郡」をみると、もちろん一番最初に来るのは「杵築(出雲)大社」で以下58社の名前が列挙されている。これは中央に登録された神社で神祇官社と呼ばれ、その後にさらに64社の非神祇官社の名前が並ぶ。これらは中央に登録されていないちっぽけな社なのだが、これが面白い。たとえば「阿受支(あずき)社」の場合、その後に「同阿受支社」「同社」「同社」「同社」…と20社分以上続くのである。神祇官社は名前が残っているので現代にも比定できるのだが、非神祇官社はどこにあったのか見当もつかない。ただそれだけの数の社があったとしかわからないのだ。その社というのが、石であったり、山中の岩であったり、原野の一本の木であったりしたのである。
時代は移り「阿受支社」は消えたが、石や岩を祀った素朴な信仰心は消えることなく出雲人に受け継がれ、江戸時代になってからか、明治になってからか、写真のような社の原型を作ったのではなかろうか。
そう思って見るからここを通るたびに私は古代出雲人の魂に触れる気がするのだろう。
近頃私は「出雲大社」よりも「阿受支社」を崇拝した古代人に親近感を覚えている。

4月26日(追記)
犬の散歩途中、初めて荒神様を掃除している女性を発見する。声を掛けてこの荒神様はいつからあるのか尋ねたところ、「嫁いで来て50年になるが何も分からないの」と笑っていたが、「上向(かみむこう)から移ってきたと聞いたことがある」と教えられる。
どうやら昔はここから西の方にあったらしい。いつ、だれが、なぜ移したか。私の付き合いも広がって行けばそのうち分かるかも知れない。

三連休に保育園で「敬老会」が予定されていたがコロナで中止になってしまった。引っ越し前に松江の保育園を調べていた娘が「松江の保育園はすごいね。どこの保育園も敬老会をやるのよ。東京の保育園で敬老会をするところ見たことないのにさすがは島根県だね。ジジババがいっぱいいるのね」と笑っていたので、楽しみにしていたのに残念だ。ブログも少し間があいたので楽しい記事ができると思っていたが、それもあてが外れたので、少し高尚なブログになるが、前回の続きで「出雲国風土記」の中の記述についての謎解き(?)が面白かったので、それを紹介しようと思う。

最初に「出雲国風土記」に出て来る「正倉」の説明から。
奈良の「正倉院」とは全く別物。「正倉院」は聖武天皇の遺品や宝物を収めたものだが、普通「正倉」と言われているのはイネや米を納める倉庫である。
ところがこの「正倉」の記述があるのは「出雲国風土記」のみで、他国の風土記には記述された気配がない。本来「正倉」は風土記に記載されるべきものではなかったのである。
疑問1「なぜ出雲国風土記にのみ正倉の記述があるのか」

ところが、出雲国風土記にも全九郡のうち三郡だけ正倉の記述がない。
疑問2「なぜ楯縫(たてぬい)郡、秋鹿(あいか)郡、神門(かんど)郡だけ正倉の記述がないのか」

疑問2から解いて行く。
出雲国風土記は郡ごとにまとめられて国造のもとに集められて一つにまとめて中央に提出した。
楯縫郡と秋鹿郡は宍道湖の北岸に隣り合う小さな郡であるから、これまでは小さな郡なので正倉はなかったと考えられていた。だが神門郡は大きな郡である。(我が家も昔の神門郡に入っている)杵築大社(出雲大社)の鎮座するところである。そんな大きな郡に正倉がないのはおかしい。現に正倉と思われる建物跡が発掘されている。どうやら神門郡には正倉はあったようだ。ではなぜ記述されていないのか。楯縫郡や秋鹿郡にも本当は正倉はあったのだがその跡が見つかっていない可能性がある。となるとこの三郡は正倉があったのに記述されていないことになる。
残り六郡にはすべて正倉ありと記述されているが、正倉跡がよくわからない所もあるのだ。以上のことから考えられるのは、出雲九郡にはすべて正倉があったが、楯縫・秋鹿・神門郡だけ記述されていないということである。

では、正倉とは何かを考える。イネや米を蓄える倉庫だが、なぜそのようなものを作るのか。今なら非常用倉庫だが昔ならまず第一に兵糧と考えるべきであろう。となると、なぜ兵糧用の倉を作ることになったのか。
そこで着目すべきが732年に「節度使設置」があったことである。
朝鮮の新羅との関係が悪化し、大和朝廷は山陰に節度使を設置した。これは軍事を司る使者で山陰道を管轄し、国司よりも上位だった。これにより当時の出雲はある意味戦時体制にあったことが分かる。

風土記編纂においては各郡で原稿を提出して国造がまとめたのだが、この各郡の原稿提出順で楯縫郡と秋鹿郡が早かったことが分かっている。なぜなら他の郡の産物についての記述で「楯縫郡の如し」とか「秋鹿郡の如し」の記述があるからである。早く提出された原稿は各郡で共有されていたのである。
そこで原稿提出順と正倉の有無を年代順にまとめると以下のようになる。

713年5月風土記撰進命令
    秋鹿郡・楯縫郡・神門郡原稿提出(三郡は正倉記述なし)
732年8月節度使設置
    残り六郡原稿提出(六郡は正倉記述あり)
733年2月出雲国風土記完成
734年4月節度使停止

これを見れば、節度使の設置で正倉の記述がなされたことが分かる。
出雲は新羅と戦争になるかも知れないという緊迫した状況にあったがゆえに、兵糧の役目を果たす正倉を記述したのである。だが節度使設置前に原稿を提出した三郡はそのような緊迫した状況ではなかったので正倉の記述をする必要がなかったのである。

地道な古代史の研究が上質な推理小説を超える喜びを与えてくれました。これだから出雲国風土記はやめられない。

9月2日、松江テルサで「ここまでわかった『出雲国風土記』」の講演があった。これは聞き逃すわけにはいかんと駆けつける。ただ犬を預かっているので長時間家に閉じ込めておくわけには行かず、松江に引っ越した娘の家に一泊二日で預けて講演に行く。翌3日は私は親戚の葬儀で鳥取まで行くので、それもあって預けざるをえなかったのである。わんこは元気になったので一泊二日なら大丈夫だろう。玄関を開けたら2歳になったばかりの孫がわんこを見るなり「ぎゃあ」と飛び上がって喜ぶ。

今年の3月31日に島根県古代文化センター編「出雲国風土記ー校訂・注釈編ー」が出版された、その成果についての講演である。
〈風土記とは〉どういうものかを説明すると以下の通り。
〈風土記撰進の命令の内容〉
一、地名に好ましい漢字を用いなさい(これで日本中の古い地名が失われてしまった:私見です)
一、物産品目を報告しなさい。
一、土地の肥え具合を報告しなさい
一、山川原野の名とその由来を報告しなさい
一、古老が伝える土地の伝承を報告しなさい
ほぼ完全な形で残っているのは出雲国風土記のみ、一部残っているのが常陸・播磨・豊後・肥前だけで、後は失われているのはよく知られていること。

〈風土記編纂の背景とは〉
撰進の命令が出た713年は大宝律令が発布されてから10年で実情に合わなくなっていた。
一、庸調制が改訂された(租庸調の庸調)
一、丹後国、美作国、大隅国が作られた。(大き過ぎる国を分割して新しい国を作った)
一、新たな郡を設置した。郡司の任用制度が変わった。
一、新しい交通路を作った。(美濃国と信濃国の間)
このように地方統治に関わる政策が連続したので、地方の実情を正しく把握する必要が出て来た。

ここで〈出雲国風土記の特徴〉をあげておく
一、出雲地域の有力者である国造(今の千家や北島の先祖)が編纂している。在地出身の郡司がまとめたものを国造が編纂している。
これに対し、常陸国風土記は朝廷から派遣された国司が編纂している。恐らく他国の風土記はすべて国司が編纂しているであろう。
一、天皇がほとんど出て来ない。欽明天皇が2か所に登場するだけ。
他国の風土記では天皇は頻繁に登場する。
一、399もの神社が記載されている。
現存する風土記では出雲国風土記のみに見える

講演した島根県古代文化センターの橋本氏は「出雲国風土記」を行政文書として捉える。
出雲国風土記は国引き神話から始まるので多くの人がその雄渾な文章に魅了され文学作品として捉えてしまう。私もその一人であった。出雲人の末裔(?)として他国の風土記とは違う気高いものであってほしいから。人情である。
しかし、氏は時代背景から中央が地方の実情を知る必要に迫られて作ったものと結論する。
なぜ「行政文書」と結論付けたかの理由が学者らしく説得性があるので紹介する。

常陸国風土記には「常陸国国司解(げ)し申す」とある。
「解」は上申文書の様式なのである。即ち、下が上に提出する正式文書であることを意味している。

これを補完する資料もあげておく。
郡司は上から大領→少領→主政→主帳の順の四等官で主帳が一番下の№4である。
ところが郡司からの「解」が国府でまとめられる際に風土記では、各郡の編纂者の名前が主帳→大領→少領→主政の順に改められている。№4が一番上に来るのはいかにも奇妙な話である。
実はこれが「解」の書式にあっていることがわかる。文書の書式について定めた公式令によれば「解」の記載順は主帳→大領→少領→主政となっているのである。
これを見ても風土記が厳密な「解」の決まりを守っていることが分かるのだ。即ち正式な「行政文書」なのである。こういうことが謎解きのように分かって行くところが古代史のおもしろいところである。

この後、さらに風土記の編纂理由を追加し、編纂過程などについても講演があったが、長くなるので次の機会に譲ります。

出雲大社周辺の古代集落
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古代においては北山から流れ出る小さな川が作る扇状地に集落が出来た。緑の付箋が扇状地の出来ているところ。オレンジ色は泉の湧いているところ。一番左の出雲大社がある所は西が素鵞(そが)川、東が吉野川と二本の川が流れていたので一番大きい扇状地で、出雲大社はこの二本の川の間に立っている。
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左)出雲大社の東側。18世紀の屏風だがこの時はすでに北島家は現在の場所に移っている。
境内に十九社とある。今では神在月に集まった神様が泊る所とまことしやかに言われていて、私も信じていたのだが、何と真っ赤な嘘と分かる。昔は三十八社と言って、出雲大社の領内にある末社や摂社の三十八社を出雲大社の境内に勧請したものだそうだ。こういうことはよくあること。それが神様が泊る所になって十九社になったのだそうだ。恐らく、昔、出雲大社を宣伝する時に、日本中の神様が集まると言う話を作ったのだが、神様が泊る所がないのはおかしいので三十八社を宿泊所にして名前も十九社に改めたのだと思う。
右)Aから北山の方を見た写真。吉野川沿いに東の塀が北島家。
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左)塀越しに四脚門の屋根が見える。
右)四脚門。現存する一番古い建築物。江戸時代初期のもの。寛文1660年以降のものらしい。出雲大社は檜皮葺(ひわだぶき)だが、これはこけら葺き。薄く削った杉板をびっしりと重ねたもの。
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右)北島家から出雲大社を望む。木の間ごしに本殿の屋根が見える。とても静かで心安らぐ空間である。出雲大社は西の千家さんがある方に大駐車場があり、飲食店や土産物屋が並んでいるのでいつも観光客でごった返しているが、こちらには飲食店も土産物屋もないので実に静かだ。北島を訪れる人はみなその静けさを愛している。
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閑話休題。北島家の中には天神社がある。なんで菅原道真が祀ってあるのか不思議でしょうと解説員。実は北島家と菅原家は親戚なのだそうだ。一体いつ親戚になったのか。
北島家の横から入って門からでる。門の前が社家通り。この後は社家通りを東へ歩いてからぐるっと回って古代出雲歴史博物館に戻る。
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北島家の隣に急な階段あり。登らなかったが上には日吉社がある。なぜ北島国造館の隣に仏教施設があるかと言うと神仏習合の名残。裏山の鰐淵寺から坊さんが派遣されていた。
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命主(いのちぬし)社。右は樹齢700年から800年と言われるムクの老樹。
大国主と国土平定した神様が祀ってあるのだが、ここで大切な事はこの裏から銅戈と勾玉が発見されたこと。勾玉は糸魚川のメノウ製。古代の交流をうかがわせる。近くには弥生時代の祭祀跡も残っており、出雲大社との関連で興味のある場所になっているのだそうだ。
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真名井の泉。出雲大社の儀式で使う清水を汲む。最後に歯固めの儀式を行うためにここの清水の中から小石を二つ拾う。学芸員が言うには日本の神社や遺跡などを考える場合はまず第一に自然を見なさい。どんな場所にあるのか、綺麗な水が湧いているか、そういうことが一番大切なのだそうだ。
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社家通りから弥山(みせん)をみる。北山で一番高い山。みんな「みせんさん」と呼ぶ。還暦記念に登った時は数百メートルの山に過ぎないのに道なき道をよじ登るように上ったが、少し行くと登山道の案内が。いつこんなものが出来たのか。もう一度登ってみたいが無理だろうな。
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出雲井社。
ここから東が外界と考えられていた。出雲大社領との境である。実際の境は中世においてはここからさらに東へ600m行ったところだそうだが、人々の心理的境界はここだったのだろうとの解説だった。
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出雲井社から南を望む。
昔は手前まで葦の生い茂る湿地。その向こうには一面の砂地が広がっていた。江戸時代1600年の後半から水を抜き、耕地を増やした。向こうに見える松林も昔は砂山で長い年月をかけて砂を防ぐために植林したものである。
好天に恵まれた1時間半であった。

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