曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 歴史よもやま話

今日は荒神谷博物館で『風土記談義』があった。
昨日、妻の外泊が終わり特養に戻ったので、今日は心置きなく『談義』へ。
前回、一年以上かかって『出雲国風土記』の意宇郡(おうのこほり)が終わったと書いたが、今日が意宇郡の最後であった。スライドで意宇郡の島や川、神社を見せてもらう。出雲にいてもそうそう行けない場所なので実風景を見せてもらうと理解が深まる。
『出雲国風土記』には全部で九郡の記述がある。そのうちの最初の一郡が一年かかって終わったのだから、全部読み通すまであとどれくらいかかるのだろう。
講師の平野先生は若い時から、車の中にはいつも『出雲国風土記』を置いていたと知る。とてもいいことだと思い、これから私も真似をして、本や資料、地図などを常に車に積んでおくことにする。走っていれば、通りかかった神社や川などはたいてい風土記に登場するのだから、そのつど確認できる。
一年以上通って勉強して来たが、そこで知ったのは『出雲国風土記』を勉強しているのは我々現代人だけではない。昔から多くの有名無名の人たちが勉強していた事である。
その有名人の中に生徒も先生も超有名人がいる。
生徒が『徳川六代将軍家宣』で先生が『新井白石』である。ただの先生ではない。個人教授だからすごい。家宣はマンツーマンで白石から『出雲国風土記』を学んだのである。
と、言っても家宣が将軍になる前の話である。
家宣は五代将軍綱吉に後継ぎが出来なかったので養嗣子となって将軍位を継いだものであり、将軍になる前は甲府藩主で徳川綱豊と言う。
その綱豊時代に侍講(個人教授)として仕えたのが新井白石である。その時、白石36歳。当時の市井の大儒者木下順庵の門下で、浪人中であったが、順庵が一目置くほどの才能であったので、順庵の推薦で綱豊の侍講となったのである。
儒学の先生になったので師儒と言う。二人は師弟の契りを結び、マンツーマンでひたすら学問に励む。綱豊は大変勉強熱心な殿様で、白石はまだ天下に名が知られる前であったが、それはそれは熱心に教えた。この間、二人は将来綱豊が次期将軍になるとは夢にも思わず、儒学は言うに及ばず、歴史、地理、古典、詩などありとあらゆる分野を学び、教えた。
個人教授は17年にも及び、綱豊は綱吉の死後、将軍となる。
白石は政治顧問となり、家宣の政をたすけ、正徳の治を行う。
『出雲国風土記』を学んだのは、その甲府時代のことである。
私がなぜそのことを知ったかと言うと、白石の事績を調べるために、白石の晩年の書簡を読んでいたら、白石がそれに関する記述を友人に送っていたからである。
その内容がこれまた面白いので、紹介しようと思うが、前置きが少し長いので我慢して読んで貰いたい。
家宣は将軍になるもすぐに死に、跡を継いだ家継も幼くして死ぬ。父子合わせて七年ほどの治世で、将軍吉宗の時代となるや、白石はたちまち失脚する。
その失脚後の白石の孤独な晩年を支えたのが文通であった。文通相手は数少ないが、実に多くの手紙をやりとりしている。その文通相手の中で、もっとも身分が高かったのが、加賀百万石の太守前田綱紀(つなのり)であった。この殿様は大変な学問好きで知られ、美術工芸の発展に力を入れ、農業や藩政改革にも取り組み、名君とあがめられた。
このお殿様が失脚して落ち込んでいる白石に救いの手を差し伸べる。白石を高く評価し、白石の本を自分の書庫に収めたいと申し込む。白石の本が自分の書庫にあれば、書庫の価値が高まるとまで言い、白石を感激させる。白石は感激の余り、門外不出の『西洋紀聞』を綱紀に貸し出す。この本は密入国した宣教師を尋問した記録をもとに著したものだが、キリスト教に関する記述があるので公に出来なかった本であった。もしこの本を貸し出したことが露見したら、失脚した白石はさらなるお咎めを受ける恐れがあったにもかかわらず、危険を冒してまで貸したのであった。それほど綱紀の知己を得るのが魅力的だったのである。二人の仲は一気に深まり、二人はお互いに所蔵している本を書き出して見せ合う。二人は互いに本の貸し借りを繰り返すが、ある時、綱紀は『出雲国風土記』を貸して欲しいと所望する。
ところが、白石はこれほどの庇護者である大大名の頼みを断る。
その理由は、この本は家宣が勉強した時に使った本で、後に家宣から恩賜品として頂戴したものであった。
「旧主恩顧の品は門外不出にしております。ましてやこの本には家宣公の書き込みもあります」
本だけではない。白石は家宣ゆかりの品は一切表に出さなかったのである。
これが儒教社会における君臣の関係と言うものであり、この君臣の関係を盾にとられると、綱紀にしても引き下がらざるを得なかったのである。

一体綱豊は『出雲国風土記』にどんな書き込みをしたのだろう。
白石はどんな風に講義したのだろう。白石は綱豊の講義に当たっては、理解を深めるために万全の準備をした。沢山の資料を揃えて講義に臨んだことが分かっている。あの時代にどんな資料を揃えたのであろうか。
『出雲国風土記』の冒頭の国引き神話のくだりに、「おとめの胸鉏(すき)とらして」とある。
今日では「乙女の胸のような鉏を取って」、朝鮮半島にぐさりと突き立てて余った土地を切り分けたと解釈するが、私はこの「乙女の胸のような鉏」がどうにもぴんと来ない。成熟しない乙女の薄い胸のような鉏を形容しているらしい。薄くて土に突き刺さりやすいのだそうだが、どこか違うような気がしてならない。
白石がここをどう解釈したのか知りたくてならないのだが、今や望むべくもない。この恩賜の『出雲風土記』は残っていないから。残念でならない。

新井白石晩年の小説をついに書き上げた。
2014年の12月から構想を練り、約3年かかって、400字詰めで712枚。よくぞ書きも書いたり。正直自信がなくて、自分でも無理ではないかと思っていた。出版の当てもなく、無駄に終わるかもしれないのに、よく書いたなあと我ながら驚いている。
無謀な挑戦で成算は全くなかった。何しろ対象は知の巨人である。余りにも偉大過ぎる学者であり、詩人でもある。私など到底足元にも及ばぬ。しかも古漢の知識教養は無きに等しい。蟻が象の身体をはい回って、象の全容を知ろうとするようなものである。だが、無性に書きたくて。その理由は後述しますが、ひたすら頑張ればなんとかなるのではないかと言う希望的観測と苦労は報われると言う素朴な信念を支えにガンバッタ。途中、この調子で一体何年かかるのだろうと進度の遅さと残された時間の少なさに暗澹としたものだが、あきらめずにコツコツ書いていたら、塵も積もればでいつのまにか枚数が増え、とうとう書き切ってしまったというのが実感。
妻が特養に入ったのが大きい。執筆時間が10倍ぐらい増えた感じがする。
在宅介護の時は本当に書けなかった。ショートステイに行っている間に集中的に書き、在宅の時は資料調べや、プロットを練るようにしていた。と言うか、そう言うことしかできなかった。

問題は書き上げたのはいいのだが、こんな地味な時代小説を出版してくれるところはないだろうなと言うことだ。最大の問題は言うまでもなく完成度だけど。電子書籍があるではないかという人もあるが、電子書籍では時代小説は売れないのだそうだ。そりゃあそうだ。時代小説ファンは年齢層が高いから。

では、どうしてこんなに地味で、人気もない人を主人公に小説を書く気になったのだろう。それは、間違いなく私がへそ曲がりだからだ。昔から損と分かっていても、損な方へ、損な方へと向かって行く。
正当に評価されない人を見ると無性に愛おしくなる。
六代将軍家宣(いえのぶ)と政治顧問新井白石はまさにそういう二人だ。
五代将軍綱吉と八代将軍吉宗の有名どころビッグ2の将軍に挟まれた家宣は気の毒なくらい無視された将軍である。
(七代将軍家継は家宣の子で、在位三年7歳で死んだ幼将軍である)
白石は歴史の教科書で、「正徳の治」を主導したと数行で終わり、その改革を吉宗の「享保の改革」並みに扱われることはない。自伝「折り焚く柴の記」が有名だが、今時、読む人がいるのだろうか。
綱吉に子がなく、甲府藩主だった家宣は思いがけず将軍になった人であるが、それまでの十数年間、白石を師儒と仰ぎ、ひたすら学問に励んだ人である。この地位の人でこれほど学問をした人は少ない。白石を家庭教師に儒学、歴史、国学、地理など、ありとあらゆることを学び、己を磨いた。
青天の霹靂、将軍になるや、白石を政治顧問に、これまで積み重ねて来た学問を政(まつりごと)に生かそうと、改革に取り組む。清新で情熱にあふれた新しい時代が始まるはずだったが、家宣は呆気なく死ぬ。白石は家宣の遺言で幼将軍を支え、改革を続行しようとするが、守旧派の抵抗に合う。
理想を目指した改革政治は、家宣家継合わせて七年ほどに過ぎなかった。
家継が死ぬと守旧派の反撃に合い、白石は追放同然に失脚する。
改革を受け入れない守旧派からは蛇蝎の如く嫌われていたので、悪口雑言をこれでもかと浴びせられた。旧政権が批判されるのはいつの世も同じで、吉宗は白石の改革をことごとく引っ繰り返し、元に戻してしまう。
その時、白石は59歳。家宣から賜った邸からも追い出される。

小説では、失脚して2年後の61歳から、69歳で死ぬまでの8年間を描いた。
白石が政治顧問として華々しく活躍した時代を描いた小説はいくつかある。だが、失脚して以降の息を潜めて生きた時代を描いた小説はない!と、思う。
どうして、そんな老いた白石に惹かれたかと言うと、「失脚」しただけでも試練なのに、白石はその上さらに、これでもかと「老い」と「病」と「家族の不幸」に苦しめられる。普通なら打ちのめされ、絶望して朽ち果てるところであろう。だが、老いた白石は、政治顧問として活躍し、歴史に名を残した一瞬とは全く違う姿を見せる。
2男2女があったが、長女は自分のせいで行き遅れとなっていた。その長女の結婚に心を砕き、残る子たちの結婚にも必死になる。だが、次男は死に、やっと結婚した長男の初孫も生まれてすぐに死ぬ。追い打ちを掛けるのは持病の数々。老いも進む。だが、この老人は折れなかった。なぜならこの老人には「書く」ことがあったから。失脚した身では、書いても公刊できないにもかかわらず、彼には「書かねばならない」ことがあった。命を削っても。そして、それを可能にしたのが、彼を支えた家族であり、数少ない友人だったのである。会ったこともない、文通だけの友が白石を支えたのだ。生きる勇気と書く意欲を与えたのである。
どうです?素晴らしい人生だと思いませんか?
私はこれを書きたかったのです。成功したかどうかはわからないけれど。
これから一カ月かけて手を入れて、決定稿にしようと思っている。

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今日が2回目の古文書に親しむ会。
前回の後、早速本屋に行き、くずし字辞典を取り寄せる。税込6480円也。
不退転の決意を固めるために購入。
酒代を考えたら安いものだ。(私は缶ビール一本しか飲めないけれど)
意気込みはご理解頂けたと思う。
ただし、この間、忙しくて全然復習をしていない。
復習をしないのだから、予習どころではない。たちまち月一回の定例日が来てしまったと言う訳。

朝8時には、ファミレスに行き、モーニングを食べ、パソコンを開く。古文書の予習をするのではない。
2時からの古文書の会まで、ファミレスで原稿を書くのだ。どうしても今年中に書き上げたいものがあるので寸暇を惜しんで打ち込みたいのだ。
お昼のランチもファミレスで食べ、ドリンクバーのコーヒーをがぶ飲みし、2時前に出雲中央図書館へ。
『仇討ち実記』の続きだが、部屋に入るなり、ガーンとショックを受ける。
皆が持っている辞典と私が持っている辞典が違うのだ。資料読みが始まり、「これは○○と言う字の崩しです。何ページを開いてください」と、言われてもなあ…。
恥ずかしいから辞典は机の上に出さなかった。
どうしてこう言うことになったのか。先生は前回「買ってください」とは言ったが、出版社は言わなかったので、くずし字辞典なんて一種類しかないのだろうと思い込んでいたのだ。
本屋へ行っても、くずし字辞典なんて置いてないから取り寄せになる。そこで、店員に注文したら、調べてくずし字辞典は2種類あると言われたのだ。確認してから注文しようかと思ったのだが、また本屋へ来るのが面倒なので、高い方を注文しておけばいいだろうと思ったのが間違いの元だったのだ。
ファミレスでパソを叩き、その後、2時間、ショックに耐えながら、古文書の解読。
精根尽き果てる。
お陰様で、略字は覚える。変体仮名も少し覚える。しかし、昔の文章には句読点というものがないから、つながりがわからなくなる。「」もない。読んでいるうちに、この文の主語は一体誰なんだ?誰が誰に向かって言っているのか?読めない崩し字があるので余計に難しい。
ただ、(申す)とか(候・そうろう)など決まった文言や、漢文的な返り読みの表現を覚えてしまえば、楽にはなりそう。
問題は、不退転の決意を問い直されていることだ。
皆と同じ辞書を買うべきか。

この上さらに「古文書に親しむ会」にまで出る。出雲中央図書館で月一回第二土曜日に行われる。
以前から、この会の存在は知っていて、出席したかったがとてもそんな状況ではなかった。ようやく都合がつくようになったので出席した次第。3月から5月にかけての講演会ラッシュが一段落すれば、月1回の「風土記談義」とこの「古文書に親しむ会」だけになるから、何とかやって行けるのではないかと気楽に思っていたが、出席して驚いた。
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途中5分のトイレ休息を挟んで、2時間びっしりただひたすら先生の読み下し、解説を聞きながら、必死にメモ。短い質疑応答もあるが、コピーから寸時も目を離すことができない。気を抜いたら、どこを読んでいるのか分からなくなるのだから。
講演会の1時間でも集中するのはきついが、その厳しさは講演会の比ではない。
参加者は私と同年輩か、上の人たちで15名ほど。女性も数名。机の上には6000円する「くずし字辞典」を置き、ぺらぺらとめくっては質疑応答している。先生が思わず感心するような鋭い意見を言う人もいる。
このレベルに達するにはどれくらい時間がかかるのか。
「くずし字辞典」も買わないといけない。


教材は江戸時代の「仇討ちの実録」。
普通のくずし字さえ読めないのに、万葉仮名のくずしがあったり、語順がひっくり返る漢語的な言い回し(被仰→仰せられ)のくずしがあったりする。被仰(仰せられ)程度なら、江戸時代の色々な資料で見慣れているから、楷書なら困ることはほとんどないのだが、くずし字になると慣れが必要だろう。
参ったのは異体字のくずしであった。もうバンザイ、お手上げであった。
参考までに異体字の例をあげると、「最後」の「最」と言う字の異体字は、「ウ」かんむりに「取」と書く。こんな字、これまでの人生で見たことがない。これをくずしたものなどどう読めと言うのか。いやはや、大変な世界であったが、面白い。いつかはすらすらとまでは行かなくても古文書が読めるようになりたいものだ。
次の会まで、一ヵ月あるから、暇な時に読み直してみよう。しかし、また、用事を増やしてしまったなあ。
 

12月14日は赤穂浪士の討ち入りの日で、当時、この討ち入りは義挙ともてはやされ、上は武士から下は百姓町人に至るまで身分を問わず万民に熱狂的に支持されたことは誰もが知っている。社会全体が熱狂のるつぼと化した。
多くの学者文人たちはこぞって浪士を称える本を書いた。芝居にもなった。そんな狂騒の中で、ただ一人沈黙を守った男がいた。それが新井白石である。
新井白石と言えば、高校の日本史の授業で「正徳の治」を行いました、の一行で終わってしまい、後は「西洋紀聞」と自伝「折り焚く柴の記」を書きましたぐらいしか記述されない。
討ち入りのあった元禄15年、白石は45歳、甲府藩主徳川綱豊の侍講となって9年目であった。綱豊の儒学の先生である。この時は綱豊が5代将軍綱吉の跡を継いで6代将軍家宣になるなんて誰も想像もしていなかった。
白石の無二の親友と言ってもよい儒者に室鳩巣(むろきゅうそう)と言う人がいる。激情家だから、「義士録」と言う本を書いて、浪士たちを褒めたたえた。白石と話をしたことを記録に残しているが、白石は浪士を称賛してはいないようだ。義士贔屓の鳩巣の記録だから、白石の好意的な意見があったとしても、信用できないようだ。
「白石日記」には事件があったと言う記述が一行あるだけで、何の論評もない。「折り焚く柴の記」にも書かれてはいない。
どうも、浪士たちには同情はしていたようだが、法的には、討ち入りを仇討ちとは認められないと思っていた節がある。なぜなら、発端となった事件は、浅野内匠頭が無防備な老人に一方的に斬りつけた殺人未遂の傷害事件だからだ。
浅野内匠頭と吉良上野介が喧嘩して、浅野内匠頭が殺されたのなら、家来の仇討ちが成り立つが、これでは成り立たない。当時、ごく少数だがそう発言をしている者もいた。だが、白石は沈黙していた。
なぜだろう。思うに、世の中の熱狂ぶりを見て、距離をおこうとしたのではないだろうか。こんな時は何を言っても無駄と思ったのかもしれない。正論に基づく意見でも誰も聞く耳を持たないと諦めていたのかもしれない。
私はその沈黙ぶりが好きだ。
当節のやたら吠えたてる作家だとか、評論家とか、文化人とかに辟易しているからだと思う。世の中を見渡しても、西も東も、火をつけたらすぐに燃え上がる人たちばかり。
本当は沈黙してはいけないのだろうが、発言すれば否が応もなく熱狂に巻き込まれるわけで、沈黙を守る人の気持ちも分からないではない。
白石が仕えたのは6代将軍家宣とその子7代家継(幼君)で、わずか八年間。その前が生類憐みの令の5代綱吉、後が暴れん坊将軍の8代吉宗の有名どころだから、余りスポットライトを浴びることがないのだが、白石は近世日本の産んだ天才であった。
密入国して捕まり、白石の尋問を受けたローマ人宣教師シドッチは白石を500年に一人の天才と語った。
白石は詩人としても評価が高く、白石の詩を読んだ朝鮮通信使は激賞し、白石の名は朝鮮にまで轟いたと言う。
私は「折り焚く柴の記」が好きだ。と言うか、白石の本で読んで分かるのはこれしかないから。それもごく一部、白石が父と母を語った部分だけである。他は今の時代ではなじみにくい話が多い。私はそんな読みにくいところは読まなくていいから、父母を語った部分だけ読んでほしい。特に若い人たちに。父母への敬愛の情は時代を越えて伝わって来ます。
いま私たちは普通にカタカナ表記を使っていますが、実はこのカタカナ表記の基本を作ったのは白石です。意外なところで、白石とつながり、お世話になっていたのです。こんなことが分かるから歴史は面白いです。






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