曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 歴史よもやま話

 明日が赤穂浪士討ち入りの日である。私は数年前、赤穂浪士の討ち入りについて沈黙を通した新井白石について書いて以降、赤穂浪士について触れていないが、白石が沈黙を通した理由をその後も折に触れて思い返してはいた。だがこれと言う結論もなくそのままになっていたのだが、ふと、もし自分が新井白石だったらどう裁いたであろうかと考えたら、意外と簡単にすうっと答えが出たので書いてみる。
将軍綱吉の時代に起きたこの事件を裁いたのは荻生徂徠(そらい)である。彼は「法は法である」と法治主義の立場から浪士は有罪にした。浪士同情論が沸き起こる中でのこの断罪は勇気ある裁きであると思うし、ここまでは恐らく白石も同じ意見だったと思う。だが徂徠は浪士に同情していて彼らには切腹を命じた。切腹は名誉の死である。ここが間違いである。法は法であるなら、浪士は打ち首にされるべきだったのだ。だがもしそうしたら世論は許さなかったであろう。それは徂徠も恐れたし、もともと同情しているのだからそんな判決はでるはずはなかった。結果は浪士の死は称えられたことは皆知っている通りだ。
 ちょっと冷静になればおかしな話だ。浅野内匠頭のやったことは一人の老人に公の場で斬りつけた一方的な傷害事件である。それを仇討ちと称してたった一人の老人を寄ってたかって斬り殺すことがどうして許されよう。またこれは幕府の仕置に対する反逆でもある。幕府の裁きに歯向かった者たちがどうして許されよう。事実だけ見れば浪士を弁護する余地はどこにもない。
 しかし、屈折した時代の屈折した民衆の屈折した心情は恐ろしい。無罪を唱える学者もいたぐらいだから、徂徠のこの裁きはぎりぎりのところだったのであろうと思う。
 白石はもちろん間違っていると思ったはずだ。最も正しい裁きはどうすべきかは考えていたはずだ。だがそれは決して公にはできない判決だったのではないだろうか。だから大勢の学者たちが侃々諤々喚きたてても沈黙を押し通したのだと思う。
 そこで私はもし私が白石だったらこの事件をどう裁くか考えてみた。結論から書くと阿保みたいな簡単なことだった。47人全員を島流しにしてしまうのだ。全員一つの島に一人、ばらばらにできるだけ遠くの人も住まないような絶海の孤島に流してしまうのだ。後醍醐天皇が流されたような隠岐のような大きな島には流さないのだ。こんな島に流したら英雄になってしまう。
 かくして事件が風化するのを待つのが現実的かなと思うのだが、一方ではこうも思う。
 きっと下手な戯作者は島流しになった47士の子孫が、上野介の子孫に討ち入りをかける話を作るのではないかと。要はこの事件は元禄と言う時代の病理が生んだ仇花のようなもので神様をもってしても完璧な裁きはできなかったのではないかかと。だから白石は黙り通していたのかなあ。考えてみれば江戸時代だけではない。いつの時代も病んでいる。もちろん現代も。過去を病んでいると言ったら、逆に笑われるくらい病んでいるのは我々の時代かもしれない。

京都から高速を北上して天橋立への分かれ道を過ぎてから、山道に入って辿り着いた出石町に着いて最初に訪れたのが宗鏡寺。出石城の殿様仙谷氏の菩提寺。私たちと同じ臨済宗のお寺。
PXL_20251018_032731934PXL_20251018_032852362
別名沢庵寺。沢庵和尚の寺として知られている。昼食まで30分しかなくて忙しい見学だったが、ここでガイドをしてくれたのがうら若き女性だったのである。普通お寺のガイドはその寺の坊さんがしてくれるから、一体誰だろうと思いながら聞いていたが、どことなく頼りなく、たどたどしいところがある。それでも一生懸命、将軍家光と沢庵和尚の話をしてくれる。
「家光に食事を出すことになった和尚が、昼になっても出さず、えんえんと待たせた挙句、お茶漬けと沢庵を出した。お腹がすいた家光はおいしく食べたが、沢庵は為政者たるもの、百姓はこのようなものしか食べていないことを知ってくださいと語った。感じ入った家光が沢庵を指さし、これは何という食べ物かと問うたら、沢庵は名前はないと答えた。すると家光は沢庵と名付けろと言い、以来、みな沢庵とよぶようになった」と長い話を、懸命に話してくれたのであった。
こういう話だと、私なんか「ここはこう言った方が味がある」とか「こう言えばぴったりなのだが」と思うのだが、彼女は最後まで自分の言葉で懸命に話してくれた。
忙しく寺を出て、昼食をとって、永楽館に行き、いざ出雲を目指して帰るバスの中で、このガイドの話題が出た。何とお寺のお嬢さんで15歳だと言う。高校一年生だったのだ。道理でたどたどしくも初々しいわけだ。
PXL_20251018_032925325PXL_20251018_033952844.MP
右の写真。祀ってあるのは仙谷家のお殿様や家老たちの位牌。
PXL_20251018_033124502PXL_20251018_034247163
庭も手入れが行き届いているとはいえない。全体的にくすんだ印象のお寺だった。

このお嬢さんと話した人によると、なんとこの寺には檀家がいないと言う。みんな、仰天する。「そんな寺があるのか」「どうやって食ってるんだ」
この寺は江戸時代から領主の仙谷家だけの菩提寺だったので、殿様と家老のような偉い人だけの位牌しかなく、家来たちや商人や町人百姓は、檀家になっていないのだ。だから明治維新になって仙谷家が東京へ行ってしまうとたちまち難儀してしまったのだ。
道理で修理も満足にできないはずだ。お嬢さんの父親の和尚さん自ら修理していると言う。
「もっと早く知っていれば、帰るときに少しでも寄付したのになあ」
「あのお嬢ちゃん、気前良くてね、普段は見せないところだけど入って下さいと見せてくれたんだよ」
帰りのバスの中は、15歳の女子高校生ガイドの話でひとしきりほっこりしたのであった。
みんな、出石は知らなくて、お寺も永楽館も知らなくて、全員、期待していなかったので、この町全体が醸し出す、一生懸命に生きて行こうと言う空気に癒され、励まされてみんな「いい旅だったな」と言いながら戻ったのであった。
私も二、三年後に訪れてみたいと思った。あの15歳の女子高生ガイドがどうなっているか会ってみたいと思っている。

10月16日~17日は毎年恒例の京都妙心寺の本山参りだったが、今回は帰りの慰労ツアーで素敵な出会いがあったのでそちらの方を報告したい。場所は兵庫県の出石町。妙心寺で6時半からの団体参拝をすませ、朝食をとってから、9時半にバスで出発して12時前に到着。豊岡の手前のとんでもない田舎町。ここでまず宗鏡寺(すきょうじ)を見学して、昼食後、永楽館という芝居小屋で落語を聞いて永楽館を見学すると言うものだったが、沢庵和尚の寺といわれてもさして興味はないし、ましてや素人の落語なんか聞きたくもないし、全然期待していなかったのだが、見学順は前後するが、まずは永楽館から。
仙石氏の城下町で小京都と言われているが、津和野の何分の一かの裏さびれた印象の町。今話題になってああいるのが話題の映画「国宝」にその舞台が登場していることを着いて初めて知る。
PXL_20251018_054610704.PORTRAIT.ORIGINALPXL_20251018_054351595
左)建てられたのは明治34年。左の路地を入ると入り口。
右)左手入り口
PXL_20251018_045956542.MPPXL_20251018_050110443.MP
左)入り口。
右)入ると「国宝」の宣伝。
PXL_20251018_050131017.MPPXL_20251018_050134788
江戸時代の芝居小屋を明治になってそのまま再現して建てられたもので、近畿最古の芝居小屋。昔は右の写真のように桟敷席だったが、今は桟敷の上に長椅子がしつらえてある。
PXL_20251018_050237864.MPPXL_20251018_053801081
舞台には落語をするので高座がある。
舞台の後ろ、2階にあるのが何と楽屋。芝居を演じている時は幕で隠すので客席から見えない。こんな芝居小屋は初めて見た。
PXL_20251018_053734047
この小屋はTVの普及によって昭和39年に閉館された。それから44年の時が経ち平成20年に復活再生された。昭和39年の閉館当時そのままに復元されたのだそうだ。
PXL_20251018_053844666PXL_20251018_053858889
左)舞台の下の奈落。舞台には直径6.6mの回り舞台があって、回すことが出来る。セリもあって回り舞台の一部が上下する仕組みがあって役者が出入りする。
右)花道の下の通路。ここから役者が花道に出現する仕掛けもある。手前にあるのが4人がかりで役者を担いで乗せる台。4本の足があるのだが、手前に2本あるのがそれ。
閉館前は映画館もやっていたので当時の映画のポスターも10枚ほど貼ってあった。私の師匠松浦健郎脚本のポスターもあるかと思ったがなかった。「太陽にほえろ」や「暴れん坊将軍」の脚本をかいていた小川英氏脚本のポスターはあった。
閉館した時が自分が高校生の時。タイムスリップしたような何とも言えない懐かしさを覚える。
最初に落語があったのだが、素人とは言え笑わせてくれた。普段は陶器を作ってお店屋さん。ほかに高校の先生や、ふるさと応援隊や介護職の人もいると言う。小さな町に賑わいを取り戻し、何とか元気にしたい。そんな一生懸命さが伝わって来た。考えてみれば、自分たちもにたりよったりの問題を抱えた島根県からの観光客なのである。この町を出発する時は「出石町頑張れ」とエールを送った。
皆さんも「国宝」を観て、出石町にも足を運んでみてください。津和野の6分の一なんて言ってごめんなさいである。
もう一つの飛び切り素敵な出会いは明日、報告します。

12月6日、大社コミニュティセンターで江戸時代に手銭家が作ったおもてなし料理を実際に作って食べようと言う催しがあった。何年も前のことだが義母を見舞った時、熊本城で細川の殿様が食べた料理を食べる機会があったが、この時は出された料理を食べただけであった。自分で作ることなどなかなかないので忙しいけれど申し込んだのである。
15756117353681575610583161
コミニュティセンターは旧大社小学校の校舎。教室の一つが調理室になっていた。
手銭(てぜん)家は大社の旧家で、手銭記念館には手銭家に伝わる書画骨董の美術品から生活道具など江戸時代の文化や暮らしを知る品々が展示してある。その手銭記念館の催しで、手銭家の奥さんやお婆さん(もしかしたら娘さんと奥さんかも知れない)が台所に立ち、色々興味深い話を交えながら楽しく進めて下さる。実際手取り足取り教えてくれたのは日本料理店『登和』の店長夫婦と息子さんの三人。参加者は女性9人と男は儂を含めて2人だけ。役に立たなくて肩身の狭い事。
おもてなし料理の内容は、寛政元年(1789年・フランス革命のあった年)11月4日に、松江藩松平不昧公の弟駒次郎(俳号、雪川)が大社参詣をした時、手銭家に泊まり、その時の夕御膳に饗されたものである。
松平不昧公は松江藩7代目で茶人大名として知られた殿様で、出雲には茶道不昧流は今日にも伝わっている。
手銭家に伝わる『萬日記』によると、雪川の大社参詣はおしのびで、もともと杵築に泊まる予定ではなく、宿泊するにしても手銭家の順番ではなかったのに、急遽泊まることになったらしい。おしのびなので門に提灯を出さなくてもよいと言われたそうだが、家臣は23人も引き連れ、その中には側女らしき女性もいたようだ。急な宿泊で手銭家はてんてこ舞いしたようだ。そんな時に出された料理を食べようという訳だ。ちなみにこの時の費用は52貫329文。今のお金にして約150万円だったそうだ。
儂らは一人参加費2500円。
旧暦の11月4日は太陽暦ではちょうど今頃の時期である。今日はみぞれが降った。初雪である。

献立(4日夕より)
茶菓子や果物、酒は省略し、ほぼ9割方を再現する。
小皿(香物、奈良漬)
硯蓋(さらし牛蒡、松露、氷こんにゃく)
皿(鯛焼物、すりしょうが)猪口(いり酒)
みそ汁(かきしんじょ、ちゃ、椎茸)
平皿・葛引(松露、おとしかまぼこ、わさび)
硯蓋(香茸、焼きも梅せん漬
御めし
献立(5日朝より)
平皿(こくしょう・牛蒡、香茸、焼き豆腐)
猪口(白和え・にんじん)

松露焼きも梅せん漬、は省略。焼きいもとは長芋を切って焼いたものらしい。
※松露は今や出雲でも手に入らないので、松露は大きなしめじで代用。
15756117022701575611655346
材料が並ぶ。中央の緑が献立の「ちゃ」なるもの。ちしゃの茎。サンチュである。ネットで調べたら京都の八百屋にあったので取り寄せたそうだ。とても固い。皮を剥く時手を切らないようにと注意されたので、儂は初めてのこともあり見物。
15756115756081575611541224
つつ牛蒡。牛蒡に穴が開いている。白く細いものが牛蒡の芯。竹串を芯の周りにぐるりと刺して行き、えいと押すとすぽんと抜けるのだが、儂はいくらやってもうまく抜けない。途中でやめてしまい、隣の奥さんに代わってもらう。
15756116151791575611481200
左はいり酒を煮詰めているところ。塩梅を汁が半分になるまで煮詰める。右は水で戻した凍み豆腐を絞っているところ。凍み豆腐を専門で作っている所は茨木県に三軒しかなくて取り寄せたよし。とても長持ちするものなので、昔は香典として使ったそうだ。(手銭家奥さん談)
15756114086651575611365071
左。かきしんじょをすっているところ。牡蠣のすり身、魚のすり身と大和芋を合わせる。
右。茹でた豆腐を裏ごしする。
15756106338801575610552024
左。かきしんじょを湯に落とす。
右。たまみそ(粘味噌・ねりみそ)昔の味噌がないので似ている八丁味噌で代用。黄身、砂糖、みりん、酒を加え、火にかけて水けを飛ばしながら固めに練り上げる。
15756104926201575610457400
左。鯛を焼く。
右。おとし蒲鉾。魚のすり身を蒸す。すり身は作っている時間がないので魚屋から購入。
15756098628381575609814587
左。凍み豆腐を煮ている。右。焼き豆腐に味付けしている。
15756097709851575609703965
左。茹で上がったかきしんじょう。
右。つつ牛蒡を半分に割った上に、こくしょうをほんの少しのせる。こくしょうはたまみそをダシでのばしたもの。
15756096615871575609738303
左。猪口(ちょく)にいり酒を注ぐ。焼いた鯛に垂らすか、鯛の身を猪口に漬けて食べる。昔は今のようになんでも醤油をかけて食べることをしない。この後、食べてみたが、素材の味を殺すことなく美味しく食べることが出来た。
右。御膳はこのように蓋つきだが、我々は蓋無しで食べる。
1575609570770
食事会場
Inked1575609533038_LI
1奈良付けと漬物
2香茸
3凍み豆腐を細く切ったもの
4焼き豆腐にこくしょう(穀焦)をのせたもの
5つつ牛蒡を半分にしたものにこくしょうをのせたもの
6鯛
7おとし蒲鉾の葛引き
8牡蠣しんじょうの味噌汁
9にんじんの白和え

「おいしゅうございました」


脂質は限りなくゼロに近いのではなかろうか。

12月7日追記
今日は「古文書の会」があった。今、読んでいるのは「高見家文書」。出雲の旧家の日記なのだが、その寛政2年の記録に、松江藩主松平治郷(はるさと)が大社参詣し、御本陣は千家筑後守とあった。
松平治郷とは不昧公のことである。弟の駒次郎が大社参詣した翌年に兄の松江藩主も大社に参詣しているのだが、お殿様だから泊まる所は出雲国造・大社の宮司千家なのである。偶然とはいえ、昨日の今日のことだったのでご紹介まで。

今日は荒神谷博物館で『風土記談義』があった。
昨日、妻の外泊が終わり特養に戻ったので、今日は心置きなく『談義』へ。
前回、一年以上かかって『出雲国風土記』の意宇郡(おうのこほり)が終わったと書いたが、今日が意宇郡の最後であった。スライドで意宇郡の島や川、神社を見せてもらう。出雲にいてもそうそう行けない場所なので実風景を見せてもらうと理解が深まる。
『出雲国風土記』には全部で九郡の記述がある。そのうちの最初の一郡が一年かかって終わったのだから、全部読み通すまであとどれくらいかかるのだろう。
講師の平野先生は若い時から、車の中にはいつも『出雲国風土記』を置いていたと知る。とてもいいことだと思い、これから私も真似をして、本や資料、地図などを常に車に積んでおくことにする。走っていれば、通りかかった神社や川などはたいてい風土記に登場するのだから、そのつど確認できる。
一年以上通って勉強して来たが、そこで知ったのは『出雲国風土記』を勉強しているのは我々現代人だけではない。昔から多くの有名無名の人たちが勉強していた事である。
その有名人の中に生徒も先生も超有名人がいる。
生徒が『徳川六代将軍家宣』で先生が『新井白石』である。ただの先生ではない。個人教授だからすごい。家宣はマンツーマンで白石から『出雲国風土記』を学んだのである。
と、言っても家宣が将軍になる前の話である。
家宣は五代将軍綱吉に後継ぎが出来なかったので養嗣子となって将軍位を継いだものであり、将軍になる前は甲府藩主で徳川綱豊と言う。
その綱豊時代に侍講(個人教授)として仕えたのが新井白石である。その時、白石36歳。当時の市井の大儒者木下順庵の門下で、浪人中であったが、順庵が一目置くほどの才能であったので、順庵の推薦で綱豊の侍講となったのである。
儒学の先生になったので師儒と言う。二人は師弟の契りを結び、マンツーマンでひたすら学問に励む。綱豊は大変勉強熱心な殿様で、白石はまだ天下に名が知られる前であったが、それはそれは熱心に教えた。この間、二人は将来綱豊が次期将軍になるとは夢にも思わず、儒学は言うに及ばず、歴史、地理、古典、詩などありとあらゆる分野を学び、教えた。
個人教授は17年にも及び、綱豊は綱吉の死後、将軍となる。
白石は政治顧問となり、家宣の政をたすけ、正徳の治を行う。
『出雲国風土記』を学んだのは、その甲府時代のことである。
私がなぜそのことを知ったかと言うと、白石の事績を調べるために、白石の晩年の書簡を読んでいたら、白石がそれに関する記述を友人に送っていたからである。
その内容がこれまた面白いので、紹介しようと思うが、前置きが少し長いので我慢して読んで貰いたい。
家宣は将軍になるもすぐに死に、跡を継いだ家継も幼くして死ぬ。父子合わせて七年ほどの治世で、将軍吉宗の時代となるや、白石はたちまち失脚する。
その失脚後の白石の孤独な晩年を支えたのが文通であった。文通相手は数少ないが、実に多くの手紙をやりとりしている。その文通相手の中で、もっとも身分が高かったのが、加賀百万石の太守前田綱紀(つなのり)であった。この殿様は大変な学問好きで知られ、美術工芸の発展に力を入れ、農業や藩政改革にも取り組み、名君とあがめられた。
このお殿様が失脚して落ち込んでいる白石に救いの手を差し伸べる。白石を高く評価し、白石の本を自分の書庫に収めたいと申し込む。白石の本が自分の書庫にあれば、書庫の価値が高まるとまで言い、白石を感激させる。白石は感激の余り、門外不出の『西洋紀聞』を綱紀に貸し出す。この本は密入国した宣教師を尋問した記録をもとに著したものだが、キリスト教に関する記述があるので公に出来なかった本であった。もしこの本を貸し出したことが露見したら、失脚した白石はさらなるお咎めを受ける恐れがあったにもかかわらず、危険を冒してまで貸したのであった。それほど綱紀の知己を得るのが魅力的だったのである。二人の仲は一気に深まり、二人はお互いに所蔵している本を書き出して見せ合う。二人は互いに本の貸し借りを繰り返すが、ある時、綱紀は『出雲国風土記』を貸して欲しいと所望する。
ところが、白石はこれほどの庇護者である大大名の頼みを断る。
その理由は、この本は家宣が勉強した時に使った本で、後に家宣から恩賜品として頂戴したものであった。
「旧主恩顧の品は門外不出にしております。ましてやこの本には家宣公の書き込みもあります」
本だけではない。白石は家宣ゆかりの品は一切表に出さなかったのである。
これが儒教社会における君臣の関係と言うものであり、この君臣の関係を盾にとられると、綱紀にしても引き下がらざるを得なかったのである。

一体綱豊は『出雲国風土記』にどんな書き込みをしたのだろう。
白石はどんな風に講義したのだろう。白石は綱豊の講義に当たっては、理解を深めるために万全の準備をした。沢山の資料を揃えて講義に臨んだことが分かっている。あの時代にどんな資料を揃えたのであろうか。
『出雲国風土記』の冒頭の国引き神話のくだりに、「おとめの胸鉏(すき)とらして」とある。
今日では「乙女の胸のような鉏を取って」、朝鮮半島にぐさりと突き立てて余った土地を切り分けたと解釈するが、私はこの「乙女の胸のような鉏」がどうにもぴんと来ない。成熟しない乙女の薄い胸のような鉏を形容しているらしい。薄くて土に突き刺さりやすいのだそうだが、どこか違うような気がしてならない。
白石がここをどう解釈したのか知りたくてならないのだが、今や望むべくもない。この恩賜の『出雲風土記』は残っていないから。残念でならない。

↑このページのトップヘ