曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 辰敬家訓の周辺

私が書いている小説の主人公多胡辰敬(たこときたか)の五代前の先祖には多胡重俊と言うとんでもない人物がいる。その頃の出雲の守護大名は京極氏で、重俊は京極氏に仕えていた。将棋名人として知られていたが、強いのは将棋だけではなかった。双六(すごろく)や賽(さい)など、ありとあらゆる博打で無敵を誇り、余りの強さにその名は都のみならず日本六十余州に轟き渡り、多胡博打の名を奉られた。重俊をあがめ、あやかろうとする者達は、重俊の絵姿を床の間に飾ったほどだと言う。
その将棋の才は、子の重行、高重と受け継がれ、多胡家は代々博打名人の家と知られるようになった。次の俊英は応仁の乱で大手柄を挙げ、石見の国、中野(今の邑南町)の余勢(よせ)城の城主となるが、バクチ打ちの一家とみられるのを嫌い、将棋を禁じ、一切のバクチも禁じた。
その孫が辰敬だが、なぜか辰敬は子供の頃から将棋が強いことで知られていた。
祖父が禁じ、父も出雲大社の造営奉行をしたほどの人物なのに、なぜ辰敬が子供の頃から将棋の才を示したのか。
そこが面白いところであり、想像力を掻き立てられたところです。




私の母の実家は出雲市の隣の大田市にある。大森銀山で有名なところである。出雲からは車で40分ほどの田舎で、実家の裏には岩山と言う小さな山があった。私は小学生の頃は山口県の防府市にいて、夏休みは毎年母の実家で長く過ごした。
何年生の頃だったか、大人の誰かから、「裏のお山にはお殿様が住んでいたんだよ」と言われたが、城跡らしきものは何一つない、本当に小さな山なので、子供だましのいい加減な話だと思っていた。
26、7の頃、お礼奉公が嫌になり、師匠から夜逃げして、(代々の弟子はみな夜逃げしたそうだ)息抜きに母の里へ来た時、偶然、地方史の本で、岩山城城主多胡辰敬(たこときたか)の記述を見つけた。「あの話は本当だったんだ」と吃驚した。
しかも、この武将はただ者ではなかった。
その昔、戦国武将は家訓を残したが、現存するのは、伊達、島津、北条等々みな有名な戦国大名だけである。ところが、ただ一人、地方の一武将で家訓を残した人がいた。それが多胡辰敬だったのである。
何と地元の小学生だって知っていた。郷土の誇りとして学校で教えていたのだ。
岩山城は大森銀山の守城の一つで、出雲への入り口を守る重要な位置にあり、多胡辰敬は尼子の武将として毛利の大軍の前に立ちはだかり、討ち死にしたのだ。
「ああ、そんなすごい人がいたなんて。どうして、多胡辰敬というお殿様だったんだよと教えてくれなかったんだろう」と、あの時の誰かを恨んだのであった。
調べると、この人の家訓に最初に注目したのは柳田國男だったらしい。
その時、いつかはこの人のことを書きたいと思ったのであった。








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