曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 巡り会った監督脚本家たち

来る10月19日~21日、第8回『午後から雨になるでしょう』プロデュース
朗読公演『クライマガコのための遁走曲(フーガ)』が行われます。

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去年の夏のブログでご紹介した、脚本家の吉永亜矢さんの2年ぶりの公演です。美人で颯爽として、いつも風を切って歩いている、儂の大好きな脚本家です。(脚本家の旦那がいるけれど……)
毎年、公演をしていたのに、2年ぶりになってしまったのには訳がある。
彼女は何年も前から、お母さんの介護をしているのだ。去年は特に大変で、とても公演どころではなかったのである。介護が楽になることはないのだが、今年こそはと頑張って公演に漕ぎつけたのです。
家庭があり、自分の仕事があり、お母さんの介護があり、その上、公演までこなすなんて、儂もどちらかと言うと頑張る方だけど、とてもかないません。脚本家なのだから、脚本を書いて演出家に渡すだけならまだしも、演出もする訳ですから、エネルギーは倍必要です。
ここ2回朗読劇になったのはそこに理由があります。介護をすませ、へとへとになって、お芝居の演出をつけるのはさすがにスーパーウーマンにとっても限界でした。それでも舞台をやりたい。そこで彼女は考えたのです。朗読劇なら可能だと。声に絞ったのだと儂は思いました。秋の一日、彼女の声に耳を澄ませてください。儂は彼女の芝居を観たことがあるし、前回の朗読劇の台本を読んでいるので、上京できないけれど、暗い客席にいるつもりになって想像します。きっと日常では忘れてしまった言葉、しんみりと心に残る言葉、追いかけたくなる言葉……を、聞くことが出来ると思います。
普段お芝居を観る機会のないあなた。秋天の一日、異次元の世界に浸ってみて下さい。

外はかなりの雨。今度の台風もまた出雲は直撃を免れそうだが、いまからこれだけの雨が降っていると言うことは、やはり前回の台風より相当大きいようだ。被害の小さいことを祈るばかり。いい秋を迎えたいものだ。

イメージ 1友人の作家、吉田雄亮(ゆうすけ)さんから、最新作を読んで意見を聞かせて欲しいと送って来た。
『渡り辻番人情帖』シリーズ(角川文庫)の2冊目である。
私と同世代で、私が戦隊シリーズのダイナマンを書いていた時、吉田さんが3本ほど書いたのが縁で、爾来30年の付き合いになる。
と、言って、付き合いは長いが、それ以降、同じTV作品を担当したことはほとんどない。
酒を酌み交わしたこともほとんどない。吉田さんは身体を壊したぐらい飲むが、私が下戸だからどこかで一杯やろうと言うこともなかったのだ。それなのに、こんなに長く続いているのは、思うに世間を狭くしている私を気遣って連絡を取ってくれていたからだろう。
この人は多才な人で、文学座の演出志望からスタートし、週刊誌の記者になり、劇画の原作(映画化作品もある)を書きまくり、TⅤやアニメの脚本にも進出、実録小説を書き、プロデューサーを経て、小説家になった。色々な仕事をしながらも、吉田さんはいつもいつかは時代小説を書きたいと言っていた。北野たけしが言っていた。「いつも先を考えていない奴はだめだ」と。その通りだと思う。私はこの人は劇画の原作者や脚本家やプロデューサーでは終わらないだろうと思っていた。小説家になるのが一番似合っていて、いつか必ず小説家になる人だと思っていた。
言葉通り、15年前に「裏火盗シリーズ」(双葉文庫)で、長編時代小説の文庫書下ろしの作家としてデビューし、「深川鞘番所シリーズ」「千住宿情け橋シリーズ」など、数十冊以上の作品を上梓している。
そして私に小説の道筋をつけてくれた。私の処女作が妻の病気で頓挫しかけた時、「曽田は必ず書くから」と編集者を説き伏せてくれたのも吉田さんである。だが、恩人だから、紹介するのではない。同世代の物書きで、波乱万丈の人生を送って来た人だ。プロデューサーでは塗炭の苦しみを味わい、最後に小説の道を切り拓いた人だ。私のような立場の者からみれば、書ける作家には、もっともっと小説を書いて欲しいのだ。私たち自由業には定年はない。体力と気力と意欲があればいくつになっても書ける。この分野の小説はコアな時代小説ファンに支えられていて、なじみもない人もいるでしょうが、これを期に読んでみようかという人がいらっしゃたら嬉しいので、紹介しました。ところで、この人のすごいところがもう一つある。
何年前だったか、吉田さんの小説の文章が国会図書館に保存された。国会図書館は毎年流行語を採録しているが、それだけではなく、その年に活字化されたあらゆる文書をチェックしていて、その年の記録保存にふさわしい文章として認めたという訳だ。日本語の文章の変化を追跡しているのだ。
それを聞いた時、国会図書館侮るべからずと思ったが、選ばれたことはすごいなあと羨ましく思ったものだ。独自の文体が評価されたのだ。
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宍道湖畔の喫茶店。
真ん中より左に遠く霞んでいるのが松江市。
北へ帰ることをやめた白鳥一家が店の下に住み着いている。


と、いう訳で、昨夜第一話を読み、今朝は二話掲載のうちの第二話を読むために大好きな喫茶店まで車を飛ばす。ここは国道9号線を松江に向かい、宍道を経て、来待(きまち)を過ぎた辺りの宍道湖畔にある。お気に入りの店でたまに気分転換に来る。読書なんて家ですればいいではないかと思われるだろうが、たまには贅沢な空間で、美味しいコーヒーを飲みながらゆっくりと読みたくなったのである。
と、言うのも、友人の本というだけではなく、そもそも読書が久しぶりだったからである。
妻が倒れてから、13年の間、私は読書らしい読書をしていない。初めの6年間、年一冊の小説を書いていた時期も、自分の本を書くのが精一杯で他人の本を読む余裕が精神的にも物理的にもなかった。読むのは資料だけである。帰郷してからの7年は、妻に加えて両親の世話も加わり、その中でも何とか時間を作って書き続けようとすると、やはり人様の小説を読む余裕がなかったのだ。資料を捜して、集めるのも手間がかかった。論文の類は国会図書館や大学に依頼して、コピーを送ってもらった。国会図書館には出雲図書館を通して依頼しなければならなかった。

と、ここまでブログを書いていたら、自宅からTEL。母が胃が痛いと訴える。
すぐに帰宅して、医大の救急に連れて行く。慢性的な持病の胃痛で、薬はすでにかかりつけ医から出ているので、様子をみるしかないと帰される。今週は母を病院に連れて行くのが、これで4回目。急遽、夕食のメニューを変更。親は年を取って行くからやむを得ない。

ところで、今朝の湖畔の喫茶店。先客の女性が一人。彼女もコーヒーを飲みながら本を読んでいた。分厚いハードカバーだった。離れた席で、静かに本を読む二人の客。島根の田舎の喫茶店でも、こんな絵になる光景があるのです。

高校のクラス会があるので上京。昨夜は昔の仲間の脚本家夫婦と、ゲーム会社をやっていた時の後輩を交え、渋谷で久しぶりに会う。
奥さんも脚本家であるが、彼女も老母の介護に振り回されていて、彼女とは介護の話になる。互いに励まし合い別れたのだが、別れ際に彼女が昨年演出した朗読劇の本を渡してくれた。彼女はTV脚本の傍ら昔から芝居の脚本演出もしているのだ。
帰宅して、早速読んで驚いた。面白いのだ。実は彼女の芝居は見ていたのだが、一緒にTVの仕事をする機会はなかったので、彼女の活字になったものをじっくりと読んだことがなかったのである。
何が驚いたかと言うと、彼女には文体がある。分かりやすくて楽しい。これは凄い事だ。それだけで作家になれる。私は彼女は小説家を目指すべきだと思ったのである。
それには、もう一つの理由もある。いや、これが一番の理由かもしれない。
彼女はこれから老母の介護が大変になって行く。これは避けられない現実である。
TVの脚本を書きながら介護を続けるのはとても難しくなるだろう。
シナリオライターは一人では出来ない仕事だ。打ち合わせが何度もある。監督やプロデューサーが好き勝手なことを言う。怒りを覚えることさえも。でも直しをせざるを得ない。締め切りがあるから。拒否したら2度と仕事は来ない。放映日が決まっているから、揉めに揉めても最後は泣きつかれたら、意地を張り通すわけにゆかない。妥協の産物と分かっていても。
介護に追われながら、締め切りに間に合わせるため、このようなストレスのたまる仕事を続けるのは至難の業だ。
親の体調が悪くなっても締め切りは待ってくれない。絶対に胃が痛くなる。吐き気がする。パソコンを投げつけたくなる。
私は彼女にそうなって欲しくない。だから小説をすすめるのだ。
書下ろしの小説なら締め切りは脚本ほど厳しくない。途中で親の体調が悪くなっても、一旦筆を止めて、またどこかで取り戻すことが出来る。
相手も編集者一人だけである。癖のある厄介な編集者もいるだろうが、局プロがいて、制作会社のプロデューサーがいて、代理店がいて、スポンサーがいて、時には役者まで口を突っ込んで来ることから比べたら天国(?)だ。
私も妻が倒れた時と小説を書き出したのが同時だったが、周囲の助けを得て締め切りを延ばしてもらえた。
何よりも慣れない介護で折れそうになった時、小説を書くことが自分を支えてくれた。
辛くて書けなくても、今日は一行でもいいから書こうと己を励まし、本当に一行しか書けない日もあった。でも、その一行が不思議なことに明日への力になった。一行でも書けたことが自信になったのである。小説は少しずつでも書いてゆけばいつかは出来上がるのだ。そう考えながら、私には書きたいものがある、書けることは幸せなことなのだと言い聞かせていた。この積み重ねがいつかは本になる。どれだけ励みになったことか。
いきなりすべてを擲って小説に移るのは大変だろうから、脚本とは別にもう一つ小説の道を目指して欲しい。
小説を書くことは命のビタミンだ。活力が湧く。
一行書けたことが、「今日は余裕を持って介護が出来た」と実感させてくれる日があった。余裕を持って仕事をし、余裕を持って介護するためには、小説はチャレンジする価値がある。
そう彼女に伝えよう。

映画監督の鈴木清順さんが亡くなった。
私たちは若い時から「清順さん」「清順さん」と呼んでいたように思う。映画青年のカリスマだった。干されたこともあり、不遇の名監督のイメージを持っていた。あの頃はこういう監督を熱烈に支持したものだ。高橋英樹の「けんかえれじー」や「東京流れ者」「殺しの烙印」が私たちのバイブルだった。
だが、私は「清順さん」と言えば、「大和屋竺」と言う映画監督を思い出す。アングラ映画で「毛の生えた拳銃」と言う作品があり、シナリオ研究所でも人気があって、この人のゼミには生徒が殺到した。頭脳明晰で淀みなく喋る。映画を論じた文章も明快で、こんな風に喋れ、こんな風に書けたらと憧れたものだ。なぜ、この人がこんなに人気があったかと言うと、この人が「清順一派の中心人物」と目されていたからだと思う。
「殺しの烙印」の脚本を中心になって書いたのもこの人だ。
私たちは、「大和屋さん」を、憧れの「清順さん」の片腕であり、代貸し格と勝手にみなしていて、あの「清順さん」に信頼され、才能を認められ、愛されているなんて、すごいなあと溜息をつき、羨ましく思っていたのだと思う。
「清順さん」には近づけないけれど、せめて子分の「大和屋さん」には近づきたいと言う心理が働いていたのかもしれない。
そして、鑑賞したのが、「清順さん」監督、「大和屋さん」主演の1時間物のTV映画だった。世にも不思議な物語的な番組で、打ち切りになったのか、オクラになったのか、その辺の事情は忘れてしまった。
内容は怪奇コメディーである。
「大和屋さん」演じる即身成仏したはずの坊主のミイラが現代に蘇り、断ち切ったはずの煩悩はどこへやら、女の尻を追い回すと言う抱腹絶倒のフィルムだった。
奇作というか、珍作というか、ほっぺたを赤く塗った坊主の「大和屋さん」が女を追い回す滑稽な姿を今もはっきりと覚えている。
その「大和屋さん」は若くして亡くなった。
以上が「清順さん」に憧れたけれど、縁がなかった者の思い出だ。
この話には、「大和屋さん」の続きがある。
かなり前のことになるが、大和屋さんの息子さんがシナリオライターになっていることを知った。あの大和屋さんの息子さんがライターになったのかと感慨深いものがあった。面識はない。
ところが、この人が凄かった。何と「ジャスタウェイ」の個人馬主になっていたのだ。「ジャスタウエイ」と言えば、G1馬であり、ドバイで勝って名を上げ、種牡馬にもなった。では、どうして一脚本家がジャスタウエイの馬主になったのかと言うと、この人はその前に「ハーツクライ」の共同馬主になっていたのだ。20人ぐらいで一頭の馬を所有する仕組みである。ハーツクライもすごい馬だ。ディープインパクトに勝ったこともあり、この馬もG1馬で、種牡馬になった。
私の脚本家仲間のお師匠さんは、何十頭もの馬の共同馬主になったそうだが、一頭も儲からなかったそうだ。
恐らくハーツクライの共同馬主で儲かったので、ハーツクライの子のジャスタウエィを購入したのだろうと余計な詮索をしている。
あまりにも別世界の、桁違いの話なので、羨ましいと言う気持ちも起きない。
もし「大和屋さん」が生きていたら、「清順さん」に映画を撮ってもらいたいから、金を出せと息子さんに言ったかもしれない。と、勝手な想像をした。

星山博之さんは言わずと知れたガンダムの脚本家だ。私より2つ3つ年上で、仕事をしていた時期は重なる。私は東映の戦隊シリーズを中心に東映動画やタツノコが主戦場で、星山さんはサンライズを中心に手広く書いていていた。お互いに沢山仕事をしていたのに、私たちが一緒の仕事をしたことは一度もなかった。それなのに、私たちは会えば「やあ」と声をかける間柄だった。
東映の大泉撮影所は西武池袋線の大泉学園が最寄り駅である。私は喫茶店で仕事をするタイプだったので、撮影所に脚本を届ける時は、仕上げを踏切脇の喫茶店「カトレア」で書いていた。その喫茶店の主みたいな人がが星山さんだった。彼も喫茶店で仕事をするタイプだったようだ。携帯のない時代だから、店員が「星山先生、お電話ですよ」と言っていたのを覚えている。喫茶店の電話を連絡に使っていたのかも。
放送作家協会(今の脚本家連盟の前身)のアニメ部会の役員の下っ端をやらされた時、メンバーの一人に星山さんがいた。だが、集まりは1、2回で、10人ぐらいいて、ちょっと話をして、終わったらすぐに皆散って行くので、近しく話をしたこともなかった。
「カトレア」で顔を見た時も、それから2、3年たっていたから、お互いに軽く頭を下げるだけだった。声も掛けない。お互い照れ屋なところがあったのだ。しばらく頭を下げるだけの関係が続いていたが、ある日、二人とも競馬新聞を持っていることに気が付いた。思わず顔を見合わせにやりとなった。
「やるの」と、星山さん。
それからは、「カトレア」で会えば、競馬の話だ。
仕事の話は一切しない。TVの話も、映画の話も、芝居の話も、本の話も。
競馬の話しかしなかった。優しい目をした、物腰の柔らかい人。作家に必要な強靭さは内に秘めて表には出さない人のように思えた。
競馬のキャリアも長かった。だが、週明けに会うと、いつも苦笑いしていた印象が強い。お互いさまだけど。
いつの有馬記念だったろうか、金曜か土曜に「カトレア」で、ああでもない、こうでもないと予想し合って、別れた。
私は外れた。
週明けの「カトレア」。ニコニコの星山さんが近づいて来た。
「あの日は、8枠(と言ったと思う)が良く出てたからさあ、8枠から流したら当たっちゃったよ」
「ええ、出目で買ったんですか」
先週のうんちくは何だったのか。
星山さん、照れくさそうに、
「昨日は全然当たらなくてさあ、有馬記念も分からなくなって、出目で買ったんだよ」
数々の名セリフを残した、機動戦士ガンダムの脚本家の、私が覚えている最後のセリフである。
「カトレア」は随分昔に閉店した。
星山さんが亡くなったのは、3、4年前で、67か68ぐらいかと思っていたが、念のために調べてみたら、2007 年に63 歳で亡くなっていた。
亡くなったと知ってショックを受けたのが、つい昨日のように思っていたが、そんなに昔の事だったとは。63歳だったのにも驚いた。私たちの63歳はまだまだいっぱい仕事が出来たのに。
















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