曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 泣き笑い介護日記

1月12日
訪問リハビリが始まる。病院で2回とあわせて週3回になる。永世病院でのリハビリとは比べものにならない微々たるものだが、これだけでも嬉しい。お昼の配食も始まる。昼食の準備をしなくていいのは助かる。邦子は半分しか食べないので、残りが俺のお昼。
夜の9時から12時までが俺の時間。途中11時にオムツ交換。「ビールの匂いがする」と言われた。明日からはオムツ交換が終わってから飲むことにする。
1月13日
車で行くのもタクシーで行くのも大変だったので、今日から自立応援団の車で病院へ行く。車椅子専用車なので移送が楽。会計を待つ間、邦子が騒ぐので帰宅。午後、邦子が昼寝している間に車で払いに行く。
1月15日(土)
邦子在宅日。一日中向かい合っているのは辛い。自ら3回トイレに行くと言う。トイレでオムツ交換していると、「本当の夫婦になったみたい」と言ってくれる。
ケアマネがデイサービスをもう一日入れたら介護保険を使い切ると教えてくれる。
1月16日(日)
俺がぐったりしていたら、娘が夕食を作ってくれる。家政婦さんを雇わないと限界だ。
娘がネットで俺の本を調べたら「大変面白い、満足だ」と言う書評があったと教えてくれる。嬉しい。
1月17日
自立の車で外来リハ。付き添う。交通費1800円。2時間の待ち時間代1200円。調布市の福祉タクシー券を使えるのでタクシーより安く済む。リハを待っている間に小説の構想を練る。集中できるのはこの時間しかないので意外と進むような気がしている。
1月18日
邦子、デイサービス。邦子の眼鏡を直しに行く。その後、ロイヤルホストで昼食、仕事。3時前に戻って、家政婦紹介所を二三当たる。
邦子がトイレを言うのはいいのだが寝ていると大変。起こして左足に装具をつけ、右には靴を履かせ、車椅子に移乗してトイレ誘導。トイレもオムツだから立たせてのオムツの取り外しは一苦労。トイレでオムツはつけられないので、ベッドに戻ってからオムツをする。
1月19日
邦子在宅。朝ヘルパーさんが来ている間は俺は寝ている。ヘルパーさんが帰る前に起き、しばらく邦子の相手をして邦子を寝せたら俺も寝る。昼食後も邦子を昼寝させ、俺も寝る。それだけ寝てやっと夕方から動く元気が出る。
娘の腰痛は整形でレントゲンで診たら、股関節が少しずれていることが原因とわかる。俺はサッカーのやり過ぎで痛めたのだろうと軽く考えていたが、どうやらそんな簡単なものではなさそうだ。その時、俺は不意に娘が2歳か3歳の頃、邦子が俺に言った言葉を思い出す。娘の股関節のレントゲンを見た日医大の優秀な医師が「大きくなったらこの子は股関節の手術をしなければならない」と言ったと言うのだ。俺は今日の今日まで完全に忘れていた。嫌な予感がして言い知れぬ不安に襲われる。
1月20日
午前中、外来リハ。付き添いだけになったので精神的に楽になる。
便秘が5日続く。浣腸をしようとしたら嫌だと言う。夕食後、トイレに行くと言う。やっとお通じがある。
1月21日
夕方デイサービスから帰って来たら、ダイニングで夕食後まで2時間一緒にいるのが辛く、総菜で済ませようと思ったが、邦子に背中を向けてひじきを煮る。鶏のモモを入れる。二人だけの夕食も辛いものがある。邦子は一人だけ夢想の世界に居る。今いるところが青森だったり、看護学校時代の友人の家だったり。一生このままなのだろうか。
1月22日(土)
今日も夕食は二人。総菜を買うも切り干し大根の味噌風味を邦子に聞きながら作る。これも治療のつもり。
1月23日(日)
邦子の妄想は何とかならないものか。夕食を食べたことを忘れ、寝せようと思ってもラーメンを作ったから食べると言い張り、怒ってぶって来る。辛い。哀れでならぬ。ストレスで甘いものを無性に食べたくなる。コーヒーを飲みながらアーモンドチョコをひと箱たべてしまう。
1月26日
友人が編集者に会ったら、編集者は果たして俺が書き続けられるかどうか危惧しているそうだ。俺の情熱次第と言ったそうだ。俺は一生邦子のオムツの世話だけで終わるつもりはない。
1月27日
今日から週2回月木に4時から6時まで家政婦に来てもらう。お婆さんで2時間近くかかって鯵の南蛮だけしか作れなかった。いまどき家政婦はおばあさんしかなり手がいないらしい。
そういえば今日は邦子が笑った。娘と三人で夕食の時、娘が兄がにわかに英語の勉強を始めた(就職後のことを考えてのことらしい)と言う。大きな声でRの発音を繰り返していると口真似したら、邦子は口を歪ませて笑う。(顔の半分は若干麻痺している)。我が家に邦子の笑い声が響き渡るのはいつ以来だろう。こんなに笑ったのは病後初めて。頼むからよくなっておくれ。
1月28日
編集者から電話。新人としては悪くなく、まだ伸びそうなので次作の打ち合わせをしましょうとのこと。だめかと思っていたので飛び上がるほど嬉しかった。
1月30日(日)
昨日今日と娘が夕食を作ってくれる。
1月31日
夕食前の6時半に痙攣を起こす。救急車を呼ぶも杏林は手術中。烏山の病院は担当者不在。世田谷池尻の自衛隊中央病院に運ばれる。邦子は高卒後、自衛隊の看護学校に入学。ここで働いていて、池尻に下宿していた俺と出会ったのだ。まさか20数年ぶりに来るとは。邦子の後輩と言う看護師が邦子を覚えていて声を掛けてくれた。痙攣予防の筋肉注射と点滴を受けてタクシーで11時に帰宅。
帰宅したら娘の部屋に人影が二つ。娘が過呼吸を起こしてしまい、不安になって友達に来てもらったそうだ。娘が痙攣を見たのは初めてだからショックを受けたのだろう。
それにしてもこの頻度で痙攣が起きるとしたら考えてしまう。小説の構想を考えなければならず、ずっとTVを見せて構想を練っていたからであろうか。邦子が可哀想でならぬ。
2月1日
昨夜の騒ぎで編集者との打ち合わせを一週間延期してもらう。2作目に入った矢先の延期。早速期待を裏切った。やっぱりこの人は駄目なのではないかと思われたに違いない。気が滅入る。
食後に一緒にTVを見ていても痙攣が起きるのではないかとはらはらする。
2月2日
邦子在宅。小説どころではない。ベッドでくしゃみをする。風邪を引かねばよいが。
2月3日
外来リハの後、診察。帰宅遅くなる。そこへ調布の通所施設からデイサービスの聞き取り調査が来る。家政婦を頼んでおいてよかった。
寝ないとぐずる邦子をなんとか寝かせつけたと思ったら、トイレに行きたいと言う。起こしてトイレ誘導。やっと寝かせてから小説の構想をまとめる。夜中の0時半までかかる。
2月6日(日)
邦子、夕方熱っぽいので測ったら36.9℃。すぐおかゆを作る。風邪薬を飲ませる。11時、オムツ交換の時測ったら37.1℃。月曜に痙攣騒ぎがあって日曜には風邪騒ぎ。心も体も休まる暇がない。やめようと思うもアーモンドチョコをひと箱食い、ビールとサンドイッチを買って来て流し込む。
2月7日
朝、平熱に戻り、夕食後37℃。夜11時、36.5℃。明日、デイサービスに行ってくれないと俺は編集者に会うことが出来ない。
2月8日
何とかデイサービスに出す。用心のために入浴は中止したが、本人は入りたいと言ったそうだ。可哀想だが仕方ない。1時新宿で編集者に会い、ストーリーの線(シリーズ2作目)で行こうと決まる。
2月10日
邦子、TVのリモコンを耳に当てている。タクシー会社に電話していると言う。
TVで脳卒中の話をしていたら、「私も脳卒中になるかしら」と言う。
2月12日(土)
今日からデイサービスは調布。遠いので心配だったから帰宅してから一時間寝かせる。何とか大丈夫そう。これでデイサービスは週三回になった。介護保険使い切る。
2月13日(日)
日曜と水曜は小説のことは考えず、介護に徹すると決める。
ところが邦子は俺が「つきまとうのはうっとおしい」と言う。
今日は娘に化粧をせがんでいた。こんなところに娘の力が必要になることを実感するが、いつまでも家に居る訳ではない。
2月16日
介護に徹する日と決めていても、邦子が午前2時間、午後2時間、寝ている間は小説をやらなければと思ってしまう。だが俺も横になったまま起き上がることが出来ず。午後は邦子が寝ている間に買い出し。夜は8時に寝せたら11時のオムツ交換まで時間があるのだが、明日の家政婦さんのメニューを考える。年寄りなのでハイカラなものは作れないから、これが結構大変。
2月18日
11時の最後のオムツ交換。シーツまで濡れていると、一旦邦子を車椅子に移乗させてシーツ交換をするので手間がかかる。邦子に「左足が痛いのに」と頬をぶたれる。思わずかっとなるもぐっとこらえる。左足が慢性的に痛いことは分かっていること。悪いのは手早くやろうとした俺の方だ。
2月19日
調布のデイサービスでは習字をしている。邦子は書道が好きで何年も通っていたのでやらせて欲しいと頼んだ。習字は本格的なもので、俺も意味が分からないような難しい漢文を書いている。恐らく意味も分からず手本を見て書いているのだろう。その名前に「曽田芳千」と書いている。これは俺の母が木目込み人形の師範として使う名前である。自分は倒れる前は「曽田清華」と言う名前を持っていたのに忘れている。
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左)世禄多富
曽田芳千と書いたつもり。芳千がヘンな字になっている。
右)紫花陽春
曽静香と書いている。田が抜けている。清華を思い出せなかったのだろう。しばらくはこの静香をよく書いていた。

習字の出来るデイサービスに行けて本当に良かったと思う。ミミズがもつれたような字しか書けなかったのに、こんな字が書けるようになったとは夢のようだ。
2月20日
介護に徹する日に決めたので、邦子と話しながら料理を作る。こういう会話が大切だと思う。
娘はNGOで知り合ったケニア人に誘われてケニア大使館主催のノーベル賞平和賞を受賞したマータイさんのパーティへ行った。最後にマータイさんと握手して、3月にケニアのワークキャンプに行くと挨拶したよし。色々な国の人と知り合いになったと大喜び。明日、こんな話を邦子にしてやったら喜ぶだろう。
2月21日
外来リハがあったが、家政婦さんが来てくれたので今日は楽だろうと思っていたら、昼夜2回便失禁する。便失禁の処理は手間取るので邦子が文句を言う(罵詈雑言に近い悪口=実にひどい聞くにたえない言葉を使う)ので、おもわず俺も声を荒げてしまい反省する。自分が哀しくなる。すまないと心の中で謝る。
2月22日
デイサービスの日。今日こそ楽できるかと思ったら、夕食後と11時前に2回便の始末。11時前にはシーツ交換も。防水シーツは明朝までには乾くまい。便を柔らかくする薬が効き過ぎている。ズボンやタオルに付いた便は洗い流してからでないと洗濯機に放り込めない。参った。
2月23日
今日は酸化マグネシウムは三食抜くがそれでも軟便を漏らす。明日からは昔の酸化マグネシウムに戻す。
2月27日(日)
一年が経つのが早い。思い出すのも辛い。数日前からこの日をどんな思いで迎えるのだろうと思っていたが、目先のこと、歯磨きのこと、うまく寝せることなどをこなすので精一杯。一年前を振り返る暇もなかった。
3月1日
杉村升の告別式。急死だった。齢も同じライター仲間。彼に誘われてゲーム制作に関わり、面白い経験をさせてもらった。優秀な破天荒な脚本家だった。邦子がデイサービスから戻って来るので久しぶりに会ったライター仲間たちと話をすることもなく慌ただしく帰る。
娘のフィリッピン大学留学が決まる。11月頃出発。それまでに邦子との二人の生活に慣れないと。まずはケニア行きで一ヶ月留守。

12月9日【退院が迫る】
調布警察署へ行き、車椅子ステッカーを申請する。邦子用のTVを買う。まだ布団に敷く防水シーツや布団カバーも揃えないといけない。
12月10日
病院へ行く。オムツのこと、取り換え頻度、付け方など取材。朝のパン食のことも聞く。自分でバターを塗っている。
邦子がドキッとすることを言う。
「自殺する夢を見たの。これでこんな苦しみから解放されると思うと、すうっと気持ちがよかった」
12月12日(日)
義母から電話。「やってゆけますか」と問われるが、心配かけるので大変ですと答えるわけには行かない。「自分も死にたい」と言うので、逆に慰める。
12月14日
デイサービスに通う狛江の介護施設を見に行く。外見が倉庫みたいでがっかりしたが中は広かった。来週火曜から週一で通い、枠が空いたら週二にしてもらう。帰り際通所者がぷかぷかタバコをすっているのを見て愕然とする。こんな光景を見たら邦子が煙草を吸いたいと騒ぐに決まっている。途端にここがいやになったが、機械浴やリフト浴が出来るのはここしかない。
12月15日
先生に書いてもらうものがあるので今日も病院へ。
邦子を見ているとこれは大変だぞと不安が身に迫って来る。また日付が分らなくなっている。でも退院する日や曜日は分かっている。退院が待ち遠しいのだろうか。
12月16日
午前中、フランスベッド(介護用)が入る。
午後は通所施設の所長が来て面談。リハビリはないことがわかり愕然。デイサービスでやってくれると思っていたのでショックは大きい。勉強不足。甘かった。まだ足りない毛布カバー、バケツ、ビニール袋、手袋、消臭剤、使用済みオムツを入れておく容器などを買いに行く。
12月17日
退院前日、病院でOT、PT、STから申し送り。
今日は2回トイレ誘導し、おしっこをさせる。いつもこうならいいが。でも邦子もよくなった。高校時代の友達の手紙を読むようになった。STの検査ではGNPの質問に「国民総生産」と答えていた。
帰宅したらすぐにカレーを作る。邦子が帰った日は好物のカレーと決めていた。
12月18日(土)【296日ぶりの帰還】
邦子は車の助手席に座らせ、車椅子は後部のトランクに入れる。主治医と三人の療法士、看護師たちが見送ってくれる。ずっと入っていたいくらいいい病院だったので去るのが悲しかった。
カレーは作ってあったが、サラダを作ったり、トイレに連れて行ったり、オムツを換えたり、一体これからどうなるのかと茫然とする。甘いものを食べたいと言い募る。対応するだけで疲れる。夜は10時半を過ぎてもまだTVを見ている。明日は起きたらオムツ交換、食事の世話、歯磨き三度、食後の薬、etc、着替えもある。本当にどうなることやら。でも、思い出そう。一番辛いのは邦子なのだから。
モモが邦子を忘れていたのには驚く。喜ぶと思ったのに吠えまくっていた。
サラダを作るのをダイニングに座ってみていて、
「レタスやキャベツを水に放て」と言う。
12月19日(日)
邦子が昼寝している時間だけが自由時間。ぶっ倒れて何もする気が起きない。朝食後しばらくして寝かせても、「起こせ起こせ」と騒ぐ。病院のようにリハビリが無いので仕方ないのかもしれない。
オムツを換えている途中で脱糞する。泣きたくなる。二日目にしてシーツ交換して洗う羽目になる。
訪問看護指示書を見たら、邦子の痴呆の症状は(正常、Ⅰ、Ⅱa、Ⅱb、Ⅲa、Ⅲb、Ⅳ、Ⅴ)のⅣとある。下から2番目。そんなに低いのかとショックを受ける。
12月20日
烏山の病院診察。これからはここでリハビリを受ける。車で行くのはしんどいのでタクシーを呼ぶ。
診察の後リハビリ。PT、OT、STを受けて行けと言われるが、11時なのでPTとOTを受ける。これからは週2回受けるが、PT+OT、PT+STの組み合わせで受けることを決める。療法士たちは顔見知りなので良かった。皆、喜んで迎えてくれた。診察待ちや会計待ちの間、困らせることばかり言い、好奇の目を集める。(ああ、やっぱり痴呆症なのだ)と暗い気持ちになる。
タクシーで通うのも一苦労だった。左半身が麻痺している邦子を車椅子から下ろしてタクシーの後部座席に座らせるのは(その逆も)小柄な女とはいえ、とてつもない労力を要する。タクシーの運転手に「大変ですねえ」と同情される。
昨日、今日と二日続けてシーツを換えなければならないのにも参った。今朝はオムツを外していた。誰か夕食を作ってくれる人がいるだけでもどれだけ助かるか。三日目にして夕食作りの自信を失う。あんなに腕を磨いていたのに。甘かった。
12月21日
デイサービ1日目。9時40分に送迎車が来て5時前に戻って来る。ほっと一息。
思い余って熊本の邦子のおばさん(母の妹)にSOS。独身で動けそうな人はこの人しかいないのだ。邦子が幼い時から同居して、働く母親代わりに育て、教育もしてくれた人。邦子も母親以上に慕っていた。子供達も慕っている。だがおばさんも66歳。年末年始を助けてもらったら、来年からは夕食だけを作ってくれる人を雇うと窮状を訴える。
12月22日
起き抜けから便の始末。すぐに朝食。ぐずぐずしているとすぐに怒る。疲労困憊。
ケアマネに連絡。介護タクシーと昼食配達、ヘルパーの派遣を急がせる。朝食夕食が大変なのに、昼食まで作っていられないので市の福祉公社からの配達を頼む。
なぜすぐにヘルパーが入らないのかと言うと、ケアマネが実際に自分でやってみてどんな援助が必要かわかってから頼んでくれと言ったからであるが、要介護5で身障1級ならどんな事が必要かわかるだろうと腹が立った。
12月23日
おばさんは27日に来てくれる。夕食は手抜きでチゲ鍋ですます。邦子は煮えてないのに取ろうとするのでかえって大変。
12月24日
病院の日。今日はPTとST。そんな日に2時、7時半と便失禁。漏らしていると知らずにトイレに行ってトイレを汚してしまう。ベッドに戻して始末してから消臭剤を使って掃除。大量のタオルやバスタオル、汚れた上着、ズボンの洗濯。
夕食は二人なので手抜きすればいいのだが、今夜はイブ。鶏のローストやショートケーキを買って来て
イブらしいことをする。背中に鉄板が張り付いたようだ。
12月25日(土)
10時頃と1時頃排便がありオムツ交換。二度目は交換中にも排便あり。トイレ掃除に洗濯が加わるのでとても疲れる。だが、世話をしている最中に、
「お父さんに世話なんかさせて」と言う。
夜、モモを連れて散歩に行くぞと声をかけると、
「暮れのこんな時間にご苦労さん」と言ってくれる。
暮れと言うことも分かっている。家庭に戻るとはこういうことかと思う。
娘が今日レポートの優秀者三人の名が呼ばれ、その中に入っていたと言う。嬉しい。疲れが吹っ飛ぶ。
12月26日(日)
3時頃、有馬記念でも見ようかなと思ったら、邦子が突然痙攣を起こしたように激しく右手を震わせる。喉に痰でも詰まったような声をあげ、全身を震わせる。このまま死ぬのではないかと動顛し、救急車を呼んで杏林へ。
痙攣と判明。脳疾患を患った患者は必ず起こすもので、これまで起きなかったのが珍しいぐらいだと言われる。予防薬で防げるらしい。ストレスやTVの光でもなると言う。いちいち思い当たる。邦子にTVを見せて、俺は2階で寝ていた。申し訳なくて胸が痛む。この上まだ苦しまなければならないなんて。
6時に烏山の病院に移送。7時前、また痙攣を起こす。3、4日で退院できると言われる。
12月27日
娘と入院支度を持って病院へ。18日に退院して8日でまた入院とは。おばさん、4時に到着。ケアマネに電話して、デイサービスをもう一日増やしてほしい。できるだけ早くとせっつく。
12月28日
娘と二人で見舞い。邦子はやっと風呂に入れた。本人は風呂で倒れたと思っている。
小説の著者贈呈分が10冊届く。邦子に読んで欲しくて必死に書いたのに読むことが出来ない。将来的にも読めるようになるとも思えず。本人不在のベッドの前で声をあげて泣く。
12月29日
初雪。うっすら雪景色も夕方には消える。
1時に病院。よく寝ていて3時半になっても起きないので会計をすませて帰る。金曜日のデイサービスを受けられるようになる。ヘルパーは4日から。昼食の配達サービスは11日からと決まる。
12月30日
邦子戻る。腰が痛いと訴える。起き上がりもできない。ずっと寝ていたからか。左足の装具への
密着具合が悪くなっている。夜、永世病院で習った博久リハビリをする。
俺の小説を見せる。俺の喜び具合がわかったのか邦子も涙ぐんだように見えた。読めないのに、二、三頁めくってじっと見ていた。
12月31日
起きたら早速便の始末。だがおばさんが食事の世話してくれるので助かる。
午後から雪。二、三㎝積もる。自称おかしなおばさんのおかげで暗くない正月を迎えられる。おばさんは俺のいないところで子供たちに何やかにやと話しかけている。息子が妹がお嫁に行く前に母が倒れたことを残念がっていたとおばさんから教えられる。
邦子、腰が痛いと言い続ける。おばさんが話しかけると昔を思い出すのか話が弾む気配がある。
2005年1月1日【新年】
おばさんのお陰で何とか正月を迎えることが出来た。今年は一枚も年賀状を出していない。邦子が倒れたことを知らない人から賀状が来る。数枚、返事を書いただけ。午後から府中のおじさん夫婦がおせちを持ってお見舞い。邦子の「食べたい」は年を越しても続く。
1月2日
四六時中「食べる」と言い続ける。一生これに付き合うのかと思うと辛い。言うことをきかないとぶつようになった。オムツを換えたりしたときは感謝の言葉を言ってくれるのに。
1月3日
邦子宛の賀状の返事が辛い。とうとう装具に足がぴたりと入らなくなってしまう。永世病院のリハビリがなくなったらあっという間に後退した。
1月4日
今日からやっと朝のヘルパーが入る。1時間半。その後、デイサービスに行ったので4時半に帰宅するまで邦子から解放されるも銀行へ行ったり、邦子の電気毛布を買いに行ったり。午後からはゆうあい福祉公社が来て配食サービスの説明。
1月5日
急遽訪問リハビリが入る。これで病院で週2回。訪問で1回。計3回受けられる。永世病院のリハビリとは質量ともに比べようがないが少しでも受けた方がいいに決まっている。腰痛を相談したらコルセットを着けてくれる。
相変わらずオムツ交換のタイミングが悪くて、トイレ掃除したり、オムツの無駄遣いしたり、労力と時間の無駄遣いをしている。起きている間中食べさせろとしか言わない。最後には新聞でテーブルを叩いたり、怒鳴ったりするのには本当に参ってしまう。
1月6日
烏山の病院のリハ。朝の1時間半の世話がなくなったので楽になる。待っている間に二冊目の小説の構想を練る。二冊目の注文があるかどうかわからないが。心配した腰痛は痙攣で筋肉がかたくなったせいらしい。体重をかけると左足もぴたりと装具にはまる。土日の朝のヘルパー派遣ともう一日のデイサービスの追加はどうしても必要とケアマネの尻を叩く。
1月7日
今年2回目のデイサービス。つつじが丘駅前の2階のコーヒーショップでモーニングを食べる。俺にとっては夢のような朝。
府中のおばさんが毎週のようにおかずを届けてくれていたのは、熊本のおばさんが頼んでいていたからとわかる。二人にはこれ以上甘えるわけには行かない。
1月8日(土)
朝、ヘルパーがないのはやはり辛い。来週の土日から入る。もう少し頑張ろう。
府中のおばさんは邦子からノロマだのなんのと罵られ、邦子さんは本当は私をそんな風に思っていたのねと真に受けたらしい。辛い。ため息が出る。熊本のおばさんも娘が私を嫌っていると言う。おばさんははっきりものを言う人なので、娘が気分を害したことがあったようだ。皆、疲れて苛立っているのでちょっとしたことで波風が立つ。さすがに限界と思う。
1月9日(日)
おばさん、明日帰熊。おばさんさえも邦子の言動に閉口している。おばさんが「邦子も長くないから」と言ったのは俺を慰めるつもりだったと思うのだがさすがにむっとした。だがおばさんが夕食を作ってくれたから、その間俺は邦子のマッサージをしてやれた。おばさんがいなくなればマッサージをする時間などできなくなるだろう。
1月10日
おばさん、逃げるように出て行った。駅まで送りお礼の手紙と謝礼を渡す。お年玉は正月に渡した。
他人と同居するのは難しい。おばさんは邦子がダイニングにいるのに換気扇の下ですぱすぱ煙草を吸う。邦子が吸いたがるので目の前では吸わないで欲しいと頼んでいたのに。自称女無法松のおばさんだったが、見送った時はいよいよもうこれでお別れと思うと心細くて心細くて、これから一人でやってゆけるのだろうかと不安の底なし沼に沈んでゆく。

10月21日
子供達、夕食不要。外食(秋刀魚定食)ですますも、きんぴらを作っておく。
OTから電話。11月1日に家屋調査の予定だったが、床暖房の工事を先にしてくれていいとのこと。急遽エネスタ狛江に電話する。一階の和室を邦子の居室にし、ベッドを入れるため床張りをするのに合わせて床暖房にする。明日、見積もり。忙しくなる。
10月22日
京王デパートで邦子の誕生祝いにブラウスを買う。今夜も子供たちは夕食不要。水煮の豆と人参を加えたひじき煮を作る。帰宅した娘がぱくぱく食べてくれる。
10月23日(土)
57歳の誕生日。娘がプレゼントをくれたが、25日(邦子の誕生日)に一緒に開けてくれと言うのでそれまでは内容不明。邦子からもお祝いのメッセージがある。娘が助けて作成したものだと言う。こういうことをしてくれるのが我が娘である。
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誕生日の誕の字が書けていない。文面は『博久様へ 今年は子供たちが喜ぶような有名人を目指しましょう 邦子より』とある。邦子らしい言葉に思わずにやりと笑う。
10月24日(日)
娘が久しぶりにお母さんに会いたいと見舞いに行ったので小説の直しを進める。
菊花賞デルタブルースの単勝、馬連万馬券が的中。5000円が110,520円になる。たまにはこんなことがあっても。
10月25日
娘に託された二人一緒のプレゼントは夫婦茶碗と箸二膳。『家に戻ったらこの夫婦茶碗で仲良く御飯を食べてね』のメッセージ。泣けて、泣けて。邦子に「どうして泣くの」と言われて、また涙が溢れる。
嬉しいことがもう一つ。左足の振り出しが出来るようになった。三回に二回はわずかながらも自分で左足を動かす。まさか左足が動くなんて。夢を見ているようだ。今日もOT、PTからリハビリを少し習う。
10月26日
Tが某大手ゲーム会社に出す見積書に俺のハンコも欲しいと言うので新宿へ出る。有限会社を作ったらやって行けそうな感じになって来た。すべてTの力。
10月28日
連日食費が凄い。三人なのに六人前は作っていて、それがきれいになくなる。
10月30日(土)
小説直し終わる。一人は寂しい。外食しても何か一品だけは作る。ひじきの五目煮を作り、栗をゆでる。遅く帰った娘が栗をぱくぱく食べる。
10月31日(日)
見舞い。久我山の病院の時から比べたら楽になった。ただ尿意を訴えてくれないのは困る。俺にも言いにくいのだろうか。そんなはずはないと思うが。尿意を訴えることがわからないのかとも思う。
11月1日
Tが頑張って何とか会社を作ってやって行けそう。ゲーム会社だから俺のやることはシナリオ関係だけ。シナリオが必要になった時だけ、若い作家が書いたものを監修する役。これなら小説と並行して出来そう。
11月2日
今日も一人飯。コロッケ買って来て冷蔵庫の干物を焼いてすます。食後、高野豆腐と椎茸、人参を煮る。薩摩芋の辛し和えなるものもレシピを見ながら作るも、娘は辛子がだめ。ああ。
11月3日
見舞い。今日は尿意を訴えてくれた。疲れたのかずっと寝ていて、マッサージをしてやった。近くの公園を車椅子散歩する。帰宅後、けんちん汁を作るも外食。
11月5日
今日STを習うために病院へ行くつもりだったが、予定が来るって行けず。明日、行くことにする。明日のために料理を作る。ごぼうのささがきを作っていたら妹から電話がある。ささがきは冷凍の袋を売っていると笑われる。
11月6日(土)
このところ休日と祭日のみ見舞いに行っていたので、今日はOTとSTに立ち会いたかったが、STに立ち会う。また色々と教えてもらう。固い筋肉がずいぶん柔らかくなったので、それに従って足も動くようになったのであろうととのこと。トイレでのつかまり立ちも長く立てるようになった。
11月7日(日)
リフォームの再見積もり。廊下の段差解消を入れたりしたら170万になる。高くなり過ぎたので業者が材質を見直して149万に抑えてくれる。それでも高いことに変わりはない。見舞いに行った娘から電話。邦子が出雲に電話すると言って、自分でプッシュホンを押したそうだ。0853-28-〇〇〇〇。
俺にも電話が来た。へんなことを言っていたが、自分で電話できるようになったのは大変な進歩だと思う。出雲の電話番号も憶えていたのだから。
11月8日
今日は先を考えて料理の練習日。鯖の味噌煮、人参の胡麻和え、豚肉とひじきの煮物。娘はすっかり食べる人になって、帰宅してぺろりと平らげると、二階へあがって仏検の勉強。夏前まで家事負担をかけていたからこれでいいのさ。
11月9日
病院。OT、PTはノートに図解でメモを取る。在宅になってからのリハビリのため。STから邦子は自分の記憶の不確かさに不安を口にしたと教えてくれる。そこまで認識できるようになったのは驚きで進歩だと思うが、反面可哀想に思う。おそらく取り戻せない記憶だと思うのだ。
朝はパンを食べていることを知る。ずっとおかゆを食べていると思っていたのでほっとする。朝がパンなら楽でいいと思う俺。
11月11日
昼食後、どうにも身体が動かぬほどくたびれベッドに鉛の塊となって埋まっていた。こういう時は頑張ってはいけないと割り切って休む。一時間ほどうつらうつらしていたら回復する。
娘、帰宅一声。ニンニクとオイスターの匂いに「いい匂い、なに?」仏検が迫っているので5時半には食べさせてやる。ししゃもとブロッコリーと卵のオイスター炒め。ぺろりと食べて二階へ。
11月14日(日)
母、上京。荷物が重いと言うので東京駅に迎えに行く。喜寿の祝いをする。
11月15日
リフォームが始まる。邦子の居室となる茶の間が6㎝傾いていることがわかるが直すとなると大工事になるのでそのまま進める。
午後から母を連れて見舞いに行く。予想したほどの反応はなし。実母なら違うだろうが、実母は会いたくても体力的に自信がなくて上京はあきらめている。
小説の出版は1月に決まる。一人になると込み上げて来るものがあり泣きそうになる。
11月16日
熊本の義母から電話。退院して26日に戻る連絡。入院していたことを初めて知る。年金ではケアハウス住まいは無理だが、糖尿食を宅配してもらえれば暮らせるとの連絡。今は何とかしてもらうしかない。
11月17日
母と見舞い。小説発売を伝える。邦子、心底喜んでくれる。リハビリの療法士にも俺の本が出ると報告する。俺を困った人だと言わんばかりに三文文士とからかっていた妻が本当に嬉しそうな顔をしていた。よくしゃべるようになった。怒ったり、感情を爆発させるようにもなった。わがままも出たり、わからんことも言い募るが、感情の発現の仕方がより人間らしく感じられるようになって来た。
PTでも今日は両足素足で歩行訓練できるようになった。もちろんPTの介助つきだが、麻痺して拘縮して不自然に歪んでいた左足がぴたりと床に着くようになる。
11月19日
母と見舞いに行く。主治医と面談。話はだいぶ通じるようになったが、関節は固くなり始めたという。STは筋肉は柔らかくなったと言っていたがどう判断すればいいのか?
STでは今日は11月19日と答えたのには驚く。つい二週間前まではでたらめだったのに。
17日はトイレを3回訴えたが、今日は1回だけ。
11月20日(土)
母は藤沢の妹のところへ行く。妹が成城学園まで迎えに来て、おかずをくれる。母が料理してくれたので一週間助かった。今日は台所の工事終了。月曜には終わりそう。
11月21日(日)
母の一週間の滞在でくたびれ、今日の見舞いは1:00~3:30。邦子が看護師の名前を言っていることに気づく。人の名前も覚えることが出来るようになったようだ。と言っても相変わらず変なことは言い続けている。
11月22日
リフォーム終了。床暖は暖かい。これで邦子も快適に過ごせるし、介護する方も楽。
娘が午前中見舞いに行ってから大学へ。タバコは持っていないと言ったら、「高幡不動に誓ってないと言うか」と邦子に言われたよし。退院して「たばこ」「酒」とせがまれるのが今から頭痛の種である。リハビリ科の家屋調査が29日に決まる。
11月23日(勤労感謝の日)
見舞い。1:00~3:00過ぎまで。以前は一人にしておくのが哀れで長くいるようにしたが、さすがに見舞い疲れする。もうすぐ退院だし、しっかりして来たので2時間ぐらいで帰ることにしている。帰り際振り返ると、一人でTVのチャンネルを変えて見ていた。
11月24日
娘と話していて思い出したことがある。邦子が「冬のソナタの映画を見ていない」と俺に言ったことを話したら、娘は邦子が「大統領選挙はゲー(ケリー候補のこと。勝ったのはブッシュ)が勝ったのか」と娘に聞いたことがあると教えてくれた。
冬ソナが流行った時も観るような主婦ではなかったが、話題になっていたことは覚えていたのか。大統領選挙はTVを見ていてインプットされたのかもしれない。希望の持てる話だ。
11月26日
「お母さんの味大百科」を見て、豚肉とニンニクの炒め物と無国籍スープ(ツナ、トマト、豆腐)を作る。酸っぱいスープは疲れた時に美味かったと好評。
11月28日(日)
子供たちは夕食不要なので、久しぶりに邦子の所に4:30分までいる。タバコを吸いたいと言われるのには参る。帰って来てからが思いやられる。トイレには二度行くが一度は手間取っているうちに漏らしてしまう。
看護学校の同期生からの寄せ書きを見せる。「これは誰ちゃん」と言い、「励ましてくれるのは嬉しいね」と言うが、自分の病気をどう認識しているのだろうか。
11月29日
家屋調査。病院からPTとOTが来て、ケアマネージャーとフランスベッドが来る。トイレの手すり取り付けと12月16日ベッドの運びこみ、12月17日退院と決まる。いよいよ介護の生活が始まる。まだ実感が湧かない。どうなるのか不安の方が大きい。
11月30日
9:50のOTに間に合うように病院へ行く。12月17日だと、子供たちが学校で迎えることが出来ないので、退院を18日(土)に変更する。
OTが左手が動く可能性について言及すると、邦子は「こんなこともできるのかと思うと希望が湧く」と言う。(結局、動くことはなかった)
昨日、俺が作った豚汁が一夜でなくなったと言うと、「食べてくれると嬉しいものだ」と言い、保険のことも口にする。邦子に支払われた高度障害の保険金はきちんと管理していると教える。妄想的な話をするが、こんな会話が増えて来ると希望が湧いて来る。
12月1日
小説ゲラを貰う。初版は1万2千部。新人で文庫の初版はこんなものらしい。
12月2日
受け入れ準備。台所用品を買ったり動き回る。疲れて夜は手抜き。あじ塩焼きと筑前煮と味噌汁。これで邦子が帰って来たらどうなるのかと暗澹とする。遅く帰って来た息子があじ塩焼きを「まじ美味かった」と言う。焼き魚なんか好きではないと思っていたので驚く。邦子がよく言っていた台詞を思い出す。「美味しいと言って」その言葉の重みがずしりと伝わる。
夜、ゲラに手を入れる。
12月3日
ゲラ校正、一気に終える。
子供達夕食不要もひじき入りのおからを作っておく。遅く帰宅した娘が「何かある」と聞くのでおからを出すと、うまいと食べてくれる。これだから夕食不要でも何か作っておいてやりたいのだ。
12月4日(土)
パイプ棚を買って来て台所に組み立てる。邦子の居間になる8畳間の家具の配置を変える。化粧道具はまとめて押入れに片付ける。もう使うことはないのだろうなと思うとしんみりする。後は邦子が見るTVを買ってくれば迎え入れの準備はすべて終わる。
12月5日(日)
娘が見舞いに行く。「行くたびに良くなっている」と聞くと嬉しくなる。今日は小説に載せる俺の写真を持って行き、どれを載せたらいいか二人で検討した。
娘がまたボランティアでケニアに行きたいと言ったら、「自分も若い時、外国へ行くと言って皆を心配させた。生水は飲まない。一人では行動しない。約束できるならいい」と、言うようなことを言ったらしい。顔つきが変わって来たと娘は言う。
息子と二人で茶の間の箪笥を移動する。その他こまごましたものを押入れにしまう。後はベッドを入れるだけ。
12月6日
編集者にゲラの校正と写真を渡す。題名は新三郎武狂帖・千両帯にする。帰りに小田急の地下で総菜を見る。あまりにも美味そうなので今夜は手抜き。買って帰る。
12月7日
見舞いに行く。9時半~4時半。PTが4時からだったので帰宅が遅くなる。娘がよくなったと言ったが相変わらずのところも多い。期待し過ぎてはいけないと自戒して行くのだが、どうしても期待して落胆も大きくなる。疲れた。一方的なもの言いや、理解しようとしてくれないところは相変わらず。昼御飯も食べたことも忘れている。
便失禁があり看護師に始末の仕方を習う。在宅になったら全部俺の仕事だ。身体に付いた便を洗い流すためのマジックリンのような空き容器やポリバケツを用意するように言われる。

9月1日
今日の昼食は鶏肉と玉ねぎの卵とじ、ほうれん草の煮たものなど。平気で食べている。味噌汁もお茶も飲む。御飯はまだ全粥。
9月2日
朝から新宿京王デパート。介護用品売り場で妻の服を2着買い、スポーツ用品売り場でトレーナーを買う。昨日手抜きしたので今日は肉じゃが。息子にじゃが芋の皮むきを手伝わせる。
夜の10時に今後の仕事について明日元親会社のえらいさんと会議をするので打ち合わせをしたいと呼び出される。Tは最後まで頑張ってくれたのでもう俺はやらないと断るのも申し訳なくて出て行く。
9月3日
元親会社との話し合いは不調。疲れた。家へ戻り、9月1日からの身障者受給票を持って病院へ。邦子は先生からインタビューを受けていたが、支離滅裂なことを言っている。自宅へ戻れば必ずよくなると信じて希望は絶対に捨てない。ヘロヘロになって帰宅。
(入院して三ヶ月のリハビリを受けたら、転院して三ヶ月の回復期リハビリを受け、それが終わったら自宅に戻る。回復期リハビリが終わったらもう次のリハビリは受けられないことに決まっている。だがごく少数だが特例を設けてそういう患者を受け入れてくれている病院がある。それが八王子永世病院だった。私は妻はまだ若い、絶対によくなると必死に頼み込んだ。転院が決まった時、烏山の病院はこれまでうちの病院で八王子永世病院へ転院した人はいない。初めてのことだと驚いた。それくらいこの店員は奇跡ともいえる転院だったのである)
9月4日(土)【転院】
9時半烏山の病院を出発。中央高速を通って10時半八王子永世病院到着。出発するとき、涙が出るかと思ったが、前回とは病状も状況も違う。在宅になったらまた診察やリハビリを受けに戻って来るし、看護婦さんたちも明るく送ってくれたので泣かずにすんだ。
早速リハビリを受けるが、PTもSTもOTもひとつひとつが丁寧。すべてが在宅準備に向けられていることを感じる。帰宅したら家の見取り図を描き、写真を撮って提出しなければならない。
一体いつになったら小説の直しができるのやら。
9月5日
娘は発熱。俺一人で車で八王子へ。高速を飛ばして50分かかる。府中のおじさん夫婦や隣のYさん夫婦も見舞いに来てくれる。
昼食終了後に到着。邦子はまだ何か食べたいと言う。入院診療計画書を見ると、病名は右脳出血、左辺麻痺、失語症、嚥下障害、高血圧症とあり、病状としては左辺麻痺と失語症とある。治療計画は継続リハビリテーションと在宅準備。推定される入院期間は1ヶ月半とあった。3ヶ月を期待していたので短くて驚く。せめて2ヶ月は預かって欲しいのだが。失語症にもショックを受ける。邦子のような状態が失語症の範疇に入るとは知らなかった。果たして治るものだろうか。
9月6日
9時前に市役所へ行き介護更新の申請。夕方、新宿へ出てTがとって来た仕事を曽田事務所で受ける話し合い。Tは自分の会社を持っていないので俺の会社で受ける形を取らないといけないのだ。
9月7日
10時半前には病院へ着く。午前のOT、昼食、ST、PTと全部付き合う。昼食は鯖の西京焼き。骨は指で出して食べる。レタスは細かく切ったのをそのまま食べている。OTは着替えの練習。PTでは左足に装具をつけたら足裏がぴたりと床につくので、介助されながら手すりにつかまり数メートル歩く。これは歩く練習ではなく、将来的に車椅子の乗り移りが楽になるための練習。STとの応答は哀しいものだった。食べたいが始まってからは意識がすべてそっちに行ってしまう。
8月27日以来、初めて小説の直しにかかる。水、木、金と見舞いを休んで小説に専念しないと。
9月8日
午前中、家屋調査票完成。写真も撮る。午後から小説直し。その後、写真館に娘の振袖の写真を取りに行く。「お母さんに似て来たかな」と娘。息子も母親に似て来たと言われたそうだ。こういう話になると邦子には早く戻って来てほしい。
9月12日(日)
覚悟していたが日曜は混む。調布インターに入るのに1時間以上かかる。行き2時間弱、帰り1時間強。何と看護学校時代の友人4人が見舞いに来てくれていた。邦子は全員が分る。4人だと普通に会話が成り立つ。
左手が不自由なこと。皆に迷惑をかけているようなことを言う。皆に励まされ、これからは何でも旦那にしてもらえばいいと言われ、納得した様子。邦子は島根松江出身の友達が忘れていたドジョウすくいの話をする。
この一週間、装具をつけて歩く練習をしたせいか、なんとなく体がしゃきっとし、心なし表情が出て来たような気がする。相変わらず「食べる」ばかり言うが。
9月13日
息子に15日に見舞いに行ってもらおうと思ったら、ゼミの勉強を口実に渋っている。頭に来て不機嫌な顔をしたらもごもご言い訳をする。要は見舞いに行っても「食べたい」ばかりで、あげく「帰れ」といわれたりするのが苦痛なのだと言う。気持ちはわかるが、妹も同じ目に遭っていると言ったら行くと言う。そっとため息をつく。子供達も可哀想だが邦子も可哀想。俺なら一番可哀想なのは邦子と思うが、これからは無理強いしてまでも見舞いに行かせるのはやめようと思う。
9月14日
10時半に着き4時半までいる。OTで車椅子の乗り移りの正しい方法やこつを学び実際にやってみる。午後、PTでは足の装具作りに立ち会う。STでは月日を問われて「3月」と答える。二人きりになると「食べたい」が始まり辛い。
八王子の介護認定員が介護の見直しに来る。要介護4になるかもしれない。ぎりぎりのところと言う。こんなに大変なのだから要介護5にしてほしいと切実に思う。
9月15日
一日家に居ると小説の直しが出来る。妹が藤沢から車でおかずを届けてくれ、電車で見舞いに行ってくれる。助かった。味噌汁を作るだけでよかったが30分もかかる。
9月16日
今日も小説の直し。夕食は鶏のミートボールと小玉ねぎと隠元の煮物を作る。邦子が戻って来た時のためにレパートリーを増やさなければならない。
9月17日
Tに付き合って仕事の打ち合わせに出る。その後、九段の法務局へ行き、後見の登記事項証明を取る。
帰宅したらTBSのブロードキャスターから電話。明日の夜、戦隊シリーズの特集の取材をしたいと言う。上原さんに断られ、俺に取材しろと言われたのだそうだ。俺だって嫌だ。上原さんを恨む。明日は病院へ行くので無理だと言ったら、赤坂まで来れないかと言う。断ったら夜の10時に来て30分取材撮影して帰る。
娘の見舞い報告。先生たちが邦子の歩行訓練の進歩に感心していたそうだ。明日の主治医との面会が楽しみ。娘は邦子と英会話をしているそうだ。いい手だと思うが俺は英会話はできない。顔つきが変わって来たと娘は言う。
9月18日(土)【リハビリ延長決定】
病院10時半から5時までいる。4時~5時は嚥下の講習会。
先生との面談。リハビリの具合がいい。特に歩行訓練がいいので、もっと入院期間を延ばすことになる。飛び上がるぐらい嬉しい。だがリハビリ計画書を見ると、糖尿病に高血圧と診断され、理解力が低い、すぐに忘れる、見当識、記憶に著しい混乱が見られる。自覚がほとんどないと記されていた。
9月19日(日)
9月のこの時期に31℃。暑い。リハビリはないのでずっと付き添い。それでも写経を40分やり、間を持たす。くたびれて夜は仕事にならず。
9月20日
娘は日本に戻って来た王さんと見舞い。病院は敬老の日フェスティバル。邦子といっしょにプリクラ撮ったり、ヨーヨーをすくったりしたそうだ。「苛立つ」という英語を「イリテーション」と言ったので、娘も王さんも驚いたそうだ。邦子は「イライラするのでイラテーションだ」とも言い換えたそうだ。こんな話を聞くとまともに思えるのだが。
9月21日
今日も30℃を越す。見舞い。昨日、娘が来てぬいぐるみを買ったことは覚えているが、王さんが来たことは忘れている。
9月26日(日)
12時半着。約40分、足をマッサージしながら話す。その後、車椅子散歩して食堂でTVを見る。3時過ぎから食べるコールやたばこコールが始まるが、いつもと比べたら今日は楽な方だった。
9月27日
娘は箱根へ。生姜焼きと味噌汁を作る。息子は寝る前にも食べていた。娘が炒り豆腐を作っておいてくれたおかげ。買い物をいれると結構時間がかかる。邦子が戻って来たら一週間の献立を考え、買いだめもしておかないと、介護と食事作りで一日が終わることになりかねない。
9月28日
見舞い。トイレに付き合ったがトイレ介助は大変。とても一人では出来ない。足の装具が完成してもまだまだである。
今日も二人の子の他に「もう一人出来の悪いひょろっとした子がいる」と言う。どこからそんな話が出てくるのか、理解不能。
9月30日
娘が見舞い。もう4時ごろからテーブルについて食事を要求していると聞かされると俺も落ち込む。でも今日は杖で歩行訓練をしていたそうだ。
ベッドに移される時、餃子を食べたいと言ったら、PTに後でと言われ、邦子は右手で殴る真似をしたそうだ。そういう話を聞くと、妻らしさが戻って来たと思う。
10月1日
息子は内定式。娘はサッカーの夜間練習。夕食は手抜きしてもよかったのだが、邦子が戻って来てからのことを考え、じゃが芋を揚げたものと豚肉とコンニャクの炒め煮を作ってみる。しかし子供たちがいないと寂しさひとしお。早く邦子に戻って来て欲しいと思う。
10月3日
調布から病院のあるめじろ台まで特急ならそう遠くはない。以前は食事が終わってもすぐに「食べたい」と言って疲れさせられたが、このところおとなしくTVをみていてくれたりする。クイズ番組で「秋きぬと目にはさやかに見えねども」の下の句を問うていたら「風の音にぞ驚かれぬ」と、答える。こういう記憶は大したものなのである。
カーディガンを着る時、「人に手伝って貰わないと着れないのは悲しい」と言う。「あぁ、そんな風に思っていたのか」としんみりする。まともな感情を持っていることをわかってやらないといけないと痛切に思う。
夜、息子と二人で焼き肉をして食べていたら、息子が見舞いに行った時には、「お父さんと〇〇(娘)は見舞いに来てもちっとも面白くない」と、言ったそうだ。
10月5日
歩行訓練は目覚ましい進歩。四つ足の杖で介助されながらリハビリルームの半分を一回休んでぐるりと回る。麻痺している左足も「動かしてごらん」と、言われたら、こころなし前へ振られたように見えた。根気よく動くと信じてやれば動くのではないかと思った。
そろそろ自宅を見たいとPTに言われる。OTも息子や娘に介助の仕方を教えたいと言う。在宅が近づいていることを実感する。トイレで20数える間、つかまり立ちできるようになった。ただし、理解力と記憶力は絶望的に悪い。リハビリに行く前に自分で隠しておいた3つの物を戻って来た時には見つけることができない。そのくせ、邦子得意の唐揚げのレシピは、ニンニクと生姜を醤油にすりおろし、一日漬込んでから揚げるとすらすら答える。
10月6日
豚ばらと白菜の土鍋蒸し煮を作る。何かのレシピで覚えたもの。5時限まで授業のあった娘が疲れて帰って来て喜んで食う。「お父さん、主婦してるね」と言うが、しっかり主婦にならないとこの先やって行けないのである。
10月9日
牛肉とキノコのおろし煮好評。遅く帰った娘が作り方を聞きに来る。
10月11日(祭日)
見舞い。病院横の喫茶店で邦子とコーヒーを飲む。「ビールを飲みたい」、「タバコを吸いたい」と、しつこく繰り返すが、こういう試みは悪くない。帰りに「新聞を読む」と言い出したので、病院の食堂に連れて行き、新聞を置き、後は看護師に頼んで帰る。果たして読んだかどうかわからない。新聞を読むと言ったのは初めて。
10月13日
15日から御飯になるので今日から箸で食べる訓練に入る。在宅にあたっておかゆを作るのが大変なので御飯を食べられるようにするものなり。
PTも左足のマッサージの方法を教えてくれる。俺がまじめによく通っているので、「曽田さんなら、ホームワークが出来るから」と、特別に教えてくれたのである。ポラロイド写真も撮ってくれた。
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邦子をマッサージしている写真。今日撮った写真をもとに作ってくれて、退院する時にプレゼントしてもらった。
(後日談:ここまでやって貰ったのに、その後、在宅になってから教わった通りにマッサージをしたのは、ほんの2、3回に過ぎない。介護や食事の支度などに疲労困憊しマッサージをしなければと思ってもそれだけの気力が失せてしまっていたのだ。懇切丁寧に教えてくれたPTに申し訳なく思い、邦子に対してもいいマッサージをしてやれないことに罪悪感を抱き続けた)
10月15日
サッカーの練習があるはずなのに、娘が浮かぬ顔で帰って来る。夜、思い切って声を掛ける。夏休みの間はよかったのだが授業が始まったら、また前のように授業にでるのが辛くなったと言う。母親のことも精神的な負担になっていると言う。またあの重ぐるしい日々が続くのかと思うと目の前が暗くなる。俺だって眠れない夜があり、不安で動悸が止まらない時があり、泣きたい日もあった。自分では乗り越えられたのは頑張る邦子の姿に励まされたからだと思っている。そんなことをとりとめもなく話したが、最後は自分で解決するしかない。いっぱいいろんなことを話せたのはよかった。
10月16日(土)
介護教習があるので急遽行く。片半身まひがどんなに辛いものか体感できる姿勢(段差から半身が出るように寝た時の姿勢)を取って教えられる。体半分が自分のものではない感覚と言ったらいいだろうか。こんな辛い思いをしているのかと思うと涙が出る。
御飯になったので昼食を見に行く。少し硬めのご飯だが箸を使って食べている。おいしいかと問うたら
「古米だからまずい」と言うが、御飯を食べられるようになったのが嬉しそうに見えた。
ケアマネージャーを決めてくれと言われる。治療計画書を見たら11月中旬退院予定とある。いよいよだ。
夜、娘がフットサルして元気に帰って来る。友達が食事に誘ってくれたそうだ。昨夜、俺が話したことなどを話したら、泣きながら聞いてくれそうだ。
10月17日(日)
娘が見舞いに行くと言うのを今日は止める。代わりに俺が行くが二日続けてはさすがにくたびれる。今日は特に妄語が多かった。
10月18日
つつじが丘支援センターに行き、ケアマネージャーの選任を依頼する。事業所とケアマネージャーが決まる。明日、契約。
10月19日
ケアマネージャーが来訪。契約する。経験豊富そうな女性。「まずオムツが取れるようにしましょう」と言ってくれる。
その後、新宿へ出て、編集者と小説の直しの打ち合わせ。帰宅したら豆柴のモモが俺のベッドにおしっこをしている。雨が降っているのに。「ばか犬め」
10月20日
台風接近で雨も降っていたが、今日は午後からのリハビリがない日なのでしゃにむに行く。1時間半マッサージをしてやる。妻はうつらうつら。
「くたびれないか、ありがとう」と、言ってくれる。ほかに「私が死んだらどうなるのだろう。この世から一人少なくなるだけかな」なんてことも言う。支離滅裂なことや、妄語を連発する中で、ひょいとこんな言葉が出て来るから、よくなると信じたいのだ。

7月18日(日)
今日も暑い。病院に着くなり刑務所に行って誰かに会って来たと言う。
友人から、「延命措置をしたのは君だよ。もうその時から奥さんの命は君のもので一心同体なんだよ。奥さんの病気は君の病気。自分が病気になったと思え」と言われた。娘は明後日モンゴル出発。肉じゃが、カレー、グラッセ、ポテトサラダ、麻婆豆腐を作っておいてくれた。邦子は「病気で迷惑をかける」と言う。「でも意外とみんな頑張っているね」と。娘に報告したら、一ヶ月前に「迷惑をかけている」と言ったそうだ。トイレをさせてもらう時には、動かない手に対してとても切ないことを言ったのだが思い出せない。
『王さんへ手紙を書いた』
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王さんへ
このたび 待ちに待った 〇〇の中国行きがやっと 実行になります
親は心配ですが、本人はあの調子であっけらかんとしています
のん気にかまえています。私たちも中国にちじんとてなくて 心配で心配でなりませんが
せっかく本人がその気に なっているので 喜んで見送ってやろうと
二人で話しています   7/18 邦子

のん気な性格ですし また あの調子で王さんに 迷惑をおかけするかもしれませんが
初めての中国行きを成功させてあげたいので どうぞよろしく御協力下さいませ
7月19日
海の日で病院休み。リハビリもないので今日も午後はずっと病院。高校野球熊本大会の濟々黌の結果を見せてやるも、県予選の意味が分かっていない。「大分や宮崎も来るの」と言う。
ママちゃん(母)に電話すると言うので話をさせる。
夜、義母より電話。娘の意識障害のレベルが分かってずいぶん落ち込んでいる。今日も文章を書かせたが、主旨は取り違えがあっても、書くことはすらすらととても速い。それを見ると意識障害も治るのではないかと思いたくなる。
『息子に誕生祝いを書いた。実際の誕生日は4日後』
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〇〇おたん生日おめでとう あなたも23才(本当は22才)になるのですねえ
信じられないですよ
昨日、生まれてお父さんとお母さんをびっくりさせたような気がしています(2文字不明)
『娘への手紙』
PXL_20250326_063511371.MP
〇っちゃん 北京語はいかがですか? むずかしいことでしょう
あなたが少しでも話せるようになったら 私たちに教えて下さい
すぐに覚えますよ~ 持ち前の才能とバイタリティがあるつうの~
『娘にも誕生祝いを書いた。誕生日は8月』
PXL_20250326_063618942.MPPXL_20250326_063634694.MP
左)〇っちゃん おたん生日 おめでとう
これで23才(本当は20才)の仲間入りですね―(うそ~)ほんとに
信じられません 私の23才の時に比べるとしっかりしてますよね―
私はイギリスに1人で行くのも
どきどきで前の晩 お父さんと二人でずっと
話をしてた(注・勘違いか、作り話) 話をすると気分が楽になるし
おすすめしますよ
あなた(不明)に行って 何を見て
(不明)何をしてくるのか考えて 行って下さい

右)お母さんなんかの行った時とは全然ちがうと思いますが 〇っちゃんのこと
だから もち前の才能とバイタリティでのりきるでしょう
(一行目不明)
(二行目不明・・・有意義な 不明)
お父さんお母さんの願望でもあります

7月20日
娘、出発。殺人的暑さ。都心39.5℃。
義母が落ち込んでいたので、邦子のみんなに書いた手紙を送る。少しずつ良くなる。
7月22日
胸が騒ぎ病院へ行く。おかゆを食べていた。他には魚をミキサーにかけたものなど5品をぺろりと平らげたそうだ。俺が行った時は最後のおかゆがなくなりかけていた。とても美味しかったらしい。
昨日見舞いに来た府中のおばさんの手紙があり、昨日は鯛みそ付きのおもゆ、玉子豆腐、とろろ汁、オレンジゼリーを食べたことがわかる。
トイレ、自分から行きたいと言うようになる。リハビリを見て姿勢が取れるようになったと思う。「誤飲」というような難しい言葉も使う。
『長男の誕生日に邦子の手紙を渡す』
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〇〇〇誕生日おめでとう
やっと大人の仲間入りの年令に
さしかかりましたが何をしたいですか
おとうさんとゆっくり話し合って有意義なことをやったらいい
相談はいつでも (不明)
7月23日
結婚前に勤めていた産婦人科の大の仲良しが見舞いに来てくれたが誰か分からなくて、名乗っても「違う」と言ったそうだ。携帯で御礼を言い。邦子に代わってもらうと「早く迎えに来て」と言う。胸が痛む。二回目のリハビリの予定表を見ると。「覚醒をはかる」と記してあった。「覚醒」してくれたらどんなにかいいだろう。
7月24日(土)
昼食。せっかくおかゆになったのに、土曜はSTがいなくて食べられなかった。あれが食べたい、これが食べたいで参る。
息子のチームの地方大会の優勝記事がラグビーマガジンの9月後に小さく出ていたので邦子に見せてやり、お祝いのメッセージを書かせる。(紛失)
暑くて疲れた。夜は少しでも書こうと思ったがとてもかける状態ではなかった。
7月25日
顔を見るなり食べ物の話が出なかったので疲れは昨日ほどではなかった。娘がモンゴルに行ったことは忘れている。すれ違った見知らぬ人に俺の知らない名前で呼びかける。そんな妻を見るのは辛く悲しい。夜はやっぱり書けない。土日は書くことはあきらめざるを得ない。
7月28日
10時半病院。病院探しの相談。紹介状を受け取る。今後は移る病院のレベルが落ちるので在宅でリハビリしたほうがいいと言われる。先生が一週間後に胃瘻(いろう)の管を抜くと言う。胃瘻は在宅ではヘルパーはやってくれず、家族の仕事になる。胃瘻があると通所介護も出来ないと聞いていたので、飛び上がるほど嬉しい。
三ヶ月後だろうが、半年後だろうが、一年後だろうが、介護が楽になるわけではないのだから、早く自宅に戻した方が本人のためらしい。そうなると俺は一年くらいは小説は休むことを考えなければならないかもしれない。すぎペースでよくなっているような気がする。あとは意識の改善だ。それにしても今日の「食べたい」「食べたい」は異常だった。
7月29日
市役所で身障手帳の申請。こんなものを申請することになろうとは夢にも思わなかった。
7月31日
息子は今日が全国大会。公式戦最後の試合。若くして死んだ祖父(邦子の父)の写真に手を合わせていた。見舞いに行き、邦子に息子が最後の試合に行く前に何をしていたか尋ねる。邦子の覚醒を図るためにそういう試みをしている。いくつかヒントを出したら「パパちゃん」(父はパパちゃん、母はママちゃんと呼んでいた)と答えてくれたもの、すぐに何か食べたいという話になる。
片岡仁左衛門の写真集を買って来たが興味を見せるもすぐに食べたいが出る。昼を食べたばかりなのに食べたことを忘れている。今日も食べることばかりでとても疲れた。
8月1日
今日はたばこを吸いたいとしきりに言う。昨日は酒を飲みたいと言った。邦子らしさが戻ったような気はする。だが、ママちゃんに電話させたら「タクシーで来て」と言う。
看護師が「拘縮するから足のマッサージはした方がいいのよ」と言ったら、「心の拘縮の方が問題だ」と言って、看護師を苦笑させる。俺は思わずにんまりする。心の中で(よく言った)と呟いていた。こんなセリフをしれっと言うのが俺の女房なのだ。一瞬、治ったのではないかと思ったぐらいだ。こういう女房に戻ってほしいと願った。
そこへ友人より電話。実は黙っていたが一ヶ月前に編集者からこれ以上遅れるようだと断ろうと思うと言われたと伝えられる。目の前が真っ暗になる。
妹からは嬉しい電話。息子たち全国大会で優勝。息子はMVP。妹は応援に行ってくれていたのだ。泣いていたらしい。
それにしても腰が痛くてたまらない。車椅子とベッドを移乗させるのを力任せにやっているからだろう。力任せに抱えてはいけないと言われているのに、つい力任せにやてしまう。
8月2日
編集者に4日に届けると伝える。ラストは難渋しているが何が何でも書き上げるしかない。
ケースワーカーから電話があり、八王子永世病院、S記念病院、N病院が受け入れてくれそうなので4、5、6日と訪ねる。八王子永世病院は特例として回復期リハビリで受け入れ在宅をめざすと言ってくれているので心はそこにかたむいている。ただ八王子は遠い。小説さえあげれば会社と病院に時間を割ける。
頑張らないように頑張らなければ。俺が死んだら邦子は子供たちに託すことになる。そんなことにはなってはならない。邦子は俺が見守る。睡眠をしっかりとり、栄養をとり、ストレスをためず、義務と思わず、頑張り過ぎず、人としての情に従い、人としての情に従い、ゆっくりと包むように愛おしく邦子を見守って行く、そういう自分になりたい。
8月3日
夜、やっと小説を書き上げメールで送る。
明日から病院を回る。次の病院が終わったらいよいよ在宅になる。毎日食事を作れるのか、毎日介護ができるのか、小説を書くなんて不可能なのではないだろうかと考えだしたら不安で胸がドクンドクンと息が止まりそうになるほど音を立てて鳴る。プロジェクトXの終わりの方を見ていたら、己が仕事をしたいと身体のハンデを乗り越え、自らを励まし続けた男の人生を放送していた。勇気づけられる。
8月4日
八王子永世病院へ行く。今の烏山の病院はリハビリは週5回だが週6回やる。発症半年で終了する回復期リハビリも特例としてやってくれる。こんなところはここしかない。転院したら二か月後在宅を目指す。
夜遅く娘が戻って来る。1時半まで話をする。日本人ボランティアは娘一人だったそうだ。楽しく学ぶことの多かったキャンプ。これから色々な話を聞くことになるだろう。
8月5日
念のためにあと二つの病院も回る。N病院。」リハビリは朝の20~30分。よくて週5回。後は昼前の集団遊戯(ほとんど老齢者)。しかもSTは非常勤。
烏山の病院に戻り報告。主治医もリハビリの先生も特例で回復期リハビリをしてくれることに驚いていた。主治医も大変だけど在宅は出来ないことはないと言う。大変になったら一週間のショートステイや一ヶ月のステイもあると言う。
邦子とは会話はできるのだがよく考えると、元気な時の口癖を繰り返しているような気がする。記憶は全然だめだ。長男の優勝カップをおじいちゃんの物(ゴルフの優勝カップ)だと言う。仲の良かった産婦人科勤務時代の友人たちとの写真を見て、1人は俺の妹だと言い、俺の写真はと言えばおじいちゃん(俺の父)だと言う。
8月6日
いちおうS記念病院にも行ってみる。午前中、手足のリハビリした後は集団のお遊びしかない。ここもほとんどが老齢者。
娘、久しぶりに見舞いに行き、旅の話をしたら、邦子も若い時はスイスへ行った話(ヨーロッパ一人旅)などをしたそうだ。
8月7日(土)
ケースワーカーと転院の相談。いますぐ転院するのではなく発症半年までいられるように主治医に頼んでくれることになる。
昼食を手伝っていたら終わりかけた時、喉に詰まらせる。詰まると言う状態を初めて見て、いかに大変かを知る。俺たちがものを詰まらせるのとは程度が違う。これで2、3ヶ月後に戻って大丈夫なのか急に不安になる。吸引してもらいそのままベッドへ。背中を立てて休む。
邦子の年令を聞いたらまた43歳と言う。
「それはおかしい、〇〇〇(長男)は22才だよ」と言うと、「じゃあ31を足さなきゃ。53歳か」
倒れる前は53歳だから合っている。31を足すところも脳に障害があるとは思えないのだが、どうしてこうも支離滅裂なのか。
『息子への手紙・日本一おめでとう』
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〇〇 念願の日本一
おめでとう ついにここまで来ました
長い道のりでしたね 明日からの仕合 この調子で 頑張り通して下さい
お父さんもお母さんも 大いに期待しているよ~~!
8月8日
「キスして」と言うので、軽くチュウしてやると「久しぶりだねえ」と言う。
昨日、カーディガンを持って来てと言ったので、渡したら「年寄りくさい」と不評。
8月9日
八王子永世病院、転院決定。ケースワーカーが発症6ヶ月を過ぎた患者が八王子永世病院へ入るのは初めてのことだと驚いていた。俺は自分を褒めた。「発症6ヶ月を過ぎるけどまだ54歳なのです。リハビリしたら必ずよくなるはずです」と、それはもう必死に頼んだのだから。
8月10日
小説を渡し転院も決まり一段落したので、娘の成人式の写真を撮ってやることにする。娘はこんな状況なので成人式は諦めていたので、お母さんに晴れ姿を見せてやろうと言ったらとても喜ぶ。振袖は去年妹の娘が着たものを借りる。
8月12日
相変わらず食べることばかり。だが一喜一憂しないことにした。在宅になれば必ずよくなると信じて。
友人が編集者に会って俺の小説は12月末か来年6月の新聞広告に合わせて出版を考えているようだと教えてくれる。出版しても次の依頼があるかどうか分からないが、今から準備しておかないと時間が無駄になるので次作の構想を練る。
8月14日
昨日、娘が免許を取得したので、今日は同乗して近所を運転コーチ。
午後から見舞い。相変わらず食べることばかりだが、そこに何かあるから出してくれとは前ほど言わなくなった。
8月15日
邦子の足をマッサージしていたら、H夫妻と娘の顔が覗き込む。日野市に住んでいた時、家族ぐるみで付き合っていた一家。親の見舞いに来たのだが、俺たちに気が付き、邦子の容態に声を失うほど驚く。10年以上会っていなかったが、邦子はH夫妻の名前も成長した娘の名前も憶えていた。付き合いが深かった人たちの名前を忘れていなかったことに嬉し涙が出る。
あんまり食べたいばかり言うので看護師さんが「内緒よ」と水ようかんをくれる。よく噛んで食べろと言ったら、三、四回噛んでしっかり飲み込む。
なぜか今日が8月15日と分かっている。
家の改造を見越して今のうちにしておこうと押入れを整理する。片っ端から捨てる。昔、邦子がケーキを作った道具などが出て来るが捨てる。思い出を捨てるようで胸が痛むがこれも邦子を迎えるためだ。
8月16日
都民生協から重度障害の給付金340万円入金。倒れる2ヶ月前に加入して、一回も掛け金を払っていないのに支払われた。助かるが複雑な心境。
8月17日
今朝も運転に付き合う。娘は午後見舞いに行くが浮かぬ顔で戻って来る。運転免許証を見せたのかと聞くと、「わからないから見せなかった」と言う。どうやら落ち込むようなことがあったらしい。
8月19日
どんな風に食べているのか見たいので12時に病院へ。メニューが変わり映えしないので飽きている様子。ただし食べ方は進歩していて詰まらせる不安はあまり感じなかった。作業療法も見学する。ビーズのようなものを仕分けする作業だが、赤を取ってと言われても、初めは赤を取っているがすぐに他の色を取る。障害が奈辺にあるか思い知らされる。見ていて辛い。端座は少し良くなっていたが5分以上は支えなしで座っているのは無理。普通に座っていられるようになるだけでどれほどの時間がかかるのだろうか。大切なことは俺が挫けないことだ。娘の誕生日へのメッセージを書いてもらう。こういうものはすらすらと書く。その姿を見ると元の邦子に戻ったような気がするのだが。
『娘への手紙』
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左)20才のお誕生日おめでとう
一才上のお姉さんになり増々大人ぽく
なることでしょう 性格も容姿も〇〇大人らしく
人に対する思いやりも出て来て 皆のアイドル 間違いなしですねえ
右)おしゃれもいっぱいして いつまでも可愛い〇っちゃんでいて下さい
スポンサーはお父さんが受けおいますので 安心して じゃんじゃん 買っていいですよ
それまで雑誌でよく研究して デパートめぐりは よくなってから つき合います
8月20日
9時に駅前の美容院へ行き着付けをしてもらう。12時に病院近くの写真館で撮影。1時に病院へ。娘の晴れ姿を見るなり「しのぶちゃん」と昔産婦人科で働いていた時の仲の良かった後輩の名を呼ぶ。よく見てごらんと言ったら、従妹の名を呼ぶ。4回目ぐらいにやっと娘の名前が出る。娘が可哀想だった。
長男は最後の大会で新潟へ。娘は今夜もサッカーの練習。一人寂しく夕食。あんな姿でも邦子がいてくれたらと痛切に思う。母親不在でも父親としての責任は果たした。娘は写真撮影など諦めていたのだから。写真が撮影できたのもあの病院にいたおかげなのである。本当なら昨日で病院を出ていなければならなかったのだ。
8月21日(土)
息子は新潟。娘は合宿。今日も一人。二、三年後の我が家は邦子と二人になるとしみじみ思う。心が邦子を欲している。どんな姿でも側にいて欲しいと思う。今日も義務ではなく、会いに行きたいと思った。相変わらず「食べる」ばかりだが、以前ほどの悲痛さは感じなかった。
今日も家の片づけ。昔の青色申告会の提出書類などが山のように出て来る。全部邦子が俺の代わりにやってくれたことだ。捨てざるを得ない。こうして妻の事績が消えて行く。
8月22日(日)
1時に行くとすぐに車椅子に乗りたいと言うので乗せるが、食べる物があると言って、あちこち車椅子で歩き回らされる羽目になる。くたびれ果てる。
オリンピックがアテネであることは知っていた。娘の誕生日にメッセージを書いたことは忘れていた。読んでやると自分でもいいことを書いたと感心している。俺のメッセージも読ませて、二人のメッセージを贈ると言うと、「とてもいいこと、ありがとう」と言う。
8月23日
午前中、市役所。身障者手帳交付。月額15000円の給付あり。タクシー券ももらう。ついに身障一級確定と思うと切ない。
帰宅すると娘は寝ている。息子も朝早く帰って、カレーを食うとバタンキューで寝た。娘もカレーをたっぷり食べていた。疲れて帰って来ても、邦子がいれば何か食べさせてくれる。何もないのは可愛そうに思い、昨日作っておいてやった。これだけ食べてくれれば作り甲斐があったと言うものだ。
8月24日
会社のロッカー整理。いよいよ終わりだ。
8月25日
今日は大勢見舞いがあって賑わった。藤沢の妹もおかずをたくさん持って来てくれる。妹の話では、娘のモンゴル行きの話題から、邦子は倒れる2週間前に海外ボランティアのパンフレットを妹に送ったと話したそうだ。一瞬記憶が戻ったのかと思ったが、邦子には自分が倒れた認識はまだないはずで作り話であろう。それにしては思わず信じてしまうような話だ。
8月26日
今週から全粥。固形物になる。副食は魚、大根と人参を煮たもの、ミカンなど。固形物が食べられるようになったのは嬉しいが、今日もずっと食べることばかり。STも固形食になって少しは変わるかと思ったが相変わらずなので当てが外れたようす。
だが作業療法では支えなしで靴の止めを外すことはできるようになった。
8月27日
新宿で編集者と打ち合わせ。細かい注文はあったが大したことはない。大きな直しも悪党の悪辣さを強調してほしいという程度。シナリオの直しに比べたら楽に思える。1月発売に漕ぎつけたい。
8月28日(土)
1時から5時まで見舞い。初めの一時間はごく普通の会話をしていたのだが、その後は自分で料理を作ると言い出し、「立つ」の「起こせ」のと往生させられる。長男に対しては以前から料理を作ってやると言っているらしい。「食べたい食べたい」から料理を作ると言い出したのは進歩と思うが、自分の肉体や病気の認識は浅い。動かない左手が邪魔なので、俺の方へ移してくれと言う。哀しい。
8月29日(日)
台風16号の影響で朝から雨。寒い。見舞いも土日続けては疲れる。食べ物への固執がなくなるのはいつのことだろうか。どこそこに何があるとか、この部屋に入ってみろと言う。いくらないと言っても聞き入れない。6時の夕食まで待てと言っても分かってくれない。昔の邦子らしい邦子もいるだけに昔と今のギャップが埋まらないことが悔しい。
8月30日
八王子永世病院から電話があり、9月4日が転院と決まる。ここが最後の病院。2ヶ月後には在宅である。いよいよ在宅が現実のものとなって迫って来ると思うとプレッシャーと不安で動悸が止まらない。だが邦子にとってはいいことなのだ自分に言い聞かせる。
8月31日
親会社のえらいさんが来て事務の女の子を含めて6人で会食してサヨナラ。
Tと俺の小さな会社はすでに動き出しているがどうなるかな。

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