曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 出雲暮らし

今日は母の日。月に一回は大好きな抹茶を飲ませてやりにグループホームに顔を出していたのだが、手術したりして行けなかったので、今日、母の日のプレゼントと女性週刊誌を届け、抹茶を飲ませてやる。
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会いに行くたびに老いを感じさせられるが、職員は歳の割には元気ですよとなぐ覚めてくれる。確かに数えで99歳だが、午後のホールにいるのは長椅子で週刊誌を読む母と母よりは若い男性入居者2人の3人だけである。西部屋入居者の残りの5人はみな自分の部屋で休んでいる。
この施設から、母の日に寄せて何か思い出を書いてくれと頼まれたので、その時に書いた66、7年前、私が小学校5年か6年だった頃の、この年になっても忘れられない出来事を記す。
その頃我が家は山口県防府市という瀬戸内海に面した小さな都市の社宅住まいをしていた。5年生の時はまだTVはなかった。高度成長一歩手前のまだそんなに豊かではない時代だった。
ある日、母が夕食に握り寿司を作ってくれた。私は飛び上がるほどうれしかった。握り寿司はお寿司屋さんでなければ食べられない大人が食べるものと思っていたからだ。もちろん回転ずしなどない。
母は18歳で結婚した。厳しい古風な母から結婚前に徹底的に料理を教え込まれたと言っていたから、料理の腕は良かった。だから散らし寿司や巻きずしやお稲荷さんなどは作ってくれたが、握りずしは初めてだったのだ。
だが、その握りずしは今思うと可哀そうなくらいみすぼらしいものだった。なにしろネタは3種しかなかったのだ。魚はイカと何かの白身の魚だと思う。今のように赤身だのサーモンだのブリだの海老だのイクラ、ウニなどがふんだんにある時代ではなかった。
そして、3つめのネタが・・・・・・・何と、きゅうりだったのである。キュウリをイカや白身の魚にみたてて薄くスライスされたものがのっていたのだ。
私も二人の妹たちも、イカと魚ばかり食べていた。
見ると母はキュウリばかり食べていた。
小学校も高学年になれば、母が子供に美味しいものを食べさせようとしていることは分かるが、親にその行為を見せつけられるのが子供ながらにとても嫌だった。ためしにそっとキュウリの握りを口に入れたが二つ目を食べようとは思わなかった。
たまりかねて「お母ちゃんも食べたらいいのに」と言ったが、母は「こっちがいい」と言ったのか、なんと言ったか覚えていないが、その後もキュウリばかり食べ続けた。
私は母を憎らしく思ったことを覚えている。私は母がきゅうりを食べ続けることが心の負担になっていたのだ。せめて少しでもキュウリ以外のものを食べてくれたらどれだけ心が楽になったか。
その後、自宅で手巻き寿司を食べるようになるまでの長い間、我が家では握り寿司を作って食べることは一度もなかった。

今日も抹茶を立てた後、母は茶碗を私にさしだし、「あんた、飲みなさい」と言う。これはいつものことである。きょうも私に会うなり「知らない人だ」と言ったのに、抹茶を立てた時は必ず起きる押し問答である。これは母が自分が飲むために自分で立てているのだと、口を酸っぱくして言っても、「あんた、飲め」を何度も繰り返すのだ。

3月16日に、左鼠径ヘルニアの手術は終わったが、実は色々と問題が起きている。
問題なく無事に終わったと思っていたのだが、数日経つと何やら調子が悪いことが起き始めた。最初に気づいたのは鼠径部の微かな膨らみ。触ったら昨日までなかったふくらみを感じたのである。気になり始めたら気になるので毎日触っていると確かに微妙に膨らんで行く。
そこでハッと思い出したのが、術後の主治医の話。
「精管の先端の細い血管が絡まってこびりついていたので切断して剥がしました。これを残しておくと膨らみのためにメッシュ(腸が飛び出している穴をふさぐための網)をうまく縫い付けることが出来なくなるからです。よくある手術で、これ単独の手術もあるぐらいですから心配ありません。メッシュもきちんと張り付けました」
と言われていたのだが、私はすぐにここが悪化したのだと思った。手術が失敗したのだと。膨らみは一気に大きくなり鼠径部に拳大にまで成長した。
4月2日が術後初めての外来の日だったが、私は待っていられないので、3月31日に外科の外来を予約する。主治医は診察日ではなかったので、別な外科の先生が診てくれたが、一目見るなり、「ああ、水がたまっているんです。よくあることなんですよ」
術後水腫と言って、腸が移動したためにお腹の中に空間が出来て、そこに水が溜まるのだそうだ。
「ちくっとするだけですから」と部分麻酔もしないで水を50ccほど抜く。
ほっておけば水は吸い込まれて消えると言われて、ほっと胸をなでおろしたが、こう言ったことが起きるならどうして一言言ってくれなかったのかと腹が立った。
だが、これで終わった訳ではない。平行してもう一つ厄介ごとが起きていたのである。
それが、便秘である。術後4日間、便が出ない。出したいのだが、術後はトイレでいきむことは厳禁なので自然に出るのを待つしかない。
5日目の3月21日に、対策をAIに聞いたら、水分を一日に1~1.5ℓとれという。白湯やお茶やコーヒー、牛乳を朝から飲みまくり、夕方、やっと5日目に便意を催すも、自然に排便できない。いきめないので、どうしたかというとトイレのお湯の洗浄水をおしりにあてた。するとその刺激で排便できたのである。しかし、水分だけでは心もとないので、
3月24日
かかりつけ医に中性脂肪の薬を貰いに行った時に、事情を話して酸化マグネシウム250㎎を出してもらう。以降、水分1.5ℓと酸化マグネシウム250㎎で過ごすが、とにかく便が硬くて辛い日々が続く。出そうだと思ってもいきめないのが辛い。
そうこうしていると4月2日の主治医による術後の初外来がある。
術後水腫はまた膨らんでいて、この日は30ccの水を吸い取る。酸化マグネシウムがきかないと先生に訴えたら、大健中湯という漢方を追加で出してくれる。
かくして酸化マグネシウムと大健中湯と水分1.5ℓ、加えてAIで便秘対策のメニューを調べて食生活の面からも対策するが、便秘は悪くなるばかり。
4月9日
主治医、診察日。術後水腫はまた膨らんでいて、今日も50cc抜く。
便秘の悪化を訴えたら、酸化マグネシウム250㎎は一番弱い、しかも朝夕だけでは効果ないと言われ、
酸化マグネシウムは朝昼夕、500㎎を服用することになる。
私は妻の介護で酸化マグネシウムは随分妻にのませたのでその威力はわかっているつもりだ。これだけのめば何とかなるのではないかと思っている。
便秘も最悪だったので、病院で便摘してもらったがそれでも出ないので、最後は浣腸してもらってやっとすっきりした。尾籠な話ですまん。多分、これで明日から心機一転できると思う。もちろん水分1.5ℓは継続する。

今年の桜を追跡しようと思って、いつもの散歩コースの川沿いの桜の一本を私の標本木にした。
3月26日
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ようやくつぼみがふくらみ出した。数本並ぶ桜の一番手前の木である。
3月27日に松江で開花するが、こちらはまだつぼみがふくらみかけたがなかなか開花しない。
3月29日
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ようやく開花するも満開には程遠い。
3月30日
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花はすこしふえるが、満開には遠い。
3月31日に松江では満開になったというのに。
この日の夕方、鶴のおばあさんが救急車で運ばれる。年が明けてから一度も会っていない。だいぶ弱っているとは聞いていたのだが。
4月1日
娘が孫と斐伊川土手の花見に行こうと言うので娘の車に同乗して斐伊川土手へ行く。
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奥出雲の雲南市の入り口、木次(きすき)線の木次駅のすぐ前が斐伊川土手の桜並木のスタート地点。
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斐伊川土手は満開。出雲でも有名な桜の名所だが、今日は天気が悪く、寒くて途中で雨も降り出し、人出は嘘のように少ない。車椅子で孫を抱いた娘の隣に立っているのが同行してくれたブラジル人のヘルパーさんのFさん。ご主人が日系でこの女性は純粋なブラジル人。私がヘルニア術後で車椅子を車に積み下ろしできないので来てくれたのだ。ちゃんと仕事に就いて働きたいと言うので、娘と二人三脚で、ポルトガル語の通訳の力も借りて、勉強して資格をとり、ヘルパーになったのだ。日本語もうまく、勉強家でとてもいい人なのである。毎年、ここは見物客で埋まるがこの日は閑散。雨も強くなり、寒いので這う這うの体で引き上げ、娘の家で昼ご飯を食べる。
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4月1日
同じ日の夕方。斐伊川土手の桜と比べたら天と地の違い。私の標本木は右の写真の一番右端。実はこれで4分咲き程度。一番左端の木だけが7分咲き程度になっている。それ以外の木は4分から6分程度。我が家のあたりでもみなそろそろ満開になりそうなのに、ここの10本だけはやけに遅い。その中でも私が選んだ標本木だけが遅いのだ。
ツルのおばあさんの家は奥から二番目の家。今年は桜を見ることは出来ない。
4月5日
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我が家の池のそばで見つけた羽化できなかったオニヤンマ。昨夜の春の嵐で吹き飛ばされてうまく羽化できなかったのだ。せっかくここまで育ったのに。我が家の池はギンヤンマの宝庫だったが、オニヤンマも卵を産んでいたことを初めて知る。
4月6日
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花が半分程度しか咲かない。よく見ると枝の半分くらいはつぼみが全然大きくなっていないことに気が付く。固く閉じたまま。病気なのかもしれない。ここの10本のうち、半分くらいは満開になったのに、私の標本木をふくめた半分ほどの勢いがない。このあたりのほかの桜はとっくに満開になって明日にも散りそうな勢いで咲き誇っているのに。ここの桜だけが勢いがない。ここは川沿いで寒いので桜は毎年遅い傾向があるのだが、今年ほどはひどくなかったのに。
寂しい桜の季節になってしまった。
鶴のおばあさんの具合はよくないらしい。
【追記】
4月9日。花冷え。
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川側と道路側から見た光景。一番手前から4本目あたりの桜の咲き方が極端に悪い。一番奥の木は満開。町内のほかの桜は全部満開で、ちらほら花びらがひらひら舞い落ち始めているのに。去年は全部の木が満開で母と見物したことを思い出す。どうしてこんなことになったのか?恐らく植えっぱなしで誰も世話をしていなかったから何らかの原因で木が弱ってしまったのだろう。この調子では来年はもっと悪くなるだろう。夜、外は大雨。雷もなっている。今夜は花散らしの雨。帰郷して15年、毎年愛でていた桜も今年で終わりかと思うと寂しい春である。

昨日、同じ名前の曽田さんから「ほうぼう」を貰った。
日御碕の沖で釣って来たものだが、「あげるから持っていって」と言う声が弾まない。浮かない顔をしている。「聞いてよ・・・」
曽田さんは一昨日、鯛を釣りに行くと、あまり期待はしてないが、シーズン初めの釣りで楽しそうな顔をしていたのだ。だから私は昨日の夕方、釣果はいかにと散歩の途中に寄ったのだが、なんと80㎝の鯛を釣り揚げたのだが、たもですくう寸前糸が緩んで針が外れてしまい逃げられたと言う。よほどショックが大きかったらしく、がっくりと肩を落としてぼやく、ぼやく。
「この時期はまだ釣れやしないんだよ。餌も食わないし。だから疑似餌(七夕の飾り物みたいなもの)を作ってよ。(昨日お手製のものを5つほど見せられていた)だめだろうと思いながら糸を100mくらい垂らしていたんだよ。イルカが出て来て、魚は逃げるし。やっぱり今日はだめだと思ったら、かかったんだよ。うれしくってね、それって釣りあげて、たもですくう寸前、普通はそんなミスはしないのに、竿を前に傾けてしまったんだよ。途端に糸が緩んで、針が外れてしまったんだよ。鯛の口の中は硬くてね、針はかかりにくいんだよ。俺の鯛も食いついていたけど、しっかり口の中に食い込んでいなかったんだよ」
朝の7時過ぎに大社の堀川から船で出て、日御碕の沖合で8時ごろから始めて、ちょうどお昼ごろのことだったそうだ。ほうぼうやほかの魚が何か釣れたのか何も言わないし、私もしつこく聞くのは気の毒でお礼を言ってもらって帰る。
今日の夕方のおかず。
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ウロコと内臓をとり、三つに切る。
これまで食べたことがなかったので、調べたら、脂質は4.5g/100gでEPAもDHAも青魚と遜色ないほどあるという。私のように脂質を抑えた食事をしている者にとってはこれ以上ない最適な魚とわかる。
しかも、ヘルニア術後、私は便秘にならないように食べ物に注意し、数日前にはかかりつけ医から酸化マグネシウムも出してもらっていたから、白身で消化のいいほうぼうは願ってもない魚だった。
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最近は煮魚なんて簡単なものだ。この「なんでもごたれ」を水200ccに50cc入れて煮ればいいだけなのだ。里芋やカボチャを煮る時は、水200ccに大匙2杯。こうでもしなければ爺さんの料理なんてやってられない。便利なものが出来たものだ。
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いちおう落し蓋して、完成。ほっぺたが落ちるくらい美味かった。

その夕食前の夕方、マルコの散歩がてらまた寄って、今夜はほうぼうを食うと報告したら、
「イカ、食うか」と言う。友達がイカを釣って来て、船の上で醤油に漬けたものをくれたと言う。
「うまいぞ」
思わず、「もらう、もらう」と言って、はたと気が付く。「だめだ、俺、いま食えねえ」
ヘルニアの術後、いきむと傷口がひらくので、便秘はできない。消化の悪いものは控えた方がいいのだ。
「そりゃあ残念だなあ。一杯やると美味いのに。ほうぼうも昨日だったら刺身で食ってもよかったのになあ」
私はこの人には「多胡辰敬」の小説をただで上げている。買ってくれとは言いにくいこともあるのだが、結局は物々交換しているのだ。夏になれば食いきれないくらいマスカットをくれるのだ。
旧農村地帯の田舎には珍しい本好きの爺さんが二人いて、そのうちの一人でもあるのだ。

3月15日(日)
14時に前日入院。この日は忙しく、朝、マルコを散歩させ、8時半には娘宅へマルコを預ける。(マルコは夕方娘がペットショップに預けに行く)9時過ぎに荒神谷博物館へ。毎月の「風土記談義」の場をかりて「戦国を旅した男 石見岩山城主多湖辰敬」の宣伝をさせてもらう。その後、コンビニでパン買って食べてから、平田の総合医療センターに入院。


3月16日(月)
朝から絶食。本当なら朝一から手術だったが、順番が変わって2番目になり12時過ぎから手術。11時に付き添いの娘が来て、全身麻酔の説明を受けてからサインして手術。手術室に入って「手術を始めます」と、言われて、マスクを当てられたら、次に声をかけられて目を覚ました時には終わっていた。2時間半を完全にタイムワープしていた。こんな感覚は初めてで不思議な感じがした。
すぐに病室に戻り、付き添いの娘とバイバイしたら後は寝ているだけ。医療の進歩に感心していたらそこからが地獄だった。左手には点滴。両足には弾性ストッキングをはかされ、ブーンブーンと締め付けられ、導尿のカテーテルは手術中につけられたままで、右の人差し指にも洗濯ばさみみたいな計測器具をつけられ、自由に身動きできなくなっていたのだ。
ただ寝ているしかない。横にもなれず、もちろん寝返りも打てない。腹腔鏡手術で開腹はしてないが、腹膜を切って剥がしたりしているので、耐えられないほどではないが多少の痛みはある。動こうとすると痛みと言うほどではないが鈍痛がある。気を紛らわせようとチャンネルを取ってTVを点けるのも一苦労。軽い吐き気もする。カテーテルも初めての経験で違和感がたまらん。トイレに行ければいいのだが、トイレに行かなくてもいいようにカテーテルをしているわけで、1時間仰向けになっていただけで背中が痛くなる。吐き気止めを出してもらう。18時にロールパンとバナナとミルクの夕食が出るが半分しか食べられない。後は翌朝8時の朝食まで寝たきり。ベッドで上半身を上げたり下げたりしているだけ。一睡もできず。

3月17日(火)
朝食前に頼んで、点滴、カテーテル等全部を外してもらう。体はパンパンに張って、両肩も固く強張りひどく痛むので湿布を出してもらって張る。痛み止めも出してもらったら、昼前には吐き気はなくなり、痛みも和らぎ、歩くのも楽になる。午後にはこの調子ならと、明日の退院を決めるが、帰宅してすぐ昼ごはんの用意が嫌なので、病院で昼ご飯を食べて14時退院を決める。

3月18日(水)
朝、臍に詰めてあった綿を取る。目が悪いこともあって、はじめはどこに傷があるか分からなかったが、よく見ると臍から下に向かって小さな傷あり。臍の中にも傷らしきものあり。ここからカメラが入ったのだろう。その両脇に臍から7㎝ぐらい離れたところに傷口あり。ここから左右の鉗子を入れてカメラで見ながら手術をしたのだろう。
次回術後初回外来は4月2日。それまで入浴は不可。シャワー。
午後から雨。14時前に退院。
マルコを迎えに行く。マルコ、大喜び。雨が降っていたので出雲ドームまで行って、早速マルコの散歩。その後、イオンへ行って、夕食の買い物。すべて総菜。冷凍の御飯をチンして、即席沖縄もずくスープで夕食をすます。

 いま私の臍はひたすら痒い。

ところで明日は2時から「春のお彼岸説教」がある。
6時半からは出雲市民会館で出雲演劇鑑賞会で「等伯ー反骨の画聖ー」がある。私が好きな安土桃山時代の画家長谷川等伯の芝居だ。どうしよう、行けるか行けないか。どちらか一つでも出るのか。悩む。

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