JRの旧大社駅の前は車でよく通る。出雲市駅と大社を結ぶ短い大社線が廃線になって27年。今は古い駅舎だけが残っている。絵になるので、TVや映画のロケ地としてよく使われる。マドンナが誰か、何編だったかも忘れたが、『男はつらいよ』でも使われたことがあった。近くまで来ると、いつも思い出すことがある。
JR旧大社駅→「男はつらいよ」つながりで、久々に師匠の話。

それは、40年ぐらい昔のことだ。師匠が後にも先にも一度だけ「男をつらいよ」を映画館で観た時の話である。
私が弟子の時代、師匠が映画館に映画を観に行ったのは、この「男はつらいよ」と、後は洋画を一本だけ観に行った記憶がある。確か「カプリコン1」だったと思う。運転手付きの車で自分だけ観に行き、私は留守番だ。
当時、師匠は映画はTVで日曜映画劇場とか深夜の旧作放映しか観なかった。
起床するのがお昼で、ぐずぐずしているとすぐに夕方になってしまうので、出かけること自体が億劫になっていたように思う。今思うとまだ50代だったのに、糖尿病のせいもあったのかもしれない。
そんな人がなぜわざわざ封切映画を観に行ったかと言うと、師匠に喜劇映画の脚本の依頼があったからだ。依頼して来たのは、砂塚秀夫(故人)と言う、中堅どころの喜劇役者だった。彼がTVにわき役としてレギュラー出演するきっかけ(?)となった連続TVドラマの原作脚本が師匠だったので、その縁で頼んで来たのだ。自分で制作資金をたしか5千万円(?)だったかと思う、用意していた。
断る理由はないが、正直に言って、映画の主演をするほどのネームバリューはないので、作っても大丈夫なのかなあと師匠は首をかしげていた。
同じように首をかしげたのが森繁久彌。
撮影に入って、師匠が現場を観に行った時、森繁久彌に会った。森繁久彌は砂塚秀夫の師匠だったので、特別出演していたのだ。勿論、ワンシーンで無料出演である。森繁久彌は芸能界の大御所俳優である。師匠が脚本を書いた「次郎長三国志」でも、森の石松で出演していたし、東宝映画の喜劇でも、師匠の脚本で出演していたから、師匠とは昵懇の仲である。
「モリシゲがさあ、『あのバカ、なんで映画なんか撮る気になったんだろう』と、俺に言うんだよ」と、師匠は言っていた。
その砂塚秀夫が渥美清の「寅さん」に負けない映画を作りたいと言うので、師匠は一度も見ていないのではまずいだろうと観に行ったという訳だ。
今みたいにビデオもDVDもないから、映画を観たければ、二番館、三番館に落ちるのを捜して観るかか、封切を観るしかなかった。
たまたま最新作を封切したところだった。その「寅さん」のマドンナも誰かは忘れたが、帰宅した師匠は何だか浮かない顔をしていた。
「曽田よ。みんなで写真を撮る場面があってさ、寅さんが『バター』て言ったら、観客がどっと笑ったんだよ。あれ、何で笑ったんだ。俺、さっぱりわからねえんだけど」
私はのけぞってしまった。一から説明してあげた。
「先生、写真を撮る時は『チーズ』と言うんです」
「何で」
「『チーズ』と言うと、口角が上がって笑ったように見えるからなんです」
「ふーん」
「ところが、寅さんが『チーズ』と言うべきところを、『バター』と言ったので、観客は笑ったのです」
さらに、私は解説を続けた。チーズをバターと言うギャグは小学生でも使う。誰でも知っている手あかのついた古いギャグで、今や笑いを取るために使うようなギャグではない。まともにやったら誰も笑わないだろう。でも、これを寅さんが言ったから、観客は笑ったのです。写真を撮る時、チーズと言う、こんなことも寅さんは知らないのかと、皆、笑ったのですと。
師匠はつまらなさそうな顔をしていた。私はそれを見て心配になった。
こんなギャグも知らない人が喜劇の脚本を書いても大丈夫なのかと。
国民的映画となっていた「男はつらいよ」に匹敵する映画がそう簡単に作れる訳がない。
それなのに、師匠は寅さんの舞台が柴又の帝釈天なら、こっちは神楽坂の毘沙門天にしようと決めてしまった。
師匠のマンションが中央線飯田橋駅の南側の法政大学の近くにあり、飯田橋駅の北側は神楽坂で毘沙門天があったのだ。近くて取材も楽だからと言う安易な理由だった。
かと言って、師匠が取材するわけではない。私が取材して回ったのだが、若い私は芸者や花街のしきたりなど何も知らないから、私が調べたことは師匠からみたら噴飯ものであった。「何だ、お前、こんなことも知らなかったのか。恥ずかしい。よくこんなこと聞けたな」とあきれられた。私が取材したことなど全然役に立たなかった。
スケジュールを守らないと予算をオーバーするので、脚本に与えられた時間は一カ月。予算と主演砂塚秀夫では呼べる役者にも限りがあったが、とにもかくにも『毘沙門天慕情』と言う映画が出来た。松竹が二本立ての映画の添え物として買い取ってくれた。この当時、映画会社は二本立てを自社で作るのに四苦八苦していて、メインは自社で作っても、二本目は外注とか、このように買取をしていたのだ。買取なら安く買い叩けるから損を少なくできるからだ。砂塚秀夫も5千万などでは到底買ってもらえず、かなり損をしたのではないだろうか。話題にもならなかった。師匠も当たるなんて夢にも思っていない。出来は脚本を書いた本人が一番分かっているから。
その後、しばらくして、私は師匠が「寅さん」が好きではないことに気が付いた。「寅さん」的な人間は嫌いなのだ。「寅さん」は国民的人気があり、誰にも愛されるキャラクターとされていたが、実は「寅さん」みたいな男は嫌いだと言う人も少数だが確かに居たのだ。
「男はつらいよ」はよくできた面白い映画と師匠は認めるが、自分にはあんな脚本はどう逆立ちしても書けないことは分かっていたのだ。師匠が好きな喜劇は「男はつらいよ」のようなお話ではないのだ。
なぜ、それが分かったかと言うと、ある日、師匠が斎藤寅次郎という映画監督の話をしてくれたのであった。戦前戦後に活躍した喜劇映画の大監督である。この人が、戦前の軍国主義真っ盛りの時代に一本の喜劇映画を作った。
「曽田よ。捨て子を一日に一人拾って来る男の話を作ったんだぜ。お前、こんな話、考えつくか。とんでもない人だよ。斎藤寅次郎は」
その時の師匠は感に堪えない顔をしていた。滅多に人を褒めない師匠が感服していたのだ。
師匠は戦後、その斎藤寅次郎の助監督をした。師匠の記念すべきデビュー作は斎藤寅次郎監督の喜劇だったのだ。
「戦後の成金が登場して来てさ、さっと腕まくりをするんだ。すると手首から腕までびっしりと腕時計をしているんだ。笑っちゃったよ」
その時の師匠の楽しそうな顔といったらなかった。心から尊敬し、愛していたのだ。そして、最後にこう言った。
「この人の真似はできない。俺にはこんな喜劇は作れないと思ったよ」
ここまで書いて、ふと思った。
結局、師匠は喜劇は苦手だったのだろうかと。
いやそうではない。喜劇は難しいのだ。