曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: My Treasure

私のおばさんにK子さんというお婆さんがいる。昭和10年生まれだから87歳になる。正確にはおばさんではない。父の従妹であるが、家庭の事情で出雲の我が家に4歳の時から預けられ我が子同様に育てられ、我が家からお嫁に行った人である。父はこの人のことを「K子、K子」と呼び捨てにしていたし、K子さんも私の父のことを昔から「あんちゃん、あんちゃん」と呼んでいた。
私は子供時代から田舎に帰ると「K子さん、K子さん」と小柄で綺麗なお姉さんを呼んでいたが、祖父の弟の子で預けられていることは知っていた。その頃は高校を卒業して出雲のダイワ紡で働いていたと思う。
その人の御主人がこの1月の末に亡くなった時に、K子さんは免許を返上した。後1年免許証が有効だったのでもう1年だけ乗りたかったのだが、娘たちに説き伏せられて返上せざるを得なくなったのだ。
有名な出歩きお婆さんだったK子さんは車がなくなって家から一歩も出掛けられなくなりとても寂しがっていた。気の毒に思った私は49日を過ぎてからK子さんを神立食堂に誘って昼ご飯を一緒に食べた。
K子さんはとても喜びをご飯を食べながら昔話をしてくれた。
昭和22年。K子さん12歳の時、私の母(19歳)は出産のために父の実家に帰っていたそうだ。私はこの時自分がどこで生まれたのかを75歳にして初めて知ったのである。
私の母は無類の柿好きで、「K子さん、柿取って来て」と頼まれると、K子さんは庭の柿を取って来たのだそうだ。妊婦に柿は体を冷やすからいけないと言われていたが母はお構いなしに食べていたそうだ。その年の10月末に私は生まれた。
年が明けると、K子さんは私の子守をするようになった。小学校6年から中学1年になる遊びたい盛りだが、自分の立場を心得ているK子さんは不満も言わず子守をしてくれたのである。
その頃、ピンポンに夢中になっていて、K子さんは私を背負って小学校の講堂へ行くと、私を講堂の横の宿直室に預けて、自分は講堂でピンポンに興じていたと笑っていた。宿直室にはお婆さんオバサンがいて竈で湯を沸かしていた。炬燵もあり、そこに赤ん坊の私を寝かせていたのだそうだ。
中学に上がると、その頃は私も座れるようになっていたので、小さな掻い巻きのようなものでぐるぐる巻きにすると廊下の壁を背に座らせて自分は廊下でピンポンをしていたのだそうだ。
K子さんとは小学校時代から今日まで帰郷するたびに顔を合わせていたのに、どうして今までこんな話が出てこなかったのか不思議でならない。
母の認知症も進み、昔のことも忘れているだけに、K子さんのこの話が私には宝物のように感じられた。
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75年前、私を背負ってくれた背中である。
「しゃべったら止まらないおしゃべりおばさんと疎ましく思ったりして御免よ。12歳の子守、有難う。この御恩は忘れないよ」
今日の神立食堂は3回目である。K子さん、夕ご飯のおかずも持ち帰りしてとても喜んでくれている。
車で出かけたいところがあれば連れて行ってあげると言ってある。私にできるせめてもの75年前の(75歳の87歳への)恩返しである。

特養に入所して1年と3ヶ月。この頃は今読み返しても随分口が悪くなった気がする。私をお前呼ばわりする。それまでもお前呼ばわりされたことはあったが、それは機嫌が悪い時だったような記憶がある。おそらく特養の暮らしになじめないところや不満、辛いところなどがあったのだろうと思う。私たちだって長期に入院すればストレスでおかしくなる。入院はいつか退院できるが、妻の場合は死ぬまで出られなかったのだから。


2018.5.16

「お前、世田谷にいたから知り合ったのか?(私が)学校(看護学校)に行ってたから」

(知り合ったのは世田谷の池尻のバス停近くの小さなスナック。マスターが松江工業の出身で、その店には島根県出身の新聞配達員たちも通っていたので、私も師匠の家での仕事が終わったら金のある時だけ時々顔をだしていたのだ。近くに島根出身者の経営する新聞配達店があり、働きながら学ぶ島根の学生たちの間では知られた店だったらしい。妻は若いマスター夫婦と仲がよかった)

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「チョコレート、チョコレート、チョコレートは明治。どうしてこんなに歌がうまいのだろう」
(このように特養で会話をしているのはお昼どきである。週に何回かはお昼ご飯の前に特養へ行き、車いすで散歩したり、ベッドでマッサージをしたりして、それから妻の食事に付き合っていた。そのうち自分の弁当を買って来て一緒に昼ご飯を食べるようになった。食事が終ったら歯磨きして帰る。よく通ったものだと思う。こういう人は私以外にもいて、老母の世話をする女性や、お爺さんの食事に同席する孫(息子かも知れない)のような人もいた。この人は私が行くと必ず来ていた)

2018.7(外泊中)

「お前と俺は結婚したのだぞ」と、妻が言う。

「それがどうした?」

「だからもっと言うことを聞け」
(ずっと特養に閉じ込めておくのは余りにも可哀そうなので、この頃は6泊7日で自宅に連れ戻していた。預けっぱなしにすることはとてもできなかった。1ヶ月の間でわずか1週間だけのお世話である。
それまで在宅介護をしていたことを考えれば。在宅介護をしていた時は楽できたのは妻がお泊りに行く10日だけだったのだから)

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「顔拭いてあげる」

「顔拭いてあげるなんて言うな。恩着せがましい」

2018.9.17外泊中
(特養から出る時貰った介護記録を見ると、この時の外泊は9月13日から9月18日までとわかる)

妻が私に「お前、顔がつぶれてるぞ」

「疲れたの」

♪見~たくない♪見~たくない」

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「よかよか」と、言うと

「気持ち悪いから熊本弁使うな。いいよ、いいよと言え」
2018.9.26

特養で散歩中

「車椅子を押して、人がうらやましがるぐらい」

2018.10.15 外泊中
(10月11日から10月16日まで外泊。)
「やりたいんだけどできないんだよ」

なにをやりたかったのか?

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「手洗ったか」

「下の世話をした時もちゃんと洗ってるよ」

「下の世話をしてくれたのか。そりゃあすまなかったな」
(この外泊中の夕食
11日栗ご飯、まぐろ山掛け、いものツル、野菜煮、ノンアルビール、梨
12日カレーライス、生野菜、ノンアルビール、梨
13日レタス鍋、ポテトサラダ、ノンアルビール、ぶどう
14日春巻き、いも天、ポテトサラダ、生野菜ノンアルビール、梨
15日手巻き寿司、ノンアルビール
毎晩ノンアルビールを出し、我ながら必死にメニューを考えたのだなあと思う)

2018.12.09 特養で

「島根と聞くとド田舎と思う」

2019.1.2外泊中
(年末年始は12月29日から1月4日まで外泊。年末年始は必ず娘夫婦が戻って来てくれるので気分的にはとても助かった。この年はテーブルピンポンを買って来て、娘と妻がダイニングのテーブルでピンポンに興じたのを思い出す。この頃はまだ妻はテーブルピンポンが出来たのだ。ただ当てるだけだけど。大声をあげていた)

妻はベッドに腰かけ、儂が足に装具を付けていたら頭の天辺をぷうっと吹く。

「薄くなったねえ」

「ほんとに、そんなに薄いか」

「露骨に薄いよ」

2019.2.14外泊中
(2月10日から2月15日まで外泊)

浣腸して、オムツ交換をした後

「ああ、終わった、終わった」と、思わず叫んだら、

「へたくそにやられると、こっちだって疲れるんだ」と、言われてしまった。

2019.2.15外泊中

ベッドに寝せたら

「このまま熊本に行くの?」

「うん」

「みんな、迎えに来てるよ。邦ちゃん、たいへんだったねと……」

2019.4.30

連休に娘夫婦が戻って来て特養へ見舞いに行く。

「足はよくなったか」と、聞く。

娘が足が悪かったことを覚えている。(なんでそんな歩き方するの)と、術後の回復が思わしくなくて足を引きずって歩く娘を怒ったことは私もよく覚えている。

その後、令和に改元することを教えたら、

「令和を祝す、令和を祝す……片足なおる」

娘の足がなおると歌う。
(この年は1月に父が入院。5月に死去。私は膵臓が悪いことが分かり、一時はすい臓がんになることを覚悟したほどの大変な年だった)

2019.7.7

特養のお昼。入所者の男性が大きな声で、「ごちそうさま」と、言うと

「元気ですねえ。今日の天気みたい」

2019.8.7(特養で)

長男の息子がハワイの幼稚園へ入る話をした後で

「〇〇君、来て。I wait for you. Hurry up please come here.

今日、〇〇君来ると言うから、おばあちゃん、掃除してくたびれたから、寝ている」

(自分のことをお婆ちゃんと言ったのは初めて)

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「来たらだっこしたいよ。ここに寝せてあげるの」(ベッドで)

2019.8.24(特養で)

昼食前に車椅子を押して表に出る。実り始めた田圃を見て

「イネが実り始めたね」と、言うと

「イーネ」と、返し、おかしかったのか笑う。気に入ったのか、何度も繰り返して笑う。

2019.9.1

TVで「チャゲ&飛鳥」の話題をしていると

「はげ&飛鳥だって、はげだって」と、笑う。

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「じゃあ、帰るから。また来るからね」

「(私は)もう、こんな所にいたくないの」
(やっぱりそうなんだ。そりゃそうだよなあ。と思いながら部屋を出る)

亡き妻が特養に入ったのは今頃のような季節だったと思って調べてみたら、2017年(平成29年)2月6日に入所していることが分かった。あれからもう6年になるが入所させた時の胸の痛みは今も残っている。知らないうち骨折を2回繰り返し、2回目のリハビリ入院はもう効果がないと断られたのであった。退院しても車椅子に座って体勢を維持するのも難しくなり、デイサービスに通うのも困難になったので入所したのであった。
入所してからは自分は確かに楽になったが、妻を施設に入れたことには申し訳ないと言う気持ちを払うことが出来ず、施設には出来るだけ通うようにした。昼ご飯を一緒に食べ、施設の周りを散歩したり、時には妻の部屋でマッサージをしてやったり。それでも自分としては納得できず、月に4泊5日ぐらいで自宅に外泊させたりもした。年末年始ぐらいはと正月を自宅で迎えたりもした。
そして、1年経った2018年の2月になって、私は2010年の11月でやめてしまっていた妻の語録を再び書き留め始めたのであった。書き留め始めたのは東京の病院を退院してからの2006年の1月からで、当初は手帳に細かい字で克明に記録していたのであるが、さすがに疲れが出て来てついに5年目に力尽きるようにやめてしまったのであった。
2011年に出雲に戻ってからもまた書き留めようと言う元気は出なかったのに、なぜ、急にまた8年ぶりに書き留めようと思ったのか。それは妻が施設に入り別れてしまったからだと思う。会って話をするのは1週間に何日かだけのお昼の一時間ほどと月に数日の外泊の時だけ。限られた時間にしか会えない妻の言葉がとても大切なものに感じられ、これは書き留めて置いてあげなければいけないと思ったのである。たくさん話せないのでたくさんは書き留められなかったが、今読み返すと施設や散歩コースや外泊で戻って来た時のことが甦って来る。

再開語録【1(通算38)】

2018.2.18

外泊で戻って来た時。食事の世話をしていると

「お父さんには一家の主婦と言う仕事があるの」

2018.2.28

特養でマッサージするが、痛むので

「殺せ、保険金がもらえるぞ。いい暮らしができるぞ」
※痛みを訴えられるのはいつも辛かった。

2018.3.4

特養でマッサージしていると

「奥さんと入れ替わりましょうか。いい奥さんになりますよ。犬だって猫だって可愛がります。鶏だって可愛がりますよ」

2018.3.20

外泊で戻って来た時、昼食の世話をしていると、

「良く動く男だな」
※こういうセリフというか言い回しが妻らしくて好きだった。いい言葉が書き留められたと嬉しくなったものだ。

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「だめじゃないですか、コサインコサインタンジェントを忘れたら」
※こんな台詞が出るのも妻らしいが、なぜかコサインが連続して出て来た。

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外泊の時、手伝いに来てくれた私の妹にローションを塗って貰って

妹「こんなにきれいになるのに」

妻「もともときれいだからな」
※笑った。

2018.4.12

TVCMを聞いて

「バイト探しはインディード。バイトしたいな」

「なにしたいの?」

「私がするのは飲み屋に決まっているじゃん」
※この頃、このCMをよく繰り返していた。
※お酒は好きだった。飲ませるのが怖くてノンアルコールビールしか飲ませなかったがそれも二口か三口だった。いっぱい飲ませてやりたかったと思う。

2018.4.16

「玉子焼き作ってくれた。ふわっとして、おいしかったあ」

「誰が作ったの」

「お前が。風邪ひいたらすぐ作ってくれた、すぐに治った」

※子供の時の記憶が入り混じったようだ。

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「お母さん、お母さんと言うから、子供たちがお母さんと言う。気持ち悪い。言い直せ。〇子さん(妻の名)と言え」

2018.5.1
ゴールデンウィークに見舞いに来た娘夫婦に向かって
「〇〇ちゃん、フルーツポンチの逆を言ってごらん」

と、むりやり言わせてゲラゲラ笑う。

2018.5.6

特養で足のマッサージをしていたら

「ねえ、畳の上にごろっとなりたい」
※何気ない当たり前のことを言われるのが辛かった。

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特養の中を車椅子で散歩中

「館内放送で〇〇(息子)と〇〇ちゃん(娘)を呼んで」

暮れに紹介した『素敵な古本屋さん』へ行って来た。このお店で本を買う見ず知らずの人のために、これまた見ず知らずの人間が100円券や200円券などの割引券を作っておいて自由に使って下さいと言うシステムをとっているお店である。割引券を作る人間は割引券分のお金を払うわけだから一文の得にもならない。持ち出しである。でもこれは本好きが本好きのためにちょっとでも役立つことが嬉しくて始まったシステムなのである。高校生や中学生、子供たちのために。幼児のための絵本もある。お年寄りだって読むだろう。時代小説や推理小説など同じジャンルの本を読んでくれる人もいるだろう。そんな人たちが自分が発行した券を使って本を読んでくれることにひとり満足するのである。
私は暮れに500円券を使って孫の絵本を買った時、500円券の裏に御礼と次は自分も券を作ると記した。だが年末で本屋も休みに入るし、私も忙しくてその場ですぐに作れなかったので年明けに作るつもりだったのであるが、実はそこにはあるおもいがあったのである。それはこの券を天国の妻からの贈り物にしたいという思いであった。
妻が死んでからもうすぐ半年になる。供養して来たし、仏壇に手を合わせたり、近況を報告したり、今日も一日頑張ると言って出かけたりして来たが、心の底では納得していた訳ではなかった。本当に供養になっているのだろうか。弔ったことになっているのだろうか。どうしたら本当の供養になるのだろうか。心から納得できる供養の仕方はないのだろうか。ずっと考えていた。そんな時にこの券に出会ってはっと思い当たったのである。
妻は死んだけど妻の思いは残してやることが出来るのではないか。そうすることが自分に出来る供養の仕方ではないかと思ったのだ。そして、妻から本好きの人へこの券を贈ることを思いついたのだ。
妻は本好きだった。子供たちを図書館に連れて行っては山のように本を借りていた。図書館の司書がこんなに本を読む子は見たことがないと言うほど借りていた。
券はfrom〇〇からfor〇〇へと記す様式になっているので、私はfrom『本が好きだった天国の妻からの贈物』for『この本屋さんへ来たすべての人へ』と記した。値段は500円で20枚作った。
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左)文章が長くなったので少し短くした券もある。
右)このような券を作った人は何人もいて、50円から100円、200円、300円の券がレジの横のボックスに入っている。たまたま私は前回500円券を使わせてもらったのだ。使った券の裏側には使った人のメッセージが書き込まれて隣にまとめてある。みな、喜んでいる。
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本町商店街を抜けた手前から二軒目。店名は『句読点』。正月明けに初めて来たら本も増えて充実していた。奥の部屋で金づちの音がしていた。店主が店を拡張するために作業中だった。若い夫婦の古本屋である。ここを抜けると、前方左手に出雲そば羽根屋本店がある。
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横断歩道があるところが羽根屋。1月14日は小雨だった。

たまたまこの日の夜のニュースで岐阜の駄菓子屋さんのニュースをやっていた。大人たちが作った100円券を使って高校生以下の子供たちがただで駄菓子を買えるというニュース。使った子供たちは券を作った人に御礼を書く。それを読んだ飲み屋の赤い顔をしたおじさんが「嬉しいね」と顔をほころばせていた。子供の礼状の中には「大きくなったらぼくもこの券を作ります」と言うのもあった。
去年の暮れ、別なニュース番組で長崎の駄菓子屋さんを舞台にした同じようなニュースをやっていた。
どうやら私たちの知らない所でこのようなシステムはひそかに広がっているのかもしれない。

この秋、素敵な古本屋さんを見つけた。今市の出雲そば店羽根屋本店の近くにある「句読点」と言う小さな古本屋である。今回、訪れたのは三回目。いつも羽根屋でお昼にそばを食べた帰りに立ち寄っている。最初はたまたま小さな古本屋が出来ていることに気がついてぶらりと入った。暮れに娘が孫を連れて帰省するので孫のためにいい絵本があれば買おうと思ったのであるが、レジの横を見たら箱の中に名刺大のカードがいっぱい置いてある。カードには100、200、300などのハンコが捺してあり、from〇〇〇(愛称)for本が好きな人へと書いてある。for出雲高校の学生へとかfor本がすきなお子さんへなどと記したものもある。
若い店主に「これは何ですか」と問うたら、お客さんに教えて貰って始めたシステムだと言う。
数字の意味は100円、200円、300円引きを意味している。その値引き分はあらかじめお客が誰か知らない本が好きな人のために支払っているのだそうだ。1000円の本を買う客は300円券を使えば700円で買えるのである。本好きが本好きのために、小さな子供のために、若い学生のために、あるいは同じジャンルの好きな人のために善意で作る割引券なのである。作る人に利益はない。お金を払ってカードを作るだけである。そのカードを使って本を読んでくれる人がいることが嬉しいだけなのである。
この世知辛い世の中になんとほのぼのとした話だろう。私は嬉しくなってその日は本は買わなかったが1000円払って200円券を5枚作った。一週間後、その店で孫のために絵本を買い、自分で作った200円券を使い、200円引きで買った。
話は続く。2週間ぐらい前だったろうかTVを見ていたら、これと同じシステムの駄菓子屋が長崎にあると言うニュースをやっていた。大人たちが子供たちのためにお金を出して100円券を作っているのである。子供たちは駄菓子屋さんへ来ると買い物に100円券を使うことが出来るのだ。8ヶ月で1700枚も使われたそうだ。ニュースで言ってたが、これはイタリアで始まった古い慣わしで、英語でいうサスペンテッドコーヒーのことだそうだ。スタバでもやっているそうだが意味はまるで違っていて、本来はコーヒーが飲めない人のために裕福な人が温かいコーヒーをふるまってあげると言う事らしい。
そのニュースを見て数日後、古本屋さんへ行き、孫のために二冊目の絵本を買った。もちろんカードを使わせてもらった。なんと500円券があったのである。
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fromはるさんからfor時代小説が好きな人へと記されていたのだ。まるで私の為のカードかと思い、有難く使わせていただいた。カードを使うとそのカードの裏に使った人がメッセージを書いて欲しいと言われて御礼を記す。
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その日は忙しかったので、私も今度カードを作りますとだけ記した。古本屋さんは年末年始の休みに入ったので、年が明けたらカードを作りに行くつもりである。実は前々から心に秘していることがあるのだ。

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