曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: My Treasure

7月28日に妻の三周忌を行う。去年の一周忌は長男一家は外国、長女一家は長女が妊娠中でしかも松江へ引っ越しする一か月前だったので参加できず、私一人で行ったのであるが、今年は長男一家も長女一家も来てくれたので全員が揃うのは葬式以来2年ぶり。我が家にこんなに人が集まるのも2年ぶりである。2年前にはいなかった長女の娘(8ヶ月)が加わり、記録的熱暑のなか賑やかな集まりになった。
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左が一周忌の時の塔婆で右が今回三周忌の塔婆。他の宗派のことは知らないが臨済宗では一周忌を「小祥忌」と言い、三周忌を「大祥忌」と言う。法要を始める前に和尚さんが「大祥忌」とは、残された人の祥を願うと言う意味がこめられているのだと語る。法要が始まるとおのずと視線は妻の遺影に。すると和尚さんの言葉通り妻が残った私や子供たちを見つめているような気がした。その日の夜、LINEで娘も私と同じように「お母さんに見守られているような気がした」と言っていた。2年前にはいなかった孫娘(8ヶ月)を見て喜んでくれたのだろうと思った。残された者はいつも見守られていると思って生きている。素朴だが大切なことなのだと思った。
「小祥忌」の塔婆は今年のお盆が終った日の朝、お寺へ納め焼いてもらう。「大祥忌」の塔婆は一年間お墓に備え、来年のお盆が終ってから焼いてもらう。

長女一家は月曜から仕事なので28日(日曜)の朝に来て夕方には松江へ戻ったが、この6月に母子帰国した長男一家は26日の最終便で出雲に来て、30日の夕方の便で東京に戻る。長男の一人息子はアメリカで小学2年生を終えて、6月に日本の3年生に編入したばかり。2年前の出雲で虫取りの虜になっていたので今回も虫取り意欲満々で戻って来た。2年前虫取りマスターと尊敬されていた私は炎天下、2年前よりさらに暑くなった畑に引っ張り出され目が回りそうになる。
かたわら三周忌の準備もある。
当日朝には仏壇にお供えする仏膳を作らないといけないので、長男のお嫁さんに仏膳の作り方をレクチャー。正直に煮物など作っていると大変なので私流の手抜き(例えばスーパーで煮物のおかずを買って来てすますとか)を教える。
お経が終った後に出す冷たいおしぼりや冷たいお茶の出し方、お布施の渡し方なども教える。
11時から始まり、12時には終わったが、それからは孫たち9才、3才、8ヶ月の相手となる。
9歳児は田舎には遊びに来たとしか思っていないのでトンボだ蝉だの、池の魚を捕まえるなどと大騒ぎ。帰京したらサマースクールがある孫が可愛そうなので付き合ってやりたいのだが私は何日も前から庭の草取りや布団を干したり、法要が始まる前からかなり疲れていたので長男にSOS。
サマースクールと言うのは帰国子女の為の日本語の補修教室。実は孫は帰国子女が集まることで知られている公立小学校に編入したのである。その学校では公立なのに独自に帰国子女対策していて、日本語が遅れている子のために夏休み教室を開いているのだ。孫のクラスにも三人帰国子女がいるのだそうだ。三年生だけで9人いるらしい。
国語辞書の引き方に面食らっている。「あかさたなはまやらわ」と奮闘しておる。
あっと言う間に帰京の30日。初めは怖がっていたマルコと翌日には友達になり、出発の時にはマルコと別れるのが悲しいと父親にすがりついて泣いていた。出雲から帰りたくないと泣いていた。
見守ってやっておくれと妻に頼む。
布団を干したり、シーツを洗ったりしたので、明日からいつもの生活にもどれるはずである。

7月21日に出雲も梅雨明けし二日目。途端に蒸し暑さが倍増の感あり。前線の位置が変わったのだから当然のことなのだろうが一変すると老体にはずしりとこたえる。今朝も6時過ぎにマルコと散歩に出るがもう暑い。7時前にはぐっしょり汗をかいてもどる。この一週間が思いやられる。
実は7月28日が妻の三回忌。早いものでもう2年になる。葬儀も家族葬だったので三回忌も息子一家と娘一家の身内だけで行う。いくら身内だけと言っても妻の三回忌はきちんとしたい。息子一家も夏前に帰国したので会うのは二年ぶり。草ぼうぼうの田舎に迎えるわけには行かない。お墓もきれいにしないといけない。今週はずっとその準備に費やそうと思っているのだ。
すでに梅雨明けが宣言された21日から庭の草削りから始めた。
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左)7月21日
仏間の前の庭の草削りした後。暑いので一日で削った草が枯れる。和尚さんが庭から仏間に上がるので庭が草ぼうぼうでは恥ずかしい。5月に草削りしているのだがすぐに生えて来る。
右)7月22日
門から入ったところも削る。削ったところは見える所だけである。とてもこの炎天下庭全部の草削りはやってられない。
この日はこの後、お墓に除草剤を撒きに行く。お墓の草取りも直前にやると大変なので実は一ヶ月以上も前に除草剤を撒いたのだが、スギナだけが残っていたので2週間ぐらい前にスギナだけを退治していたのだ。その方法と言うのがゴム手袋をつけて除草液を直接刷毛でスギナに塗り付け、根から枯らすと言う必殺の退治法。おかげでスギナは退治したのだがまたぞろ雑草が目立つようになっていたのだ。
この日は敷布団も2枚干す。
そのかたわら押し入れをひっかきまわし寝具を探し回る。どこへ何をしまったのか忘れていて、シーツやタオルケット、夏掛けなどどれを使っていいのかさっぱり分からない。
実は2年前の妻の葬儀の時は、準備する余裕もなく、帰国して来た息子一家にはありあわせの寝具で我慢してもらったので、今回はせめて綺麗な寝具を使ってもらいたいのである。
7月23日
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敷布団1枚と夏掛け3枚を干す。
両親がベッドだったので、いつまでも使わない綿布団が残ってしまっていて、使わざるを得ないのである。夏掛けも一枚ずつ洗濯して干したので、3回洗濯する。
その合間に、息子一家が寝泊まりする離れを2年ぶりに掃除する。
エアコンが作動するか心配で2年ぶりにスイッチを入れ半日除湿する。
今日は母屋の片付けもする。
週末には花を準備しないといけないし、仏膳の準備もしないといけない。ああ、枕カバーも明日洗わないといけない。お布施の用意もしないといけない。父の三回忌の時の記録があるのだが、その額を見て今になって、あれでよかったのだろうか、少なすぎたのではなかったのだろうかと悩んでいる。

孫が生まれた。娘の二人目の子で、私にとっては息子の子と合わせて三人目の孫になる。
[病院内での写真は公開禁止なので削除しました]
新生児ICUの中ですやすやと眠っている。帝王切開は決まっていて予定より10日早めて今朝手術したのである。女の子で2500gだから心配はいらないようだ。1週間か2週間で退院できるらしい。娘は1週間で退院する予定。私は喜びはひとしおだが今はほっとしたと言うのが実感だ。この日を迎えるまでが余りにも慌ただしく、かつ心配ではらはらどきどきすることの連続だったからである。
娘から二人目ができたと報告があったのが春の初め。一人目の子ができるまで数年かかっていたし、高齢出産になるので二人目は望めないだろうと思っていたから驚いたけれどとても嬉しかった。だが、その頃娘夫婦は島根移住を進めていたので、私は一抹の不安を覚えた。長男がまだ1歳半なのにお腹に赤ん坊を抱えて移住が出来るのか誰だって心配になる。しかも幼い息子は車椅子の娘の膝に乗って移動するのが日常である。どんどんお腹が大きくなって行くのに大丈夫だろうかと心配したが、娘は「大丈夫、大丈夫」と5月の連休には出雲に帰り、婿さんは面接、二人して家探しと保育園探し。結局時間が足りなくて松江にアパートを借りて8月末に引っ越し。環境の変化に真っ先に音を上げたのがワンコ。血を吐いて、急遽、私が預かることに。娘は二歳になった息子を膝にのせて車椅子で保育園の送り迎えの島根移住新生活。
そして、悪夢のあの日。私が孫の運動会の帰りに横転自損事故。娘一家に大迷惑をかける。それが、10月12日。娘が急遽入院することになったのが10月14日。娘はそれから51日も入院していたのだ。
(その間は義母が東京から駆けつけて来て2歳の孫と息子の世話をしてくれていた。感謝!)
実は娘は出血していたのだ。
その出血があったのが私が事故を起こした10月12日の夜。翌日、病院に行って治療を受けたが一度は収まったのだがまた出血があって、結局安静にするために長期入院になっていたのだ。
それを聞いた時、私は娘は私の事故のショックで出血したと思った。ありうることである。後に娘から胎盤の位置が下がっているからある程度の出血は避けられない状況にあったのだと知らされた。多少は救いになったが、それでも精神的ショックが出血のきっかけになったのではないかとずっと気に病んでいたのだ。もしそうだったら申し訳ない事をしたと自責の念にずっとかられていたのである。
最初に東京の病院の紹介で入院した病院では、34週以内に帝王切開した場合には、新生児ICUがないので転院しなければならないと聞いていた。心配した娘はもしものことを考えて病院と交渉し、新生児ICUのある今の病院に転院した。それを聞いた時は安心もし、さすがは娘と頼もしく思ったものだった。転院した病院でも少し出血はしたが無事に乗り越えた。やはり安静が効いたらしい。車椅子だとどうしても血の巡りが悪くなるので胎児に栄養が回りにくくなるが、安静にしていると血の巡りがよくなり栄養状態も良くなるそうで、最初の病院に入院した時は一週間で500gも体重が増えた。2400gになったと聞いた時はこれなら大丈夫とすこしずつ不安が解消され、35週に入った先週にはようやくここまで漕ぎつければと私も勇気を得て、今日のこの日を迎えた次第でした。
娘によると、手術室には医師が三人もいて、看護師が4人いて、生まれたら小児科医も来て診てくれたよし。これなら安心だと言っていた。
私も今日は出雲に帰って一番嬉しく心からゆったりできた午後だった。
小春日和の一日だったので、夕方には新内藤川の土手をマルコと61分ものんびりと散歩した。酒が飲めるなら飲みたい夜だった。孫娘の顔を見に行くのが楽しみだ。

早いもので妻の一周忌が来た。娘と二人でするつもりでいたら、娘が来れなくなったので私一人でする。
娘は東京でオンラインで参加する。スマホで映した動画を送り、娘はその動画を見ながら和尚さんの読経に合わせて拝む。事情があって来れなくなった者には有難い。世の中便利になったものだが、二歳になる孫が風邪を引いていてひっきりなしに咳をしていて、その咳が聞こえて来るのは和尚さんには了承済み。終ったら娘もスマホから御礼を言う。
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胡蝶蘭は妻の高校時代の友人が送って下さったもの。一人だけの一周忌は寂しいと思われるかもしれないが自分はそうは思わない。華やかなものが好きだった妻のために贈ってくださる友人がいる。看取りから葬儀、一周忌と自分が一人することは周知して貰っているので遠く離れた所から手を合わせてくれていると思う。忘れている人がいてもそれでいい。何かの時に思い出してもらえれば。
仏膳は今朝作った。と言っても、煮しめと胡麻和えと香の物は総菜を買って来た。朝作ったのは味噌汁だけ。それだけでも男にとっては何気に疲れる。
一人でも一周忌はきちんとやる。手抜きしないと決めていて、一週間くらい前から庭掃除や墓掃除などを少しづつやって来た。連日暑いので草抜きなど長時間できないのだ。早朝や夕方やるのだが、朝も7時になるともう暑くて外にはいられない。それくらい暑かった。
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さすがに疲れたので、今日の昼は一人直会(なおらい)で羽根屋で割子そば六段も食う。その後、妻を分骨している妻の母の永代供養墓にお参りに行く。毎日、今日が一番暑いと言っていたが、今日が一番暑かった。こんな時間に表に出ることはなかったのでよけいにそう感じたのかもしれない。
3時過ぎころから遠雷が聞こえていたが、7時過ぎ雷が近づいて来て突如激しい雨になる。にわかに涼しくなる。雨も今の時間は止んだようだ。去年の今頃は妻が息を引き取った頃だと思い出しながらこの記事を書いている。

妻の言葉・再会語録4(通算41)

2020年はコロナ騒動が始まる年である。これまでは私も弁当を買って行き、一緒に昼ご飯を食べていたのだが、もうこの頃は昼食の介助をしていて自分は食べていないことが分かる。

2020.1.26

「目が見えるといいな」

特養に昼食介助に行った時、ふと漏らした言葉。この時はよく見えたのがよかったと言う意味合いに取れた。しばらく前からものが見えなくなっていて、目に関することで喋ったのは初めてだったので、この言葉にどきっとさせられた。

2020.2.2

昼食介助で好物のメンチカツを小さく切っていたら

「どこ、どこにあるの」

テーブルの上の左斜め前で切っているのにわからないようだ。

フォークに差して目の前においてもわからないようだ。どのように見えているのか手をのばしても違う場所をさまよっている。フォークを手の近くに持って行ってもうまくつかめない。にぎらせてやっても口にうまく運ぶことが出来ず唇の下の方に運ぶ。

どこまで見えているのか。

2020.2.5

私に向かって「おとうさん」と、言って

「おとうさんと言うようになったよ。〇〇ちゃん(娘)たちもおとうさんと言う?」

※私のことはこの頃も「おとうさん」と言ってたのに妙なことを言う。

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「早く四つ角(川尻)まがらないかな。まがるとすぐだから」

「ハリーアップ ゴートウ 外城(川尻)。ママちゃん、乗って来なかったね」

※子供の頃、バスに乗って自宅のある外城へ戻る時の記憶。母親はこのバスに乗って戻って来たのだろう。

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日光浴していて

「気持ちいい、ベリー、カンフォタブル」

※特養で昼食前に車椅子散歩していた時のこと。

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昼食介助していて

「おじいちゃん、どこのおじいちゃんですか」

はじめて「お爺ちゃん」と呼ばれる。ショック。

「日本国民ですか」

※何人に見えたのだろう。

 

2020.2.9

担当の職員さんから、とても食が細くなった。本当に食べなくなり、リンゴも残してしまうと言う。(リンゴは以前は8分の12個食べていたのに、その1個を残す)

足をマッサージしていると、半分寝ぼけて

「墓屋さん連れてって」

「どうするの?」

「ママちゃんのお墓を買うの」

こんなことを言うのは初めて。ママちゃんが死んだことは教えていないので、母親が死んだと思う気持ちが芽生えたのだろうか。

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「おうち帰りましょう」「どうするの?」

「お金とって来るの」「お金どうするの」

「卵を買うの。卵と白菜を買うの」

脈絡が飛んで

「目薬さしてください。お願いします。先生が暇な時に」

「野菜買って帰ったら、先生上がってください」

脈絡が飛んで

「早く目薬さしてください。いつも嫌がるのに、今日は我慢する。目こんなに開いている」

 

2020.2.12

「ヒロアキ兄ちゃんと私ならいい子ができるだろうね」

「〇〇(息子)と△△(娘)がいるよ」

「あっ、そうだった。かわいいもんね」

2020.2.19

肩を揉みながら「モンダミン…」とふざけると、揉んでいる手を噛むふりをして

「カンダミンだよ」

※こういう返しをしてくれた時はほっとしたものだ。いかにも妻らしくて。

2020.2.22

「お前死ねよ」

「死んでどうする」

「補償金を貰うんだ。家族どうにか暮らして行くから、保険金何度も貰えるようにするんだ」

※このへんも妻らしくて笑って聞いていた。

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「自分で死ねよ。死ねないんだろう。誰かに殺して貰えよ」

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「今日、私死んでゆくんだ。みんな元気に過ごせよ」

※笑って聞いてはいられなくなるようなことも言ったものだ。

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「焼酎買ってこい、そしたらグーグー寝てやる」

 

台所の窓から隣の庭で鳴く蝉の声が聞こえて来た。ジイ~ッと鳴く声はニイニイ蝉だ。夏が近くなると真っ先に鳴き出す小さな蝉である。今年初めて聞いて、ああ、夏が近づいたのだなあと思ったのだが、そう言えば去年は蝉の初鳴きに気がつくこともなかったなあと思い出す。手帳を見たら、今日の7月3日が妻が救急で県中に運び込まれた日と分かる。あれからもう一年か。今日のように蒸し暑い日だったと思う。コロナ真っ盛りの救急の待合で何の病気だろうと言う不安とずっと面会できなかったので少しでも面会出来たらという期待の入り混じった状態で待ち続けていた。その日に誤嚥性肺炎と診断されたのか、翌日診断が下ったのかは忘れたが、翌日から入院。誤嚥性肺炎と説明を受けた瞬間、とうとう来るべきものが来たと観念したことだけは覚えている。妻の最後が来る時は誤嚥性肺炎で、絶対に助からないと覚悟していたのだ。7月28日まではこんなことが自分たちの身に起きていることが信じられないままにただその日に向かって毎日毎日を過ごしていたように思う。数日して退院した時は奇跡的に治ったと思った。コロナ禍でも会えて元気になったようにも見えた。だが三日目にまた誤嚥性肺炎を起こし、急性膵炎も併発していることが分かり、後は看取りをどうするのかと葬式をどうしようという日々のなかで、毎日、妻に15分のオンライン面会で呼びかけ続けるだけであった。
あれからもうすぐ一年、一歳にならなかった孫はもうすぐ二歳。スマホでビデオ通話すると私を見て「じいじい」と言って手を振ってくれる。いつも思う。こうして妻に「ばあばあ」と言って手を振ったらどんなに妻は喜んだであろうかと。その娘一家は8月の終わりには島根に戻って来る。生きていたらもっと会えたであろうに。もっと嬉しい話もある。二人目の子供が暮れには生まれる。子供好きの妻がどんなに喜ぶか。こうして妻が生きていたらどんなに喜ぶだろうかというさまざまなことを想像しながら私たちは生きて行くのだなと思っている。

妻の言葉・再会語録3(通算40)

特養を見舞った時の会話である。死ぬおよそ三年前になる。今思うと精神的にも肉体的にも弱って来たと思う。

2019.9.7

「曽田博久は私の大切な夫だぞ」

2019.9.8

「〇〇、私が英語がしゃべれないと思ってなめてる」
長男の孫が外国にいて英語をしゃべることは覚えている。

2019.9.16

「川尻はきたない」

「早く連れて行って下さい。川尻」

「なかみどり(川尻の近く)でお魚を買って帰るの。お刺身」
生まれ育った熊本のこと。

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マッサージの時、足を引っ張ってやると

「気持ちいい」

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「駅に着いたら立たせてよ。外城(川尻の家の近くのバス停)に着いたら抱っこして立たせてよ」

「二階に上がって布団敷いてね」

「靴はかせて、歩くから」

2019.10.5

「助けて下さい」

「どうするの?」

「海へほうり込んでください……身体を投げて、海へ。そうするとひっかかっているものが取れるから。いっしょに水の中に入って取ってよ……ホテルに上がったら全部ふいてよ……私を抱えて捨ててください」

「何がひっかかってるの?」

「うんち……ウンチの後のウィスキーがおいしい」

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「川に入れてください。流されて向こうへ行くの」

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「切り取る難病なの。切り取って後で一枚あげる」

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「川に入るのよ。おしりまできれいに洗ってね」

支離滅裂なことをいうことが多くなったような気がする。

2019.10.9

「私が死んだらお前も死ねよ。いいな、わかったな、はじめ」

「俺ははじめじゃないよ」

「貴様は△△はじめだ」※はじめは妻が3歳の時に死んだ父親。

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「窓を閉めて死衣装を着せろよ」

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「お前は私が死んでも東京で働けよ。東京堂薬局(はじめの姉の薬局)御礼奉公するんだ。そして給料をママちゃんにやるんだ。ママちゃんを家でゆっくりさせろ。働かせるんじゃないぞ。家でゆっくり寝させろ。それか病院でゆっくり寝させろ。何もさせるな。うろうろしないようにしろ。そうしないとはじめを殺すからな。私が」

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「私は死ぬのか。死ぬと言ったか、医者が」

「言わないよ」

「死ぬか死なないかどっちかはっきりしろ。私は死にたくないんだから。ママちゃん連れて来て。私、死にたくないんだから、私が死ぬならママちゃんも死んで。はじめ、あいつを殺せよな。お前、出来るか。あんなにしっかり働いてくれたんだから、お前、殺せるか。お前、猫も殺せ。猫も一緒に殺せ。猫は一生懸命私を舐めてくれる。奇麗になる。一晩中舐めてくれる。奇麗になってから焼くんだ。タマも一緒に焼けよ。タマも一緒だと寂しくないからな。タマも一緒に墓に入れるんだ。いいな、はじめ。分かってるか、はじめ」

※今日は特養のベッドに寝たまま延々としゃべり続ける。

妻にとって空想の父親は唯一無二の絶対的存在で、現実の母親には常に批判的だったのに、この時はまったく真逆なことを言う。不思議に思ったものだが、心のどこかで早く死んで妻と娘に苦労させた父親を怨む気持ちがあったのかもしれない。

2019.10.12

「早く作って」

「何を?」

「赤ちゃん、うるさいよ」

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「早く部屋へ帰ろうよ」

「ここが部屋だよ」

「違う、作りが違う」

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「〇ちゃん(娘)、可愛いもんね。ぎゃあぎゃあ泣いてた。こころえて泣いてた」
【こころえて泣いてた】は妻独特の表現。

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右足をマッサージしていると

「ああ、気持ちいい、足が。右ばかり使っているから痛かった」

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メモしていると

「何書いてるの。足が痛いと書いてるの?それを先生に見せるの?」

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「〇ちゃん(娘)、来ないかな。この頃、おしゃれしてるよ。お金かけてるもん」

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「〇ちゃん、こうやったら来ないかな」

ベッドで寝たまま手を振る。

「スチュワーデスさんに連れられてくるよ(手を振る)」

2019.12.4

特養へ行き「誰だ?」と声を掛ける。

「分からない」

「夫だよ、曽田博久だよ」

「どこで結婚した」

「出雲大社でしただろう」

「じゃあ、連れて帰って下さい」

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「うちへ連れて帰ってください。外城というところ」

11月の末、川尻の実家を見に行ったら、バス路線は廃止、外城のバス停もなかった)

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「先生、起こしてください」

「俺は先生じゃないよ」

「お父さんも先生なの、いま」

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「先生、私、アメリカに行ってたの。楽しかったよ。こわいこともあったけど優しくしてもらった。アメリカのカリフォルニア。いい家でした。今度先生行きましょう。お正月に。先生の家の飛行場あるでしょう。そこから乗れば近いですよ。日曜日に行きましょう。奇麗なお姉さん二人いますよ。先生、国際結婚したらどうですか」

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川尻の実家の話。

「二階に12畳半あって日が入ってあったかい」

11月末に行った時、確かに二階は12畳半あった)

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