曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: My Treasure

何と5㎏で1500円の米を買った。売ってくれたのは買い物支援で移動販売をしているおばあさん。と言っても多分、私と同年齢だと思う。週二回、魚や野菜、かまぼこ、豆腐、煮豆、納豆、コロッケ、漬物などに、パンやお菓子、果物などを売って回る。他に食べたいものがあれば、注文したら次に届けてくれる。俺は個人的に毎回必ず、炊き込みご飯やばら寿司、赤飯のうちのどれかを頼み、酢の物やいろいろな煮物なども頼んでいる。
その人が5㎏で1500円の米が欲しければ持って来ると言ったのが前々回。すでに一人注文しているお客がいて俺が二人目。もちろん二つ返事で注文する。早速その日の夕方、運んで来てくれる。
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5㎏と言う話だったが、なぜか3㎏入りの袋が3個で9㎏。もっと欲しかったぐらいだから大歓迎。2700円払う。銘柄はコシヒカリでここらあたりで作った米である。うちの隣家も副業で米を作っているが「最近は猛暑でコシヒカリと言っても、出雲平野のこのあたりのは美味しくないよ」と言っていたので、期待しすぎないように早速その夜焚いて食べる。たまたま前日は初カツオの刺身を食べて旨かったので、その日もまた初カツオの刺身を買っ来て食うが、御飯の美味しいこと。昨日のご飯とそん色なし。隣の奥さんが美味しくないと言ったのは謙遜もあるようだ。
昨日、移動販売にもっと頼めないかと問うたら、この米はやはりこのあたりの年取った農家が好意でわけてくれたもので、これ以上はないが、農家の知り合いは沢山あるので、もし安くわけてくれたら持ってきてくれると言う。みんな、年取った農家ばかりで、減反だの作るのやめろだの、飼料米を作れだのと言われたりして、国の農政にふりまわされた人たち。みんな、もう病気持ちで米作りに、未来も情熱も持っているわけではないので、気心の知れた人には好意から「持ってけ」と分けているらしい。
今日、イオンで米の値段を見たら、イオンのBESTPRICEマークの米が5㎏で3980円(消費税なし)、商品名島根こしひかり5㎏が3580円(消費税なし)。
備蓄米が放出されても、5㎏で1500円には絶対にならないだろう。貴重な米である。毎日、宝物のように頂こう。

どうなることかと思ったパソコンが無事に元気になって戻ってきた。
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話は6日前に戻る。3月5日の夜、ついにパソコンが動かなくなったのである。調子が悪いのでもう終了しようと思って、✖をクリックしてもうんともすんとも言わず画面が消えてくれないのである。強制終了するしかないと思って強制終了しようと思っても何度やっても強制終了もきかない。これはもう買ったところで診てもらうしかないとその夜はパソコンの蓋を閉じる。
実は調子が悪いのは去年の秋からで、どのキイを打っても何をしてもとにかく反応が遅かったのだ。それが年を明けてからはカーソルもすぐに動かかなくなった。こちらはカーソルは動いているつもりで変換しても、全然変換がされていないことがしょっちゅう起こるようになった。よく調べたらカーソルは前にあった場所にそのままあり、そこで変換されているのである。これが4、5行前なら何とか気が付くのだが、前のページになると間違って変換されたところを訂正するのも一苦労だった。
フォルダもすぐに開かない、開いても次に原稿を開こうとしても、これもすぐに開いてくれない。
いらいらストレスは高じるばかり。早く修理に出さなければと思いつつもパソコンのない生活は考えられず、もう少しもう少しと頑張っていたのだがついに限界にきたので、翌日、3月6日、ヤマダ電器のサポートステーションに持ち込む。買ったのは2021年の7月だからまだ4年にもならない。NECのLAVIEで悪いものではないはず。
「起動、動作が遅い」「プログラムが開かない」と言うことで、パソコンの内部を調べ、パソコンに異常がなければメンテナンスすることになる。結果、1日かけて診断結果に異常なし。よって2日かけてのメンテナンス。預ける時にデーターが消えることがあるかもしれないことを了解しなければならず、10何年間のデーターが消えることを想像したら背筋に冷たいものが流れ落ちたが、重要なデーターはすべてグーグルドライブに入っており、グーグルクラウドに保存されているので大丈夫とパソコンに詳しい後輩から教えられほっとするも、でも、やっぱりどこかしら不安で落ち着かない三日を過ごす。
一昨日の9日の午後には直ったのだが、日曜で混雑していて待たされる可能性が高かったので、昨日の10日に受け取った。器械的には一切不具合はなく、二日間のメンテナンスでは重い不要なプログラムを削除したり、更新していなかったWindowsの更新をした。費用は16,900円。
今はこうしてブログの更新を進められている。ありがたいことである。いやはや今思うとパソコンのない数日はまるで別世界にいたような気がする。実際、もしパソコンが壊れてデーターも消失してしまったら、それは即私の人生の終わりを意味するのだから、十数年かかって書き溜めたものや、未発表のものなど私の命というべきものが詰まった、いわば分身と言っても過言ではない。私の後輩のライターもクラウドに保存するだけでは不安で、なにが起こるかわからない、自分たちにとってデーターは命より重要だからと二重にも三重にもデータを保存していることを知る。見習わなければ。









7月28日に妻の三周忌を行う。去年の一周忌は長男一家は外国、長女一家は長女が妊娠中でしかも松江へ引っ越しする一か月前だったので参加できず、私一人で行ったのであるが、今年は長男一家も長女一家も来てくれたので全員が揃うのは葬式以来2年ぶり。我が家にこんなに人が集まるのも2年ぶりである。2年前にはいなかった長女の娘(8ヶ月)が加わり、記録的熱暑のなか賑やかな集まりになった。
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左が一周忌の時の塔婆で右が今回三周忌の塔婆。他の宗派のことは知らないが臨済宗では一周忌を「小祥忌」と言い、三周忌を「大祥忌」と言う。法要を始める前に和尚さんが「大祥忌」とは、残された人の祥を願うと言う意味がこめられているのだと語る。法要が始まるとおのずと視線は妻の遺影に。すると和尚さんの言葉通り妻が残った私や子供たちを見つめているような気がした。その日の夜、LINEで娘も私と同じように「お母さんに見守られているような気がした」と言っていた。2年前にはいなかった孫娘(8ヶ月)を見て喜んでくれたのだろうと思った。残された者はいつも見守られていると思って生きている。素朴だが大切なことなのだと思った。
「小祥忌」の塔婆は今年のお盆が終った日の朝、お寺へ納め焼いてもらう。「大祥忌」の塔婆は一年間お墓に備え、来年のお盆が終ってから焼いてもらう。

長女一家は月曜から仕事なので28日(日曜)の朝に来て夕方には松江へ戻ったが、この6月に母子帰国した長男一家は26日の最終便で出雲に来て、30日の夕方の便で東京に戻る。長男の一人息子はアメリカで小学2年生を終えて、6月に日本の3年生に編入したばかり。2年前の出雲で虫取りの虜になっていたので今回も虫取り意欲満々で戻って来た。2年前虫取りマスターと尊敬されていた私は炎天下、2年前よりさらに暑くなった畑に引っ張り出され目が回りそうになる。
かたわら三周忌の準備もある。
当日朝には仏壇にお供えする仏膳を作らないといけないので、長男のお嫁さんに仏膳の作り方をレクチャー。正直に煮物など作っていると大変なので私流の手抜き(例えばスーパーで煮物のおかずを買って来てすますとか)を教える。
お経が終った後に出す冷たいおしぼりや冷たいお茶の出し方、お布施の渡し方なども教える。
11時から始まり、12時には終わったが、それからは孫たち9才、3才、8ヶ月の相手となる。
9歳児は田舎には遊びに来たとしか思っていないのでトンボだ蝉だの、池の魚を捕まえるなどと大騒ぎ。帰京したらサマースクールがある孫が可愛そうなので付き合ってやりたいのだが私は何日も前から庭の草取りや布団を干したり、法要が始まる前からかなり疲れていたので長男にSOS。
サマースクールと言うのは帰国子女の為の日本語の補修教室。実は孫は帰国子女が集まることで知られている公立小学校に編入したのである。その学校では公立なのに独自に帰国子女対策していて、日本語が遅れている子のために夏休み教室を開いているのだ。孫のクラスにも三人帰国子女がいるのだそうだ。三年生だけで9人いるらしい。
国語辞書の引き方に面食らっている。「あかさたなはまやらわ」と奮闘しておる。
あっと言う間に帰京の30日。初めは怖がっていたマルコと翌日には友達になり、出発の時にはマルコと別れるのが悲しいと父親にすがりついて泣いていた。出雲から帰りたくないと泣いていた。
見守ってやっておくれと妻に頼む。
布団を干したり、シーツを洗ったりしたので、明日からいつもの生活にもどれるはずである。

7月21日に出雲も梅雨明けし二日目。途端に蒸し暑さが倍増の感あり。前線の位置が変わったのだから当然のことなのだろうが一変すると老体にはずしりとこたえる。今朝も6時過ぎにマルコと散歩に出るがもう暑い。7時前にはぐっしょり汗をかいてもどる。この一週間が思いやられる。
実は7月28日が妻の三回忌。早いものでもう2年になる。葬儀も家族葬だったので三回忌も息子一家と娘一家の身内だけで行う。いくら身内だけと言っても妻の三回忌はきちんとしたい。息子一家も夏前に帰国したので会うのは二年ぶり。草ぼうぼうの田舎に迎えるわけには行かない。お墓もきれいにしないといけない。今週はずっとその準備に費やそうと思っているのだ。
すでに梅雨明けが宣言された21日から庭の草削りから始めた。
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左)7月21日
仏間の前の庭の草削りした後。暑いので一日で削った草が枯れる。和尚さんが庭から仏間に上がるので庭が草ぼうぼうでは恥ずかしい。5月に草削りしているのだがすぐに生えて来る。
右)7月22日
門から入ったところも削る。削ったところは見える所だけである。とてもこの炎天下庭全部の草削りはやってられない。
この日はこの後、お墓に除草剤を撒きに行く。お墓の草取りも直前にやると大変なので実は一ヶ月以上も前に除草剤を撒いたのだが、スギナだけが残っていたので2週間ぐらい前にスギナだけを退治していたのだ。その方法と言うのがゴム手袋をつけて除草液を直接刷毛でスギナに塗り付け、根から枯らすと言う必殺の退治法。おかげでスギナは退治したのだがまたぞろ雑草が目立つようになっていたのだ。
この日は敷布団も2枚干す。
そのかたわら押し入れをひっかきまわし寝具を探し回る。どこへ何をしまったのか忘れていて、シーツやタオルケット、夏掛けなどどれを使っていいのかさっぱり分からない。
実は2年前の妻の葬儀の時は、準備する余裕もなく、帰国して来た息子一家にはありあわせの寝具で我慢してもらったので、今回はせめて綺麗な寝具を使ってもらいたいのである。
7月23日
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敷布団1枚と夏掛け3枚を干す。
両親がベッドだったので、いつまでも使わない綿布団が残ってしまっていて、使わざるを得ないのである。夏掛けも一枚ずつ洗濯して干したので、3回洗濯する。
その合間に、息子一家が寝泊まりする離れを2年ぶりに掃除する。
エアコンが作動するか心配で2年ぶりにスイッチを入れ半日除湿する。
今日は母屋の片付けもする。
週末には花を準備しないといけないし、仏膳の準備もしないといけない。ああ、枕カバーも明日洗わないといけない。お布施の用意もしないといけない。父の三回忌の時の記録があるのだが、その額を見て今になって、あれでよかったのだろうか、少なすぎたのではなかったのだろうかと悩んでいる。

孫が生まれた。娘の二人目の子で、私にとっては息子の子と合わせて三人目の孫になる。
[病院内での写真は公開禁止なので削除しました]
新生児ICUの中ですやすやと眠っている。帝王切開は決まっていて予定より10日早めて今朝手術したのである。女の子で2500gだから心配はいらないようだ。1週間か2週間で退院できるらしい。娘は1週間で退院する予定。私は喜びはひとしおだが今はほっとしたと言うのが実感だ。この日を迎えるまでが余りにも慌ただしく、かつ心配ではらはらどきどきすることの連続だったからである。
娘から二人目ができたと報告があったのが春の初め。一人目の子ができるまで数年かかっていたし、高齢出産になるので二人目は望めないだろうと思っていたから驚いたけれどとても嬉しかった。だが、その頃娘夫婦は島根移住を進めていたので、私は一抹の不安を覚えた。長男がまだ1歳半なのにお腹に赤ん坊を抱えて移住が出来るのか誰だって心配になる。しかも幼い息子は車椅子の娘の膝に乗って移動するのが日常である。どんどんお腹が大きくなって行くのに大丈夫だろうかと心配したが、娘は「大丈夫、大丈夫」と5月の連休には出雲に帰り、婿さんは面接、二人して家探しと保育園探し。結局時間が足りなくて松江にアパートを借りて8月末に引っ越し。環境の変化に真っ先に音を上げたのがワンコ。血を吐いて、急遽、私が預かることに。娘は二歳になった息子を膝にのせて車椅子で保育園の送り迎えの島根移住新生活。
そして、悪夢のあの日。私が孫の運動会の帰りに横転自損事故。娘一家に大迷惑をかける。それが、10月12日。娘が急遽入院することになったのが10月14日。娘はそれから51日も入院していたのだ。
(その間は義母が東京から駆けつけて来て2歳の孫と息子の世話をしてくれていた。感謝!)
実は娘は出血していたのだ。
その出血があったのが私が事故を起こした10月12日の夜。翌日、病院に行って治療を受けたが一度は収まったのだがまた出血があって、結局安静にするために長期入院になっていたのだ。
それを聞いた時、私は娘は私の事故のショックで出血したと思った。ありうることである。後に娘から胎盤の位置が下がっているからある程度の出血は避けられない状況にあったのだと知らされた。多少は救いになったが、それでも精神的ショックが出血のきっかけになったのではないかとずっと気に病んでいたのだ。もしそうだったら申し訳ない事をしたと自責の念にずっとかられていたのである。
最初に東京の病院の紹介で入院した病院では、34週以内に帝王切開した場合には、新生児ICUがないので転院しなければならないと聞いていた。心配した娘はもしものことを考えて病院と交渉し、新生児ICUのある今の病院に転院した。それを聞いた時は安心もし、さすがは娘と頼もしく思ったものだった。転院した病院でも少し出血はしたが無事に乗り越えた。やはり安静が効いたらしい。車椅子だとどうしても血の巡りが悪くなるので胎児に栄養が回りにくくなるが、安静にしていると血の巡りがよくなり栄養状態も良くなるそうで、最初の病院に入院した時は一週間で500gも体重が増えた。2400gになったと聞いた時はこれなら大丈夫とすこしずつ不安が解消され、35週に入った先週にはようやくここまで漕ぎつければと私も勇気を得て、今日のこの日を迎えた次第でした。
娘によると、手術室には医師が三人もいて、看護師が4人いて、生まれたら小児科医も来て診てくれたよし。これなら安心だと言っていた。
私も今日は出雲に帰って一番嬉しく心からゆったりできた午後だった。
小春日和の一日だったので、夕方には新内藤川の土手をマルコと61分ものんびりと散歩した。酒が飲めるなら飲みたい夜だった。孫娘の顔を見に行くのが楽しみだ。

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