第五章 出雲の武士(2)

 

 炎と煙の向こうから髑髏(しゃれこうべ)がしゃべった。一瞬辰敬は地獄に落ちたのかと思ったが焚火の向こうから現れたのは骨と皮だけになった老人の顔だった。老人は身を乗り出し真上から辰敬の顔を覗き込んだ。

「わぬしは多胡の坊か」

 辰敬が頷くと髑髏が破顔した。

「やっぱりそうか……どこか似ちょると思っていたのじゃ……都から戻ったと聞いちょったけん、もしかしたらと思っておったのじゃ。がいになられたのう」

「小屋爺か」

 辰敬はむっくりと起き上がった。

「覚えちょってごしたか」

 嬉しそうに開けた口はただの穴だった。

「生きちょったのか」

 正直な感想だった。

 髑髏が憤慨した。

「わしが生きちょったからわぬしは助かったんじゃぞ」

「す、すまん」

「はははは、まあ、ええが。あれから何年経ったか。誰でも死んだと思うじゃろう。じゃがなあ、なかなか死なせてくれんのじゃ。なしてこげな世を生きなければならんのか。儂はよほど前世で悪いことをしたようじゃ」

 昔も同じ言葉を聞いた覚えがあったがより真に迫って聞こえた。

「たまげたぞ。どさっと音がしたから出てみたら、わぬしが倒れちょった。一体どげんしたことじゃ」

 辰敬は馬を責めに出たことを話した。毎日、馬を責めていること。なぜ屋敷に居たくないのか。いつまでも出仕がかなわぬことなどを洗いざらい話していた。

 小屋爺はふんふんと聞いていたが、

「はよう帰れ、屋敷では心配しちょるぞ。途中まで案内しちゃるけん」

 乾いた着物に着替えさせると追い立てるように小屋を出たが、

「ちょっと待っちょれ」

 小屋に戻ると、兎を一匹ぶら下げて出て来た。

「これを持って帰るんじゃ。兎狩りをして道に迷ったことにするんじゃ」

 小屋爺はにたりと笑った。

 小屋爺は谷川沿いに富田八幡宮の近くまで案内すると、

「また、遊びに来てごせ」

 目ヤニを拭うと、片目をつぶった。

 

 八幡宮の横を抜け鳥居の前まで来た時には雪は止み、あたりはすっかり暗くなっていた。

 前方の闇に松明が揺れていた。

「若……」

 炎が駆け寄り辰敬を浮かび上がらせた。

「御無事でしたか」

 多胡家の下男だった。下男は日暮れ前、富田川の対岸で馬が見つかり大騒ぎになっていると言った。

 帰宅すると多胡家のみならず近所の屋敷の門も開いたままで松明を持った奉公人達が屯していた。

 下男が屋敷に駆け込むと正国が飛び出して来て達磨が火を吹いたように怒った。

「たわけ、皆を心配させおって。ご近所も人を出して雪の中を探して下さったのじゃぞ。一体何をしておったのじゃ」

「申し訳ございません」

辰敬は深々と頭を下げるとぶら下げていた兎を持ち上げた。

「にわかに兎狩りを思い立ち、夢中で兎を追っているうちに山へ迷い込み、兎を仕留めたのですが崖から落ちてしまい、馬ともはぐれてしまったのでございます」

 正国は初めて兎に気がつき目を剥いた。一瞬言葉が詰まった。兎狩りは武士のたしなみでもある。

「むむっ……兎狩りをするならすると言ってから出て行け」

「申し訳ありません。これからはそういたします」

「たわけ、しばらくは謹慎じゃ。ご近所にも謝って回れ」

 小屋爺の入れ知恵で窮地を救われたが、辰敬は一月いっぱいは屋敷を出ることが許されなかった。

 

 梅が咲き二月に入るとようやく兄の勘気がとけ馬にも乗れるようになった。但し、何処へ行き何時に戻るか必ず約束させられた。

空も日差しも春めいて来て雪も解け日々地肌が広がって行く。辰敬は富田川の上流で対岸に渡ると、八幡宮の前を通るのは避け、手前から遠回りして八幡宮の裏へ回った。

そこで下馬すると、馬を引いて谷川沿いに進み、小屋爺の掘っ立て小屋を訪ねた。

「爺、俺じゃ」

「おお、やっと許しが出たか」

 小屋爺は辰敬の謹慎を知っていた。

「兎のお陰で軽くてすんだのじゃ」

 歯のない口が笑った。

「これは礼じゃ」

 と、濁り酒を詰めた小さな壺をさし出すと、小屋爺の顔が崩れて皺だらけになった。

「生まれて初めて盗みをした。見つからぬかとどきどきしたぞ」

 真夜中に台所に忍び込み壺に移して持ち出したのであった。

「坊は都へ行って気が利くようになったのう」

 壺ごとぐびりと喉を鳴らした。

「御立派になられた」

 辰敬は苦笑して首を振った。

「今度のことでますます評判が悪くなった。御奉公の話も当分あるまいと兄上に叱られた」

「ええが、ええが。すまじきものは宮仕えと言う。やがては嫌になるほど御奉公をしなければならなくなるのじゃ。お侍はのう」

「他人事だと思って」

 へらへら笑う爺さんが疎ましかった。

「違うぞ。儂は坊が好きだからじゃ。坊が戦で死ぬことは考えたくないのじゃ」

 真顔で辰敬の顔を覗き込むと表情が一変した。昔のあの懐かしい顔に。

「久しぶりじゃ。一勝負やらこい」

 片隅からこれまた懐かしい手製の将棋盤と駒を取り出して来た。

「待ってくれ。俺はもう何年も将棋はしとらん」

「なんじゃと、都で腕を上げたのではないのか。御屋形様の前で都の名人たちと勝負をしたのではないのか」

「将棋どころではなかったのじゃ……」

 辰敬の話に小屋爺はため息を漏らした。

「儂も和尚が死んでからは何年もしちょらん。ええ、金づるじゃったが……ま、お互い様じゃ。勝負、勝負じゃ」

 勝手に駒を並べ始めたので仕方なく辰敬は付き合った。呆気なく終わった。老いは無残だった。辰敬は昔のままだったがその昔でさえ相手にならなかった小屋爺はさらに衰えていた。小屋爺は哀しげに笑った。

「年は取りたくないのう」

 将棋盤を傍らに押しやると、

「もう将棋をやろうとは言わんけん、時々、顔を見せてくれんか」

 辰敬は優しい笑みを返した。

「俺もここしか来るところがない。人目があるけんそうそう来れんが、必ず来る」

「土産はいらんぞ。酒を盗むところが見つかったらえらいことじゃけん」

 辰敬は苦笑いした。

「もし、儂が死んじょったら、申し訳ないが埋めてごせ」

 真顔に真顔が頷いた。

 

 二月も半ばを過ぎてちょっと心配しながら顔を覗かせた。小屋爺は生きていた。せがまれて都の話をした。長い話が終わると、小屋爺は怪訝な顔をした。

「おなごの話が出て来んのう」

 辰敬はどきっとした。貧乏公家の家に通ったことは話したがいちのことは黙っていた。

「そげなもんおるか」

 小屋爺は大仰に驚いた。

「何年も都にいて好きになったおなごがひとりもおらんかったのか」

 辰敬はぷいとそっぽを向いた。

「おらんものはおらん」

 若さが光となってほとばしる顔を老いた目がしげしげと覗き込んだ。

「都のおなごは美しかったろうに。出雲とは比べ物にならんじゃったろうに。京極家にも美しい女中がおったろうに」

「婆ばかりじゃ。白粉を塗った狸みたいな女中ばかりじゃ」

 小屋爺はにたりと笑った。

「儂の目を誤魔化せると思っちょるのか。好いたおなごがおったのじゃろう。ほれ、赤くなった。うむ、よっぽど好いておったようじゃなあ。恥ずかしがることではないけん。聞かせてごせ」

「おらん言うちょるのに……」

「むきになるところがよけいに怪しい。ますます聞きとうなるじゃないか。坊が好きになったおなごじゃ。よほどええおなごに違いない。じゃからこそ聞きたいのじゃ」

「しつこいぞ。そげなことばかり言うともう来んぞ。帰る」

 辰敬は逃げ出すように小屋を飛び出した。 小屋爺の笑い声が背を嬲った。

 帰宅しても心の臓は波打ち続け全身の血が煮え立っていた。燃え上がった身体は冷めることなく胸の痛みは消えることがなかった。

いちを忘れた訳ではない。いつも思い出していた。だが、すぐに胸の扉の奥に押し込める術を身に付けていた。いちへの思いに浸っていたい気持ちは常にあった。だが、ひとたびいちの面影に捉まると辰敬はもう一歩も前に進むことが出来なかった。ただの生きる屍になり果てていた。それでは一日たりとも普通に生きて行くことが出来ない。だからこそ、男たるもの、武士たるもの、石になろうとしていたのにすべてを小屋爺が壊してしまった。

封じていた時間が長かった分、蘇ったいちの面影と記憶は辰敬を押しつぶした。せつなさが募り、日々続く苦しさに耐えかねた挙句、辰敬は小屋爺を訪ねようと思った。

なにもかも話せば楽になる。小屋爺は勝ち誇ったように笑うだろう。でも、小屋爺になら笑われてもいい。あの爺さんは不思議な爺さんだ。憎まれ口を利いても優しく。怒りも嘆きも空を流れる雲の如く。貧しく、無一物なのに豊かだった。小屋爺ならこの苦しさから救い出してくれる。そんな気がしたのである。

会いたい気持ちと一気に春が来たような陽気に急き立てられ、辰敬は遠駆けすると言い置いて朝早くに屋敷を出た。この頃には長兄はもうやかましいことは言わず半ば諦めたように放任していた。

雪は消え岩陰や木陰にわずかに残っているだけであった。辰敬は八幡宮の裏の森の中のいつもの場所に馬を隠すと小屋に向かった。小屋からはかすかに煙が出ていた。辰敬は入り口の筵をめくった。

「生きちょるか」

「おお、待っちょったぞ」

 焚火の側に横になっていた小屋爺がむっくりと起き上がった。

「聞いたか」

藪から棒に妙なことを言う。

「はあ、何のことじゃ」

「何じゃ、知らんのか。吉童子丸様のことじゃ」

 思いもかけない名が飛び出したことに辰敬は衝撃を受けた。出雲に帰ってから初めて聞いた名であった。表立っては決して語られることのない名である。ましてや辰敬の前では。どうしてそのような子の名が小屋爺のような世捨て人の口から出て来たのか。驚きの余り、辰敬の脳裡からは小屋を訪ねた目的はすっかり消え去っていた。

「吉童子丸様がどうかしたのか」

 小屋爺は呆れたような顔をした。

「何じゃ、本当に知らんようじゃな。儂はそのことで来たと思っちょったに」

「だから、早く教えてくれ。吉童子丸様がどうしたのじゃ。何かあったのか」

「今朝早く八幡に行ったぞ。この上の道を通って」

「八幡へ、なして」

「別宮におられる御寮人が病で伏せられたそうじゃ。そのお見舞いに行ったのじゃ」

「大方様の病はそんなに悪いのか」

 辰敬は驚いた。吉童子丸が行かなければならないほどなのか。

「さあ、そこまでは知らんがのう」

「それにしても、どうして、爺はそげなことを知っちょるんじゃ」

 小屋爺はさも当たり前のように嘯いた。

「こう見えても儂は御城下のことなら何でも知っちょるぞ。昔から物売りしてあちらこちらのお屋敷に出入りしたし、将棋で坊主や商人との付き合いもあった。今でも御城下には兎や鳥の肉を売りに回っておる。頼まれたら薬草も採って来る。どこのお屋敷にどんな病人がおるかも全部知っちょる」

「爺、薬草はあるか」

「ああ、いつ注文があってもいいように干してあるが」

「分けてくれ、金は後で払う」

「どうするんじゃ」

「大方様に届けるんじゃ」

「何じゃと」

「お見舞いに行くんじゃ」

「ば、馬鹿なことを言うでない」

「何が馬鹿じゃ。都でお世話になった御方じゃ。お見舞いに行くのが当たり前じゃろう」

「駄目じゃ、駄目じゃ」

 小屋爺の表情は一変した。これまで見たこともない鬼のように厳しい顔だった。

「わぬし、ばれたらどうなると思っておるのじゃ」

 辰敬は黙した。

「必ずばれるぞ」

 辰敬はキッと見返した。小屋爺に負けないくらい厳しい顔で。

「行かねばならんのじゃ」

吉童子丸はどんなにか不安な事か。寄り添い心配している者がいることを知って欲しかった。それが亡き御屋形様から守を仰せつかった辰敬であることを。

「教えてくれて礼を言うぞ」

 辰敬は飛び出した。

 小屋爺は小屋が崩れ落ちそうなほどの大きなため息をついた。

「しもうた……黙っちょればよかった……儂としたことが……」

 

 雪が溶け始めてから辰敬は何度か山道を登った。馬が踏みしめる一足々々が八幡に向かっていることに思いを馳せながらも、決して行くことはないだろうと切なく言い聞かせて。だが、今日は違う。八幡へ行くのだ。

 駒返しに辿り着いた。いつもはここで引き返したが今日は前を向いていた。はやる気持ちを抑えることが出来なかった。行くと決めたからには急がねばならぬ。馬腹に蹴りをくれるとドウと馬を励ました。

(大方様、辰敬がお見舞いに参ります。吉童子丸様、どれだけお会いしたかったか)

馬は一気に山道を下った。長く緩やかな山道であった。やがて視界が開けた。

北から東に向かって黒々と広がる大地に若い麦が緑を噴き上げていた。富田城下から中海に広がる田園に匹敵するほどの広々とした平野だった。この地が古代出雲の中心だったと言われているがその面影はどこを探しても見当たらない。すべては土の下だ。

馬は麦畑の中の道を北に走った。真っ直ぐ行けば中海に出る。一気に駆け抜けると街道にぶつかった。百姓に問うと別宮はこの街道を東へ行けばすぐだと言う。指さす先に鬱蒼と樹々が生い茂る小高い丘が見えた。

辰敬は丘の麓に着くと鳥居の前に馬を繋いだ。参道を行き石段を登ると広大な境内には古錆びた社がいくつも静まっていた。

突然現れた、少年の面影を残す武士が庵の場所を問うたので、社人たちは警戒の目をあわせたが、黙って境内の裏手を指さした。

陽の届かぬ深森の径を向かっている時から辰敬の胸はすでに塞がっていた。

(こんな寂しいところに大方様はいらっしゃるのか)

 が、門の前に立った時、辰敬の顔から愁いが退いた。門は屋根付きで築地塀に囲まれた屋敷が静まっていた。辰敬は庵と聞いていたので世捨て人の坊主や尼が結ぶ草庵のようなものを想像していたのだ。

 考えてみれば出雲守護吉童子丸の生母が亡夫を弔い、余生を過ごす場所はそれなりの格式を備えていて当然なのだ。辰敬のように未だに御寮人や吉童子丸を案じて訪ねようとする者もいる。国人領主の中にも京極恩顧の儀礼を欠かさぬ者がいると辰敬は聞いていた。

辰敬はそっと門番所に声を掛けた。

「申し、多胡辰敬と申す。大方様のお見舞いに参りました」

 門番所の小さな窓が開いたがすぐに閉じられてしまった。静まり返ったまま何の応答もなかった。

「お取次ぎ願います。辰敬が来たとお伝えください。吉童子丸様にもお見舞いの言葉をお伝えしとうございます」

 門番所から人が出て行く気配がした。

かなり待たされてから足音がすると門の内から男の声がした。

「御寮人様はお会いにならぬ。すぐに帰れと仰せじゃ」

 辰敬は呆然と立ち尽くした。

「一目お会いしたらすぐに帰りますゆえ、一目なりとも。お願いいたします」

 辰敬はがばっと膝をつくと両手をついてひれ伏した。

「ならぬ、ならぬ、帰れと言うのが分からぬか」

「後生でございます」

騒ぎを聞きつけて神職や社人たちが現れ遠巻きに見守っていた。辰敬は座り続けた。 どれくらい座っていただろうか、潜り戸が開き武士の顔が覗いた。

「入れ」

 辰敬は弾かれたように立ち上がると潜り戸に飛び込んだ。

 武士は京極家の家臣で御寮人の警固役であろう。険しい顔で辰敬を庭へ通した。屋敷も庭も広くはないが貴人の寡婦に相応しい瀟洒な佇まいであった。辰敬は縁の前の白洲に正座すると深々と平伏した。

「多胡辰敬にございます。お見舞いに参じましてございます」

 音もなく障子が開いた。

「苦しうない。面をあげなさい」

 懐かしい声に身体が震えた。そっと顔を上げると美しい顔が見下ろしていた。魂が震えた。変わらぬ美しさに魅了されたのだが、その美しさの裏に隠された悲哀とやつれに気がつくのに時間はいらなかった。頭巾は気品を演出する布で、その深い紫はこの世のすべての苦しみを包み込んでいるのだ。臥せていた身を起こしてしまったのかと辰敬は恐れ多さに身を縮めた。

「来てくれて礼を言う」

 辰敬はひれ伏した。

「じゃが、これからは何があっても来てはならぬ。よいな、はよう帰れ」

 うっと辰敬は声を呑んだ。砂利の上に膝を進め大きな声で訴えた。

「吉童子丸様にも一目ご挨拶を」

 吉童子丸がいるなら聞こえるようにと。

「ならぬ」

 障子の陰から厳しい声が飛んだ。現れたのはおまんだった。これまた懐かしい顔との再会になるはずだったが辰敬は声を失った。それほどおまんの老いは無残だった。御寮人より年上だが、さして変わらぬはずなのに皺だらけの牝狸になっていた。白粉を塗りたくるのを諦めたのだろうか。おまんは縁に出るとぴしゃりと障子を閉じた。

「大方様のお気持ちが分からぬか。病をおして会って下さったのじゃ。これ以上ご心配をおかけするな。よいか、これはわぬしのためであり、多胡家を慮ってのことぞ。早く、戻れ。言うまでもないが安国寺へ立ち寄ることは考えてはならぬぞ」

 隣の竹矢郷に御屋形様が葬られている安国寺がある。帰りに墓参するつもりでいた。警固の武士が辰敬を促した。辰敬は障子に向かって深々と頭を垂れた。砂利に額が埋まるほどひれ伏していたが、やがて立ち上がると踵を返した。背中で吉童子丸に詫びながら。

辰敬が去った後、おまんは膨らんだ袋があることに気がついた。警固の武士に改めさせると薬草の束がぎっしりと詰まっていた。

帰りの馬上で辰敬は詫びの言葉を繰り返していた。それは御屋形様に向けたものだった。墓参に行けなかったことを。

 

帰宅した時は冷え冷えとした夜の帳が降りようとしていた。屋敷は氷室だった。春の足音が聞こえていたのが嘘のように真冬に逆戻りしていた。暗く異様に静まり返っていた。小屋爺の危惧が当たったのだ。玄関にも誰も出て来なかった。

辰敬は兄正国の部屋に向かった。途中で出くわした女中が怯えたように逃げた。冷たい縁を兄の部屋の前まで来た時、辰敬の足は氷に張り付いたように止まった。障子が暗かった。火点し頃は過ぎているのに部屋に灯はなかったのである。兄がいることは分かっている。気配で分かる。辰敬の顔など見たくもなくて暗くしているのか、それとも怒りの余り火を点すことも忘れているのか。いずれにしても怒りの大きさは障子越しにも伝わって来る。

「辰敬にございます。ただいま戻りました。遅くなりまして申し訳ございません。お詫びに参りました」

 去年の暮れに遅く帰宅した時は小屋爺の機転でいい訳を用意していたが今回は何の言い逃れも出来ない。どれほどの雷が落ちることか、覚悟はしていても胸の動悸は抑えることが出来なかった。黒い影は微動だにせず一言も発しなかった。辰敬を睨みつけているのは分かっていた。辰敬はこの時ほど明かりのないことに感謝したことはなかった。兄の怒り狂った顔など正視出来たものではない。やはり正国は火を点すのを忘れていたに違いない。怒りの余り。

「今日のことは父上に報告する。お戻りになったら改めて父上のお叱りを受けよ。それまでは蟄居を命じる」

 影は荒々しく出て行った。