第三章 戦国擾乱(13)
「えっ」
「死期を悟られたのじゃ」
多聞は震えていた。声も身体も。握り締めた両の拳も。
「ああ、わしはなんちゅう不忠者じゃ……大馬鹿者じゃ……」
その拳でがんがん頭を殴りつけたが、はっと我に戻ると辰敬の胸倉を掴んだ。
「御屋形様の病は何じゃ。ご容態は。余命はいかほどじゃ」
辰敬は首を振った。
「詳しい事は何も……安国寺に伏せっておられるとしか」
多聞は愕然とした。
「なに、御屋形様は富田ではないのか。守護所におられるのではないのか。一体どういうことじゃ」
「我もそう思っちょったのじゃが……」
「儂とした事が、そんな事も知らなかったとは……ああ、御屋形様に申し訳が立たぬ……」
がっくりと首が折れたように項垂れてしまった。
それについては、辰敬も意外に思ったものだ。下向した政経一行は富田城下へ入るのが当たり前である。そこに守護所もあるのだから。それなのになぜ富田から北西に遠く離れた中海の湖岸に近い安国寺にいるのであろうか。
考えられる事は幾つかあった。御屋形様は守護所に入ったものの体調が悪化し、死期を悟って安国寺に移られたのかも知れぬ。もしかしたら出雲に辿り着いた時にすでに容態が悪くそのまま安国寺に入られたのかも知れぬ。一番考えたくないのは、御屋形様が守護所に入ることを拒否され、安国寺に追いやられたことである。民部様ならやりかねないと辰敬は思った。
安国寺とは、室町幕府を開いた足利尊氏が、天平時代に聖武天皇が国家鎮護の為に日本全国に建立した国分寺のひそみに倣って、一国に一寺を定めたものを言う。
だが、国分寺のように新しい寺を建てるだけの財力がなかったので、各国においては由緒ある古刹が安国寺と改称された。
出雲国においては竹矢郷内の円通寺が安国寺とされた。
この辺りは、中海から宍道湖へ続く水路の南に広がる豊かな田園地帯(現在の松江市)で、古代には出雲国国衙があった場所である。古来より政治経済の中心地であり、鎌倉の世になってからは、守護所は長い間この地にあった。
安国寺は御屋形様の宿所としてふさわしい格式ある寺と言ってよいのだが、その竹矢郷すらもすでに尼子家の直轄領となっている。
そのような地で最期を迎える無念さいかばかりであったろうか。
確かなことは長旅が失意の人の命を縮めたのである。御屋形様がそのような旅をしなければならなかったのは民部様のせいなのである。御屋形様が死んだら、殺したのは民部様だ。全身の血が音を立てて煮え立ち、噴き出さんばかりに逆流した。わなわなと全身が震えた。
それなのに、御屋形様は民部様に吉童子丸様の後見を頼まざるを得ないのだ。
震えが止まらなかった。
ふと気がつくと、多聞の背中が去って行くところだった。がっくりと肩を落とし、よろよろと遠ざかって行く。多聞のそんな姿を見るのも初めての事だった。
あの家に戻って行くのだ。
見送りながら、辰敬はあのあばら家の中の垂れ下がった筵の向こうには確かに人の気配があったことを思い出していた。
多聞の狼狽えようは尋常ではなかった。辰敬は直感で女だと思っていた。
多聞が出仕しない理由がやっと判った。多聞にとっては一番縁遠い存在だと思うのだが、多聞とて大人の男だ。女が出来ても不思議ない。しかし、あんまりではないか。いちへの未練を捨てきれない辰敬をあれだけ叱っておきながら、自分は女を作っていたとは。辰敬は憤慨した。
女にうつつを抜かしていなければ、国元の異変にも気付かないほどの失態は犯さなかったはずだ。
家中から遠ざけられていたとは言え、同罪の自分は棚に上げ、辰敬は多聞を責めた。
(だらずは多聞さんじゃ。見損なったぞ)
それにしてもどんな女を引きずり込んでいるのか。御屋形様を案じながらも、多聞を狂わせた女が気になる辰敬であった。
悲報は追いかけるようにもたらされた。
十月も終わり近く、その年の最初の木枯らしが吹いた夜であった。
早馬が京極邸の門を叩いた時、辰敬は来るべきものが来たのを悟った。
覚悟は出来ていると思っていた。しかし、御屋形様の死を告げ、『譲り状と代々證文は多賀伊豆守様と民部様に預けられました』と告げる使者の言葉は、一瞬にして辰敬をただの少年に引き戻した。
わあっと辰敬は叫ぶと駆け出していた。声と一緒に涙が吹き出していた。
辰敬は泣きながら暗い夜道を走った。
木枯らしに負けない大きな声で、わあわあ泣きながら走っていた。武士の子のその年にしては恥ずかしい大声で。
不意に譲り状の文言が何処からともなく聞こえて来た。
譲り与う
一 惣領職の事
一 出雲隠岐飛騨三箇国守護職の事
一 諸国諸所領の事
右 孫の吉童子丸に譲与するところ実正なり 領知を全うすべきの状くだんの如し
永正五年十月二十五日 宗濟
佐々木吉童子丸 殿
幻聴ではない。辰敬にははっきりと聞こえた。それは御屋形様の悲痛な声であった。今際の際の、命を振り絞る最後の声であった。心あらばと尼子経久にすがる声だった。
遠い空の果ての出雲から聞こえて来るのだと辰敬は信じた。
同時に代々證文の束が、御屋形様に初めて見せて貰った日の光景とともに瞼に浮かび上がった。
唐櫃の蓋を開けた時、ふわりと湧き上がった古紙と墨と紙魚の匂いも漂って来た。
あれは御屋形様の命とも言うべき紙の宝物だ。それを、今際の際に民部様に託す御屋形様のお気持ち。如何ばかりであった事か。
辰敬は胸が引き裂かれそうだった。
泣いた。
(誰憚ることはない。我はそれくらい悲しいのじゃ。泣きたいのじゃ。泣くしか出来ないから。出雲まで届けと泣かせてくれ。木枯らしよ、我の声を届けてくれ)
と、泣きながら走った。
多聞のあばら家の前まで来た。入り口に揺れる筵の隙間から、微かな明りが漏れていた。本当なら飛び込んで行きたいところだったが、躊躇わせるものがあった。立ち止まり、声を掛けようとしたが、嗚咽で声にならない。
すると、筵の向こうから、ぬっと多聞の顔が現れた。
驚いた事に多聞は赤い目をしていた。明りは薄暗かったが、細い小さな目も腫れ上がっているのが判った。
二人は黙ったまま見詰め合った。その鼻先に線香の匂いが漂って来る。
多聞はすでに知っていたのだ。
あの後、多聞は相変わらず邸には姿を見せなかったが、何処からからすぐに情報が入るように手配していたのだろう。
「入ってもらったらええのに」
女の声だった。
ぎくっとしたのは多聞の方だった。ばつが悪そうな顔で引っ込んだ。
尚も躊躇っていると、
「お入りなさい。遠慮せんと」
女の声が促した。
辰敬はおずおずと筵をめくった。
じりじりと燃える油皿の明りの中に、白い頭巾を被った若い女が坐していた。若いと言っても二十四、五か。お世辞にも美人とは言えない。一目見ていちとは若さも違うが、比べものにならないと思った。化粧気のない瓜実顔に憂いが漂い、寂しげな女であった。もっと美しい、男を狂わせるような魔性の女を勝手に想像していたので、辰敬は拍子抜けした。考えてみれば、多聞と絶世の美女の取り合わせはあり得ない話だ。多聞とは似合いかも知れぬが、多聞はこの女のどこに虜になったのだろう首を傾げざるを得なかった。
どんな経緯があったのか、何をしている女なのか窺い知れなかった。頭巾を被っているが僧衣はまとっていない。身にまとっているのは色模様の小袖である。この季節なのにまだ単衣の古着である。が、女の手には数珠があり、膝の前には線香が煙を燻らせている。
多聞は神妙な顔で女の斜め後ろに坐すと数珠を取り出した。背を向けたままぶっきら棒に言った。
「御屋形様の御冥福をお祈りしようとしていたところじゃ」
辰敬ははっとなると、慌てて多聞の背後に座った。土間のそこまで筵は敷いてなくて、冷たい土の上だったが、弔いと聞いたら冷たさも忘れた。
女は低い小さな声で経を唱え始めた。
その声を聞いた瞬間、辰敬はこの女が紛れもなく尼僧と知った。まさかと思っていたが、尼僧を連れ込んでいたとは。辰敬は驚き、呆れ果てた。
咎めるような目で多聞の背を睨みつけたが、それは一瞬の事であった。土間に読経が響き渡ると、たちまちその声に引き込まれてしまったのだ。
しっとりとした声がしみじみと胸に沁み入ったのである。悲しみを優しく包み込む声だった。こんな素晴らしい読経は聞いた事がなかった。魂の読経と感じ入った。
多聞は微動だにしなかった。そのいかつい岩のような身体にも、読経が沁み込んで行くのが辰敬には見えるような気がした。
いつしか多聞と女へのわだかまりは忘れていた。
辰敬は手を合わせ、御屋形様の冥福を一心に祈った。だが、御屋形様を思えば思うほど、祈ろうとすればするほど、悲しさが込み上げて来るのであった。
御屋形様の期待に何一つ答えられなかった事が悲しかったのだ。御屋形様にあれほど可愛がってもらったのに、自分はその何十分の一もお返しが出来なかった。御屋形様が病の床にあることも知らなかったとは。
吉童子丸にも何もしてあげられなかった。
鞠探しも諦めたも同然であった。余りの不甲斐なさが申し訳なくて、悔恨の涙がこぼれ落ちた。
もっともっと出来た事があったろうに。
こんな涙しか出ない事に。こんな声しか出ない事に。こんな泣き方しか出来ない事に。心の底から泣きたかったのに。そう思った途端抑えに抑えていたものが破裂した。
不意に読経が止まった。
白い頭巾が微かに揺れた。多聞の目もこちらを窺っていた。
大きな声を上げてしまったようだ。身を縮めると、
「人はみな悔恨で泣く」
辰敬ははっと多聞を見詰めた。
(そうか、多聞さんも……)
白い頭巾もそっと頷いたように見えた。
辰敬はほっと救われたような気がしたものの、すぐにも逃げ出したくなった。それは恥ずかしかったからだけではなかった。
読経が途切れたのを潮に、
「だんだん」
と頭を下げると、女の怪訝な顔を尻目にあばら家を出た。
「有難うと言う意味じゃが……」
背後に多聞の声が聞こえた。
辰敬は自分が邪魔者のように感じたのだ。
あの家には多聞と女の二人だけの、他人を拒絶する空気が満ちていたのである。
だが、冷たい夜道で、辰敬は一人になった事を悔やんだ。
悔恨がいっぱい詰まった悲しみを、さっきまでは三人で支えていたのに、今は一人で背負わなければならなかった。その重さがずしりとこたえたのだ。押し潰されそうだった。
この重さに耐え、押し潰されずに生きて行くことなんて出来るのだろうか。
胸を一杯に塞ぐ大きな岩のような悲しみが消える事などあるのだろうか。
時が経てば……。
いちを忘れたように。
辰敬は首を振った。
(いや、本当に忘れた訳ではないけれど)
日々にいちが疎くなって行くのは確かだった。
そんな風に御屋形様も遠くへ行ってしまうのだろうか。
御屋形様を忘れる日が来るとしたら、そう思ったら、ぞくっと身体が震えた。
そうはなりたくない。
足許をかさかさと枯れ葉が追い抜いて行くと、夜道の先に吸い込まれるように消えた。
その暗い道がまるで冥府への入り口に見えた。そう言えば、出雲には黄泉の国への入り口があるのだった。
その道を一人行く御屋形様の寂しげな後ろ姿が不意に浮かび上がると、また込み上げて来るものがあった。
コメント