12月13日、1年ぶりに安来の月山富田城へ行く。歴史資料館に富田城のジオラマが出来たことを知り、何としても見に行かねばと思っていたのだが忙しくてなかなか行けなかった。このところの好天気に誘われ、思い切って富田まで車を飛ばす。京羅木山の南の山腹を越える古道を想像するのが楽しいので、一年前と同じ432号線を走って広瀬に出る。
天気がいいので城址の木が見える

資料館野外の模型。
1千畳平。2太鼓壇。ここで刻を知らせる太鼓を打った。3花の壇 4山中(さんちゅう)御殿。城主の居館があった。 5七曲り。険しい登り道。 6三の丸。 7二の丸。 8本丸。
A菅谷口。 B御子守口。 C塩谷口。 富田城に入る道はこの三つ。

北から見た富田城。
イは新宮党の本拠。尼子国久館跡。尼子最強軍団新宮党の本拠。毛利元就の策略にかかって、尼子晴久に攻められ滅びる。これによって尼子氏は滅亡の道を辿る。

南から見た富田城。C塩谷口。

安来歴史資料館に展示されたジオラマ。これを見たくて来たのだが、これは江戸時代初めの堀尾氏時代の復元ジオラマである。高石垣が築かれ、屋根は瓦葺きになっている。尼子氏時代には高石垣はなく、屋敷の屋根も板葺きか茅葺である。だが、このジオラマを見れば、山の尾根筋に無数の削平地を作り、そこに曲輪を作り、城の防備としたことが分かる。武家屋敷も山の中に集められていることがわかる。恐らく尼子時代もこのように家臣団の屋敷は山の中にあったと思われる。これは戦国時代の城のかたちとしてはとても珍しいものである。
戦国時代、城は詰めの城と言って、戦いの時だけに籠るもので、普段は山の下に住む。このように山の中に居館を建て、家臣団も住まわせるのは、他には南近江の守護大名六角氏の観音寺城など数えるほどしかない。
富田城のある月山(がっさん)も、観音寺城もとても大きい山で、拡がりを持っているという共通点がある。戦国時代の山城作りは山の形も変わるほどに掘って、削ってを徹底する。削平地が沢山できれば曲輪も沢山できる。自然とそこに家を建てるようになったのではないだろうか。
Bの御子守口から4の山中御殿に行く道自体はだらだらと上るゆるやかな道で、七曲りのような急峻な細い道でもない。今も山中御殿跡近くに民家もある。このような山容の特性が作り出した城なのかと推測している。


A菅谷口入り口 B御子守口入り口
道が狭くて対向車とすれ違えないと注意が出ていたので引き返す。数年前に初めて来た時は無謀にも侵入し、無事山中後殿に辿り着きそのまま下って、Bの御子守口に出た。菅谷口から入った道は険しく曲がりくねっていた。

C塩谷口入り口
手入れしてなくて荒れている。民家の裏で、その先侵入止めの竹が置いてあったので入らず。
1→2→3→4→5→6→7→8の道順で月山山頂を目指す。


1千畳平 2太鼓壇から下を見る


3花の壇 花の壇から山中後殿へ


4山中後殿入り口 御殿敷地奥を望む(東側)


御殿敷地奥の雑用井戸 御殿敷地奥の菅谷口へ通じる出入口


御殿北側 御殿西側の塩谷口へ通じる出入口


七曲り登り口

七曲り途中の山吹井戸。奇麗な湧水。
七曲りは昔は整備されてなくて、足元は悪く、急坂部分の手すりもなかったように思う。昔は山中御殿まで車で来たが、今回は千畳平から歩いているので喘ぎながら登る。一年間、夕食後の30分の散歩をしていたからこそ登れたと思う。すれ違った地元の人から、頂上に着いたら十分に休んでから降りないと膝を痛めますよと忠告される。


6三の丸石段 三の丸から二の丸を望む
尼子時代にはこのような石垣はない。


7二の丸から京羅木山を望む。 二の丸から本丸を望む
富田城を攻めた大内義隆や毛利元就は富田川をはさんだ京羅木山に陣を構えた。
二の丸と本丸の間は深い堀切で隔てられている。山頂を深く掘って作ったものである。この二の丸からは備前焼の大きな甕が三つ見つかっている。水をためたのではないかと言われている。


二の丸下の本丸へ通じる道 8本丸


本丸奥の勝日高守神社。 本丸から中海を望む
遠く霞んで見えるのが島根半島。写真ではよく分からないが島根半島の美保関まで見える。右手から美保関に向かって伸びる弓ヶ浜(出雲国風土記で国引きの綱の役目をした)も見える。こうして見ると安来の港がいかに天然の良港だったかよくわかる。美保関では船の帆の大きさで通行税を決めていた。


左の写真。手前の山はジオラマで青線で囲った部分の一部。 ジオラマでは小さな削平地が沢山あったが、堀尾時代にはすでに放置されていたのでこのように木々が鬱蒼と生い茂っている。
右の写真。山頂から3花の壇4山中御殿を見おろす。


大土塁 御子守口へ下りてゆく途中の景色
左の写真。山中御殿から御子守口へ降りる途中にある長さ130m、頂上部幅20メートルもある大土塁。山中御殿を守るために作られた。
右の写真
御子守口へ降りる道の途中は階段状に田圃が続いている。こういう所もジオラマを見ると、一部には家臣団の屋敷があったのだろう。写真向かって左側は切り立った崖で曲輪もあるが、右側にも武家屋敷がなければ守りにはならないことに気が付く。
お昼は二の丸でコンビニで買ったお握りを食べ、ゆっくり休んで降りるも、七曲りを降りたところで足がよろめき思わず手すりにしがみつく。
天気がいいので城址の木が見える
資料館野外の模型。
1千畳平。2太鼓壇。ここで刻を知らせる太鼓を打った。3花の壇 4山中(さんちゅう)御殿。城主の居館があった。 5七曲り。険しい登り道。 6三の丸。 7二の丸。 8本丸。
A菅谷口。 B御子守口。 C塩谷口。 富田城に入る道はこの三つ。

北から見た富田城。
イは新宮党の本拠。尼子国久館跡。尼子最強軍団新宮党の本拠。毛利元就の策略にかかって、尼子晴久に攻められ滅びる。これによって尼子氏は滅亡の道を辿る。

南から見た富田城。C塩谷口。

安来歴史資料館に展示されたジオラマ。これを見たくて来たのだが、これは江戸時代初めの堀尾氏時代の復元ジオラマである。高石垣が築かれ、屋根は瓦葺きになっている。尼子氏時代には高石垣はなく、屋敷の屋根も板葺きか茅葺である。だが、このジオラマを見れば、山の尾根筋に無数の削平地を作り、そこに曲輪を作り、城の防備としたことが分かる。武家屋敷も山の中に集められていることがわかる。恐らく尼子時代もこのように家臣団の屋敷は山の中にあったと思われる。これは戦国時代の城のかたちとしてはとても珍しいものである。
戦国時代、城は詰めの城と言って、戦いの時だけに籠るもので、普段は山の下に住む。このように山の中に居館を建て、家臣団も住まわせるのは、他には南近江の守護大名六角氏の観音寺城など数えるほどしかない。
富田城のある月山(がっさん)も、観音寺城もとても大きい山で、拡がりを持っているという共通点がある。戦国時代の山城作りは山の形も変わるほどに掘って、削ってを徹底する。削平地が沢山できれば曲輪も沢山できる。自然とそこに家を建てるようになったのではないだろうか。
Bの御子守口から4の山中御殿に行く道自体はだらだらと上るゆるやかな道で、七曲りのような急峻な細い道でもない。今も山中御殿跡近くに民家もある。このような山容の特性が作り出した城なのかと推測している。


A菅谷口入り口 B御子守口入り口
道が狭くて対向車とすれ違えないと注意が出ていたので引き返す。数年前に初めて来た時は無謀にも侵入し、無事山中後殿に辿り着きそのまま下って、Bの御子守口に出た。菅谷口から入った道は険しく曲がりくねっていた。

C塩谷口入り口
手入れしてなくて荒れている。民家の裏で、その先侵入止めの竹が置いてあったので入らず。
1→2→3→4→5→6→7→8の道順で月山山頂を目指す。


1千畳平 2太鼓壇から下を見る


3花の壇 花の壇から山中後殿へ


4山中後殿入り口 御殿敷地奥を望む(東側)


御殿敷地奥の雑用井戸 御殿敷地奥の菅谷口へ通じる出入口


御殿北側 御殿西側の塩谷口へ通じる出入口


七曲り登り口

七曲り途中の山吹井戸。奇麗な湧水。
七曲りは昔は整備されてなくて、足元は悪く、急坂部分の手すりもなかったように思う。昔は山中御殿まで車で来たが、今回は千畳平から歩いているので喘ぎながら登る。一年間、夕食後の30分の散歩をしていたからこそ登れたと思う。すれ違った地元の人から、頂上に着いたら十分に休んでから降りないと膝を痛めますよと忠告される。


6三の丸石段 三の丸から二の丸を望む
尼子時代にはこのような石垣はない。


7二の丸から京羅木山を望む。 二の丸から本丸を望む
富田城を攻めた大内義隆や毛利元就は富田川をはさんだ京羅木山に陣を構えた。
二の丸と本丸の間は深い堀切で隔てられている。山頂を深く掘って作ったものである。この二の丸からは備前焼の大きな甕が三つ見つかっている。水をためたのではないかと言われている。


二の丸下の本丸へ通じる道 8本丸


本丸奥の勝日高守神社。 本丸から中海を望む
遠く霞んで見えるのが島根半島。写真ではよく分からないが島根半島の美保関まで見える。右手から美保関に向かって伸びる弓ヶ浜(出雲国風土記で国引きの綱の役目をした)も見える。こうして見ると安来の港がいかに天然の良港だったかよくわかる。美保関では船の帆の大きさで通行税を決めていた。


左の写真。手前の山はジオラマで青線で囲った部分の一部。 ジオラマでは小さな削平地が沢山あったが、堀尾時代にはすでに放置されていたのでこのように木々が鬱蒼と生い茂っている。
右の写真。山頂から3花の壇4山中御殿を見おろす。


大土塁 御子守口へ下りてゆく途中の景色
左の写真。山中御殿から御子守口へ降りる途中にある長さ130m、頂上部幅20メートルもある大土塁。山中御殿を守るために作られた。
右の写真
御子守口へ降りる道の途中は階段状に田圃が続いている。こういう所もジオラマを見ると、一部には家臣団の屋敷があったのだろう。写真向かって左側は切り立った崖で曲輪もあるが、右側にも武家屋敷がなければ守りにはならないことに気が付く。
お昼は二の丸でコンビニで買ったお握りを食べ、ゆっくり休んで降りるも、七曲りを降りたところで足がよろめき思わず手すりにしがみつく。
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