第三章 戦国擾乱(じょうらん)(10

 

その頃、幕府は西国諸将に義尹(よしただ)上洛阻止命じたが、誰一人立ち向かおうとする者はなかった。

 西国の船をかき集めても、大内義興の大船団には到底及ばぬ。最早上洛阻止が不可能なことは誰の目にも明らかにも関わらず、幕府はひらひらの紙切れのような権威を振りかざし、わめき散らすしかなかったのである。

 一向に情勢の回復を図れぬ焦りから、細川澄元の細川高国に対する不満は募る一方であった。澄元は細川政元の三人目の養子で、自分より五歳年上の二十四歳の高国に、もとより全幅の信頼を寄せていた訳ではない。細川一門では低い家格の出とは言え、高国も家督となる資格は有している。油断したら取って代わられる恐れはあるのだ。

 畠山一族が仲間割れした時、畠山(ひさ)(のぶ)を助けるように命じであ、高国が尚順との関係を深めて行澄元高国に対不信感一層ってった高国が勝手な行動を取っているない疑心暗鬼に駆られた。

そうなると、大内義興の和平交渉が進まない事に対してもあらぬ疑心を抱くようになる。

三月になると、澄元と高国の不和は抜き差しならないところまで高じていた。

 赤沢長経との反目もあって、京都に戻れなくなってしまった高国は、伊勢神宮に参詣した後、伊賀に入ると仁木(につき)高長のもとに身を寄せてしまった。

 この間も大船団はゆっくりと東上していた。

 数百艘の船を率いての遠征であるから遅くなるのは当然であるが、それにしても遅々とした軍旅であった。無論これは都へ圧力を掛けるための意図的なものであった。真綿で締めるように、じわじわと都の人心に重圧を掛け続けたのである。

 上洛軍は夥しい噂を流し、不安を煽った。

 目論見通り、幕府は自壊し始めた。

 細川高国は現将軍足利義澄と細川澄元を見限り、前将軍義尹と手を結ぼうと決断した。

 三月の末、ついに大船団が大物(だいもつの)(うら)(大阪湾)に入ったと言う知らせがもたらされると、都の不安は頂点に達した。

 湾内を埋め尽くす軍船はそのまま停泊し、無言の圧力を加え続けた。

四月に入ると、都には伊賀の仁木高長に支援された高国までもが攻め寄せて来ると言う噂が流れ始め、人々は怖れおののいた。

 折しも京極邸では材宗の一周忌と重なり、忌まわしい戦の記憶が家中の不安を弥が上にも掻き立てた。

 しめやかに一周忌が執り行われる傍ら、警備にも大わらわで、辰敬も一周忌と警備両方の手伝いに駆り出され、てんてこ舞いさせられていた。

 戦に巻き込まれた時、一番重要なのは火事への備えである。

 辰敬は運び出す貴重品の荷造りを手伝わされ、一部は鴨川の向こうの寺まで運んだ。辰敬は代々證文の入った唐櫃を捜したがどこにも見当たらなかった。恐らく御屋形様の側に置かれ、非常時には真っ先に持ち出されるのであろう。

高国の軍勢が伊賀を出発したと言う情報がもたらされると、辰敬は邸の不寝番に立ち、吉童子丸の宿直どころではなくなった。

吉童子丸は辰敬の物語を楽しみにするようになってからは、精神状態も良くなっていた。

だが、もし都が戦乱に巻き込まれたら、一周忌で悲惨な出来事を思い出したばかりの吉童子丸は、また悪夢に苛まれるような事になるのではないかと、辰敬はそれだけが心配でならなかった。

 心の底から都の平安を祈ったが、四月九日の亥の刻(午後十時)、突然上京の空を紅蓮の炎が染めた。

 三好(ゆき)(なが)の宿所に火が放たれたのだ。続いて細川澄元の在所も炎上した。

 澄元と三好之長はわずか三百人ばかりの手勢を率いて、近江坂本へ逃亡した。

 細川澄之の天下は四十日余りだった。澄元の天下はそれより長かったとは言え八カ月ほどであった。

 翌四月十日、高国は一万の軍勢を率い、何の抵抗もなく入洛を果たした。

 怖れおののいた戦いもなく政権が交替した事を、都の人々は皆心から喜んだ。

 この政権交替が京極家にもたらしたものは何もないが、家中もほっと安堵の胸を撫で下ろした。

 六日後、将軍足利義澄は義尹の上洛を恐れ、わずか四、五人の供を連れただけで都を逃げ出し、近江甲賀の九里(くのり)氏を頼った。

 四月二十七日、海上から何の手を下す事もなく、義澄の逃亡を見届けた大船団は、大物浦を後にして和泉の堺の湊に着岸した。

 いつ以来か久し振りの平安が訪れ、都の人々は遅い春を楽しんだ。

 その頃までには、吉童子丸は辰敬と一緒ならば、机を並べて手習いをし、素読をする事も厭わなくなっていた。

 邸内にも桜どころではなかった今年の春を取り戻そうとするかのように、晩春の陽が降り注ぐと、その陽気に誘われるように吉童子丸も外遊びをするようになった。

 どこへ行くにも、何をするにも辰敬の後をついて行く吉童子丸の姿が見られるようになったのである。

 政経もこの頃には体調もすっかり良くなったようで、縁先に立つと二人の姿に目を細めた。

辰敬にとっても御屋形様の笑顔は励みとなった。吉童子丸が明るい声を上げれば、御屋形様も微笑み、辰敬も嬉しくなる。吉童子丸と遊ぶのも、気がつくと兄達が遊んでくれたのと同じように(むつみ)っていた。った

かくして慌ただしい四月が過ぎ、五月に入った日の事であった。

何気なく御屋形様を振り返った辰敬は、その顔に浮かぶ憂いに気がついた。視線もぼんやりとあらぬ方にやり、何やら思いに沈んでいるようであった。

何か心配ごとでもあるのだろうかと思った時、御屋形様と目が合った。皺だらけの目元に笑みが浮かんだ。いつもの優しい笑みだったので、辰敬はほっとしてその時の事はすぐに忘れてしまった。

実はその日、民部様(尼子経久)が入京していたことを後になって知った。足利義尹と大内義興の先陣として、一緒に随行した武将達とともに入京したのだ。

 

細川高国と畠山尚順は早速、堺へ出向き、義尹に拝謁した。

五月六日、高国は晴れて細川の家督を認められた。一年前には誰も予想さえしていなかった政元の三人目の養子が、細川一門の棟梁となり、右京大夫となったのである。

高国は義尹に一刻も早い上洛を促し、後は足利義尹の上洛を待つばかりとなった。

京極邸の池から次々ととんぼが孵化するようになると、辰敬は吉童子丸に蜻蛉釣りを教えた。竿先にとりもちを付け、とんぼを取るのだ。吉童子丸は熱中し、京極邸の庭では竿を振り回して、とんぼを追い回す姿が毎日のように見られるようになっていた。

辰敬はみかんや山椒の葉には揚羽蝶が卵を産みつけることも教えた。

芥子粒のような卵から小さな毛虫が生まれ、成長して青虫となり、美しい揚羽蝶となる変化に、吉童子丸は目を見張った。

幼い頃の辰敬が、青虫を突き付けて姉の袈裟を怯えさせたように、吉童子丸も青虫で女房衆を脅して喜んだ。

世の平安に向かう足取りは日々確かとなった。京極邸にも吉童子丸の元気な声が響き渡るようになったのだが、それと反比例するように政経の憂い顔が目に立つようになった。

さすがに辰敬も気になり、遊んでいても御屋形様の顔色をそっと目の端で窺うことが多くなった。

確かに御屋形様は思いに沈んでいた。前に気づいた時より深く考え込んでいる風であった。

愛おしげに孫を追う目の底から、時折り放たれる鋭い眼光が普通ではなかった。

御屋形様は何を考えているのだろう。

辰敬は心配したが、家中では政経の変化に気が付いていないようであった。

六月六日、義尹はようやく腰を上げた。細川高国の先導で堺を出発すると、その夜は吹田に泊った。

七日、細川高国が入洛。その夜、義尹は山崎に泊る。

八日は未明から都は大騒ぎとなった。貴顕も衆庶もこぞって行列見物に殺到したのである。

辰敬と吉童子丸も政経の許しを得、多聞達を供に行列見物に出かけた。二条大路にある京極家出入りの扇屋の店先を借りて見物したのである。

昼、歓呼の中、行列が現れた。

先陣は種村刑部少輔と畠山与次郎の二人に家臣三百人が勤め、その後に義尹の乗る輿が続いた。警固の(はしり)(しゅう)は数百人。御供衆は九騎。後陣騎馬衆は数え切れなかった

ついに放浪の前将軍、足利義尹は都の土を踏んだのである。

十五年前、政元に囚われ、古輿に家臣数人が付き添っただけの入京とは天と地の違いである。

人々は義尹の復帰を心から喜んだ。かつては放浪する義尹を流れ公方と揶揄した人々も、この不遇に屈しない生き方に感嘆し、いつしか深い同情を寄せるようになっていたのである。

義尹もまた流寓の十五年の間に、虐げられた民の心が分かるようになったと吐露する人になっていた。

誰もがこの前将軍の父と子の二代に亘る苦難の歴史を知っていた。前将軍とその父は政争に翻弄され、屈辱極まりない人生を歩まされたのである。

この世の悪しき事はすべて先の大乱に絡んで始まったと言ってよい。その大乱も突き詰めれば、政に情熱を失った八代将軍足利義政の無責任と無定見に起因する。子のない義政が唐突に次期将軍を弟に譲ると宣言した事から混乱が始まったのである。

義政も妻の日野富子もまだ子を諦める年齢ではなかったので、誰もが早過ぎる禅譲を諫めたが、義政は聞き入れなかった。僧籍にあった弟を還俗させ、(よし)()とした。これが義尹の父となる人である。

案の定、危惧した通り、翌年、富子が男児を産んだ。後の九代将軍義尚である。富子たち反義視派は勢いづき、義政に翻意を促す。義政とて我が子は可愛いので、たちまち義政と義視の関係はぎくしゃくし始めた。

翌年、義視にも男児が生まれる。義材(義尹)である。その義材誕生から四十日にもならぬ夜、義視は義政側近に謀反の疑いありと讒言され、危うく暗殺されそうになる。義視は間一髪細川勝元の屋敷に逃げ込み無実を訴えた。その時の義視は顔面蒼白歯の根も合わぬほど震えていたと言う。

応仁の乱が勃発したのはこの四ヶ月後である。

西軍に対抗する為、義政義視の兄弟仲は元に戻ったが、義政が義視暗殺を謀った側近を許した事から、義視は憤激した。

義視は西軍の山名宗全の陣に身を投じ、西軍の将軍格となった。

義政と義視は東西に分れて戦うが、戦いは膠着し、やがて義政は八歳の子に家督を譲ってしまった。九代将軍義尚である。

西軍の大将山名宗全も東軍の大将細川勝元も相次いで病死すると、いつしか戦いの名分は失せてしまった。厭戦気分が蔓延し、長い長い戦いは漸く終わった。

義政は義視を疎んじる意向はないと誓ったが、義視は都に留まる事を潔しとしなかった。西軍の軍師だった美濃守護代の斎藤(みょう)椿(ちん)を頼り、義材を連れ美濃の革手に下向した。尾羽打ち枯らした姿であったと言う。

革手は岐阜の南、土岐氏の守護所のあった町で、義視父子はここに御所を建てて貰い、侘び住まいした。

終戦処理は進み、幕府は西軍大名と次々に和睦し、義政と義視も正式に和議を結んだ。だが、義視は都に戻る事は拒否した。父子は木曽川に近いこの地に骨を埋める覚悟だったのである。

ところが、義材が二十四歳になった時、運命が急変する。

六角征伐に親征していた義尚が陣中で急死したのである。荒淫と酒色に溺れた果ての自滅であった。

実は義尚が病臥した時から、日野富子は密かに義材と誼を通じ、義材を義尚の代理として六角征伐に充てようと目論んでいた。義材も準備していたので、義視義材父子は早速義尚の葬儀に参列する為に上洛した。

しかし、そこに立ちはだかったのが、細川勝元の遺児細川政元であった。政元は義視父子の復帰を喜ばなかった。

政元は関東の堀越公方(義政の弟)の次男で、天竜寺の小僧であった、(きょう)厳院(げんいん)(せい)(こう)(後の十一代将軍足利義澄)の擁立を画策していたのである。

が、幕府の実権を握っていたのは日野富子であった。政務に関心のない大御所義政に代わって幕政を仕切る富子には、後の独裁者細川政元もまだ逆らう力はなかった。

義材は富子に謁見し、日野家累代の小河御所に住む事を許された。

そして、間もなく義政が死ぬと、義材は家督を継ぎ、十一代将軍となった。

父義視が果たせなかった夢を子の義材が叶えたのだが、わずか三ヶ月もたたぬうちに、富子と義視が対立する。

富子が小河御所をこともあろうに香厳院清晃に与えたのである。富子はなぜか心変りして、細川政元と手を組んだのだ。

怒った義視は河原者を使って小河御所を破却した。

 間もなく義視も死ぬ。富子まで反将軍派となるが、義材は親政を揮う。

細川政元の反対を押し切り、挫折した六角征伐を続行する。

それなりの成果を上げた義材は、席を温める暇もなく、河内の畠山基家を討つために河内に出陣をする。若い義材は六角征伐の成功で有頂天になり、細川政元が策略を廻らしている事など露知らなかった。

青天の霹靂、義材の将軍職は剥奪され、香厳院清晃が将軍に擁立され、十一代将軍義澄となったのである。

これが明応の政変である。

畠山政長と尚順父子は最後まで義材に忠誠を尽くした。力及ばず政長は自刃し、尚順を逃がすも、義材は捕らわれてしまう。

時を同じくして、都では義材派の寺社や邸宅が根こそぎ破壊された。その陣頭指揮を執ったのは日野富子であった。政元の屋敷に詰め切りで、破却、放火、略奪を命じ、暴虐と迫害の限りを尽くしたのである。

哀れをとどめたのは、義材の姉が尼御所たる通玄寺と言う尼寺であった。尼御所以下尼僧らすべて、ことごとく衣装を剥ぎ取られ、寺から抛り出されたのだ。

尼僧たちは筵を身にまとい、あるいは経典を身体に巻きつけて、路頭をさ迷った。前代未聞の出来事であった。

富子の義材に対する憎悪は凄まじく、政元に義材殺害を迫ったが、さすがに政元もそこまでは躊躇い、島流しですませようとした。

富子の毒殺の魔手に怯えた、あの恐怖と絶望の座敷牢から、今思ってもよくぞ脱出出来たものだと、輿の中の義尹は思う。

あれから十五年、座敷牢を命からがら脱出した義材は、流浪を重ねた。義尹と名を改めて運が開けるかと思ったが、大内義興はなかなか腰を上げてくれず、将軍復帰を何度諦めかけたことか。義興を口説くのに七年もかかったのだ。

だが、その甲斐あって、今まさにこの世で未だかつて誰も手にした事のない、信じられないほどの幸運に手が届こうとしていた。

かつて退位した天皇が、後に重祚して復位した例はあるが、廃位した将軍が復帰した例は後にも先にも足利義尹ただ一人である。

その二度将軍を勤める前代未聞、空前絶後の奇跡を、都大路を埋め尽くした群衆もまるで我がことのように喜んでくれている。流離する貴種の物語が大好きな人々は、当然の如く熱烈な判官贔屓でもあった。

(見たか、日野富子よ。民の笑顔を。聞いたか、細川政元よ。民の歓呼の声を。貴様らは一度たりとも味わったことはあるまい)

が、義尹は勝利に酔いしれてはいなかった。

もし富子や政元が生きていたら、今の幸運が転がり込む事はなかったと分かっていたから。義尹が勝ったのは長生きしたからに過ぎないことを自覚していた。歓喜の渦の中にあっても、感慨は至極平凡なものであった。

(長生きはするものだ)

その夜、大内義興も一万の兵を率いて入京した。