今日は七夕。ツルのおばあさんがいつも言っていた。おツルさんは4月になるといなくなって必ず七夕の頃に戻って来ると。
(以前に紹介したように、抱卵期に入り、本物の卵は抱けないので、中学の校庭で見つけたテニスボールや野球のボールを三か月間抱き続けるのである)(今年も中学の向かいの川岸の茂みで卵を抱いていたが、なぜか今年は1ケ月ぐらい前から姿を消していた)(それでも中学の近くの田圃に姿をあらわして、田植えをした田圃で水生昆虫などの餌をついばんでいたので、私は姿を見たら胚芽玄米や食パンをやっていた)
七夕の今朝。いつもの散歩コースを歩いていると、おツルさんが土手道に姿を現す。
一年前のちょうどこの日を思い出す。去年は本当に七夕の日に三か月ぶりにいつもの橋の袂のおばあさんのえさ場におツルさんが現れ、私がマルコと散歩に来たら、おばあさんがおツルさんに餌をやっていたのだ。挨拶すると、おばあさんは「七夕に戻って来てくれたのよ」と、本当に嬉しそうだった。
いつもは私も少し餌をやったりして、世間話をするのだが、その日は余りにもおばあさんが嬉しそうだったので、二人きり(?)にしてあげようと思って、すぐにその場を離れた。
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今朝のおツルさん。ここから右手へ200mほど行けば、おばあさんの餌場だったが、もう10ヶ月以上昔の餌場に来ることはない。
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夕方も土手下の田圃にいて、私たちの姿を見つけたら田圃の中をやって来る。畦道で餌をやる。
どうして昔の餌場に来ないのか聞いてみたが、一生懸命餌をつつくばかり。
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この橋を渡ったところが、お婆さんの餌場。おばあさんはいつもここまで小さなカートを押して来て、カートを椅子にして腰を下ろすと、おツルさんに餌をやりながら小一時間ほども一緒に過ごしていた。
20年近く、朝夕続けていたが、私と知り合った頃には朝が辛くなって、夕方だけの餌やりで、いつしか朝の餌やりは私がやるようになっていた。
だが、そのおばあさんも夕方の餌やりも辛くなっているのがはた目にもわかるようになった。
それにあわせたかのように、なぜかおツルさんの脚が遠のき始めた。
近辺に姿を現すけれど、以前のように毎日のようには現れなくなったのだ。
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おばあさんがこの欄干につかまって毎日のようにおツルさんが現れる方向を見ている姿を見ることが多くなったのが、去年の10月を過ぎた頃だったろうか。私と会うと、「どうして来ないのだろう」「元気でいるだろうか」とおツルさんの情報を求める。元気でいることは教えてあげて、私が餌もやっていると慰めるのだが、寂しさは隠しきれない。
自分でも体力の衰えを自覚していて、今年を越えられないだろうと弱音を吐く。12月までに、2、3回はおツルさんと会えたことがあったが、寒いし体力の衰えもあって、20分もいることができずにごめんよとおツルさんに謝りながら帰って行った。
そして、12月に入ったら、おツルさんはぱったりと姿を見せることはなかった。
それでもおばあさんはカートを押しながら欄干まで来ておツルさんの姿を捜していた。だが、12月の出雲は雪こそ降らないが風は強く冷たい。雲は低く暗い陰鬱な山陰である。おばあさんは10分もいることが出来ず肩を落として帰って行った。
私は余りにも可哀そうで声を掛けることが出来なかった。慰めの言葉が見つからないのだ。欄干にもたれる後ろ姿をまともに見ていられなかった。
なぜならその後姿を見ていると「岸壁の母」の二葉百合子の歌声が蘇って来るのだ。

♪今日も来ました、今日も来た、この岸壁に母は来た

若い人は知らないが、私たちの世代は子供の頃、ラジオから流れて来たこの曲を知らない者はいないだろう。昭和29年に発表されたから、私が7歳の時だが、何年も歌い続けられたからはっきりと覚えている。
敗戦後、ソ連からの帰還兵の乗った引き揚げ船に息子の姿を求めて、6年間も舞鶴港に通った実在の母(端野せい)をモデルにした歌である。

♪もしやもしやにひかされて

と息子の帰還を信じて待つ母の姿が、今日こそはおツルさんに会えるのではないかと、欄干に通うおばあさんの後ろ姿に重なって、私は遠くから見ているだけで切なくて辛くてとうとう声をかけることが出来なかったのである。