3月17日に行われた都立豊多摩高校同期会&クラス会の報告は長くなるのでまずは同期会報告から。
朝3時に起きて、出雲市駅始発4:42分の特急「やくも」で岡山へ。新幹線で東京。
新宿で1:30から同期会。

団塊世代で学年約550人で10クラスあったが、集まったのは65人。78歳がこれだけ集まれば立派なものではなかろうか。大人数ではないのでクラス別のテーブルは作らず、自由に座る。私も一緒に到着した級友と先着していた級友の席に着く。
そのテーブルにいたのが1年の時の級友Y君。最近物忘れがひどく、親しく付き合っていたわけでもないのに、名前も顔も卓球部に入っていたことも覚えていた。10年前の同期会では顔を合わせていなかったので、完全に60年ぶりだったが、「ごぶさたしています。お元気ですか」と、一瞬にして歳月を忘れた言葉をかわす。互いに78歳になった年齢のせいでもあろう。言葉には出さないけれど、お互いによくここまで生きたねと言うねぎらいがこもっていたのだと思う。
同じ世代の人間が、偶然、同じ高校で三年間共に暮らした、それぞれにとってのかけがえのない時間を噛み締める。それが同期会であり、クラス会なのだなあとしみじみと思った。愛おしい時間だった。
私もY君も1年の時はC組だった。聞けばY君たち数人は年に1回集まって会食していると言うのでビックリする。普通は卒業年のクラスで集まるのに、1年生の時のクラス会をしているなんて。
Y君が声を掛けるからよかったら来ませんかとお誘いを受けたので、心を動かされる。久しぶりに上京したら、出雲にばかり引っ込んでいてはいけないと思った。都合がついて、何よりも健康であればいいのだが。
Y君は私の本を読んでくれている。
その後、サッカー部の仲間二人とも会う。一人は10年前に会ったが、もう一人は卒後60年ぶり。
会った瞬間から、部室のような会話が弾む。
私にはサッカー部で一番仲の良かったGKの友達O君がいた。その彼が死んでいたことを知ったのは今から何十年前のことだろう。高校の名簿で知ったのだが、何歳の時に、病気なのか事故で死んだのか、皆目わからず、ずっと気になっていたのだ。
一人が知っていた。何とO君は心臓が悪かったことを教えてくれる。彼は一年の時同じクラスだったので知っていたのだが、O君が内緒にしていたので自分も黙っていたようだ。
ショックだった。あのO君が心臓が悪かったとは。都立高校のGKとしてはとてもうまい奴だった。
O君がGKをやる時のシュート練習はとても楽しく蹴り甲斐があった。
だが夏の練習でばてた時、先輩のコーチから「さぼっている」と言われて、とても悔しがっていたと知らされ胸が痛くなった。そもそもGKがフィールドプレーヤーと同じように走れるはずがないのに。しかも彼は心臓が悪かったのに。病名はわからず、何歳の時かもわからないが、若い時に心臓の病でなくなったらしい。二浪して東工大に入った頑張り屋だったのに。
思い出が二つある。
その一つ。豊多摩のサッカー部の不文律として、2年までサイドハーフをした者は3年になったらフルバックにされた。当時はボランチなんて言葉はまだない、オールドサッカーの時代で、フルバックなんて一番後ろでただ守るだけのポジションで、面白くもなんともない。不貞腐れてやっていたのだが、ある試合でたまたまGKの前で不規則バウンドしたボールがGKの頭を越えたことがあった。誰もが一点を覚悟した時、なぜか私が猛然と駆け込み、寸前のところでクリアーしたことがあったのだ。
試合後、Oが感謝して言った。「曽田の戻りが早いので安心して守れる」と。その瞬間、私は無性に嬉しくなった。それ以来、私はフルバックに徹したのだ。Oを助けるために。
もう一つは、全国的に学園紛争が広がり始めた頃だったろうか、Oの親が横浜に家を建てたので、新居に呼ばれた。眺めのいい部屋でレコードを聴いたのが最後の思い出となった。
辛い話だったが嬉しい話もあった。
私が完全に忘れていたことだった。これもサッカーの試合中の話。
二人は体を壊したので途中で退部したのだが、ある時、私たちの試合を見学に来たことがあった。
その時、私がハーフウエイ付近から矢のような超ロングシュートを放ったと言うのだ。「すげえ」とみんながビックリしたと言うが、私は覚えていないのだ。でも、言われてみれば、私はたまに無謀ともいえるロングシュートを蹴ることがあったのだ。フルバックの欲求不満がそういうプレーを発作的にさせていたのだと思う。
その時、相手のチームのコーチが、「今のキックは代表級のキックだぞ」と言っていたのを、退部した元部員が聞いていて、その話をしてくれたのだ。
これは文句なしに嬉しかった。
出雲に帰ると、翌日遊びに来た娘にその話をして自慢した。サッカー部では「曽田の馬鹿蹴り」は有名だったんだぞと。
クラス会の話は明日。
【追記】
なんとブログを読んだY君から、O君とは2年、3年と同じクラスだったと知らせて来た。そうとは知らず同じテーブルにいて談笑していたのだ。やんぬるかな。Y君もクラスメイトから聞いた話だが、亡くなったのは昭和64年1月6日。昭和天皇崩御の前日と教えてくれた。
その瞬間、天皇崩御の日の光景が鮮明に蘇った。実は母方の祖母が上京していて、窓際の明るい部屋で涙を流して泣いていたのだ。「あなたたちにはわからないだろうけど、私らにとってはとても悲しくてね」と。慰めようにも何と言って言いやらわからず、ただ黙って眺めているしかなかった私だったのである。祖母に孫の顔を見せに連れて行った時のことだったと思う。
祖母が子供のように泣いていた、あの日の前日にO君が亡くなっていたとは。まだ41歳だったとは。
過ぎ去った歳月の長さに声もなく佇む。それはそうだろう。戦後昭和に生まれ、昭和とともに去って行ったのだから。こんなに昭和を遠く感じたのも初めてだった。ずっと彼のことを考えているがまだしばらくは言葉がまとまらない。
Y君がO君はスポーツ万能で余計なことは言わず、寡黙で男ならだれでも惚れる男だったと言ってくれている。今はしみじみその言葉を噛み締めている。
朝3時に起きて、出雲市駅始発4:42分の特急「やくも」で岡山へ。新幹線で東京。
新宿で1:30から同期会。

団塊世代で学年約550人で10クラスあったが、集まったのは65人。78歳がこれだけ集まれば立派なものではなかろうか。大人数ではないのでクラス別のテーブルは作らず、自由に座る。私も一緒に到着した級友と先着していた級友の席に着く。
そのテーブルにいたのが1年の時の級友Y君。最近物忘れがひどく、親しく付き合っていたわけでもないのに、名前も顔も卓球部に入っていたことも覚えていた。10年前の同期会では顔を合わせていなかったので、完全に60年ぶりだったが、「ごぶさたしています。お元気ですか」と、一瞬にして歳月を忘れた言葉をかわす。互いに78歳になった年齢のせいでもあろう。言葉には出さないけれど、お互いによくここまで生きたねと言うねぎらいがこもっていたのだと思う。
同じ世代の人間が、偶然、同じ高校で三年間共に暮らした、それぞれにとってのかけがえのない時間を噛み締める。それが同期会であり、クラス会なのだなあとしみじみと思った。愛おしい時間だった。
私もY君も1年の時はC組だった。聞けばY君たち数人は年に1回集まって会食していると言うのでビックリする。普通は卒業年のクラスで集まるのに、1年生の時のクラス会をしているなんて。
Y君が声を掛けるからよかったら来ませんかとお誘いを受けたので、心を動かされる。久しぶりに上京したら、出雲にばかり引っ込んでいてはいけないと思った。都合がついて、何よりも健康であればいいのだが。
Y君は私の本を読んでくれている。
その後、サッカー部の仲間二人とも会う。一人は10年前に会ったが、もう一人は卒後60年ぶり。
会った瞬間から、部室のような会話が弾む。
私にはサッカー部で一番仲の良かったGKの友達O君がいた。その彼が死んでいたことを知ったのは今から何十年前のことだろう。高校の名簿で知ったのだが、何歳の時に、病気なのか事故で死んだのか、皆目わからず、ずっと気になっていたのだ。
一人が知っていた。何とO君は心臓が悪かったことを教えてくれる。彼は一年の時同じクラスだったので知っていたのだが、O君が内緒にしていたので自分も黙っていたようだ。
ショックだった。あのO君が心臓が悪かったとは。都立高校のGKとしてはとてもうまい奴だった。
O君がGKをやる時のシュート練習はとても楽しく蹴り甲斐があった。
だが夏の練習でばてた時、先輩のコーチから「さぼっている」と言われて、とても悔しがっていたと知らされ胸が痛くなった。そもそもGKがフィールドプレーヤーと同じように走れるはずがないのに。しかも彼は心臓が悪かったのに。病名はわからず、何歳の時かもわからないが、若い時に心臓の病でなくなったらしい。二浪して東工大に入った頑張り屋だったのに。
思い出が二つある。
その一つ。豊多摩のサッカー部の不文律として、2年までサイドハーフをした者は3年になったらフルバックにされた。当時はボランチなんて言葉はまだない、オールドサッカーの時代で、フルバックなんて一番後ろでただ守るだけのポジションで、面白くもなんともない。不貞腐れてやっていたのだが、ある試合でたまたまGKの前で不規則バウンドしたボールがGKの頭を越えたことがあった。誰もが一点を覚悟した時、なぜか私が猛然と駆け込み、寸前のところでクリアーしたことがあったのだ。
試合後、Oが感謝して言った。「曽田の戻りが早いので安心して守れる」と。その瞬間、私は無性に嬉しくなった。それ以来、私はフルバックに徹したのだ。Oを助けるために。
もう一つは、全国的に学園紛争が広がり始めた頃だったろうか、Oの親が横浜に家を建てたので、新居に呼ばれた。眺めのいい部屋でレコードを聴いたのが最後の思い出となった。
辛い話だったが嬉しい話もあった。
私が完全に忘れていたことだった。これもサッカーの試合中の話。
二人は体を壊したので途中で退部したのだが、ある時、私たちの試合を見学に来たことがあった。
その時、私がハーフウエイ付近から矢のような超ロングシュートを放ったと言うのだ。「すげえ」とみんながビックリしたと言うが、私は覚えていないのだ。でも、言われてみれば、私はたまに無謀ともいえるロングシュートを蹴ることがあったのだ。フルバックの欲求不満がそういうプレーを発作的にさせていたのだと思う。
その時、相手のチームのコーチが、「今のキックは代表級のキックだぞ」と言っていたのを、退部した元部員が聞いていて、その話をしてくれたのだ。
これは文句なしに嬉しかった。
出雲に帰ると、翌日遊びに来た娘にその話をして自慢した。サッカー部では「曽田の馬鹿蹴り」は有名だったんだぞと。
クラス会の話は明日。
【追記】
なんとブログを読んだY君から、O君とは2年、3年と同じクラスだったと知らせて来た。そうとは知らず同じテーブルにいて談笑していたのだ。やんぬるかな。Y君もクラスメイトから聞いた話だが、亡くなったのは昭和64年1月6日。昭和天皇崩御の前日と教えてくれた。
その瞬間、天皇崩御の日の光景が鮮明に蘇った。実は母方の祖母が上京していて、窓際の明るい部屋で涙を流して泣いていたのだ。「あなたたちにはわからないだろうけど、私らにとってはとても悲しくてね」と。慰めようにも何と言って言いやらわからず、ただ黙って眺めているしかなかった私だったのである。祖母に孫の顔を見せに連れて行った時のことだったと思う。
祖母が子供のように泣いていた、あの日の前日にO君が亡くなっていたとは。まだ41歳だったとは。
過ぎ去った歳月の長さに声もなく佇む。それはそうだろう。戦後昭和に生まれ、昭和とともに去って行ったのだから。こんなに昭和を遠く感じたのも初めてだった。ずっと彼のことを考えているがまだしばらくは言葉がまとまらない。
Y君がO君はスポーツ万能で余計なことは言わず、寡黙で男ならだれでも惚れる男だったと言ってくれている。今はしみじみその言葉を噛み締めている。
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