大雪警報は尻つぼみ。雪雲が鳥取へ流れたので、降ったのは前半の2日だけで、その後雪は消え、今日も時折雪が舞うだけ。大社うらら館。1時半開演。トム・プロジェクト公演。主演音無美紀子、その夫が太川陽介。
読売演劇大賞女優賞・文化庁芸術祭演劇部門優秀賞を受賞しているのだが、太川陽介がでているので実は観る前から偏見をもっていた。このポスターも役者の素顔を写していて、舞台のメークはもっと老けたごま塩頭の水俣の漁師である。いい意味で裏切られた。音無美紀子がうまいのは言うまでもない。
この芝居は水俣病の被害者だった女性の実話をもとにして作られたものである。
水俣と言えば、私には二つの鮮明な記憶がある。
一つは我が家に初めてTVが来た頃だから、今から63、4年前頃だろうか、小学校高学年頃の私は、白黒TVに映し出された、きりきり舞いする猫や、手や指が変形し、手足がわなわな震える子供や老人たちの姿に息を呑んだのである。水俣で発生している奇病と放送していた。どうしてこんな恐ろしい病気が流行っているのだろうと恐怖におののいたものだ。
それがチッソの水銀廃液が原因と分かるのはもっと後である。
もう一つの記憶は今から33年前頃のことだ。私たち一家は夏休みに妻の故郷の熊本に行った時、誘う人があって水俣に太刀魚釣りに出かけた。二人の子供は小1と小3ぐらいだっただろうか。その頃は水俣は普通に海水浴場になっていて、釣り船もたくさん出ていた。太刀魚は山ほど釣って、焼いたり、煮たり、てんぷらにしたり、刺身にしたり、とても美味しかった。
私は水俣はすっかり回復したと思い、いい夏の思い出として大切にして来た。ところが・・・
この物語は1993年が舞台だった。何とちょうど私たち一家が水俣に遊びに行った頃の漁師の家族の物語だったのである。音無演じる杉坂栄美子とその家族は実在の人物と家族がモデルとなっている。栄美子の母は何と奇病の第一号患者になったのである。翌日から地域の住人に家を取り囲まれ、家を出るなと石を投げられ、すさまじい村八分に遭う。その時、栄美子は20歳。網元の一家は水俣病を発症し苦難の人生が始まる。
それは、発症時から始まり、対チッソの訴訟時にも続き、勝訴してからも、その時々の、それぞれの理由で差別や偏見を受け続けていたのだ。それは栄美子の子たちを苦しめることになる。
祖父にかわいがられ漁師を夢見ていた少年だった長男も高校を卒業すると都会に出て行く。
その長男が都会を捨て、水俣に戻り、漁師になろうとしたところからこの物語は始まる。
長男夫婦が戻って再び漁師になってくれることは嬉しいことだった。それはいまだに水俣病の後遺症に苦しむ栄美子にとっても。だが、栄美子はとても大きな決意をしていた。それは未だに水俣病は終わっていない。苦しんでいる者は大勢いるということを訴え、みんなといっしょに考えようという運動を起そうとしていたのだ。(実話)
だが長男は波風が立つのは嫌だった。本当はただ一人好きな漁師に戻って静かに魚をとっていたかっただけなのだ。
その時、栄美子を支えたのが、水俣病で死んだ父の言葉。「人様は変えられん、だから、自分が変わっていけ」
その言葉は言い換えれば、自分が変われば、人も変わることである。それが新しい人間関係を築くことになる。壊れた水俣が再び蘇ることになる。それがなければ本当に水俣がよみがえったことにはならない。
舞台を見ながら思った。私たち一家が水俣を訪ねた時、海はきれいに見えた、太刀魚も美味かった。でも、その時の水俣はまだこの舞台のような、真の再生とは遠い状況だったのだと。
果たして、今は?
この舞台のラストのように、漁師の父と都会から帰って漁師になろうとする長男と水俣に残って漁師になっていた次男との三人が、太鼓を「打つ」。そんな姿が見られる水俣だったらいいなと痛切に思う。そして、太刀魚を食べたい。
実は私は太刀魚が大好きなのだ。だが、出雲の魚売り場に太刀魚が出ることは滅多にない。
あ
読売演劇大賞女優賞・文化庁芸術祭演劇部門優秀賞を受賞しているのだが、太川陽介がでているので実は観る前から偏見をもっていた。このポスターも役者の素顔を写していて、舞台のメークはもっと老けたごま塩頭の水俣の漁師である。いい意味で裏切られた。音無美紀子がうまいのは言うまでもない。この芝居は水俣病の被害者だった女性の実話をもとにして作られたものである。
水俣と言えば、私には二つの鮮明な記憶がある。
一つは我が家に初めてTVが来た頃だから、今から63、4年前頃だろうか、小学校高学年頃の私は、白黒TVに映し出された、きりきり舞いする猫や、手や指が変形し、手足がわなわな震える子供や老人たちの姿に息を呑んだのである。水俣で発生している奇病と放送していた。どうしてこんな恐ろしい病気が流行っているのだろうと恐怖におののいたものだ。
それがチッソの水銀廃液が原因と分かるのはもっと後である。
もう一つの記憶は今から33年前頃のことだ。私たち一家は夏休みに妻の故郷の熊本に行った時、誘う人があって水俣に太刀魚釣りに出かけた。二人の子供は小1と小3ぐらいだっただろうか。その頃は水俣は普通に海水浴場になっていて、釣り船もたくさん出ていた。太刀魚は山ほど釣って、焼いたり、煮たり、てんぷらにしたり、刺身にしたり、とても美味しかった。
私は水俣はすっかり回復したと思い、いい夏の思い出として大切にして来た。ところが・・・
この物語は1993年が舞台だった。何とちょうど私たち一家が水俣に遊びに行った頃の漁師の家族の物語だったのである。音無演じる杉坂栄美子とその家族は実在の人物と家族がモデルとなっている。栄美子の母は何と奇病の第一号患者になったのである。翌日から地域の住人に家を取り囲まれ、家を出るなと石を投げられ、すさまじい村八分に遭う。その時、栄美子は20歳。網元の一家は水俣病を発症し苦難の人生が始まる。
それは、発症時から始まり、対チッソの訴訟時にも続き、勝訴してからも、その時々の、それぞれの理由で差別や偏見を受け続けていたのだ。それは栄美子の子たちを苦しめることになる。
祖父にかわいがられ漁師を夢見ていた少年だった長男も高校を卒業すると都会に出て行く。
その長男が都会を捨て、水俣に戻り、漁師になろうとしたところからこの物語は始まる。
長男夫婦が戻って再び漁師になってくれることは嬉しいことだった。それはいまだに水俣病の後遺症に苦しむ栄美子にとっても。だが、栄美子はとても大きな決意をしていた。それは未だに水俣病は終わっていない。苦しんでいる者は大勢いるということを訴え、みんなといっしょに考えようという運動を起そうとしていたのだ。(実話)
だが長男は波風が立つのは嫌だった。本当はただ一人好きな漁師に戻って静かに魚をとっていたかっただけなのだ。
その時、栄美子を支えたのが、水俣病で死んだ父の言葉。「人様は変えられん、だから、自分が変わっていけ」
その言葉は言い換えれば、自分が変われば、人も変わることである。それが新しい人間関係を築くことになる。壊れた水俣が再び蘇ることになる。それがなければ本当に水俣がよみがえったことにはならない。
舞台を見ながら思った。私たち一家が水俣を訪ねた時、海はきれいに見えた、太刀魚も美味かった。でも、その時の水俣はまだこの舞台のような、真の再生とは遠い状況だったのだと。
果たして、今は?
この舞台のラストのように、漁師の父と都会から帰って漁師になろうとする長男と水俣に残って漁師になっていた次男との三人が、太鼓を「打つ」。そんな姿が見られる水俣だったらいいなと痛切に思う。そして、太刀魚を食べたい。
実は私は太刀魚が大好きなのだ。だが、出雲の魚売り場に太刀魚が出ることは滅多にない。
あ
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