6月4日はいずも演劇鑑賞会の公演『母』(大社うらら館)
『母』とは小林多喜二の母セキである。と言ってもそもそも小林多喜二を今の人はほとんど知らないのではないだろうか。小説家である。知られている小説は『蟹工船』一作のみ。なんだ、一作だけかと言ってはならない。若くして特高に虐殺された多喜二はもっともっといっぱい書きたい小説があったのに、書くことが出来なかったのだから。
この芝居は三浦綾子(と言ってもこれまた今の人は誰も知らないだろうが、昭和の時代の有名な女流作家)の多喜二を描いた長編小説を舞台化したものである。多喜二が虐殺されてから30年後の、高度成長が始まる頃の昭和38年に、セキが雑誌社の取材を受けるところから始まる。


実は私は『蟹工船』は読んでいない。大学生の頃、読まないといけない本と思いながらも、テーマが重く暗い先入観があり、読むのが辛そうでいつかそのうちと思いながら手に取ることがなかったのだ。
だがあれから半世紀を過ぎ、この芝居を見て、私の多喜二像は根底から覆った。それが母セキの自分と我が子を語る言葉だった。セキは語る。
セキは家が貧しく学校にも通えず、字も書けず、13歳で結婚して多喜二をふくめて6人の子を育てたのだが、家はいつも明るく、楽しかった。子供達もみな明るく育ち、特に多喜二は人を笑わせるのが上手で常に笑いの中心にいた。無学だが明るい母。この母がいるからこの子たちがいる。そういう家庭だったのだ。多喜二は初めから小説家を目指していた訳ではない。それも驚きだった。学生時代はスケッチが上手く、水彩画ばかり描いていたが、厄介になっていた親戚(学費と生活費を得るために働いていた)からもっと働けと叱られ、絵筆を取り上げられてしまい、それから原稿用紙に字を埋めるようになったのである。
この明るく楽しい若者が絵を描き続けていたらどうなったのだろう。特高に虐殺されることはなかっただろうにと思うと運命の残酷さに言葉もなかった。
この若者は小説を書くのも、貧しい人たちのために書くのだと明るく語る。のちに共産党に入る。
私はこういう心優しい若者と共産党の政治的イメージがどうにもそぐわないのだが、私の若い頃にもこういう若者は沢山いたように思う。共産党よりももっと過激な方向に突っ走ってしまう若者たち。若さゆえとしか私は説明の言葉をもたない。
小説は世に少しずつ受け入れられ、『蟹工船』で注目を集めるようになる。世は満州事変が勃発し、日本では治安維持法が施行される。多喜二には特高の尾行がつくようになる。そして逮捕され。数時間の拷問で殺されてしまう。それはまさに虐殺だった。
拷問の跡が残る遺体にセキは語り掛ける。
「ほれっ、多喜二、もう一度立ってみせねか。みんなのために、もう一度立って見せねか」
その場面を見て、私は思った。セキは昔の明るく楽しい多喜二に呼び掛けているのだと。みんなを笑わせた多喜二に。あの多喜二こそが本当の多喜二。みんなの多喜二だと。
無学な母だからこその言葉。その言葉こそが限りなく尊く、真理をついている。
同じような言葉に、去年の演劇鑑賞会『獅子の見た夢』でも出会った。それは無学な父が愛する娘に投げかけた言葉だった。
私たちのように中途半端に勉強した人間が一番始末に負えないのかもしれない。
『母』とは小林多喜二の母セキである。と言ってもそもそも小林多喜二を今の人はほとんど知らないのではないだろうか。小説家である。知られている小説は『蟹工船』一作のみ。なんだ、一作だけかと言ってはならない。若くして特高に虐殺された多喜二はもっともっといっぱい書きたい小説があったのに、書くことが出来なかったのだから。
この芝居は三浦綾子(と言ってもこれまた今の人は誰も知らないだろうが、昭和の時代の有名な女流作家)の多喜二を描いた長編小説を舞台化したものである。多喜二が虐殺されてから30年後の、高度成長が始まる頃の昭和38年に、セキが雑誌社の取材を受けるところから始まる。


実は私は『蟹工船』は読んでいない。大学生の頃、読まないといけない本と思いながらも、テーマが重く暗い先入観があり、読むのが辛そうでいつかそのうちと思いながら手に取ることがなかったのだ。
だがあれから半世紀を過ぎ、この芝居を見て、私の多喜二像は根底から覆った。それが母セキの自分と我が子を語る言葉だった。セキは語る。
セキは家が貧しく学校にも通えず、字も書けず、13歳で結婚して多喜二をふくめて6人の子を育てたのだが、家はいつも明るく、楽しかった。子供達もみな明るく育ち、特に多喜二は人を笑わせるのが上手で常に笑いの中心にいた。無学だが明るい母。この母がいるからこの子たちがいる。そういう家庭だったのだ。多喜二は初めから小説家を目指していた訳ではない。それも驚きだった。学生時代はスケッチが上手く、水彩画ばかり描いていたが、厄介になっていた親戚(学費と生活費を得るために働いていた)からもっと働けと叱られ、絵筆を取り上げられてしまい、それから原稿用紙に字を埋めるようになったのである。
この明るく楽しい若者が絵を描き続けていたらどうなったのだろう。特高に虐殺されることはなかっただろうにと思うと運命の残酷さに言葉もなかった。
この若者は小説を書くのも、貧しい人たちのために書くのだと明るく語る。のちに共産党に入る。
私はこういう心優しい若者と共産党の政治的イメージがどうにもそぐわないのだが、私の若い頃にもこういう若者は沢山いたように思う。共産党よりももっと過激な方向に突っ走ってしまう若者たち。若さゆえとしか私は説明の言葉をもたない。
小説は世に少しずつ受け入れられ、『蟹工船』で注目を集めるようになる。世は満州事変が勃発し、日本では治安維持法が施行される。多喜二には特高の尾行がつくようになる。そして逮捕され。数時間の拷問で殺されてしまう。それはまさに虐殺だった。
拷問の跡が残る遺体にセキは語り掛ける。
「ほれっ、多喜二、もう一度立ってみせねか。みんなのために、もう一度立って見せねか」
その場面を見て、私は思った。セキは昔の明るく楽しい多喜二に呼び掛けているのだと。みんなを笑わせた多喜二に。あの多喜二こそが本当の多喜二。みんなの多喜二だと。
無学な母だからこその言葉。その言葉こそが限りなく尊く、真理をついている。
同じような言葉に、去年の演劇鑑賞会『獅子の見た夢』でも出会った。それは無学な父が愛する娘に投げかけた言葉だった。
私たちのように中途半端に勉強した人間が一番始末に負えないのかもしれない。
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