5月27日
娘が気管支切開の器具が変わっていて声が出せるようになっていたと電話して来た。励ましたら必死に何か言おうとして声にならない音を発したそうだ。
夜9時半に帰宅。娘からいっぱい話を聞く。早く病院へ行きたいが明日も出社しないといけない用事がある。
5月28日
娘から会社に電話。今朝は「おはよう」「〇っちゃん」と娘の名を呼んだと言う。嬉しくて嬉しくて。
帰宅して聞いたら、それ以外にも短い言葉を色々と喋ったそうだ。娘も感激していた。気切していたから喋れなかっただけで、本当は喋れたのだ。どれだけ喋りたかったことか。子供たちの名を呼びたかったことか。
5月29日
寝たから帰ろうかなと思うと目を開ける。そうすると帰れない。今日は4時過ぎまでいる。寝台型の車椅子で小一時間病院内を散歩する。水道の蛇口に手を出してずっと水に触っている。今日の天気は晴れているかな、曇っているかなと聞いたら、かすかに小さな声で「曇っている」と言う。
字を書かせたら、「ひ〇〇にどうしてもあいたい」と書く。(妻の従弟で府中のおじさんの子供。幼い時から妻が可愛がった)。本当なら長男に会いたいと書くところだろうにと哀しくなる。
5月30日
突発の用が出来たので病院には一時間しかいられなかった。明日、〇〇(息子)が来る。会いたいだろうと言ったら、「そうでもない」と答える。水を差された気分。どこまでよくなるのだろうかと悲観的になってしまうが、生きているだけでよかったと思っていた時もあったのだからと気を取り直す。
5月31日
息子が言語リハビリに立ち合った時、息子を19歳と言ったそうだ。今は大学4年生。記憶の部分はよくならない。
6月2日
PT(理学療法士)による運動療法の前に病院へ行ったら、先生が気切の器具を外していたので驚く。一週間ほどで傷は塞がるそうだ。また一歩前進。府中のおばさんと二人でPTとST(言語聴覚士)に立ち会う。
おばさんと俺の二人とも「友達です」と言われたのは少なからずショックだった。先生と一緒に『ふるさと』を歌う。涙が出て来た。声も少しずつ大きく強くなるように指導していた。
息子が野菜を食べたいと言うので、娘と買い物に行き八宝菜を作る。
6月3日
小説やっと4章に入る。週三日見舞いに行くと残りの四日は本当に頑張らないと。明日、運命の経営会議。
6月4日
会社はやめると決定。6月中には閉鎖するらしい。覚悟していたこと。これでこれからは小説に集中できる。邦子の看病も出来る。より夫らしく人間らしいことが出来る。
6月5日
娘と病院へ。娘が沢山質問する。田舎(出雲)の住所は正確に答える。自宅の住所は「調布市永田町」と答える。飼っている豆柴のモモは「ばかモモ」と答える。二人の子の誕生日はあっている。ただし娘は熊大付属高校(そんな高校はない)を出て熊大に行っていると答えた。俺は5時までいて車椅子散歩したり、足をずっとマッサージしていた。よくなって行くような気がした。
6月6日
ずっと手をマッサージしていて、足をマッサージしようと動いたら「ここにいて」と言われた。嬉しかった。人としての会話が増えて行くような気がする。
夜、すぐ下の妹が福岡から助っ人に来てくれる。
6月8日
娘から嬉しそうに電話。今日はいっぱい喋った。娘に「英会話を教えて」と言ったそうだ。スペイン語やフランス語も喋った。と言っても自分が知っている片言程度だが。俺の妹には今日は「娘は早稲田に行っている」と言ったそうだ。どこからワセダが出て来たのやら。
6月10日
社長が来て閉鎖は8月末と伝えられる。
市から【要介護5】と認定される。一番重い介護度だ。3ヶ月でここも出なければならないとなると、8月19日以降、邦子はどうなるのか。次の病院はあるのか?自宅にい戻るのか?そもそもその頃はどんな状態なのか?
邦子の進歩はすごい。暑中見舞いの文字がしっかりしてきたことに驚く。多少文面におかしなところや住所の間違いはあるがこれでもよくなった方だ。以下は府中のおばさんが持って来た葉書に書いたもの。
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左)「暑中お見舞い申しあげます。早いもので(以下読み取れず)曽田邦子」
右)「熊本市黒髪」と書いた。
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左)「甲子園熊本大会が 今日〇やって(以下不明)頑張って(以下不明)邦子〇」
右)「おばちゃんや夏〇が 帰ったので みやげすこし(以下不明)私は家に(以下不明)曽田邦子」
6月11日
会社に娘から電話。娘の携帯から邦子の声が聞こえた。「ごはん食べた・・・」と言うようなことを喋っていた。帰宅して妹たちから報告を受ける。今日は声をあげて笑ったそうだ。聞きたかった。妹が「モモは十人並みだ」と言ったら、「十一人並みだ」と言い、自分でもおかしくて笑ったのだそうだ。来週から食事の訓練が始まる。
6月12日(土)
土日はリハビリがないので、俺が行かないと一日誰とも話さないことになる。お昼から夕方まで。記憶、認識、意識が不十分なので、正常な人との会話にはならないのがちょっと哀しい。よくなると信じて話す。
6月13日
車椅子で外へ出たら「恥ずかしい」と言う。恥ずかしいことはない。お前がいいお母さんだったことは家族が知っている。
6月14日
妹と娘が行ったらゼリーを食べた後だった。府中のおばさんが来ていて、薄いゼリーを自分でスプーンですくって食べたと教えてくれた。「私はワインゼリーの方がいいのに」と言い、食べ方が早過ぎると言われ「あれこれうるさいわね」と言ったそうだ。
「動物にたとえると自分はキツネ」と言い、なぜと聞いたら「ずるがしこいから」と言ったそうだ。
6月15日
娘のモンゴル国際ワーキングキャンプの第一志望が通る。3月末に娘が夏休みを利用してモンゴルの孤児院で働きたいと言ったので後押ししたもの。娘にとっては心身ともに一番辛い時期だった。そんな状況から一時でも離れたい気持ちは痛いほど分かるし、親のいない孤児のために尽くしたい気持ちもよくわかる。
6月16日
編集者が様子見の電話をして来る。急がないと。
6月17日
今日は見舞いの日。午前中散髪して行く。開口一番「散髪したの」ちゃんと分かっていて嬉しくなる。だが「カレーが作ってあるから食べろ」と変なことを言う。少しずつ少しずつだ。
手足のリハビリ、言語リハビリ、作業療法も受けていることがわかる。まだ自分でも呑み込んだことがわからないので、食べたものが喉に止まったままのことがあるらしい。舌で奥へ送り込むのもまだ十分でないとのこと。身体がそうなのだから頭もそれに見合った反応しかしないのも無理もないことかなと思う。夜、小説を少しだけ書く。少しずつ少しずつだ。
6月18日
体重を計る。昨秋の健診67㎏から61㎏に減っている。これからは食おうと決意する。食べなければ介護も出来ない。小説も書けない。
6月19日
主治医と21日の頭の骨入れの手術の話。手術自体は難しくはないそうだ。
体力的にも回復具合においてもまだ在宅は無理。もうワンクール(3ヶ月)リハビリしなければならないので病院探しをするように言われる。転院したばかりなのにまた病院探しかと目の前が暗くなる。この先はもう系列病院はない。主治医も言っていたが意識レベルがまだまだ。今日もあれを食べろとか、ご飯が炊いてあるからとか、和食がいいとかとりとめもなく話す。オセロを見せたが何か分からなかった。右手は動くので車椅子を右手で動かすことを始める。
1時から5時まで病院にいるとぐったりと疲れて何もする気にならない。
娘、仮免合格。落ち込んでいる時に気分転換もあるが将来必ず必要になるからと無理やり通わせた。運転は楽しいぞ。冷蔵庫の野菜で野菜炒めと豚汁を作ってくれる。助かった。俺も7月末までに3㎏増やそうと目標を立てる。夜、小説を少しでも進めようと思い手を入れる。
6月20日
朝、娘が父の日のプレゼントをくれる。オフィスの癒しにサボテン。小説が売れた時のサインペンと涙が出るような手紙。そして邦子からの手紙。このような手紙を書かせるところが娘らしいところ。
病院へ行き早速「今日は何の日」と問う。「おもちの日」と答える邦子。「お餅があるから醤油と砂糖で食べろ」と言う。さらに問うと「俺の誕生日」と言う。結局、父の日は分からなかったが、娘の手紙と邦子の手紙を読むよと言うと、俺の顔を見て「泣かないでね」と言う。
ゼリーを食べられるようになってしきりに食べたいとか飲みたいと言う。「そこにあるので食べさせろ」と言う言い方をする。まだまだだが娘の手紙にあったように4人+モモで暮らせるように頑張ろう。長男、遅く戻って来る。ベスト8で優勝チームに負けたと悔しそう。
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「お父さん 父の日おめでとう そして毎日ありがとう 毎日(以下不明)」
「働いてくれてありがとう 皆で感謝しています もちろんモモちゃんが一番です 今日もこれから一緒にお休みするんだけど 小さくなって寝て下さいね(以下不明)くにこより」
6月21日
手術。予定より早く終了。杏林での処置がよかったので、硬膜を縫うのに筋膜を採取してパッチワークせぜにすんだ。麻酔が切れた後、頭の痛みに苦しむ邦子。その時、左足が動く。先生は松葉づえになれると言う。何と言う驚き。嬉しさのあまり小躍りしそうになる。(結局松葉づえにはならなかった)
6月22日
経過良好。頭のパイプも抜く。痛みも消える。
邦子が食べ物の話ばかりするので、話題を変えて何の勉強が好きだったか聞く。「古文」と答えたので「ゆく川の流れは絶えずして・・・」と言うと、続きをすらすらと言い、作者は鴨長明と言う。方丈記はしばらく考えてから答える。こういう記憶は確か。
左足は動く信念のもとマッサージしていたらぴくぴく動く。妻もぴくぴくすると言う。(結局動いたのはここまで)
某TV局のミニーーで主将の長男がインタビューを受ける。長男、大いに恥ずかしがる。(長男のサークルはビーチフットボールという砂浜でのラグビー。マイナーなスポーツ)
6月23日
病院へ行ってやりたいが会社の閉鎖が決まっていてもやらなければならないことがある。小説、進まず。
6月24日
俺の顔を見るなり、「あら、お父さん」と言う。とても自然な反応だったが、その後、話すことは支離滅裂。俺の父が船に乗って旅をするのだが、ぼろ船でがっかりしていたとか、長男は海洋学の専門学校に行ってるけど船も運転できないと言うような滅茶苦茶な話。
6月26日(土)
先のリハビリを考え車椅子にしてもらう。車椅子には看護師がのせるのでいちいち呼ばないといけない。外は蒸し暑くても風が吹くと「気持ちいい」と言う。邦子の散歩用の帽子があったので手に取ると、「かぶってごらん」というのでかぶったら、「にあわない」と言われる。主治医は食事が出来るようになると言うが時間はかかりそうだ。
子供は二人とも練習。一人で夕食。これからはそうなる。将来は邦子の世話をしながら二人で食べることに。
6月27日(日)
疲れていたが病院へ。日曜だから俺が車椅子に乗せてくれと頼まなければ一日中寝ていることになる。頼んで車椅子に乗せてもらう。俺が歯磨きをしてやっているのを看護師に見られたら、「夫婦としてあるべき姿だ」と言う。真っ当な発言なのだが普通の人は言わないようなことを大真面目に言う。
邦子に初めて字を書かせた友達が見舞いに来るが誰か分からなかった。
6月28日
長男がダウン。邦子なら看病すると思ったらほっとけなくて昼は焼きそばを作ってやる。
6月29日
俺一人だけ引き抜きたい人もいるようだが、妻を抱えた俺はもう会社は無理だ。小説に専念するだけで精一杯のような気がする。
6月30日
ようやく4章が終りかけるも身体がだるい。息子の薬を飲んで横になる。藤沢の妹が来てくれて助かる。
7月2日
主治医と面談。脳のCTを見せられる。改めてダメージの大きさを再認識させられる。骨入れして反応の良さは改善されているそうだ。ただし近い記憶ができていない。昨日の事とか今朝のことなど。物事をまとめる力も弱い。このあたりのダメージはもう回復しないと俺は受け止めた。食事の訓練ではまだ呑み込むことがわかっていない。後3ヶ月回復期のリハビリを受けて、在宅になるくらいの考えでいるのが妥当のようだ。
7月3日(土)
午後、府中のおばさんが邦子の従姉と幼い女の子を連れて見舞いにい来る。邦子は女の子を見て「〇っちゃん」と自分の娘と思ったようだ。時間の感覚も認知能力も失せている。看護師は骨入れをしてから車椅子の姿勢が良くなったと言う。
7月4日(日)
日曜なので午後はずっと見舞い。頭がかゆいというので温タオルで拭き、背中も拭いてやる。1Fのピロティに車椅子で行ったら、「気持ちがいい、初めて来た」と言う。毎週土日には来ているのだが。女の人を見て、「〇〇子さんが来ている」と私の妹の名をあげ、頭まで下げる。知らない人に頭を下げることはよくやる。その度に俺は切なくなる。
車椅子を動かせるように右手で回すことを教える。「車椅子も楽しい」と言ったことも切ない。あんなに強くたくましかった邦子がこんなに弱くなったことに切なさが募る。
大好きな歌舞伎の話をしたら反応があったので今度パンフレットを持って来よう。
7月5日
長男、和歌山の白浜大会で優勝して戻って来る。
7月6日
好物のカレーのルーを食べてもいいものなら食べさせて欲しいと届ける。
7月7日
昨日のカレーはとろみをつけて食べさせてくれた。邦子も美味しいと喜んだそうだ。今日は味噌汁をゼリー状にしたもので、邦子は一口食べて口を歪め、俺に三口も食べさせた。食べる量を増やしている。これは大切なことらしい。STはここを出る頃はドロドロ状のものを食べられるようになると言う。そんなに時間がかかるのか。
今日は笹を持って行く。なぜ笹を持って来たか問うと、「七夕」とちゃんと答える。思わずすごいぞと嬉しくなる。短冊に「自分で仕事をコントロールできますように」「学年で英語を一番になりますように」と書く。昔、邦子は英語が得意でよくできたと自慢していたものだ。
歌舞伎のパンフレットを見せる。玉三郎を自分の娘だと言う。俺をどこかのおじさんだと思っていることにも気がつく。疲れた。
7月8日
娘によると今日はよく喋り、住所も駅名もちゃんと言えたそうだ。高速教習の話をしたら「お父さんから聞いた」と言ったそうだ。確かにその話は昨日した。近い記憶がまるで駄目という訳でもなさそうだ。一喜一憂だ。
7月10日(土)
邦子はST休みの土日でも看護師から食事訓練をしてもらっている。飲み込みも確実になる。車椅子の姿勢も長時間維持できるようになる。話す内容はまだおかしいが、俺も慣れたのか、ゆっくり見守ろうかという心構えが出来たのか、あまり気にならなくなった。
7月11日(日)
二日続けての見舞いで行く前から疲れていた。邦子はベッドに寝たままだと妄想的なことを言う。車椅子で連れ出すと生き生きしていちおう会話にはなる。口がきけるようになって、初めて熊本の母親に電話するという。携帯で話すが感動的な母子の会話にはならず。ピント外れのすれ違いの会話。
携帯で写真を撮ってやる。「笑うね」とポーズを取る。この無邪気な振る舞いが本来の邦子らしいものなのか、正常でない部分なのか分からない。「ありがとう。お礼のキスしてあげる」と言われて、人目があるので頬にしてもらう。
7月12日
今日はシチューを届ける。PTを見に行き、ケースワーカーと会う。彼女も次の病院を探してくれているが、リハビリが週3回になってしまうと困っていた。
八王子永世病院というところへ電話して、困っていることを伝え、しっかりしたリハビリを受けたいと言うと、次の受け入れ先が決まっていれば、2ヶ月しっかりしたリハビリをしてくれると言う。こんなことを言ってくれたのはこの病院が初めて。すぐにケースワーカーに連絡する。PTは変な病院へ行くくらいなら通所でリハビリに通った方がいいと言っているそうだ。
7月15日
会社を休んで見舞いに行く。ケースワーカーやリハビリの先生たちも邦子を心配してくれている。小説を書こうと思ったが保険会社や市役所に出す身障者手帳の書類を書いていたら仕事にならず。診断書に「症状固定、見直し不要」とあるのを見て哀しくなる。だが邦子はようやく自分の齢を52歳(10月で53歳)と言い、住所も正しく言えるようになった。
7月16日
娘が見舞いに行ったが食べ物の事ばかりで、あげく叱られたりぶたれたりして落ち込んでいる。慰める言葉もない。
すると王さんからメールがあったと娘が嬉しそうに報告に来る。モンゴルのボランティアに行く途中、北京で一泊するので一時帰国中の王さんにメールしたら空港に迎えに来てくれると返事が来たのだ。
「お母さんのお蔭だよ。王さんはお母さんの友達だったんだから」と言うと、娘もしみじみと頷いていた。
身障者手帳に貼る邦子の写真。娘の大学入学式の写真を使う。疲れたとてもやつれた顔をしている。これからずっと使う手帳にこんな写真を貼るのかと思うと切なくなるが、他にいい写真がなかったし、これも記念の写真だ。
7月17日
午後、見舞い。行った時から車椅子。車椅子は苦にしなくなった。見よう見まねで立つ練習を2回する。相変わらず食べ物の話ばかり。顔を拭いたり、車椅子散歩をしたりしてうまくかわすが、それでも疲れる。食べたい食べたい病が始まるとどうやってこの時間をやり過ごそうかとそればかりを考える。
(私がメモしていたノートにこの「王さんへの手紙」が貼り付けてあった。私が手紙の横に読みやすく書き直したものには私の字で7/17とある。この日に書いた記憶はないが、この手紙は邦子が一帰していた王さんへ書いたものである。娘はモンゴルに行く途中、北京で王さんと会う約束になっている。そういう話は忘れて、王さんが帰国すると思い込んで書いた手紙である)
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左)「王さん、帰京(邦子が書いたまま)出来る日が近づいて来ましたね
  おめでとう
  どんなにか待っておられたことでしょう
  そういう私が首がのびすぎてちぎれるかと思う位 心まちに
  しておりましたから
  1年ぶりに皆さんと顔を
  合わせるのが楽しみですね」
右)「彼もあなたの帰りをどんなに楽しみに待って
  おられることでしょう、ねえ

  よろしくお伝えください
  (と邦子がかけというので
   僕が書きました)    (この三行は私の字)
  (注・夫婦で来日したことを忘れている。実際は夫婦で一時帰国している)