昨夜は民藝公演のグレイクリスマスを観る。今年第一回の出雲演劇鑑賞会。
ホワイトクリスマスは雪に覆われた美しいクリスマス。それに対してグレイクリスマスは雪のない美しくないクリスマスを意味するのだが、それはまた白く美しい雪は汚れたものを覆い隠してあるのであって、雪のない日に広がって見える世界こそが現実であることを意味している。
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物語は敗戦の年、昭和20年のクリスマスから始まる。
旧華族五条伯爵家は進駐軍の将校クラブに母屋を接収され離れに追いやられていた。天皇は人間になり、華族制度は廃止され、生活力のない当主は自殺を図る始末。その弟は戦犯裁判にかけられ、息子はヒロポン中毒。進駐軍に取り入るために五条は後妻の華子や娘を将校クラブのホステスにするが、女たちは生きるためにたくましくホステスを勤める。
離れに出入りするのは進駐軍民生局の日系二世の軍人ジョージや五条家の資産を狙う詐欺師、正体不明の闇屋の若者権藤たち。華子はデモクラシーを説くジョージに惹かれて行き、五条の娘は悪の匂いを振りまく権藤に魅入られて行く。
この舞台のすごい所はここからの展開である。次は一年後のクリスマス。同じ離れの広間。その次が二年後のクリスマス。同じ離れの広間。何人かの登場人物の出入りはあるが、華子、ジョージ、権藤、五条、五条の娘など主要な役者は変わらない。
それが三年後、四年後、五年後となって行くに従い、世も変わり人も変わって行く。日本を武力なき平和国家に変えようとする理想主義者の集まり民生局は日本を共産主義の防波堤にしようとする情報部との勢力争いに後退を余儀なくされて行く。それとともに息を潜めていた旧勢力も息を吹き返して行く。新しい世の中に自分の未来を賭けた華子の夢も萎んで行く。
そして朝鮮戦争が勃発。五条の弟は無罪放免され朝鮮戦争で一儲けを企み、五条の息子は警察予備隊(自衛隊の前身)に入る。世の中の変わりように絶望した華子はジョージにすべてを賭ける。ジョージと一緒にアメリカに行きたいと訴える。アメリカこそがジョージが説くデモクラシーの国だと思ったのである。だが、ジョージは華子をアメリカには連れて行きたくないと言う。ジョージは言う。アメリカもデモクラシーの国ではない。第二次世界大戦中、日系アメリカ人は強制収容所に放り込まれひどい差別を受けたのである。そんな国に華子を連れて行くことは出来ないと言い、かれもまた現実に絶望して自ら志願して朝鮮へ行ってしまう。
一方、五条の娘の前には姿をくらましていた権藤が現れる。権藤は朝鮮の不穏な輩として警察に追われていた。権藤は自分が朝鮮人であることを打ち明ける。父親は朝鮮で朝鮮語の歌を歌って日本人の警察に殺された。日本人を憎んでいても屈折した愛を抱く権藤は警察の目を欺くために一緒に逃げてくれと五条の娘に哀願するが娘はすでに権藤への思いは捨てていた。一人で雪の中に逃げて行く権藤。遠くから銃声が聞こえて来る。
後日、雪の降る夜。離れにたった一人の華子にオルゴールが届く。それは何年か前に華子がジョージにプレゼントしたオルゴール。ジョージは朝鮮で戦死したのだ。オルゴールを聞く華子。雪が降って来る。オルゴールを聞きながら見えないジョージと踊り出す華子。初めて会ったクリスマスの夜に恥ずかしがるジョージと踊ったことを思い出しながら、華子は踊る。たったひとりの踊りは続く。その上に舞い落ちる真っ白な雪。

最初から最後までたった一つの舞台でクリスマスが五回行われて一つの物語が完結したのである。私は近年は芝居を観ていないので論評する資格はないのだが、この芝居には度肝を抜かれ感嘆した。映画やTVのように時間や空間を自由に移動することなく、舞台と言う広くもないただの板の上で幕も使わずに芝居をやり通したのである。
これが民藝の芝居かと正直驚いたのです。なぜなら私が20代そこそこの頃は大劇団の芝居は古臭いものと思われ見向きもしなかったからである。宇野重吉という名優がいたが、演目も有名だけど古臭く演技も泥臭く感じたものだった。だが昨夜の芝居は一つの舞台を時間経過だけで進めると言う方法で、そこで演じられている芝居の印象までも何か新しく先鋭的なものに一変させていたのだ。
芝居を観る時はいつもドラマに集中しているのだが、今回の様に舞台構成に感嘆して観たのは初めて。
民藝を古臭いと言って御免なさいである。こういう努力を積み重ねているから50年以上経った今も続いているのだろうなと思った。
2026年のラインナップはもう決まっていて、その中に文学座の「欲望と言う名の電車」がある。若い頃古臭い芝居だと思って見向きもしなかったが、来年のことを言えば鬼が笑うが必ず観に行く。