三連休に保育園で「敬老会」が予定されていたがコロナで中止になってしまった。引っ越し前に松江の保育園を調べていた娘が「松江の保育園はすごいね。どこの保育園も敬老会をやるのよ。東京の保育園で敬老会をするところ見たことないのにさすがは島根県だね。ジジババがいっぱいいるのね」と笑っていたので、楽しみにしていたのに残念だ。ブログも少し間があいたので楽しい記事ができると思っていたが、それもあてが外れたので、少し高尚なブログになるが、前回の続きで「出雲国風土記」の中の記述についての謎解き(?)が面白かったので、それを紹介しようと思う。
最初に「出雲国風土記」に出て来る「正倉」の説明から。
奈良の「正倉院」とは全く別物。「正倉院」は聖武天皇の遺品や宝物を収めたものだが、普通「正倉」と言われているのはイネや米を納める倉庫である。
ところがこの「正倉」の記述があるのは「出雲国風土記」のみで、他国の風土記には記述された気配がない。本来「正倉」は風土記に記載されるべきものではなかったのである。
疑問1「なぜ出雲国風土記にのみ正倉の記述があるのか」
ところが、出雲国風土記にも全九郡のうち三郡だけ正倉の記述がない。
疑問2「なぜ楯縫(たてぬい)郡、秋鹿(あいか)郡、神門(かんど)郡だけ正倉の記述がないのか」
疑問2から解いて行く。
出雲国風土記は郡ごとにまとめられて国造のもとに集められて一つにまとめて中央に提出した。
楯縫郡と秋鹿郡は宍道湖の北岸に隣り合う小さな郡であるから、これまでは小さな郡なので正倉はなかったと考えられていた。だが神門郡は大きな郡である。(我が家も昔の神門郡に入っている)杵築大社(出雲大社)の鎮座するところである。そんな大きな郡に正倉がないのはおかしい。現に正倉と思われる建物跡が発掘されている。どうやら神門郡には正倉はあったようだ。ではなぜ記述されていないのか。楯縫郡や秋鹿郡にも本当は正倉はあったのだがその跡が見つかっていない可能性がある。となるとこの三郡は正倉があったのに記述されていないことになる。
残り六郡にはすべて正倉ありと記述されているが、正倉跡がよくわからない所もあるのだ。以上のことから考えられるのは、出雲九郡にはすべて正倉があったが、楯縫・秋鹿・神門郡だけ記述されていないということである。
では、正倉とは何かを考える。イネや米を蓄える倉庫だが、なぜそのようなものを作るのか。今なら非常用倉庫だが昔ならまず第一に兵糧と考えるべきであろう。となると、なぜ兵糧用の倉を作ることになったのか。
そこで着目すべきが732年に「節度使設置」があったことである。
朝鮮の新羅との関係が悪化し、大和朝廷は山陰に節度使を設置した。これは軍事を司る使者で山陰道を管轄し、国司よりも上位だった。これにより当時の出雲はある意味戦時体制にあったことが分かる。
風土記編纂においては各郡で原稿を提出して国造がまとめたのだが、この各郡の原稿提出順で楯縫郡と秋鹿郡が早かったことが分かっている。なぜなら他の郡の産物についての記述で「楯縫郡の如し」とか「秋鹿郡の如し」の記述があるからである。早く提出された原稿は各郡で共有されていたのである。
そこで原稿提出順と正倉の有無を年代順にまとめると以下のようになる。
713年5月風土記撰進命令
秋鹿郡・楯縫郡・神門郡原稿提出(三郡は正倉記述なし)
732年8月節度使設置
残り六郡原稿提出(六郡は正倉記述あり)
733年2月出雲国風土記完成
734年4月節度使停止
これを見れば、節度使の設置で正倉の記述がなされたことが分かる。
出雲は新羅と戦争になるかも知れないという緊迫した状況にあったがゆえに、兵糧の役目を果たす正倉を記述したのである。だが節度使設置前に原稿を提出した三郡はそのような緊迫した状況ではなかったので正倉の記述をする必要がなかったのである。
地道な古代史の研究が上質な推理小説を超える喜びを与えてくれました。これだから出雲国風土記はやめられない。
最初に「出雲国風土記」に出て来る「正倉」の説明から。
奈良の「正倉院」とは全く別物。「正倉院」は聖武天皇の遺品や宝物を収めたものだが、普通「正倉」と言われているのはイネや米を納める倉庫である。
ところがこの「正倉」の記述があるのは「出雲国風土記」のみで、他国の風土記には記述された気配がない。本来「正倉」は風土記に記載されるべきものではなかったのである。
疑問1「なぜ出雲国風土記にのみ正倉の記述があるのか」
ところが、出雲国風土記にも全九郡のうち三郡だけ正倉の記述がない。
疑問2「なぜ楯縫(たてぬい)郡、秋鹿(あいか)郡、神門(かんど)郡だけ正倉の記述がないのか」
疑問2から解いて行く。
出雲国風土記は郡ごとにまとめられて国造のもとに集められて一つにまとめて中央に提出した。
楯縫郡と秋鹿郡は宍道湖の北岸に隣り合う小さな郡であるから、これまでは小さな郡なので正倉はなかったと考えられていた。だが神門郡は大きな郡である。(我が家も昔の神門郡に入っている)杵築大社(出雲大社)の鎮座するところである。そんな大きな郡に正倉がないのはおかしい。現に正倉と思われる建物跡が発掘されている。どうやら神門郡には正倉はあったようだ。ではなぜ記述されていないのか。楯縫郡や秋鹿郡にも本当は正倉はあったのだがその跡が見つかっていない可能性がある。となるとこの三郡は正倉があったのに記述されていないことになる。
残り六郡にはすべて正倉ありと記述されているが、正倉跡がよくわからない所もあるのだ。以上のことから考えられるのは、出雲九郡にはすべて正倉があったが、楯縫・秋鹿・神門郡だけ記述されていないということである。
では、正倉とは何かを考える。イネや米を蓄える倉庫だが、なぜそのようなものを作るのか。今なら非常用倉庫だが昔ならまず第一に兵糧と考えるべきであろう。となると、なぜ兵糧用の倉を作ることになったのか。
そこで着目すべきが732年に「節度使設置」があったことである。
朝鮮の新羅との関係が悪化し、大和朝廷は山陰に節度使を設置した。これは軍事を司る使者で山陰道を管轄し、国司よりも上位だった。これにより当時の出雲はある意味戦時体制にあったことが分かる。
風土記編纂においては各郡で原稿を提出して国造がまとめたのだが、この各郡の原稿提出順で楯縫郡と秋鹿郡が早かったことが分かっている。なぜなら他の郡の産物についての記述で「楯縫郡の如し」とか「秋鹿郡の如し」の記述があるからである。早く提出された原稿は各郡で共有されていたのである。
そこで原稿提出順と正倉の有無を年代順にまとめると以下のようになる。
713年5月風土記撰進命令
秋鹿郡・楯縫郡・神門郡原稿提出(三郡は正倉記述なし)
732年8月節度使設置
残り六郡原稿提出(六郡は正倉記述あり)
733年2月出雲国風土記完成
734年4月節度使停止
これを見れば、節度使の設置で正倉の記述がなされたことが分かる。
出雲は新羅と戦争になるかも知れないという緊迫した状況にあったがゆえに、兵糧の役目を果たす正倉を記述したのである。だが節度使設置前に原稿を提出した三郡はそのような緊迫した状況ではなかったので正倉の記述をする必要がなかったのである。
地道な古代史の研究が上質な推理小説を超える喜びを与えてくれました。これだから出雲国風土記はやめられない。
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