9月2日、松江テルサで「ここまでわかった『出雲国風土記』」の講演があった。これは聞き逃すわけにはいかんと駆けつける。ただ犬を預かっているので長時間家に閉じ込めておくわけには行かず、松江に引っ越した娘の家に一泊二日で預けて講演に行く。翌3日は私は親戚の葬儀で鳥取まで行くので、それもあって預けざるをえなかったのである。わんこは元気になったので一泊二日なら大丈夫だろう。玄関を開けたら2歳になったばかりの孫がわんこを見るなり「ぎゃあ」と飛び上がって喜ぶ。
今年の3月31日に島根県古代文化センター編「出雲国風土記ー校訂・注釈編ー」が出版された、その成果についての講演である。
〈風土記とは〉どういうものかを説明すると以下の通り。
〈風土記撰進の命令の内容〉
一、地名に好ましい漢字を用いなさい(これで日本中の古い地名が失われてしまった:私見です)
一、物産品目を報告しなさい。
一、土地の肥え具合を報告しなさい
一、山川原野の名とその由来を報告しなさい
一、古老が伝える土地の伝承を報告しなさい
ほぼ完全な形で残っているのは出雲国風土記のみ、一部残っているのが常陸・播磨・豊後・肥前だけで、後は失われているのはよく知られていること。
〈風土記編纂の背景とは〉
撰進の命令が出た713年は大宝律令が発布されてから10年で実情に合わなくなっていた。
一、庸調制が改訂された(租庸調の庸調)
一、丹後国、美作国、大隅国が作られた。(大き過ぎる国を分割して新しい国を作った)
一、新たな郡を設置した。郡司の任用制度が変わった。
一、新しい交通路を作った。(美濃国と信濃国の間)
このように地方統治に関わる政策が連続したので、地方の実情を正しく把握する必要が出て来た。
ここで〈出雲国風土記の特徴〉をあげておく
一、出雲地域の有力者である国造(今の千家や北島の先祖)が編纂している。在地出身の郡司がまとめたものを国造が編纂している。
これに対し、常陸国風土記は朝廷から派遣された国司が編纂している。恐らく他国の風土記はすべて国司が編纂しているであろう。
一、天皇がほとんど出て来ない。欽明天皇が2か所に登場するだけ。
他国の風土記では天皇は頻繁に登場する。
一、399もの神社が記載されている。
現存する風土記では出雲国風土記のみに見える
講演した島根県古代文化センターの橋本氏は「出雲国風土記」を行政文書として捉える。
出雲国風土記は国引き神話から始まるので多くの人がその雄渾な文章に魅了され文学作品として捉えてしまう。私もその一人であった。出雲人の末裔(?)として他国の風土記とは違う気高いものであってほしいから。人情である。
しかし、氏は時代背景から中央が地方の実情を知る必要に迫られて作ったものと結論する。
なぜ「行政文書」と結論付けたかの理由が学者らしく説得性があるので紹介する。
常陸国風土記には「常陸国国司解(げ)し申す」とある。
「解」は上申文書の様式なのである。即ち、下が上に提出する正式文書であることを意味している。
これを補完する資料もあげておく。
郡司は上から大領→少領→主政→主帳の順の四等官で主帳が一番下の№4である。
ところが郡司からの「解」が国府でまとめられる際に風土記では、各郡の編纂者の名前が主帳→大領→少領→主政の順に改められている。№4が一番上に来るのはいかにも奇妙な話である。
実はこれが「解」の書式にあっていることがわかる。文書の書式について定めた公式令によれば「解」の記載順は主帳→大領→少領→主政となっているのである。
これを見ても風土記が厳密な「解」の決まりを守っていることが分かるのだ。即ち正式な「行政文書」なのである。こういうことが謎解きのように分かって行くところが古代史のおもしろいところである。
この後、さらに風土記の編纂理由を追加し、編纂過程などについても講演があったが、長くなるので次の機会に譲ります。
今年の3月31日に島根県古代文化センター編「出雲国風土記ー校訂・注釈編ー」が出版された、その成果についての講演である。
〈風土記とは〉どういうものかを説明すると以下の通り。
〈風土記撰進の命令の内容〉
一、地名に好ましい漢字を用いなさい(これで日本中の古い地名が失われてしまった:私見です)
一、物産品目を報告しなさい。
一、土地の肥え具合を報告しなさい
一、山川原野の名とその由来を報告しなさい
一、古老が伝える土地の伝承を報告しなさい
ほぼ完全な形で残っているのは出雲国風土記のみ、一部残っているのが常陸・播磨・豊後・肥前だけで、後は失われているのはよく知られていること。
〈風土記編纂の背景とは〉
撰進の命令が出た713年は大宝律令が発布されてから10年で実情に合わなくなっていた。
一、庸調制が改訂された(租庸調の庸調)
一、丹後国、美作国、大隅国が作られた。(大き過ぎる国を分割して新しい国を作った)
一、新たな郡を設置した。郡司の任用制度が変わった。
一、新しい交通路を作った。(美濃国と信濃国の間)
このように地方統治に関わる政策が連続したので、地方の実情を正しく把握する必要が出て来た。
ここで〈出雲国風土記の特徴〉をあげておく
一、出雲地域の有力者である国造(今の千家や北島の先祖)が編纂している。在地出身の郡司がまとめたものを国造が編纂している。
これに対し、常陸国風土記は朝廷から派遣された国司が編纂している。恐らく他国の風土記はすべて国司が編纂しているであろう。
一、天皇がほとんど出て来ない。欽明天皇が2か所に登場するだけ。
他国の風土記では天皇は頻繁に登場する。
一、399もの神社が記載されている。
現存する風土記では出雲国風土記のみに見える
講演した島根県古代文化センターの橋本氏は「出雲国風土記」を行政文書として捉える。
出雲国風土記は国引き神話から始まるので多くの人がその雄渾な文章に魅了され文学作品として捉えてしまう。私もその一人であった。出雲人の末裔(?)として他国の風土記とは違う気高いものであってほしいから。人情である。
しかし、氏は時代背景から中央が地方の実情を知る必要に迫られて作ったものと結論する。
なぜ「行政文書」と結論付けたかの理由が学者らしく説得性があるので紹介する。
常陸国風土記には「常陸国国司解(げ)し申す」とある。
「解」は上申文書の様式なのである。即ち、下が上に提出する正式文書であることを意味している。
これを補完する資料もあげておく。
郡司は上から大領→少領→主政→主帳の順の四等官で主帳が一番下の№4である。
ところが郡司からの「解」が国府でまとめられる際に風土記では、各郡の編纂者の名前が主帳→大領→少領→主政の順に改められている。№4が一番上に来るのはいかにも奇妙な話である。
実はこれが「解」の書式にあっていることがわかる。文書の書式について定めた公式令によれば「解」の記載順は主帳→大領→少領→主政となっているのである。
これを見ても風土記が厳密な「解」の決まりを守っていることが分かるのだ。即ち正式な「行政文書」なのである。こういうことが謎解きのように分かって行くところが古代史のおもしろいところである。
この後、さらに風土記の編纂理由を追加し、編纂過程などについても講演があったが、長くなるので次の機会に譲ります。
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