台所の窓から隣の庭で鳴く蝉の声が聞こえて来た。ジイ~ッと鳴く声はニイニイ蝉だ。夏が近くなると真っ先に鳴き出す小さな蝉である。今年初めて聞いて、ああ、夏が近づいたのだなあと思ったのだが、そう言えば去年は蝉の初鳴きに気がつくこともなかったなあと思い出す。手帳を見たら、今日の7月3日が妻が救急で県中に運び込まれた日と分かる。あれからもう一年か。今日のように蒸し暑い日だったと思う。コロナ真っ盛りの救急の待合で何の病気だろうと言う不安とずっと面会できなかったので少しでも面会出来たらという期待の入り混じった状態で待ち続けていた。その日に誤嚥性肺炎と診断されたのか、翌日診断が下ったのかは忘れたが、翌日から入院。誤嚥性肺炎と説明を受けた瞬間、とうとう来るべきものが来たと観念したことだけは覚えている。妻の最後が来る時は誤嚥性肺炎で、絶対に助からないと覚悟していたのだ。7月28日まではこんなことが自分たちの身に起きていることが信じられないままにただその日に向かって毎日毎日を過ごしていたように思う。数日して退院した時は奇跡的に治ったと思った。コロナ禍でも会えて元気になったようにも見えた。だが三日目にまた誤嚥性肺炎を起こし、急性膵炎も併発していることが分かり、後は看取りをどうするのかと葬式をどうしようという日々のなかで、毎日、妻に15分のオンライン面会で呼びかけ続けるだけであった。
あれからもうすぐ一年、一歳にならなかった孫はもうすぐ二歳。スマホでビデオ通話すると私を見て「じいじい」と言って手を振ってくれる。いつも思う。こうして妻に「ばあばあ」と言って手を振ったらどんなに妻は喜んだであろうかと。その娘一家は8月の終わりには島根に戻って来る。生きていたらもっと会えたであろうに。もっと嬉しい話もある。二人目の子供が暮れには生まれる。子供好きの妻がどんなに喜ぶか。こうして妻が生きていたらどんなに喜ぶだろうかというさまざまなことを想像しながら私たちは生きて行くのだなと思っている。

妻の言葉・再会語録3(通算40)

特養を見舞った時の会話である。死ぬおよそ三年前になる。今思うと精神的にも肉体的にも弱って来たと思う。

2019.9.7

「曽田博久は私の大切な夫だぞ」

2019.9.8

「〇〇、私が英語がしゃべれないと思ってなめてる」
長男の孫が外国にいて英語をしゃべることは覚えている。

2019.9.16

「川尻はきたない」

「早く連れて行って下さい。川尻」

「なかみどり(川尻の近く)でお魚を買って帰るの。お刺身」
生まれ育った熊本のこと。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

マッサージの時、足を引っ張ってやると

「気持ちいい」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「駅に着いたら立たせてよ。外城(川尻の家の近くのバス停)に着いたら抱っこして立たせてよ」

「二階に上がって布団敷いてね」

「靴はかせて、歩くから」

2019.10.5

「助けて下さい」

「どうするの?」

「海へほうり込んでください……身体を投げて、海へ。そうするとひっかかっているものが取れるから。いっしょに水の中に入って取ってよ……ホテルに上がったら全部ふいてよ……私を抱えて捨ててください」

「何がひっかかってるの?」

「うんち……ウンチの後のウィスキーがおいしい」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「川に入れてください。流されて向こうへ行くの」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「切り取る難病なの。切り取って後で一枚あげる」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「川に入るのよ。おしりまできれいに洗ってね」

支離滅裂なことをいうことが多くなったような気がする。

2019.10.9

「私が死んだらお前も死ねよ。いいな、わかったな、はじめ」

「俺ははじめじゃないよ」

「貴様は△△はじめだ」※はじめは妻が3歳の時に死んだ父親。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「窓を閉めて死衣装を着せろよ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「お前は私が死んでも東京で働けよ。東京堂薬局(はじめの姉の薬局)御礼奉公するんだ。そして給料をママちゃんにやるんだ。ママちゃんを家でゆっくりさせろ。働かせるんじゃないぞ。家でゆっくり寝させろ。それか病院でゆっくり寝させろ。何もさせるな。うろうろしないようにしろ。そうしないとはじめを殺すからな。私が」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「私は死ぬのか。死ぬと言ったか、医者が」

「言わないよ」

「死ぬか死なないかどっちかはっきりしろ。私は死にたくないんだから。ママちゃん連れて来て。私、死にたくないんだから、私が死ぬならママちゃんも死んで。はじめ、あいつを殺せよな。お前、出来るか。あんなにしっかり働いてくれたんだから、お前、殺せるか。お前、猫も殺せ。猫も一緒に殺せ。猫は一生懸命私を舐めてくれる。奇麗になる。一晩中舐めてくれる。奇麗になってから焼くんだ。タマも一緒に焼けよ。タマも一緒だと寂しくないからな。タマも一緒に墓に入れるんだ。いいな、はじめ。分かってるか、はじめ」

※今日は特養のベッドに寝たまま延々としゃべり続ける。

妻にとって空想の父親は唯一無二の絶対的存在で、現実の母親には常に批判的だったのに、この時はまったく真逆なことを言う。不思議に思ったものだが、心のどこかで早く死んで妻と娘に苦労させた父親を怨む気持ちがあったのかもしれない。

2019.10.12

「早く作って」

「何を?」

「赤ちゃん、うるさいよ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「早く部屋へ帰ろうよ」

「ここが部屋だよ」

「違う、作りが違う」

・・・・・・・・・・・・・・・・

「〇ちゃん(娘)、可愛いもんね。ぎゃあぎゃあ泣いてた。こころえて泣いてた」
【こころえて泣いてた】は妻独特の表現。

・・・・・・・・・・・・・・・・

右足をマッサージしていると

「ああ、気持ちいい、足が。右ばかり使っているから痛かった」

・・・・・・・・・・・・・・・・

メモしていると

「何書いてるの。足が痛いと書いてるの?それを先生に見せるの?」

・・・・・・・・・・・・・・・・

「〇ちゃん(娘)、来ないかな。この頃、おしゃれしてるよ。お金かけてるもん」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「〇ちゃん、こうやったら来ないかな」

ベッドで寝たまま手を振る。

「スチュワーデスさんに連れられてくるよ(手を振る)」

2019.12.4

特養へ行き「誰だ?」と声を掛ける。

「分からない」

「夫だよ、曽田博久だよ」

「どこで結婚した」

「出雲大社でしただろう」

「じゃあ、連れて帰って下さい」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「うちへ連れて帰ってください。外城というところ」

11月の末、川尻の実家を見に行ったら、バス路線は廃止、外城のバス停もなかった)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「先生、起こしてください」

「俺は先生じゃないよ」

「お父さんも先生なの、いま」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「先生、私、アメリカに行ってたの。楽しかったよ。こわいこともあったけど優しくしてもらった。アメリカのカリフォルニア。いい家でした。今度先生行きましょう。お正月に。先生の家の飛行場あるでしょう。そこから乗れば近いですよ。日曜日に行きましょう。奇麗なお姉さん二人いますよ。先生、国際結婚したらどうですか」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

川尻の実家の話。

「二階に12畳半あって日が入ってあったかい」

11月末に行った時、確かに二階は12畳半あった)