母の具合があまりはかばかしくないなと思ったのは6月の半ば頃からだった。
ちょうど健康管理手当の更新時期で6月19日までに医者の診断書を出さなければならなかった。健康管理手当とは国(厚生労働省)が被爆者に支給する手当で、原子爆弾被爆者のうち以下のような障害を伴う病気にかかっている人が対象になっているもので、毎月39180円支給されて来た。

母はこのうち、8の水晶体混濁による視機能障害に該当している。わかりやすく言えば白内障である。眼科で診断書を書いてもらわないといけない。重い障害を持った人は継続更新はないのだが、母の場合は5年おきに更新しないといけないのだ。
(これは広島で直接被爆した人が受給する手当ではない。原爆投下後2週間以内に広島に滞在し、残留放射能を浴びた人に支給される手当で、私の記憶ではかなり後になって出来た制度だ。母は津和野高女の生徒で、呉に学徒動員されていて、敗戦後島根へ戻るために広島駅を経由したので、受給資格が出来たのだ)
5年前に更新した時、私はもし5年後があるとしたら、母は受診に耐えられるのかと不安に思ったものだが、その危惧通りになってしまった。私は母を眼科に連れて行くことをためらった。すっかり弱っていて、長時間待っての診察に耐えられないと思った。満で97歳である。出雲保健所に電話して事情を話して体力的に無理だと言ったら、支給するためにはどうしても診断書が必要だと言う。
ちょうど二人の妹が母の見舞いに帰省したので、話し合って無理して病院へ行くのはやめよう。長い間手当をもらったのだから、もうここで辞退しようということに決めた。
ところがその日、妹たちがグループホームに見舞ったら、母が生き返ったように元気になった。
毎朝、10時ごろまで寝ていて、テーブルについても何も食べず、じっと下を向いていて、すぐに横になり寝てばかりの母が娘たちの顔を見るなり破顔し、二人の名前も分かり、「二人の娘よ」と職員に自慢し、おおはしゃぎしていつもの明るい母に戻ったと言うのだ。すぐ、妹から連絡があり、「お兄ちゃん、診察大丈夫だよ。こんなに元気なら、行けるよ」というので、17日に診察できるように、眼科に電話して優先的に診てもらえるようにしてもらい、施設からは車椅子で送ってもらうことにした。
ところが翌朝、施設から電話。昨日の元気が嘘のようにまた一昨日までの母に戻ってしまったと言う。
診察中止。
19日を過ぎて出雲保健所から手続きがないので問い合わせが来る。事情を話し健康管理手当はもう辞退する旨伝える。
妹たちと今後を相談。妹たちは看取る時は自宅で看取りたいと言って、一旦戻る。
すぐに訪問診療の医師が来たので、私も診察に立ち合い、診察後、施設長を交えて今後を相談。
先生曰く。「この年で急に食べなくなると、一月で亡くなる人もいる」
救急車で病院へ移送し無理な延命治療はしないで、最後は先生に診てもらい穏やかな最後を迎えさせ、自宅で看取りたい要望を伝える。
いますぐ点滴を打つにしても看護婦は一人しかいなくて、夜間はいない日もあるので、まずはエンシュア(栄養補給剤)を飲んで様子を見ることになる。一日二缶を飲むことになる。
エンシュア。懐かしい名前である。父も末期で何も食べれなくなった時に飲み始め、やがてそれも飲めなくなったことを思い出した。
飲んでくれるか心配したが、その日の夕方、冷たく甘いエンシュアを何とか1缶を飲み、「おいしい」と言ったと報告がある。
それからは2缶は飲めないが、1缶は飲み、それが呼び水になったのか、御飯も3分の1を食べ、おかずも少し食べるようになった。10年前までダンスを習っていて、その時の友達と先生が見舞いに来たときは先生の名は忘れたが顔には覚えがあると言い、先生とダンスのポーズもとる。
7月10日にまた妹たちが見舞いに来たときは、すっかり元に戻り、抹茶も自分でたてて2服飲み、冗談を言ったり、おちゃらけたり、ふざけたりした。97歳でおちゃらけたり、ふざけたりするのを見ると、いつもの母が戻ったと娘たちは喜んだ。
施設長と今後の母の相談をした時、施設長は御飯を食べないことにばかり目が行っていたけど、実は裏では脱水が進んでいたのではないかと言う。ちょうど蒸し暑くなる時と重なっていたし、私も納得。今後水分をたっぷりとることを心掛け、母の様子をみて台所にもこれまでのように立ってもらうことにする。11月で満98歳。100歳は無理と諦めたが、この調子なら目指せ、100歳だ。
よくぞ、回復したものだ。皆さんのおかげです。
ちょうど健康管理手当の更新時期で6月19日までに医者の診断書を出さなければならなかった。健康管理手当とは国(厚生労働省)が被爆者に支給する手当で、原子爆弾被爆者のうち以下のような障害を伴う病気にかかっている人が対象になっているもので、毎月39180円支給されて来た。

母はこのうち、8の水晶体混濁による視機能障害に該当している。わかりやすく言えば白内障である。眼科で診断書を書いてもらわないといけない。重い障害を持った人は継続更新はないのだが、母の場合は5年おきに更新しないといけないのだ。
(これは広島で直接被爆した人が受給する手当ではない。原爆投下後2週間以内に広島に滞在し、残留放射能を浴びた人に支給される手当で、私の記憶ではかなり後になって出来た制度だ。母は津和野高女の生徒で、呉に学徒動員されていて、敗戦後島根へ戻るために広島駅を経由したので、受給資格が出来たのだ)
5年前に更新した時、私はもし5年後があるとしたら、母は受診に耐えられるのかと不安に思ったものだが、その危惧通りになってしまった。私は母を眼科に連れて行くことをためらった。すっかり弱っていて、長時間待っての診察に耐えられないと思った。満で97歳である。出雲保健所に電話して事情を話して体力的に無理だと言ったら、支給するためにはどうしても診断書が必要だと言う。
ちょうど二人の妹が母の見舞いに帰省したので、話し合って無理して病院へ行くのはやめよう。長い間手当をもらったのだから、もうここで辞退しようということに決めた。
ところがその日、妹たちがグループホームに見舞ったら、母が生き返ったように元気になった。
毎朝、10時ごろまで寝ていて、テーブルについても何も食べず、じっと下を向いていて、すぐに横になり寝てばかりの母が娘たちの顔を見るなり破顔し、二人の名前も分かり、「二人の娘よ」と職員に自慢し、おおはしゃぎしていつもの明るい母に戻ったと言うのだ。すぐ、妹から連絡があり、「お兄ちゃん、診察大丈夫だよ。こんなに元気なら、行けるよ」というので、17日に診察できるように、眼科に電話して優先的に診てもらえるようにしてもらい、施設からは車椅子で送ってもらうことにした。
ところが翌朝、施設から電話。昨日の元気が嘘のようにまた一昨日までの母に戻ってしまったと言う。
診察中止。
19日を過ぎて出雲保健所から手続きがないので問い合わせが来る。事情を話し健康管理手当はもう辞退する旨伝える。
妹たちと今後を相談。妹たちは看取る時は自宅で看取りたいと言って、一旦戻る。
すぐに訪問診療の医師が来たので、私も診察に立ち合い、診察後、施設長を交えて今後を相談。
先生曰く。「この年で急に食べなくなると、一月で亡くなる人もいる」
救急車で病院へ移送し無理な延命治療はしないで、最後は先生に診てもらい穏やかな最後を迎えさせ、自宅で看取りたい要望を伝える。
いますぐ点滴を打つにしても看護婦は一人しかいなくて、夜間はいない日もあるので、まずはエンシュア(栄養補給剤)を飲んで様子を見ることになる。一日二缶を飲むことになる。
エンシュア。懐かしい名前である。父も末期で何も食べれなくなった時に飲み始め、やがてそれも飲めなくなったことを思い出した。
飲んでくれるか心配したが、その日の夕方、冷たく甘いエンシュアを何とか1缶を飲み、「おいしい」と言ったと報告がある。
それからは2缶は飲めないが、1缶は飲み、それが呼び水になったのか、御飯も3分の1を食べ、おかずも少し食べるようになった。10年前までダンスを習っていて、その時の友達と先生が見舞いに来たときは先生の名は忘れたが顔には覚えがあると言い、先生とダンスのポーズもとる。
7月10日にまた妹たちが見舞いに来たときは、すっかり元に戻り、抹茶も自分でたてて2服飲み、冗談を言ったり、おちゃらけたり、ふざけたりした。97歳でおちゃらけたり、ふざけたりするのを見ると、いつもの母が戻ったと娘たちは喜んだ。
施設長と今後の母の相談をした時、施設長は御飯を食べないことにばかり目が行っていたけど、実は裏では脱水が進んでいたのではないかと言う。ちょうど蒸し暑くなる時と重なっていたし、私も納得。今後水分をたっぷりとることを心掛け、母の様子をみて台所にもこれまでのように立ってもらうことにする。11月で満98歳。100歳は無理と諦めたが、この調子なら目指せ、100歳だ。
よくぞ、回復したものだ。皆さんのおかげです。












