曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2026年07月

母の具合があまりはかばかしくないなと思ったのは6月の半ば頃からだった。
ちょうど健康管理手当の更新時期で6月19日までに医者の診断書を出さなければならなかった。健康管理手当とは国(厚生労働省)が被爆者に支給する手当で、原子爆弾被爆者のうち以下のような障害を伴う病気にかかっている人が対象になっているもので、毎月39180円支給されて来た。
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母はこのうち、8の水晶体混濁による視機能障害に該当している。わかりやすく言えば白内障である。眼科で診断書を書いてもらわないといけない。重い障害を持った人は継続更新はないのだが、母の場合は5年おきに更新しないといけないのだ。
(これは広島で直接被爆した人が受給する手当ではない。原爆投下後2週間以内に広島に滞在し、残留放射能を浴びた人に支給される手当で、私の記憶ではかなり後になって出来た制度だ。母は津和野高女の生徒で、呉に学徒動員されていて、敗戦後島根へ戻るために広島駅を経由したので、受給資格が出来たのだ)
5年前に更新した時、私はもし5年後があるとしたら、母は受診に耐えられるのかと不安に思ったものだが、その危惧通りになってしまった。私は母を眼科に連れて行くことをためらった。すっかり弱っていて、長時間待っての診察に耐えられないと思った。満で97歳である。出雲保健所に電話して事情を話して体力的に無理だと言ったら、支給するためにはどうしても診断書が必要だと言う。
ちょうど二人の妹が母の見舞いに帰省したので、話し合って無理して病院へ行くのはやめよう。長い間手当をもらったのだから、もうここで辞退しようということに決めた。
ところがその日、妹たちがグループホームに見舞ったら、母が生き返ったように元気になった。
毎朝、10時ごろまで寝ていて、テーブルについても何も食べず、じっと下を向いていて、すぐに横になり寝てばかりの母が娘たちの顔を見るなり破顔し、二人の名前も分かり、「二人の娘よ」と職員に自慢し、おおはしゃぎしていつもの明るい母に戻ったと言うのだ。すぐ、妹から連絡があり、「お兄ちゃん、診察大丈夫だよ。こんなに元気なら、行けるよ」というので、17日に診察できるように、眼科に電話して優先的に診てもらえるようにしてもらい、施設からは車椅子で送ってもらうことにした。
ところが翌朝、施設から電話。昨日の元気が嘘のようにまた一昨日までの母に戻ってしまったと言う。
診察中止。
19日を過ぎて出雲保健所から手続きがないので問い合わせが来る。事情を話し健康管理手当はもう辞退する旨伝える。
妹たちと今後を相談。妹たちは看取る時は自宅で看取りたいと言って、一旦戻る。
すぐに訪問診療の医師が来たので、私も診察に立ち合い、診察後、施設長を交えて今後を相談。
先生曰く。「この年で急に食べなくなると、一月で亡くなる人もいる」
救急車で病院へ移送し無理な延命治療はしないで、最後は先生に診てもらい穏やかな最後を迎えさせ、自宅で看取りたい要望を伝える。
いますぐ点滴を打つにしても看護婦は一人しかいなくて、夜間はいない日もあるので、まずはエンシュア(栄養補給剤)を飲んで様子を見ることになる。一日二缶を飲むことになる。
エンシュア。懐かしい名前である。父も末期で何も食べれなくなった時に飲み始め、やがてそれも飲めなくなったことを思い出した。
飲んでくれるか心配したが、その日の夕方、冷たく甘いエンシュアを何とか1缶を飲み、「おいしい」と言ったと報告がある。
それからは2缶は飲めないが、1缶は飲み、それが呼び水になったのか、御飯も3分の1を食べ、おかずも少し食べるようになった。10年前までダンスを習っていて、その時の友達と先生が見舞いに来たときは先生の名は忘れたが顔には覚えがあると言い、先生とダンスのポーズもとる。
7月10日にまた妹たちが見舞いに来たときは、すっかり元に戻り、抹茶も自分でたてて2服飲み、冗談を言ったり、おちゃらけたり、ふざけたりした。97歳でおちゃらけたり、ふざけたりするのを見ると、いつもの母が戻ったと娘たちは喜んだ。
施設長と今後の母の相談をした時、施設長は御飯を食べないことにばかり目が行っていたけど、実は裏では脱水が進んでいたのではないかと言う。ちょうど蒸し暑くなる時と重なっていたし、私も納得。今後水分をたっぷりとることを心掛け、母の様子をみて台所にもこれまでのように立ってもらうことにする。11月で満98歳。100歳は無理と諦めたが、この調子なら目指せ、100歳だ。
よくぞ、回復したものだ。皆さんのおかげです。

【7月14日】
陽が沈みかけた7時前、母の見舞いに帰省した妹二人とスシローの帰り、川まで戻って来ておツルさんがいたら餌をやろうと思い、妹たちにおツルさんを見つけたら教えてくれとハンドルを握っていた。
見当たらないので今日は朝もいなかったし会えないのかなと諦め、次の橋まで来たら曲がるとことろまできた時、何とその橋の向こう岸のたもとにおツルさんが一羽、立っているではないか。
いつもおばあさんに餌をもらっていた場所だ。
戻って来たのだ。去年の12月の初めごろに来たのが最後だったから、8ヶ月ぶりに姿を現したのだ。
慌てて車を止め、妹に運転を代わってもらい、マルコを連れて餌をやりに行く。
(私はいつどこでおツルさんに会っても餌をやれるように車に餌を積んでいる)
西の空は真っ赤。ぽつんと立つおツルさんの後ろ姿にそぞろ哀れを催す。
待っていてもおばあさんは来ない。おつるさんが見ているおばあさんのアパートの窓も真っ暗。
ずっとおばあさんが出て来るのを待っていたに違いない。いつまで待っても出て来ないのを何と思っているのだろう。あまりにも寂し気な後姿をスマホで撮ろうと思ったら、私とマルコに気が付いて、おツルさんは土手を引き返して来たので、シャッターチャンスを逃してしまった。
おばあさんからいつも餌をもらっていた場所で餌をやる。
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今日も暑かった日没寸前の寂しい川岸。
ゆっくりしておばあさんはもう来ないことを話してやれたらよかったのだが、暗くなる8時までの間、三兄妹で庭の草取りの計画を立てていたのでその場を離れる。
明日から来るだろうか。来ても、おばあさんが出て来ないことが分かったら、きっと来なくなるだろう。あれだけなつき、あれだけ慕い、あれだけ信頼していたおばあさんがいなくなったことをどう認識するのか、そしてどう思うのか。知りたいけれど知るすべはない。

【追記】
翌日の15日の朝、来ているかなと思いながら橋へ行ったら見当たらず、夕方も見当たらず。16日の朝も来ていなかったので、夕方ももう駄目だろうと思っていたらやっぱり姿は見えず。
【7月16日夕方】
ところが橋の半ばを過ぎたら、土手下からひょいとおツルさんが姿を現す。
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昔からこういうことはよくあった。土手下の田圃で餌をとっていたり、警戒して土手下に逃げたりしていても、私やおばあさんが来ると上がって来るのだ。嬉しくなる。やっぱり覚えていたのだ。足音でわかるのかな。
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すぐに餌をやり、私はマルコと散歩をする。ぐるっと回って戻って来るときれいに食べていてまだものほしそうにしていたので追加の餌をやる。
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対岸のおばあさんの家。白いカーテンは消え、ドアも開くことはない。おツルさんはいつもこのドアを見ていた。おツルさんだけではない。おばあさんは可哀そうだからとトンビやカラスにも餌をやっていたので、おツルさんが現れると、トンビやカラスも来て、ドアが開くのを待っていた。あの光景はもう二度と見られない。おツルさんはいつまで来るのかな。

【追記2】
【7月17日夕方】
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朝は来ていなかったが、夕方の6時半に行ったら、トンビと一緒に待っていた。去年もこういうことが続いたから、これから続くような気がする。トンビにも餌をやらなくてはならないから大変だ。

今日は七夕。ツルのおばあさんがいつも言っていた。おツルさんは4月になるといなくなって必ず七夕の頃に戻って来ると。
(以前に紹介したように、抱卵期に入り、本物の卵は抱けないので、中学の校庭で見つけたテニスボールや野球のボールを三か月間抱き続けるのである)(今年も中学の向かいの川岸の茂みで卵を抱いていたが、なぜか今年は1ケ月ぐらい前から姿を消していた)(それでも中学の近くの田圃に姿をあらわして、田植えをした田圃で水生昆虫などの餌をついばんでいたので、私は姿を見たら胚芽玄米や食パンをやっていた)
七夕の今朝。いつもの散歩コースを歩いていると、おツルさんが土手道に姿を現す。
一年前のちょうどこの日を思い出す。去年は本当に七夕の日に三か月ぶりにいつもの橋の袂のおばあさんのえさ場におツルさんが現れ、私がマルコと散歩に来たら、おばあさんがおツルさんに餌をやっていたのだ。挨拶すると、おばあさんは「七夕に戻って来てくれたのよ」と、本当に嬉しそうだった。
いつもは私も少し餌をやったりして、世間話をするのだが、その日は余りにもおばあさんが嬉しそうだったので、二人きり(?)にしてあげようと思って、すぐにその場を離れた。
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今朝のおツルさん。ここから右手へ200mほど行けば、おばあさんの餌場だったが、もう10ヶ月以上昔の餌場に来ることはない。
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夕方も土手下の田圃にいて、私たちの姿を見つけたら田圃の中をやって来る。畦道で餌をやる。
どうして昔の餌場に来ないのか聞いてみたが、一生懸命餌をつつくばかり。
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この橋を渡ったところが、お婆さんの餌場。おばあさんはいつもここまで小さなカートを押して来て、カートを椅子にして腰を下ろすと、おツルさんに餌をやりながら小一時間ほども一緒に過ごしていた。
20年近く、朝夕続けていたが、私と知り合った頃には朝が辛くなって、夕方だけの餌やりで、いつしか朝の餌やりは私がやるようになっていた。
だが、そのおばあさんも夕方の餌やりも辛くなっているのがはた目にもわかるようになった。
それにあわせたかのように、なぜかおツルさんの脚が遠のき始めた。
近辺に姿を現すけれど、以前のように毎日のようには現れなくなったのだ。
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おばあさんがこの欄干につかまって毎日のようにおツルさんが現れる方向を見ている姿を見ることが多くなったのが、去年の10月を過ぎた頃だったろうか。私と会うと、「どうして来ないのだろう」「元気でいるだろうか」とおツルさんの情報を求める。元気でいることは教えてあげて、私が餌もやっていると慰めるのだが、寂しさは隠しきれない。
自分でも体力の衰えを自覚していて、今年を越えられないだろうと弱音を吐く。12月までに、2、3回はおツルさんと会えたことがあったが、寒いし体力の衰えもあって、20分もいることができずにごめんよとおツルさんに謝りながら帰って行った。
そして、12月に入ったら、おツルさんはぱったりと姿を見せることはなかった。
それでもおばあさんはカートを押しながら欄干まで来ておツルさんの姿を捜していた。だが、12月の出雲は雪こそ降らないが風は強く冷たい。雲は低く暗い陰鬱な山陰である。おばあさんは10分もいることが出来ず肩を落として帰って行った。
私は余りにも可哀そうで声を掛けることが出来なかった。慰めの言葉が見つからないのだ。欄干にもたれる後ろ姿をまともに見ていられなかった。
なぜならその後姿を見ていると「岸壁の母」の二葉百合子の歌声が蘇って来るのだ。

♪今日も来ました、今日も来た、この岸壁に母は来た

若い人は知らないが、私たちの世代は子供の頃、ラジオから流れて来たこの曲を知らない者はいないだろう。昭和29年に発表されたから、私が7歳の時だが、何年も歌い続けられたからはっきりと覚えている。
敗戦後、ソ連からの帰還兵の乗った引き揚げ船に息子の姿を求めて、6年間も舞鶴港に通った実在の母(端野せい)をモデルにした歌である。

♪もしやもしやにひかされて

と息子の帰還を信じて待つ母の姿が、今日こそはおツルさんに会えるのではないかと、欄干に通うおばあさんの後ろ姿に重なって、私は遠くから見ているだけで切なくて辛くてとうとう声をかけることが出来なかったのである。

話は戻るが、目に注射針をぶすりと刺したのが6月26日。日本ーオランダ戦の日。
2年前に島根医大で白内障の手術をしたがその後、目の調子がすっきりしない。みな、術後は世界が変わったように見えると言うが、私はあんまり変わった感じがしない。
そもそも右目は手術前の検査で網膜分枝閉塞症と診断され、レーザーで詰まった血管を焼いた三か月後ぐらいに手術をした。それゆえ右目は傷モンの目であるから完全によくなるわけがないのだ。と、思っていたのだ。
白内障の手術が終わってからは、かかりつけ医にその後の経過を定期的に診てもらっていたのだが、目の調子は悪く、電信柱の縦の側線がふにゃふにゃと歪んで見えたり、ガードレールの縁もふにゃりとゆがんでみえることもあるし、イオンのタイルの縦横の線もふにゃっとなることもある。
PCの画面の直線もかすかに波打って見えることもあった。
目は疲れるし、PCの作業が辛い。
すると白内障手術後半年後ぐらいだろうか、かかりつけ医に今度は左目の眼底にかすかに水が溜まっていると言われる。加齢性のものでこれが進むと黄斑変性になるかもしれないと言われ、二か月おきに経過観察していた。水は増えたり減ったりで様子見が続いた。その間、右目は新しく悪い血管が伸びて来る気配はなかったのでこちらは一安心していたが、去年の秋頃、かかりつけ医から島根医大の眼科に行って左目を詳しく見てもらった方がよいと言われて転院した。遠いし患者は多いし、嫌だけど転院しない訳に行かない。
だが、医大でも水は減ったり増えたりで変化なしが続いていて、26日もどうせまた変化なしだろうと、サッカーを見ることが出来るかどうか、そればかり気にして結構な雨の中医大へ。
診察は9時からだが8時には病院へ着いて、50数番台の順番カードを手に入れる。8時半に診察表を手に入れ、眼科に行ったら3番目。試合開始前に呼ばれて、視力や眼底の検査を次々と受ける。その間に試合が始まるが、私は早く検査が終わったのですぐ先生の診察になる。
先生、開口一番に加齢性の黄斑変性ですと告知。画像を見ると眼底にぷっくりと膨らみ。これまでで一番大きいような気がした。
「白目に注射をします」と言われ、あれよあれよと言う間に麻酔を目に入れられ、10分ほど待ってから手術室に。椅子に仰向けに寝せられて、白目にぶすりと針を突き刺される。いやあ、気持ちのいいものではなかった。麻酔をしているとはいえ、無痛というわけには行かない。多少はちくりと嫌な鈍痛が走り、左目の視界いっぱいに金色の線香花火の光のようなものが無数にキラキラ光る。
これで終了。少し休んで眼科を出た時に、向かいの診療科の待合のTVを見たら、1ー1になっていた。
どうやら後半になっていることを知る。誰がどうやって点を入れたのかもわからず、同点ならまあまあかと思いながら会計へ。会計も早くてすぐ帰りの車に乗るも、検査の前に瞳孔を開く薬を入れられているし、左目はまだぼーっとしているし、その上、雨も降っていて、運転はおっかなびっくり。
途中、イオンに寄って昼御飯を買って帰る。
帰宅してTVをつけたら、2-2で試合が終わったところ。TVは大騒ぎをしているが、こっちは2点入れたところも、2点取られたところも全然見ていないのだ。
しばらくしてぼんやりした視界が晴れて来る。確かに左目は注射を射つ前よりしっかりと見えているような気がする。注射は効果があったことがわかる。
問題は注射の薬代だ。
何と一回の薬代が1万6千円!しかもジェネリックで。正規の先発薬だと2万5千円くらいするのかな。
ジェネリックで効かない場合は先発薬に変えると言う。多分効いていると思うのでこれからはジェネリックだと思うが、最初は1ヶ月ごとに3回射ち、その後は2ヶ月ごとに射つのだそうだ。
年をとって医療費がかかるとはこういうことかと身をもって知らされた。
おかげさまで左目は前よりはいいような気がしている。
これで効果がなかったら怒るよ。
W杯はブラジルに負けてからは全然見ていない。
日本がW杯で優勝するなんて寝言だった。もしやと思っていた自分がとても恥ずかしい。見る目がありませんでした。
自分にとってはPCを楽に見える目になってくれたらそれだけで十分です。

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