曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2026年04月

3時間の同期会が終わったら、6階から3階のカラオケルームへ移ってのクラス会。同期会には出ないで、クラス会からの出席者が3名いて、男子12名、女子2名の14名になった。学年の最多出席数である。
ここでまた3時間の歓談はカラオケをする訳ではないのでさすがに長過ぎないかと危惧したKSさんが、
今年翻訳出版したⅠ君、3年前に論文集を出版したYSさん、そして去年「多胡辰敬」を出版した私の三人に一人20分のミニ講演会を提案してくれたので、協力することになった。それはいいのだが、I君はニュージーランドの大学で30年日本語を教えていた歴とした大学教授。KSさんは文学博士で6つの大学で講師歴があり、講義や講演には慣れているが、私は人前で講義も講演もしたことがない。いくら級友相手でもびびってしまい、最後におまけのようにちょこっとやらせてもらうことにした。
トップバッターはⅠ君。
『1918年のインフルエンザパンデミック・ニュージーランドの経験から学ぶ』の紹介。
PXL_20260423_010559759PXL_20260423_010620952
これは1918年にニュージーランドでインフルエンザが猛威を振るった時の対策を、コロナ対策などに活かそうと翻訳したもの。
PXL_20260423_010656296PXL_20260423_010734856
左)Encounters between  New Zealand and Japan
これは両国の出会いを寄せた文集でI君が30人の文章を日本で一人でまとめた文集。もちろん英語なので私には読めない。
右)『明治時代のお雇いドイツ人教師であった二人のデルブリュック(兄弟)の日本遠征中の書簡集(1887年~1889年)
これはドイツ語の翻訳である。
彼は初めは東北大学の理学部へ行き、大学院は広島大学で180度違う歴史を学んで、ニュージーランドへ留学。ニュージーランドやオーストラリアで学び続け、ニュージーランドで大学教授になるチャンスを得たと言う。みんな、その破天荒な経歴に驚いていた。だが、彼は一つだけ言わないことがあった。それは受勲していたことである。日本とニュージーランドの交流に尽くしたので勲章をもらっているのだ。もちろんクラスでは彼一人である。そういう床しいところがある男なのだ。
二番目はYSさん。
演題は「源氏物語」と現代。
明治以降、現代に至る〈近代社会〉と呼ばれる歴史的時間の中で私たちの何が失われたのかをわかりやすく話してくれた。
PXL_20260423_011043203.MP
この論文集からの引用もあったのだが、私はクラス会の前にこの本の存在を知ったので、少しだけ読んでいた。書下ろしも含めて15本の論文が収まっているから読みごたえはある。鼠径ヘルニアの手術を受け、予後が思わしくなくて相変わらず進度は遅いが読み通そうと思っている。
書名がいい。『少女たちの〈居場所〉』
帯がいい。「大人になるのは嫌やなこと」(「たけくらべ」)
この声のゆくえを日本文学の中に探る。
少女について、この社会が擁する言葉は実に少ない。だから少女は、憂鬱の宝庫である。(「あとがきより」)

YSさんは始める前に自分の子供時代のことを語った。この本を読んでいた私は、彼女は子供の時から「居場所」のない人だったことを知った。途端にこの本が身近なものになった。少しでも読んでいてよかったと思った。
高校時代、サッカー馬鹿だった私は源氏物語は教科書しか読んでいなかった。みんな、結構読んでいて質問したり、疑問を投げかけたりしていた。私たちの友達はみな優秀だったのだと思った。

そして、最後は私。内容紹介を作っていたので、それを補足する形で私に関する限り、難しい話は一切なし。嬉しかったのはその後だった。なんとKSさんは私たち三人のために寄せ書きを用意していて、みんなに回してくれたのだ。何という心遣いだろう。嬉しかった。KSさんをはじめみんなにありがとうと頭を下げた。
出雲に戻ったら、真っ先に仏壇に供えた。そして妻の位牌に報告した。
PXL_20260420_055231710
「どうだ、いいクラスだろう」と。

3月17日に行われた都立豊多摩高校同期会&クラス会の報告は長くなるのでまずは同期会報告から。
朝3時に起きて、出雲市駅始発4:42分の特急「やくも」で岡山へ。新幹線で東京。
新宿で1:30から同期会。
PXL_20260417_063627474.MP
団塊世代で学年約550人で10クラスあったが、集まったのは65人。78歳がこれだけ集まれば立派なものではなかろうか。大人数ではないのでクラス別のテーブルは作らず、自由に座る。私も一緒に到着した級友と先着していた級友の席に着く。
そのテーブルにいたのが1年の時の級友Y君。最近物忘れがひどく、親しく付き合っていたわけでもないのに、名前も顔も卓球部に入っていたことも覚えていた。10年前の同期会では顔を合わせていなかったので、完全に60年ぶりだったが、「ごぶさたしています。お元気ですか」と、一瞬にして歳月を忘れた言葉をかわす。互いに78歳になった年齢のせいでもあろう。言葉には出さないけれど、お互いによくここまで生きたねと言うねぎらいがこもっていたのだと思う。
同じ世代の人間が、偶然、同じ高校で三年間共に暮らした、それぞれにとってのかけがえのない時間を噛み締める。それが同期会であり、クラス会なのだなあとしみじみと思った。愛おしい時間だった。
私もY君も1年の時はC組だった。聞けばY君たち数人は年に1回集まって会食していると言うのでビックリする。普通は卒業年のクラスで集まるのに、1年生の時のクラス会をしているなんて。
Y君が声を掛けるからよかったら来ませんかとお誘いを受けたので、心を動かされる。久しぶりに上京したら、出雲にばかり引っ込んでいてはいけないと思った。都合がついて、何よりも健康であればいいのだが。
Y君は私の本を読んでくれている。

その後、サッカー部の仲間二人とも会う。一人は10年前に会ったが、もう一人は卒後60年ぶり。
会った瞬間から、部室のような会話が弾む。
私にはサッカー部で一番仲の良かったGKの友達O君がいた。その彼が死んでいたことを知ったのは今から何十年前のことだろう。高校の名簿で知ったのだが、何歳の時に、病気なのか事故で死んだのか、皆目わからず、ずっと気になっていたのだ。
一人が知っていた。何とO君は心臓が悪かったことを教えてくれる。彼は一年の時同じクラスだったので知っていたのだが、O君が内緒にしていたので自分も黙っていたようだ。
ショックだった。あのO君が心臓が悪かったとは。都立高校のGKとしてはとてもうまい奴だった。
O君がGKをやる時のシュート練習はとても楽しく蹴り甲斐があった。
だが夏の練習でばてた時、先輩のコーチから「さぼっている」と言われて、とても悔しがっていたと知らされ胸が痛くなった。そもそもGKがフィールドプレーヤーと同じように走れるはずがないのに。しかも彼は心臓が悪かったのに。病名はわからず、何歳の時かもわからないが、若い時に心臓の病でなくなったらしい。二浪して東工大に入った頑張り屋だったのに。
思い出が二つある。
その一つ。豊多摩のサッカー部の不文律として、2年までサイドハーフをした者は3年になったらフルバックにされた。当時はボランチなんて言葉はまだない、オールドサッカーの時代で、フルバックなんて一番後ろでただ守るだけのポジションで、面白くもなんともない。不貞腐れてやっていたのだが、ある試合でたまたまGKの前で不規則バウンドしたボールがGKの頭を越えたことがあった。誰もが一点を覚悟した時、なぜか私が猛然と駆け込み、寸前のところでクリアーしたことがあったのだ。
試合後、Oが感謝して言った。「曽田の戻りが早いので安心して守れる」と。その瞬間、私は無性に嬉しくなった。それ以来、私はフルバックに徹したのだ。Oを助けるために。
もう一つは、全国的に学園紛争が広がり始めた頃だったろうか、Oの親が横浜に家を建てたので、新居に呼ばれた。眺めのいい部屋でレコードを聴いたのが最後の思い出となった。
辛い話だったが嬉しい話もあった。
私が完全に忘れていたことだった。これもサッカーの試合中の話。
二人は体を壊したので途中で退部したのだが、ある時、私たちの試合を見学に来たことがあった。
その時、私がハーフウエイ付近から矢のような超ロングシュートを放ったと言うのだ。「すげえ」とみんながビックリしたと言うが、私は覚えていないのだ。でも、言われてみれば、私はたまに無謀ともいえるロングシュートを蹴ることがあったのだ。フルバックの欲求不満がそういうプレーを発作的にさせていたのだと思う。
その時、相手のチームのコーチが、「今のキックは代表級のキックだぞ」と言っていたのを、退部した元部員が聞いていて、その話をしてくれたのだ。
これは文句なしに嬉しかった。
出雲に帰ると、翌日遊びに来た娘にその話をして自慢した。サッカー部では「曽田の馬鹿蹴り」は有名だったんだぞと。

クラス会の話は明日。

【追記】
なんとブログを読んだY君から、O君とは2年、3年と同じクラスだったと知らせて来た。そうとは知らず同じテーブルにいて談笑していたのだ。やんぬるかな。Y君もクラスメイトから聞いた話だが、亡くなったのは昭和64年1月6日。昭和天皇崩御の前日と教えてくれた。
その瞬間、天皇崩御の日の光景が鮮明に蘇った。実は母方の祖母が上京していて、窓際の明るい部屋で涙を流して泣いていたのだ。「あなたたちにはわからないだろうけど、私らにとってはとても悲しくてね」と。慰めようにも何と言って言いやらわからず、ただ黙って眺めているしかなかった私だったのである。祖母に孫の顔を見せに連れて行った時のことだったと思う。
祖母が子供のように泣いていた、あの日の前日にO君が亡くなっていたとは。まだ41歳だったとは。
過ぎ去った歳月の長さに声もなく佇む。それはそうだろう。戦後昭和に生まれ、昭和とともに去って行ったのだから。こんなに昭和を遠く感じたのも初めてだった。ずっと彼のことを考えているがまだしばらくは言葉がまとまらない。
Y君がO君はスポーツ万能で余計なことは言わず、寡黙で男ならだれでも惚れる男だったと言ってくれている。今はしみじみその言葉を噛み締めている。

高校を卒業して60年のクラス会が4月18日に東京で行われる。前回は卒業して50年のクラス会があり、あの時は「これが最後のクラス会だろう」と思っていたのに、60年とは!案内が来たときは目を疑い、次に思ったのは「よくぞやってくれた」との感謝の気持ちだった。
前回も今回も学年の同期会があり、それに合わせてクラス会を開いてくれたのだ。幹事はSさん、前回は男性幹事M君と女性幹事Sさんが手分けしてやってくれたのだが、その後M君が病没し、今回はSさんが何から何まで全部一人でやってくれた。何度も来るメールを見るだけでどれだけ大変か分かる。彼女は同期会にもクラス代表でかかわっているのだから。
同期会に参加しても全部が全部クラス会をする訳ではないから、本当にありがたい。
考えても見てほしい。一口に60年と言うけれど、確かに光陰矢の如しであっと言う間だったが、その1年1年の積み重ねを振り返ったら、それは途方もない時間の流れである。
都立豊多摩高校の二年生と三年生の二年間、一緒のクラスだったクラスメートと卒業して60年後に会うことなど、18歳の私たちは誰も考えていなかったと思う。
それを会いたいと思って来てくれるのが、男12名、女3名。高校時代、全員が友達だった訳ではない。私の一番仲の良かった級友は今回は一人も来ない。理由は分からない。私もメールも出さなければ電話もしなかった。78歳だから、理由もいろいろあるだろう。級友からも問い合わせはなかった。
三人の女性の中には高校時代ほとんど口をきいたことがない人もいる。私たちのクラスは若い頃はよくクラス会をやっていたのだが、彼女は一度も来たことがなかったはずだ。そんな彼女も来てくれる。
男もそうだ。男30何人、女10数人のクラスで、男全員と親しくしていたわけではない。そんなこと不可能だ。私はサッカーに夢中になっていた。高校時代とはすべてにおいて凝縮する時代で、友人関係も深く狭くなってゆく。でも、卒業すると自然に離れて行き、逆に、こうして何十年も経ったクラス会で出会うと、高校時代の疎遠を埋め合わせるかのようにたちまち打ち解けて行く。不思議なものだ。
いい年をして修学旅行の前の日の高校生のようだ。
それは名所観光ではなく、よき友とひと時を過ごすための旅である。
ところがその準備が出雲から行くとなると想像以上に大変だった。10年前とすかっり様変わりしていたのだ。最初は飛行機のシニア割引で安くゆこうと思っていたのだが、昔のように空港へ行って空席があったら乗れる具合には行かなかったのだ。なんだか混んでいて昔のように空席が一杯あるような雰囲気ではないのだ。今回、久々の東京なのでゆっくりしようと思ったのだが、色々あって結局1泊2日でゆくしかなく、17日の朝の飛行機の空席に賭ける訳には行かなくなったのである。飛行機も昔よりは混んでいる雰囲気。絶対安全に行くにはJRで行くしかなく、切符を予約しようとPCに向かい、特急やくもと新幹線で行こうと思ったのだが、JR西日本とJR東日本が全くの別会社になっているので、予約の方法が全然違うのだ。はじめは出雲から東京までの通しの乗車券の買い方がわからずエライ目に遭った。どうにか予約したが、最後にホテルで泡を食う。
17日の金曜の夜なんてホテルはどこも満室。しかもビジネスホテルでも新宿辺りは2万を越す。私は東横インなんて5000円くらいで泊まれると高を食っていたので愕然となる。外国人客のせいかもしれない。思えば東横インに5000円で泊まったのは、10年以上も前の熊本駅前の東横インだった。
結局、さんざん探してやっと見つけたのが南武線の東横イン南多摩で1泊8000円。
後は心配だったのが術後の経過。
今日、診察日ではなかったが、病院へ。術後水腫がまた膨らんだので診てもらったのだが、先生曰く、「半年から1年はかかることもありますからね」水は増えたり減ったりしながら、少しづつ吸い込まれて減って行くものだと言う。だから今日はもう抜き取ることはやめて、そのまま経過を診て行くことになる。薬なんてないのだ。次回診察日は5月12日。
もう一つの問題は便秘。これもヘルニア手術の影響らしいのだが、便秘になって4日目。明後日には上京するから何とかしてくれと頼むと、浣腸してくれて、酸化マグネシウムと大健中湯ではきかない時のために錠剤と飲み薬を出してくれる。これで何とか上京できそうだ。
楽しい(はずの)クラス会報告はまた後日、帰郷して。

3月16日に、左鼠径ヘルニアの手術は終わったが、実は色々と問題が起きている。
問題なく無事に終わったと思っていたのだが、数日経つと何やら調子が悪いことが起き始めた。最初に気づいたのは鼠径部の微かな膨らみ。触ったら昨日までなかったふくらみを感じたのである。気になり始めたら気になるので毎日触っていると確かに微妙に膨らんで行く。
そこでハッと思い出したのが、術後の主治医の話。
「精管の先端の細い血管が絡まってこびりついていたので切断して剥がしました。これを残しておくと膨らみのためにメッシュ(腸が飛び出している穴をふさぐための網)をうまく縫い付けることが出来なくなるからです。よくある手術で、これ単独の手術もあるぐらいですから心配ありません。メッシュもきちんと張り付けました」
と言われていたのだが、私はすぐにここが悪化したのだと思った。手術が失敗したのだと。膨らみは一気に大きくなり鼠径部に拳大にまで成長した。
4月2日が術後初めての外来の日だったが、私は待っていられないので、3月31日に外科の外来を予約する。主治医は診察日ではなかったので、別な外科の先生が診てくれたが、一目見るなり、「ああ、水がたまっているんです。よくあることなんですよ」
術後水腫と言って、腸が移動したためにお腹の中に空間が出来て、そこに水が溜まるのだそうだ。
「ちくっとするだけですから」と部分麻酔もしないで水を50ccほど抜く。
ほっておけば水は吸い込まれて消えると言われて、ほっと胸をなでおろしたが、こう言ったことが起きるならどうして一言言ってくれなかったのかと腹が立った。
だが、これで終わった訳ではない。平行してもう一つ厄介ごとが起きていたのである。
それが、便秘である。術後4日間、便が出ない。出したいのだが、術後はトイレでいきむことは厳禁なので自然に出るのを待つしかない。
5日目の3月21日に、対策をAIに聞いたら、水分を一日に1~1.5ℓとれという。白湯やお茶やコーヒー、牛乳を朝から飲みまくり、夕方、やっと5日目に便意を催すも、自然に排便できない。いきめないので、どうしたかというとトイレのお湯の洗浄水をおしりにあてた。するとその刺激で排便できたのである。しかし、水分だけでは心もとないので、
3月24日
かかりつけ医に中性脂肪の薬を貰いに行った時に、事情を話して酸化マグネシウム250㎎を出してもらう。以降、水分1.5ℓと酸化マグネシウム250㎎で過ごすが、とにかく便が硬くて辛い日々が続く。出そうだと思ってもいきめないのが辛い。
そうこうしていると4月2日の主治医による術後の初外来がある。
術後水腫はまた膨らんでいて、この日は30ccの水を吸い取る。酸化マグネシウムがきかないと先生に訴えたら、大健中湯という漢方を追加で出してくれる。
かくして酸化マグネシウムと大健中湯と水分1.5ℓ、加えてAIで便秘対策のメニューを調べて食生活の面からも対策するが、便秘は悪くなるばかり。
4月9日
主治医、診察日。術後水腫はまた膨らんでいて、今日も50cc抜く。
便秘の悪化を訴えたら、酸化マグネシウム250㎎は一番弱い、しかも朝夕だけでは効果ないと言われ、
酸化マグネシウムは朝昼夕、500㎎を服用することになる。
私は妻の介護で酸化マグネシウムは随分妻にのませたのでその威力はわかっているつもりだ。これだけのめば何とかなるのではないかと思っている。
便秘も最悪だったので、病院で便摘してもらったがそれでも出ないので、最後は浣腸してもらってやっとすっきりした。尾籠な話ですまん。多分、これで明日から心機一転できると思う。もちろん水分1.5ℓは継続する。

今年の桜を追跡しようと思って、いつもの散歩コースの川沿いの桜の一本を私の標本木にした。
3月26日
PXL_20260325_230819723.MPPXL_20260326_221056394
ようやくつぼみがふくらみ出した。数本並ぶ桜の一番手前の木である。
3月27日に松江で開花するが、こちらはまだつぼみがふくらみかけたがなかなか開花しない。
3月29日
PXL_20260329_222428381PXL_20260329_222456876
ようやく開花するも満開には程遠い。
3月30日
PXL_20260330_222517311.MPPXL_20260330_222453896
花はすこしふえるが、満開には遠い。
3月31日に松江では満開になったというのに。
この日の夕方、鶴のおばあさんが救急車で運ばれる。年が明けてから一度も会っていない。だいぶ弱っているとは聞いていたのだが。
4月1日
娘が孫と斐伊川土手の花見に行こうと言うので娘の車に同乗して斐伊川土手へ行く。
PXL_20260401_015935695.PORTRAIT.ORIGINALPXL_20260401_015828625.PORTRAIT.ORIGINAL
奥出雲の雲南市の入り口、木次(きすき)線の木次駅のすぐ前が斐伊川土手の桜並木のスタート地点。
PXL_20260401_014329021PXL_20260401_014950872.PORTRAIT.ORIGINAL
斐伊川土手は満開。出雲でも有名な桜の名所だが、今日は天気が悪く、寒くて途中で雨も降り出し、人出は嘘のように少ない。車椅子で孫を抱いた娘の隣に立っているのが同行してくれたブラジル人のヘルパーさんのFさん。ご主人が日系でこの女性は純粋なブラジル人。私がヘルニア術後で車椅子を車に積み下ろしできないので来てくれたのだ。ちゃんと仕事に就いて働きたいと言うので、娘と二人三脚で、ポルトガル語の通訳の力も借りて、勉強して資格をとり、ヘルパーになったのだ。日本語もうまく、勉強家でとてもいい人なのである。毎年、ここは見物客で埋まるがこの日は閑散。雨も強くなり、寒いので這う這うの体で引き上げ、娘の家で昼ご飯を食べる。
PXL_20260401_225256552PXL_20260404_223159572
4月1日
同じ日の夕方。斐伊川土手の桜と比べたら天と地の違い。私の標本木は右の写真の一番右端。実はこれで4分咲き程度。一番左端の木だけが7分咲き程度になっている。それ以外の木は4分から6分程度。我が家のあたりでもみなそろそろ満開になりそうなのに、ここの10本だけはやけに遅い。その中でも私が選んだ標本木だけが遅いのだ。
ツルのおばあさんの家は奥から二番目の家。今年は桜を見ることは出来ない。
4月5日
PXL_20260405_032838999.MP
我が家の池のそばで見つけた羽化できなかったオニヤンマ。昨夜の春の嵐で吹き飛ばされてうまく羽化できなかったのだ。せっかくここまで育ったのに。我が家の池はギンヤンマの宝庫だったが、オニヤンマも卵を産んでいたことを初めて知る。
4月6日
PXL_20260406_071638322
花が半分程度しか咲かない。よく見ると枝の半分くらいはつぼみが全然大きくなっていないことに気が付く。固く閉じたまま。病気なのかもしれない。ここの10本のうち、半分くらいは満開になったのに、私の標本木をふくめた半分ほどの勢いがない。このあたりのほかの桜はとっくに満開になって明日にも散りそうな勢いで咲き誇っているのに。ここの桜だけが勢いがない。ここは川沿いで寒いので桜は毎年遅い傾向があるのだが、今年ほどはひどくなかったのに。
寂しい桜の季節になってしまった。
鶴のおばあさんの具合はよくないらしい。
【追記】
4月9日。花冷え。
PXL_20260408_230157505PXL_20260408_230347366
川側と道路側から見た光景。一番手前から4本目あたりの桜の咲き方が極端に悪い。一番奥の木は満開。町内のほかの桜は全部満開で、ちらほら花びらがひらひら舞い落ち始めているのに。去年は全部の木が満開で母と見物したことを思い出す。どうしてこんなことになったのか?恐らく植えっぱなしで誰も世話をしていなかったから何らかの原因で木が弱ってしまったのだろう。この調子では来年はもっと悪くなるだろう。夜、外は大雨。雷もなっている。今夜は花散らしの雨。帰郷して15年、毎年愛でていた桜も今年で終わりかと思うと寂しい春である。

↑このページのトップヘ