

左)国道9号(山陰道)の道の駅ロード銀山から見た岩山。
右)その正面に見える円光寺。

円光寺の山門。


辰敬坐像。島根県の有形文化財である。これは複製で本物は県の博物館に預けて保存してもらっている。ガラス板に光が反射して見えにくい。字が薄れて読みにく惟高(いこう)妙安という戦国出雲では有名な相国寺の高僧の賛がある。日付は天文22年とあるが、その年に妙安が出雲で書いた訳ではない。そもそも絵と賛が同じ時に書かれることはほぼない。天文22年と言えば、辰敬が岩山城で自害する9年前である。辰敬も60ぐらいのはずだ。この絵はいかにも若すぎる。妙安も天文9年ごろに京都の相国寺に戻っているはずだ。思うに辰敬が若い時の絵を京都の妙安に送って賛を入れてもらったのではなかろうか。
出版の挨拶文と本を数冊持参して、和尚さんに渡し、地元の人たちへの宣伝をお願いする。和尚さん、快く聞いてくれる。
そりゃあ本は多くの人に読んでもらえたら嬉しいが、私は一番に地元の人に読んでもらいたいのだ。そして、もっともっと辰敬を知ってもらいたいと思っている。正確には家訓ではないが、辰敬家訓と言うものを読んでもらいたいと思っている。極論すれば自分の本より、辰敬家訓を読んでもらいたいとさえ思っている。なぜなら、辰敬家訓には辰敬の肉声が詰まっているから。この人の肉声を聞いたら、400何十年も前の武士の声を聞いたら、きっと心を動かされるものがあると思っている。温かいよ。優しいよ。そして、今の人にも通じるくらい合理的な考えをする人なんだよ。私はこの人の家訓を宣伝するために小説を書いたのではないかと今になって思っている。
この後、近くまで来たのので母の実家へ行く。マルコはいつもいっしょ。


左)円光寺の前の道を岩山の方へ行くと、すぐ近くに刺鹿(さつか)神社がある。小学生の頃、夏休みになると母の実家でまるまる一月過ごした。石見神楽の大蛇(おろち)退治を観たのを今も覚えている。この神社の向こう側に大田方面からの山陰道(昔の)が伸びている。
右)これが昔の山陰道。電信柱の方が山陰道。私が小学生の頃はもっと細かった。山陰道はここから左(岩山方向)へ曲がる。
高速道路が出来て風景が一変した。

左)高速道路の下をくぐると江谷川にぶつかる。左におそらく辰敬の屋敷があったと思われる。母の実家はこの屋敷跡にいつの頃からか、どこかから移って来たものらしい。右)橋を渡ると、旧山陰道はすぐに岩山にぶつかり左折する。

旧山陰道は高速道路が出来るまでは岩山のやますそを現在の国道9号方面へ延びていたのだが、高速道路に断ち切られてしまった。この道が旧山陰道だったことなんてすぐに忘れられてしまうだろう。辰敬が自害して今年で464年目。ここまで毛利の大軍が来たなんて、小説を書いた本人さえ信じられない。円光寺の辰敬坐像は何を思っているのだろう。
















