曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2026年01月

寒波は来るけど出雲は鳥取ほど積もることはなく助かっている。
それでも朝は寒い。散歩の時間を7時半まで遅くしたがホッカイロは必需品。
ここ数日は鶴に餌をやるために田圃コース。
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夜にちょっと雪が降ったらしく田圃は真っ白。
鶴を捜してマルコと歩いていたら、突然、前方をものすごいスピードで駆け抜けて行くものがいる。犬かと思ったがすぐに狐と分かる。先日も誰かが田圃を走る狐を見たと言っていた。私も狐を見るのは3年ぶりぐらいだろうか。
するとその狐の上空を追いかけるものがいる。カラスだ。一羽のカラスが一匹の狐を追いかけていたのだ。急降下して威嚇するカラス。何があったのか分からないが、怒ったカラスが追いかけているようだ。突然のことでスマホを取り出して撮影できなかったのが残念。
狐は写真の右上部の民家のこんもり茂った立木の中に逃げ込んだ。
静かな田圃に戻る。
今朝は鶴は来てないのかと思っていたら、狐が逃げて来た方向からひょこひょこと鶴が現れる。どうやら狐とカラスの追いかけっこに驚いて隠れていたようだ。
私の姿を見つけてやって来たので、この4日間、餌をやっているこの場所で餌をやる。
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左)早速、おこぼれにあずかろうとカラスが2羽来る。2羽ぐらいだと鶴も平気だが、4羽、5羽と来られると鶴も嫌がる。怒って威嚇するが、集団にはきかない。
右)いつものように食パンと発芽玄米をやる。食パンはカラスに奪われるが、その分を考慮してやっている。カラスは発芽玄米は食べないので最悪全部取られてもいいのだ。
この鶴、私は2年以上餌をやり続けているが、2ヶ月前から、突然いつも餌をやっている川のそばの餌場に来なくなった。それが数日前から姿を現したのだ。
私は餌をやりながら話しかける。
「どうしたの、おばあさんが寂しがってるぞ。いつもの餌場に戻っておいでよ。おばあさん、もう会えないんじゃないかと泣いているぞ」
何度かブログでも紹介したが、このお婆さんは十何年この鶴に餌をやり続けているのだ。それが突然姿を見せなくなり、こんなことは初めてだと嘆いているのだ。毎日、夕方、いつもの餌場に弱った足腰を励ましてやって来るのだが、鶴が来ないので、がっくりと肩を落として帰って行く。遠くからその姿をみると気の毒でならないのだ。もうすぐ90歳になるはずだ。
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去年の秋の写真。お婆さんが餌をやりに来ると、鶴は橋の途中まで迎えに来て、それからお婆さんを案内するように橋を渡り、そこでお婆さんから餌を貰うのだ。またこの光景がもどってくることを願っている。

大雪警報は尻つぼみ。雪雲が鳥取へ流れたので、降ったのは前半の2日だけで、その後雪は消え、今日も時折雪が舞うだけ。大社うらら館。1時半開演。トム・プロジェクト公演。主演音無美紀子、その夫が太川陽介。
PXL_20260125_033706805読売演劇大賞女優賞・文化庁芸術祭演劇部門優秀賞を受賞しているのだが、太川陽介がでているので実は観る前から偏見をもっていた。このポスターも役者の素顔を写していて、舞台のメークはもっと老けたごま塩頭の水俣の漁師である。いい意味で裏切られた。音無美紀子がうまいのは言うまでもない。
この芝居は水俣病の被害者だった女性の実話をもとにして作られたものである。

水俣と言えば、私には二つの鮮明な記憶がある。
一つは我が家に初めてTVが来た頃だから、今から63、4年前頃だろうか、小学校高学年頃の私は、白黒TVに映し出された、きりきり舞いする猫や、手や指が変形し、手足がわなわな震える子供や老人たちの姿に息を呑んだのである。水俣で発生している奇病と放送していた。どうしてこんな恐ろしい病気が流行っているのだろうと恐怖におののいたものだ。
それがチッソの水銀廃液が原因と分かるのはもっと後である。

もう一つの記憶は今から33年前頃のことだ。私たち一家は夏休みに妻の故郷の熊本に行った時、誘う人があって水俣に太刀魚釣りに出かけた。二人の子供は小1と小3ぐらいだっただろうか。その頃は水俣は普通に海水浴場になっていて、釣り船もたくさん出ていた。太刀魚は山ほど釣って、焼いたり、煮たり、てんぷらにしたり、刺身にしたり、とても美味しかった。
私は水俣はすっかり回復したと思い、いい夏の思い出として大切にして来た。ところが・・・

この物語は1993年が舞台だった。何とちょうど私たち一家が水俣に遊びに行った頃の漁師の家族の物語だったのである。音無演じる杉坂栄美子とその家族は実在の人物と家族がモデルとなっている。栄美子の母は何と奇病の第一号患者になったのである。翌日から地域の住人に家を取り囲まれ、家を出るなと石を投げられ、すさまじい村八分に遭う。その時、栄美子は20歳。網元の一家は水俣病を発症し苦難の人生が始まる。

それは、発症時から始まり、対チッソの訴訟時にも続き、勝訴してからも、その時々の、それぞれの理由で差別や偏見を受け続けていたのだ。それは栄美子の子たちを苦しめることになる。
祖父にかわいがられ漁師を夢見ていた少年だった長男も高校を卒業すると都会に出て行く。
その長男が都会を捨て、水俣に戻り、漁師になろうとしたところからこの物語は始まる。

長男夫婦が戻って再び漁師になってくれることは嬉しいことだった。それはいまだに水俣病の後遺症に苦しむ栄美子にとっても。だが、栄美子はとても大きな決意をしていた。それは未だに水俣病は終わっていない。苦しんでいる者は大勢いるということを訴え、みんなといっしょに考えようという運動を起そうとしていたのだ。(実話)

だが長男は波風が立つのは嫌だった。本当はただ一人好きな漁師に戻って静かに魚をとっていたかっただけなのだ。
その時、栄美子を支えたのが、水俣病で死んだ父の言葉。「人様は変えられん、だから、自分が変わっていけ」
その言葉は言い換えれば、自分が変われば、人も変わることである。それが新しい人間関係を築くことになる。壊れた水俣が再び蘇ることになる。それがなければ本当に水俣がよみがえったことにはならない。

舞台を見ながら思った。私たち一家が水俣を訪ねた時、海はきれいに見えた、太刀魚も美味かった。でも、その時の水俣はまだこの舞台のような、真の再生とは遠い状況だったのだと。
果たして、今は?
この舞台のラストのように、漁師の父と都会から帰って漁師になろうとする長男と水俣に残って漁師になっていた次男との三人が、太鼓を「打つ」。そんな姿が見られる水俣だったらいいなと痛切に思う。そして、太刀魚を食べたい。
実は私は太刀魚が大好きなのだ。だが、出雲の魚売り場に太刀魚が出ることは滅多にない。






















早く言えば高市が負けると言う予想。結果が出た後で、実は私はそう思っていたと言うのは、後出しジャンケンみたいで嫌なので、恥をかくかもしれないが予想しておく。
この『高ころび』と言う言葉は、なかなか言い得て妙があり、味のある言葉で、最初に使った人はこの一言で歴史に名を残した。私が紹介するより、こういうことは最近はAIが上手なので、AIの解説をコピペします。

たかころび(高転び)は、
「高いところまで登りつめた者が、そこから一気に転げ落ちること」
を意味する日本語表現です。比喩的に使われ、特に調子に乗って勢いづいた人物が、最後に大きく失敗するというニュアンスを含みます。
🔍 語源・基本的な意味
高い所に上がって転ぶという、文字通りのイメージから生まれた言葉。
「高転びにあおのけに転ぶ」という形で使われることもあり、
“仰向けにひっくり返るほどの大失敗” を強調します。

歴史的に有名な用例:安国寺恵瓊(えけい)の書状
この言葉が特に知られるのは、安国寺恵瓊が織田信長の将来を予見した書状です。
恵瓊は天正元年(1573)頃、信長について次のように述べました:

「高ころびにあをのけに転ばれ候ずると見え申し候」
(=信長はいずれ大きく転落するだろう)

この書状は、信長の急速な台頭がやがて破綻を招くと見た恵瓊の洞察として有名です。
後に本能寺の変が起きたことで、この言葉は象徴的に語られるようになりました。

現代での使われ方
現代でも「たかころび」は比喩として使われます。
成功に酔って慢心した企業が、突然の不祥事で高転びする。
調子に乗りすぎた政治家が、スキャンダルで高転びした。

つまり、“油断・慢心・驕りが招く急落”という警句として使われる言葉です。

どうです?今の高市早苗にあてはまると思うのは私だけでしょうか。

ところでこの安国寺恵瓊は信長の「高転び」を予想しただけで名を残した人と思われているかもしれませんが、もともとは毛利の外交僧で坊主でしたが、後に大名並みに6万石の禄高を領し、関ヶ原の戦いでも西軍で戦い、戦後は処刑されました。
「高転び」と「安国寺恵瓊」、覚えておくといいですよ。
この世の中見てごらんなさい。高転びする人だらけですから。

多胡辰敬完全版第4巻が届いた。PXL_20260123_003348687
これで念願の紙書籍化が終わり、しばし感慨に浸ったが、それも一日だけ。
実は私は辰敬が終わったらすぐに次の紙書籍化をしなければならないものがあるのだ。
それが電子小説で発表した『老いて愛して書いた』という新井白石の評伝風の小説。以前にも少し触れたが、文庫時代小説を6本書いた後、もう介護と執筆の両立は無理。しかも自分は本当は『多胡辰敬』を書きたくてそっちを進めていたのだが、紹介する人があって、フリーの編集者から何か書いてみないかと言われた。介護もあるし、もう注文を受けて書くのは無理。ほかにも辰敬という書きたいものもある。でも出版業界に未練はあるし、迷っていると、紹介する人も書いた方がいいと言うので、私は助平心を出してしまった。そして、新井白石が偏屈な意地悪爺さんで、市井の事件を面白おかしく解決する話を書いたのだが、書いている途中からこんなものを書いていていいのだろうかと悩みながらなんとか書き上げた。そんなものが面白いわけがなく、結局ボツになり、私はなんと無駄なことをしたのだろうと悔やんだのだが、その一方ではこれでよかったのだと思っていた。
 実は私は面白おかしい意地悪爺さんの白石を書きながら、こんな白石を書いていいのだろうかと言う思いが、日増しに増していたのだ。白石を主人公にするのだから、当然、白石のことは調べる。著作も読む。そうすると調べれば調べるほど、読めば読むほど、白石の凄さに圧倒され、こんなすごい人を面白おかしい娯楽小説にしてはいけないのではないのだろうかと思うようになったのだ。
 そうなったら、よし、俺が書くとなるのが、己の力を知らない物書きのさが。
 見事に大失敗。
 読んだ人にはみな難し過ぎると言われてしまった。
 新井白石は日本の歴史において五本の指に入る天才である。詩人であり、歴史家であり、文章家であり、あらゆる分野の大学者であり、政治家でもあった。巨人という言葉でしかあらわせない人だった。
まともに挑んで描ける人ではない。そこで、白石と父が偉過ぎたために結婚もできない子供たちをキーワードに小説化したのだが、介護に疲れ、辰敬の進行に焦り、白石にも焦り、志しほどの出来には遠く及ばなかった次第である。
 それは辰敬の小説にも言える。だから紙書籍にするのに14年もかかった。だが、ようやく辰敬を終えたいま、やっと残った白石に力を注ぐことが出来るようになった。群盲象を撫でるになってはいけないが、巨人白石のほんのごく一部分だけでもいいが描けたらいいなと思っている。

寒波2日目。
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起きたら真っ白だったが、夜中にうっすらと雪が降っただけ。昨日の屋根の雪は何センチも積もっていたので寒波襲来の割にはたいして降らなかったことがわかる。7時過ぎにマルコの散歩に出かける。
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穏やかな朝だったが、この後、すぐに激しい吹雪になる。
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左)吹雪の通学路。先が見えない。遠くの小さい人影が通学する小学生たち。
右)そこへ次の集団登校の隊列が来る。先頭に赤い服がちらりと見えるのが、滑って転んだ児童である。道路の両側には溶けないで残った雪がカチカチに凍っているのでつるつる滑って危ない、危ない。マルコと一緒に安全な道まで集団登校について行く。
この子たちは学校まで2キロを歩いて行くのだ。見送る時、声をかけて励ましてやっても、余りの寒さに、みな、真っ赤な顔をして返事もできない。もくもくと吹雪に向かって歩いて行く。みな、一年生からこれを体験して大きくなる。たくましい田舎の子供である。
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友達の柴犬。こんな雪の日でも必ず散歩するのはうちのマルコとこの犬だけ。大の仲良しである。

これまでで一番寒い散歩だった。まさか集団登校に付き合うとは思わなかった。吹雪の中、30分近く付き合ったら、体がすっかり冷えてしまい、帰宅して床暖の上にじかに寝て体を温めた。
明日は寒波は中休みで、次の寒波は土日らしい。
明日は一息つきたい。今日は出かけなかったので、明日は買い物に行かないと食べるものがない。

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