曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2025年06月

Xの悲劇、Yの悲劇、Zの悲劇と言えば、エラリー・クイーンの有名な推理小説の題名である。このうちXの悲劇とZの悲劇が私の身に起きたのが、8日前の6月17日の朝のことであった。最近は朝5時に目が覚めると、バナナを一本食ってからマルコと散歩。6時前に戻って来てから、グラノーラとヨーグルトとミルクの朝食。6時半過ぎには畑に出て1、2時間働き、8時半ごろにはシャワーを浴びてから台所の机でパソコンを開く。早い時は7時半ごろからパソコンを開くこともある。実に爽快である。
その日も今日も頑張るぞと思ってパソコンを叩いていたら、突然、字が出て来なくなる。それがZのキイだったのである。
私はローマ字入力するので、たとえば「水」と打とうと思えば、「MIZU」と打つ。すると「みず」と打ち出されるので、それを変換して「水」にするわけである。ところが「Z」を打ってもスカになってしまうので「MIU」と打ったことになり、画面上には「みう」と表示されてしまうのだ。
「何だ、こりゃ、どうなってんだ」と、キーボードの全部のキーを叩いてみたら、Zと隣のXのキーだけがバカになっていることがわかる。
即ちこれが私の「Zの悲劇」と「Xの悲劇」だったのである。ローマ字入力でXを使うことはないが、Zは大いに使う。ざ(ZA)、じ(ZI)、ず(ZU)、ぜ(ZE)、ぞ(ZO)が打てなかったら、文章が作れない。
こうなったら私が駆け込むのがヤマダ電機のテクニカルサポートである。ここには私が前回パソコンを買った時、出張で設定してくれたSさんがいる。結局、NECに送って修理して送り返してもらうしかないのだが、往復で2週間(12日と言われたかもしれない)かかると言われて絶句する。そんなに長い間、パソコンがない生活なんてこれまでやったことがない。しかも今は辰敬の小説の紙書籍化に取り掛かっていて、ちょうど8章の大直しをやっているところだったのである。
私は考えた。修理に出したLAVIEはもともと調子が悪くて、この3月にメンテナンスパックをしたばかりだった。それが6月にはキーがバカになるトラブルを起こしてしまった。機械にはこういうめぐりあわせの悪いものがあるものだ。私はどうやら運の悪い機械に当たってしまったようだと思った。このパソコンも買って来年で5年になる。ちょっと早いが買い替えしてしまおうと思ったのだ。
少しでも安い方がいいので、一ランク小さい13.5インチのLAVIEを買った。
ところがこれがさらなる悲劇の続きになろうとは。
新しパソコンの出張の設定は6月20日に決まる。その間にヤマダ電機で古いパソコンから新しいパソコンに移せるものは移してもらって、20日には自宅でしかできない設定をやってもらうことにした。古いパソコンはそのまま修理に出す。将来的には修理した古いパソコンと新しいパソコンの2台が揃うことになる。
(2台パソコンを持ってどうするんだと自分でも思ったが、それは後で考えることにする)
やれやれ、これで8章の直しができて、これまで通りのパソコン生活ができると思ったのだが、なんとインターネットがつながったり、つながらなくなったりする。というか、ほとんどつながらない。
ブログもだめ。銀行もダメ。ネットで振り込みもできない。
泡を食って、6月21日、ヤマダのテクニカルサポートに持ち込む。Sさんに診てもらったら、パソコンには一切問題ない。問題があるとしたら自宅のNTTの機械やルーターだろうと言うことで、出張できるのは6月24日。
そして、昨日24日。Sさん、曰く。そんなに大変なことではないだろうと思っていたら、今までこんな現象にあったことがないと言う。いろいろ調べて恐らくNTTに問題があるようだが、ルーターに問題がないとも言い切れない。そこでNTTの機械を初期化してみようと思うも、2011年に私が出雲に帰郷した時に設置したもので、いくらさがしても古い記録が見つからない。アサヒネットのメールのIDとパスワードは保存してあったが、接続用のIDはあるのだが、パスワードがわからない。
NTTに連絡してパスワードの再設定しようと思っても、インターネットが不調だからなかなかつながらない。仕方ないから電話で申し込むも延々と待たされ、やっとのことで通じて再設定したのがもう夕方。
それまでに、このままインターネットが通じないままにしておく訳には行かないので、SさんがDNSを固定化するという荒業でインターネットを通じるようにしておいてくれた。修理に出したパソコンが戻って来たところで、NTTの機械を初期化するのか、あるいは何かの手立てをほどこすのか、機械を最新のものに交換するのか、どうなるか分からないが解決してくれることになっていると私は理解している。
そう言う訳でしばらくブログが出来ませんでしたが、ようやく出来た次第です。私もようやく世界と通じた気分になりました。不思議なものでTVを観ても世界と通じている感じはあまりしなくて、パソコンだと通じている感じがするんだよね。

1月12日
訪問リハビリが始まる。病院で2回とあわせて週3回になる。永世病院でのリハビリとは比べものにならない微々たるものだが、これだけでも嬉しい。お昼の配食も始まる。昼食の準備をしなくていいのは助かる。邦子は半分しか食べないので、残りが俺のお昼。
夜の9時から12時までが俺の時間。途中11時にオムツ交換。「ビールの匂いがする」と言われた。明日からはオムツ交換が終わってから飲むことにする。
1月13日
車で行くのもタクシーで行くのも大変だったので、今日から自立応援団の車で病院へ行く。車椅子専用車なので移送が楽。会計を待つ間、邦子が騒ぐので帰宅。午後、邦子が昼寝している間に車で払いに行く。
1月15日(土)
邦子在宅日。一日中向かい合っているのは辛い。自ら3回トイレに行くと言う。トイレでオムツ交換していると、「本当の夫婦になったみたい」と言ってくれる。
ケアマネがデイサービスをもう一日入れたら介護保険を使い切ると教えてくれる。
1月16日(日)
俺がぐったりしていたら、娘が夕食を作ってくれる。家政婦さんを雇わないと限界だ。
娘がネットで俺の本を調べたら「大変面白い、満足だ」と言う書評があったと教えてくれる。嬉しい。
1月17日
自立の車で外来リハ。付き添う。交通費1800円。2時間の待ち時間代1200円。調布市の福祉タクシー券を使えるのでタクシーより安く済む。リハを待っている間に小説の構想を練る。集中できるのはこの時間しかないので意外と進むような気がしている。
1月18日
邦子、デイサービス。邦子の眼鏡を直しに行く。その後、ロイヤルホストで昼食、仕事。3時前に戻って、家政婦紹介所を二三当たる。
邦子がトイレを言うのはいいのだが寝ていると大変。起こして左足に装具をつけ、右には靴を履かせ、車椅子に移乗してトイレ誘導。トイレもオムツだから立たせてのオムツの取り外しは一苦労。トイレでオムツはつけられないので、ベッドに戻ってからオムツをする。
1月19日
邦子在宅。朝ヘルパーさんが来ている間は俺は寝ている。ヘルパーさんが帰る前に起き、しばらく邦子の相手をして邦子を寝せたら俺も寝る。昼食後も邦子を昼寝させ、俺も寝る。それだけ寝てやっと夕方から動く元気が出る。
娘の腰痛は整形でレントゲンで診たら、股関節が少しずれていることが原因とわかる。俺はサッカーのやり過ぎで痛めたのだろうと軽く考えていたが、どうやらそんな簡単なものではなさそうだ。その時、俺は不意に娘が2歳か3歳の頃、邦子が俺に言った言葉を思い出す。娘の股関節のレントゲンを見た日医大の優秀な医師が「大きくなったらこの子は股関節の手術をしなければならない」と言ったと言うのだ。俺は今日の今日まで完全に忘れていた。嫌な予感がして言い知れぬ不安に襲われる。
1月20日
午前中、外来リハ。付き添いだけになったので精神的に楽になる。
便秘が5日続く。浣腸をしようとしたら嫌だと言う。夕食後、トイレに行くと言う。やっとお通じがある。
1月21日
夕方デイサービスから帰って来たら、ダイニングで夕食後まで2時間一緒にいるのが辛く、総菜で済ませようと思ったが、邦子に背中を向けてひじきを煮る。鶏のモモを入れる。二人だけの夕食も辛いものがある。邦子は一人だけ夢想の世界に居る。今いるところが青森だったり、看護学校時代の友人の家だったり。一生このままなのだろうか。
1月22日(土)
今日も夕食は二人。総菜を買うも切り干し大根の味噌風味を邦子に聞きながら作る。これも治療のつもり。
1月23日(日)
邦子の妄想は何とかならないものか。夕食を食べたことを忘れ、寝せようと思ってもラーメンを作ったから食べると言い張り、怒ってぶって来る。辛い。哀れでならぬ。ストレスで甘いものを無性に食べたくなる。コーヒーを飲みながらアーモンドチョコをひと箱たべてしまう。
1月26日
友人が編集者に会ったら、編集者は果たして俺が書き続けられるかどうか危惧しているそうだ。俺の情熱次第と言ったそうだ。俺は一生邦子のオムツの世話だけで終わるつもりはない。
1月27日
今日から週2回月木に4時から6時まで家政婦に来てもらう。お婆さんで2時間近くかかって鯵の南蛮だけしか作れなかった。いまどき家政婦はおばあさんしかなり手がいないらしい。
そういえば今日は邦子が笑った。娘と三人で夕食の時、娘が兄がにわかに英語の勉強を始めた(就職後のことを考えてのことらしい)と言う。大きな声でRの発音を繰り返していると口真似したら、邦子は口を歪ませて笑う。(顔の半分は若干麻痺している)。我が家に邦子の笑い声が響き渡るのはいつ以来だろう。こんなに笑ったのは病後初めて。頼むからよくなっておくれ。
1月28日
編集者から電話。新人としては悪くなく、まだ伸びそうなので次作の打ち合わせをしましょうとのこと。だめかと思っていたので飛び上がるほど嬉しかった。
1月30日(日)
昨日今日と娘が夕食を作ってくれる。
1月31日
夕食前の6時半に痙攣を起こす。救急車を呼ぶも杏林は手術中。烏山の病院は担当者不在。世田谷池尻の自衛隊中央病院に運ばれる。邦子は高卒後、自衛隊の看護学校に入学。ここで働いていて、池尻に下宿していた俺と出会ったのだ。まさか20数年ぶりに来るとは。邦子の後輩と言う看護師が邦子を覚えていて声を掛けてくれた。痙攣予防の筋肉注射と点滴を受けてタクシーで11時に帰宅。
帰宅したら娘の部屋に人影が二つ。娘が過呼吸を起こしてしまい、不安になって友達に来てもらったそうだ。娘が痙攣を見たのは初めてだからショックを受けたのだろう。
それにしてもこの頻度で痙攣が起きるとしたら考えてしまう。小説の構想を考えなければならず、ずっとTVを見せて構想を練っていたからであろうか。邦子が可哀想でならぬ。
2月1日
昨夜の騒ぎで編集者との打ち合わせを一週間延期してもらう。2作目に入った矢先の延期。早速期待を裏切った。やっぱりこの人は駄目なのではないかと思われたに違いない。気が滅入る。
食後に一緒にTVを見ていても痙攣が起きるのではないかとはらはらする。
2月2日
邦子在宅。小説どころではない。ベッドでくしゃみをする。風邪を引かねばよいが。
2月3日
外来リハの後、診察。帰宅遅くなる。そこへ調布の通所施設からデイサービスの聞き取り調査が来る。家政婦を頼んでおいてよかった。
寝ないとぐずる邦子をなんとか寝かせつけたと思ったら、トイレに行きたいと言う。起こしてトイレ誘導。やっと寝かせてから小説の構想をまとめる。夜中の0時半までかかる。
2月6日(日)
邦子、夕方熱っぽいので測ったら36.9℃。すぐおかゆを作る。風邪薬を飲ませる。11時、オムツ交換の時測ったら37.1℃。月曜に痙攣騒ぎがあって日曜には風邪騒ぎ。心も体も休まる暇がない。やめようと思うもアーモンドチョコをひと箱食い、ビールとサンドイッチを買って来て流し込む。
2月7日
朝、平熱に戻り、夕食後37℃。夜11時、36.5℃。明日、デイサービスに行ってくれないと俺は編集者に会うことが出来ない。
2月8日
何とかデイサービスに出す。用心のために入浴は中止したが、本人は入りたいと言ったそうだ。可哀想だが仕方ない。1時新宿で編集者に会い、ストーリーの線(シリーズ2作目)で行こうと決まる。
2月10日
邦子、TVのリモコンを耳に当てている。タクシー会社に電話していると言う。
TVで脳卒中の話をしていたら、「私も脳卒中になるかしら」と言う。
2月12日(土)
今日からデイサービスは調布。遠いので心配だったから帰宅してから一時間寝かせる。何とか大丈夫そう。これでデイサービスは週三回になった。介護保険使い切る。
2月13日(日)
日曜と水曜は小説のことは考えず、介護に徹すると決める。
ところが邦子は俺が「つきまとうのはうっとおしい」と言う。
今日は娘に化粧をせがんでいた。こんなところに娘の力が必要になることを実感するが、いつまでも家に居る訳ではない。
2月16日
介護に徹する日と決めていても、邦子が午前2時間、午後2時間、寝ている間は小説をやらなければと思ってしまう。だが俺も横になったまま起き上がることが出来ず。午後は邦子が寝ている間に買い出し。夜は8時に寝せたら11時のオムツ交換まで時間があるのだが、明日の家政婦さんのメニューを考える。年寄りなのでハイカラなものは作れないから、これが結構大変。
2月18日
11時の最後のオムツ交換。シーツまで濡れていると、一旦邦子を車椅子に移乗させてシーツ交換をするので手間がかかる。邦子に「左足が痛いのに」と頬をぶたれる。思わずかっとなるもぐっとこらえる。左足が慢性的に痛いことは分かっていること。悪いのは手早くやろうとした俺の方だ。
2月19日
調布のデイサービスでは習字をしている。邦子は書道が好きで何年も通っていたのでやらせて欲しいと頼んだ。習字は本格的なもので、俺も意味が分からないような難しい漢文を書いている。恐らく意味も分からず手本を見て書いているのだろう。その名前に「曽田芳千」と書いている。これは俺の母が木目込み人形の師範として使う名前である。自分は倒れる前は「曽田清華」と言う名前を持っていたのに忘れている。
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左)世禄多富
曽田芳千と書いたつもり。芳千がヘンな字になっている。
右)紫花陽春
曽静香と書いている。田が抜けている。清華を思い出せなかったのだろう。しばらくはこの静香をよく書いていた。

習字の出来るデイサービスに行けて本当に良かったと思う。ミミズがもつれたような字しか書けなかったのに、こんな字が書けるようになったとは夢のようだ。
2月20日
介護に徹する日に決めたので、邦子と話しながら料理を作る。こういう会話が大切だと思う。
娘はNGOで知り合ったケニア人に誘われてケニア大使館主催のノーベル賞平和賞を受賞したマータイさんのパーティへ行った。最後にマータイさんと握手して、3月にケニアのワークキャンプに行くと挨拶したよし。色々な国の人と知り合いになったと大喜び。明日、こんな話を邦子にしてやったら喜ぶだろう。
2月21日
外来リハがあったが、家政婦さんが来てくれたので今日は楽だろうと思っていたら、昼夜2回便失禁する。便失禁の処理は手間取るので邦子が文句を言う(罵詈雑言に近い悪口=実にひどい聞くにたえない言葉を使う)ので、おもわず俺も声を荒げてしまい反省する。自分が哀しくなる。すまないと心の中で謝る。
2月22日
デイサービスの日。今日こそ楽できるかと思ったら、夕食後と11時前に2回便の始末。11時前にはシーツ交換も。防水シーツは明朝までには乾くまい。便を柔らかくする薬が効き過ぎている。ズボンやタオルに付いた便は洗い流してからでないと洗濯機に放り込めない。参った。
2月23日
今日は酸化マグネシウムは三食抜くがそれでも軟便を漏らす。明日からは昔の酸化マグネシウムに戻す。
2月27日(日)
一年が経つのが早い。思い出すのも辛い。数日前からこの日をどんな思いで迎えるのだろうと思っていたが、目先のこと、歯磨きのこと、うまく寝せることなどをこなすので精一杯。一年前を振り返る暇もなかった。
3月1日
杉村升の告別式。急死だった。齢も同じライター仲間。彼に誘われてゲーム制作に関わり、面白い経験をさせてもらった。優秀な破天荒な脚本家だった。邦子がデイサービスから戻って来るので久しぶりに会ったライター仲間たちと話をすることもなく慌ただしく帰る。
娘のフィリッピン大学留学が決まる。11月頃出発。それまでに邦子との二人の生活に慣れないと。まずはケニア行きで一ヶ月留守。

12月9日【退院が迫る】
調布警察署へ行き、車椅子ステッカーを申請する。邦子用のTVを買う。まだ布団に敷く防水シーツや布団カバーも揃えないといけない。
12月10日
病院へ行く。オムツのこと、取り換え頻度、付け方など取材。朝のパン食のことも聞く。自分でバターを塗っている。
邦子がドキッとすることを言う。
「自殺する夢を見たの。これでこんな苦しみから解放されると思うと、すうっと気持ちがよかった」
12月12日(日)
義母から電話。「やってゆけますか」と問われるが、心配かけるので大変ですと答えるわけには行かない。「自分も死にたい」と言うので、逆に慰める。
12月14日
デイサービスに通う狛江の介護施設を見に行く。外見が倉庫みたいでがっかりしたが中は広かった。来週火曜から週一で通い、枠が空いたら週二にしてもらう。帰り際通所者がぷかぷかタバコをすっているのを見て愕然とする。こんな光景を見たら邦子が煙草を吸いたいと騒ぐに決まっている。途端にここがいやになったが、機械浴やリフト浴が出来るのはここしかない。
12月15日
先生に書いてもらうものがあるので今日も病院へ。
邦子を見ているとこれは大変だぞと不安が身に迫って来る。また日付が分らなくなっている。でも退院する日や曜日は分かっている。退院が待ち遠しいのだろうか。
12月16日
午前中、フランスベッド(介護用)が入る。
午後は通所施設の所長が来て面談。リハビリはないことがわかり愕然。デイサービスでやってくれると思っていたのでショックは大きい。勉強不足。甘かった。まだ足りない毛布カバー、バケツ、ビニール袋、手袋、消臭剤、使用済みオムツを入れておく容器などを買いに行く。
12月17日
退院前日、病院でOT、PT、STから申し送り。
今日は2回トイレ誘導し、おしっこをさせる。いつもこうならいいが。でも邦子もよくなった。高校時代の友達の手紙を読むようになった。STの検査ではGNPの質問に「国民総生産」と答えていた。
帰宅したらすぐにカレーを作る。邦子が帰った日は好物のカレーと決めていた。
12月18日(土)【296日ぶりの帰還】
邦子は車の助手席に座らせ、車椅子は後部のトランクに入れる。主治医と三人の療法士、看護師たちが見送ってくれる。ずっと入っていたいくらいいい病院だったので去るのが悲しかった。
カレーは作ってあったが、サラダを作ったり、トイレに連れて行ったり、オムツを換えたり、一体これからどうなるのかと茫然とする。甘いものを食べたいと言い募る。対応するだけで疲れる。夜は10時半を過ぎてもまだTVを見ている。明日は起きたらオムツ交換、食事の世話、歯磨き三度、食後の薬、etc、着替えもある。本当にどうなることやら。でも、思い出そう。一番辛いのは邦子なのだから。
モモが邦子を忘れていたのには驚く。喜ぶと思ったのに吠えまくっていた。
サラダを作るのをダイニングに座ってみていて、
「レタスやキャベツを水に放て」と言う。
12月19日(日)
邦子が昼寝している時間だけが自由時間。ぶっ倒れて何もする気が起きない。朝食後しばらくして寝かせても、「起こせ起こせ」と騒ぐ。病院のようにリハビリが無いので仕方ないのかもしれない。
オムツを換えている途中で脱糞する。泣きたくなる。二日目にしてシーツ交換して洗う羽目になる。
訪問看護指示書を見たら、邦子の痴呆の症状は(正常、Ⅰ、Ⅱa、Ⅱb、Ⅲa、Ⅲb、Ⅳ、Ⅴ)のⅣとある。下から2番目。そんなに低いのかとショックを受ける。
12月20日
烏山の病院診察。これからはここでリハビリを受ける。車で行くのはしんどいのでタクシーを呼ぶ。
診察の後リハビリ。PT、OT、STを受けて行けと言われるが、11時なのでPTとOTを受ける。これからは週2回受けるが、PT+OT、PT+STの組み合わせで受けることを決める。療法士たちは顔見知りなので良かった。皆、喜んで迎えてくれた。診察待ちや会計待ちの間、困らせることばかり言い、好奇の目を集める。(ああ、やっぱり痴呆症なのだ)と暗い気持ちになる。
タクシーで通うのも一苦労だった。左半身が麻痺している邦子を車椅子から下ろしてタクシーの後部座席に座らせるのは(その逆も)小柄な女とはいえ、とてつもない労力を要する。タクシーの運転手に「大変ですねえ」と同情される。
昨日、今日と二日続けてシーツを換えなければならないのにも参った。今朝はオムツを外していた。誰か夕食を作ってくれる人がいるだけでもどれだけ助かるか。三日目にして夕食作りの自信を失う。あんなに腕を磨いていたのに。甘かった。
12月21日
デイサービ1日目。9時40分に送迎車が来て5時前に戻って来る。ほっと一息。
思い余って熊本の邦子のおばさん(母の妹)にSOS。独身で動けそうな人はこの人しかいないのだ。邦子が幼い時から同居して、働く母親代わりに育て、教育もしてくれた人。邦子も母親以上に慕っていた。子供達も慕っている。だがおばさんも66歳。年末年始を助けてもらったら、来年からは夕食だけを作ってくれる人を雇うと窮状を訴える。
12月22日
起き抜けから便の始末。すぐに朝食。ぐずぐずしているとすぐに怒る。疲労困憊。
ケアマネに連絡。介護タクシーと昼食配達、ヘルパーの派遣を急がせる。朝食夕食が大変なのに、昼食まで作っていられないので市の福祉公社からの配達を頼む。
なぜすぐにヘルパーが入らないのかと言うと、ケアマネが実際に自分でやってみてどんな援助が必要かわかってから頼んでくれと言ったからであるが、要介護5で身障1級ならどんな事が必要かわかるだろうと腹が立った。
12月23日
おばさんは27日に来てくれる。夕食は手抜きでチゲ鍋ですます。邦子は煮えてないのに取ろうとするのでかえって大変。
12月24日
病院の日。今日はPTとST。そんな日に2時、7時半と便失禁。漏らしていると知らずにトイレに行ってトイレを汚してしまう。ベッドに戻して始末してから消臭剤を使って掃除。大量のタオルやバスタオル、汚れた上着、ズボンの洗濯。
夕食は二人なので手抜きすればいいのだが、今夜はイブ。鶏のローストやショートケーキを買って来て
イブらしいことをする。背中に鉄板が張り付いたようだ。
12月25日(土)
10時頃と1時頃排便がありオムツ交換。二度目は交換中にも排便あり。トイレ掃除に洗濯が加わるのでとても疲れる。だが、世話をしている最中に、
「お父さんに世話なんかさせて」と言う。
夜、モモを連れて散歩に行くぞと声をかけると、
「暮れのこんな時間にご苦労さん」と言ってくれる。
暮れと言うことも分かっている。家庭に戻るとはこういうことかと思う。
娘が今日レポートの優秀者三人の名が呼ばれ、その中に入っていたと言う。嬉しい。疲れが吹っ飛ぶ。
12月26日(日)
3時頃、有馬記念でも見ようかなと思ったら、邦子が突然痙攣を起こしたように激しく右手を震わせる。喉に痰でも詰まったような声をあげ、全身を震わせる。このまま死ぬのではないかと動顛し、救急車を呼んで杏林へ。
痙攣と判明。脳疾患を患った患者は必ず起こすもので、これまで起きなかったのが珍しいぐらいだと言われる。予防薬で防げるらしい。ストレスやTVの光でもなると言う。いちいち思い当たる。邦子にTVを見せて、俺は2階で寝ていた。申し訳なくて胸が痛む。この上まだ苦しまなければならないなんて。
6時に烏山の病院に移送。7時前、また痙攣を起こす。3、4日で退院できると言われる。
12月27日
娘と入院支度を持って病院へ。18日に退院して8日でまた入院とは。おばさん、4時に到着。ケアマネに電話して、デイサービスをもう一日増やしてほしい。できるだけ早くとせっつく。
12月28日
娘と二人で見舞い。邦子はやっと風呂に入れた。本人は風呂で倒れたと思っている。
小説の著者贈呈分が10冊届く。邦子に読んで欲しくて必死に書いたのに読むことが出来ない。将来的にも読めるようになるとも思えず。本人不在のベッドの前で声をあげて泣く。
12月29日
初雪。うっすら雪景色も夕方には消える。
1時に病院。よく寝ていて3時半になっても起きないので会計をすませて帰る。金曜日のデイサービスを受けられるようになる。ヘルパーは4日から。昼食の配達サービスは11日からと決まる。
12月30日
邦子戻る。腰が痛いと訴える。起き上がりもできない。ずっと寝ていたからか。左足の装具への
密着具合が悪くなっている。夜、永世病院で習った博久リハビリをする。
俺の小説を見せる。俺の喜び具合がわかったのか邦子も涙ぐんだように見えた。読めないのに、二、三頁めくってじっと見ていた。
12月31日
起きたら早速便の始末。だがおばさんが食事の世話してくれるので助かる。
午後から雪。二、三㎝積もる。自称おかしなおばさんのおかげで暗くない正月を迎えられる。おばさんは俺のいないところで子供たちに何やかにやと話しかけている。息子が妹がお嫁に行く前に母が倒れたことを残念がっていたとおばさんから教えられる。
邦子、腰が痛いと言い続ける。おばさんが話しかけると昔を思い出すのか話が弾む気配がある。
2005年1月1日【新年】
おばさんのお陰で何とか正月を迎えることが出来た。今年は一枚も年賀状を出していない。邦子が倒れたことを知らない人から賀状が来る。数枚、返事を書いただけ。午後から府中のおじさん夫婦がおせちを持ってお見舞い。邦子の「食べたい」は年を越しても続く。
1月2日
四六時中「食べる」と言い続ける。一生これに付き合うのかと思うと辛い。言うことをきかないとぶつようになった。オムツを換えたりしたときは感謝の言葉を言ってくれるのに。
1月3日
邦子宛の賀状の返事が辛い。とうとう装具に足がぴたりと入らなくなってしまう。永世病院のリハビリがなくなったらあっという間に後退した。
1月4日
今日からやっと朝のヘルパーが入る。1時間半。その後、デイサービスに行ったので4時半に帰宅するまで邦子から解放されるも銀行へ行ったり、邦子の電気毛布を買いに行ったり。午後からはゆうあい福祉公社が来て配食サービスの説明。
1月5日
急遽訪問リハビリが入る。これで病院で週2回。訪問で1回。計3回受けられる。永世病院のリハビリとは質量ともに比べようがないが少しでも受けた方がいいに決まっている。腰痛を相談したらコルセットを着けてくれる。
相変わらずオムツ交換のタイミングが悪くて、トイレ掃除したり、オムツの無駄遣いしたり、労力と時間の無駄遣いをしている。起きている間中食べさせろとしか言わない。最後には新聞でテーブルを叩いたり、怒鳴ったりするのには本当に参ってしまう。
1月6日
烏山の病院のリハ。朝の1時間半の世話がなくなったので楽になる。待っている間に二冊目の小説の構想を練る。二冊目の注文があるかどうかわからないが。心配した腰痛は痙攣で筋肉がかたくなったせいらしい。体重をかけると左足もぴたりと装具にはまる。土日の朝のヘルパー派遣ともう一日のデイサービスの追加はどうしても必要とケアマネの尻を叩く。
1月7日
今年2回目のデイサービス。つつじが丘駅前の2階のコーヒーショップでモーニングを食べる。俺にとっては夢のような朝。
府中のおばさんが毎週のようにおかずを届けてくれていたのは、熊本のおばさんが頼んでいていたからとわかる。二人にはこれ以上甘えるわけには行かない。
1月8日(土)
朝、ヘルパーがないのはやはり辛い。来週の土日から入る。もう少し頑張ろう。
府中のおばさんは邦子からノロマだのなんのと罵られ、邦子さんは本当は私をそんな風に思っていたのねと真に受けたらしい。辛い。ため息が出る。熊本のおばさんも娘が私を嫌っていると言う。おばさんははっきりものを言う人なので、娘が気分を害したことがあったようだ。皆、疲れて苛立っているのでちょっとしたことで波風が立つ。さすがに限界と思う。
1月9日(日)
おばさん、明日帰熊。おばさんさえも邦子の言動に閉口している。おばさんが「邦子も長くないから」と言ったのは俺を慰めるつもりだったと思うのだがさすがにむっとした。だがおばさんが夕食を作ってくれたから、その間俺は邦子のマッサージをしてやれた。おばさんがいなくなればマッサージをする時間などできなくなるだろう。
1月10日
おばさん、逃げるように出て行った。駅まで送りお礼の手紙と謝礼を渡す。お年玉は正月に渡した。
他人と同居するのは難しい。おばさんは邦子がダイニングにいるのに換気扇の下ですぱすぱ煙草を吸う。邦子が吸いたがるので目の前では吸わないで欲しいと頼んでいたのに。自称女無法松のおばさんだったが、見送った時はいよいよもうこれでお別れと思うと心細くて心細くて、これから一人でやってゆけるのだろうかと不安の底なし沼に沈んでゆく。

6月4日はいずも演劇鑑賞会の公演『母』(大社うらら館)
『母』とは小林多喜二の母セキである。と言ってもそもそも小林多喜二を今の人はほとんど知らないのではないだろうか。小説家である。知られている小説は『蟹工船』一作のみ。なんだ、一作だけかと言ってはならない。若くして特高に虐殺された多喜二はもっともっといっぱい書きたい小説があったのに、書くことが出来なかったのだから。
この芝居は三浦綾子(と言ってもこれまた今の人は誰も知らないだろうが、昭和の時代の有名な女流作家)の多喜二を描いた長編小説を舞台化したものである。多喜二が虐殺されてから30年後の、高度成長が始まる頃の昭和38年に、セキが雑誌社の取材を受けるところから始まる。
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実は私は『蟹工船』は読んでいない。大学生の頃、読まないといけない本と思いながらも、テーマが重く暗い先入観があり、読むのが辛そうでいつかそのうちと思いながら手に取ることがなかったのだ。
だがあれから半世紀を過ぎ、この芝居を見て、私の多喜二像は根底から覆った。それが母セキの自分と我が子を語る言葉だった。セキは語る。
セキは家が貧しく学校にも通えず、字も書けず、13歳で結婚して多喜二をふくめて6人の子を育てたのだが、家はいつも明るく、楽しかった。子供達もみな明るく育ち、特に多喜二は人を笑わせるのが上手で常に笑いの中心にいた。無学だが明るい母。この母がいるからこの子たちがいる。そういう家庭だったのだ。多喜二は初めから小説家を目指していた訳ではない。それも驚きだった。学生時代はスケッチが上手く、水彩画ばかり描いていたが、厄介になっていた親戚(学費と生活費を得るために働いていた)からもっと働けと叱られ、絵筆を取り上げられてしまい、それから原稿用紙に字を埋めるようになったのである。
この明るく楽しい若者が絵を描き続けていたらどうなったのだろう。特高に虐殺されることはなかっただろうにと思うと運命の残酷さに言葉もなかった。
この若者は小説を書くのも、貧しい人たちのために書くのだと明るく語る。のちに共産党に入る。
私はこういう心優しい若者と共産党の政治的イメージがどうにもそぐわないのだが、私の若い頃にもこういう若者は沢山いたように思う。共産党よりももっと過激な方向に突っ走ってしまう若者たち。若さゆえとしか私は説明の言葉をもたない。
小説は世に少しずつ受け入れられ、『蟹工船』で注目を集めるようになる。世は満州事変が勃発し、日本では治安維持法が施行される。多喜二には特高の尾行がつくようになる。そして逮捕され。数時間の拷問で殺されてしまう。それはまさに虐殺だった。
拷問の跡が残る遺体にセキは語り掛ける。
「ほれっ、多喜二、もう一度立ってみせねか。みんなのために、もう一度立って見せねか」
その場面を見て、私は思った。セキは昔の明るく楽しい多喜二に呼び掛けているのだと。みんなを笑わせた多喜二に。あの多喜二こそが本当の多喜二。みんなの多喜二だと。
無学な母だからこその言葉。その言葉こそが限りなく尊く、真理をついている。
同じような言葉に、去年の演劇鑑賞会『獅子の見た夢』でも出会った。それは無学な父が愛する娘に投げかけた言葉だった。
私たちのように中途半端に勉強した人間が一番始末に負えないのかもしれない。

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