曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2025年05月

春シーズンはじゃが芋の植え付けから始まり、なにやかにや収穫して、なにやかにや植えて、最後に薩摩芋を植えてやれやれやっと終わったとなる。
3月8日にじゃが芋を植え付けて芽がでたところまでは報告したので、その後をまとめて報告します。
4月27日
じゃが芋を三本立てにする。
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苗があっという間に成長したので慌てて余分な茎を抜き取る。2本から3本にするのだが、私はたくさん抜くのが面倒なので3本残すことにしている。右は抜いた茎。小さな芋がついている。
5月5日
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左)この頃にはイチゴがすごいこになっていた。一日でこれだけ獲れた。今年はどれだけ獲れるかと期待に胸を膨らませ、その後、追肥したら、なんと葉っぱだけが成長して、イチゴが一個もならん。毎年、追肥もしないで放りっぱなしにしていてもいっぱいできたのに。欲をかき過ぎた。
右)春キャベツのあとにはナスを植えた。こんなにいっぱい植えてどうするんだと思われるかもしれないが、隣のMちゃんところは焼きナスを作らないから、私が焼きナスの日は隣の分も焼いて届けるのだ。日頃世話になっているから、それくらいのこはしないと。
5月16日
部落水道が止まる。共同で使っていた井戸水がついに止まってしまう。我が家では池に毎日流していたのでこれが止まると、池が干上がってしまう。県の絶滅危惧種の水カマキリが死んでしまう。水道屋を呼ぶ。昨年の10月、この時は茶色い水が出るので来てもらい、この時はコンプレッサーで高圧をかけて管内にこびりついていた水垢を押し流してもらい、一時的に少しはよくなっていた。だが一度高圧をかけたために管内の水垢がはがれやすくなったようで、それが半年の間にどんどん剥がれて管が詰まったらしい。そこで、また圧を掛けることにした。
のだろうという
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左)詰まっていた汚れが一気に押し流される。
右)緑のホースをつないでいた我が家の蛇口。2時間ぐらい高圧をかけて水を出しっぱなしにしていたらやっと綺麗な水になる。と言っても飲める水ではない。
5月17日              5月18日
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左)薩摩芋用の畝を作る。マルチを張る。手前はネギの間に植えたじゃが芋。
右)植え付け坊の先端のふたまたにイモ苗を挟む。
5月18日          5月26日
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左)垂直に押し込む。垂直植え。水平に植えた方が沢山イモが出来るが、垂直植えは根つきがいいし、植えるのも楽なので私は垂直植えにする。
右)じゃが芋。2回目の土寄せをする。ぬかをやってから(右半分)土をかける(左半分)。
5月28日
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左)空豆。右の畝の方は枯れ始めたのに、左の畝はなぜかまだ勢いがいい。
右)すでに2週間まえに大きな段ボールがいっぱいになるほ収穫したが、まだほどほど獲れた。
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ここまで終わったら、6月にニンニクを収穫し、7月にじゃが芋を収穫するだけ。
・・・なのだが、これから庭の草取りをしないといけない。

お気に入りレシピが2つできたので紹介します。
最初に紹介するのが「飛び魚のおかずスープ」(命名は私)。
毎週月木にやって来る行商のおばさんが飛び魚を半身にしたものを6切れ(3匹分)持って来てくれた。私が脂質を気にしているのと調理の手間を省くために処理して持って来てくれたのだ。これで180円。うそみたいな値段だ。私はこれまで飛び魚は脂質が高いものと思い込んでいたのと、とりたて食べたいとも思わなかったので飛び魚を食べるのはこれが初めて。すぐにスマホで調べたら飛び魚の脂質は100gで3.3g。文句なしだが、食べ方がわからない。聞いたら、おばさんはスープにしたらと言う。
その時はピンと来なくて、結局、刺身にでもして食うかと言うことになったのだが、夕方、いざ皮を取ろうとしたらうまく皮を剥げない。
仕方ないので、スープにするかとネットで調べたら、ちゃんとスープのレシピが出ている。しかもたっぷり切り身を入れたら、おかずになるとあるではないか。そこで6切れの半身を半分に切って、塩胡椒をする。後は湯を沸かして飛び魚を煮る。
レシピにはゴチャゴチャとスープの作り方が出ていたが、そんなのは無視。鶏ガラスープを放り込んで、ミニトマトをぶち込んで煮たら、ハイ、それで完成。塩胡椒もきいて、私にしたら上出来の一品が出来た。飛び魚の切り身も十分おかずになり、半分残ったので翌日も食えた。おばさんには礼を言って、飛び魚が入ったらまた持って来てと頼んでおいた。
お次のレシピは「もやしの麺つゆカレー味」(これも私の命名)。
これはたまたまネットで見つけたもの。
200gのもやしの袋の角を切ると、レンジにいれて600Wで3分加熱する。取り出して熱湯を絞り出す。熱いのでタオルで包んで絞るとよい。水分を抜いたら、袋の上部を切って、濃縮4倍のつゆを大匙2とカレー粉を小匙1いれて、袋ごとよく揉む。私は濃縮3倍を大匙2でやる。後は袋から出して食べるだけ。
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超簡単でこれがうまいのなんのって。

最近は脂質が低くて、簡単に手早くできるものばかり作っている。必然的に魚が多くなり、週五日は魚である。魚でたんぱく質を摂っている。おかげで魚のレパートリーが増えた。
7年前、膵管に嚢胞が見つかり、今の生活を続けたらガンになると脅されてから、脂質の少ない食生活に変えたことは何度か当ブログでも述べたが、今ではたいていの食品の脂質はなんとなくわかって来て。昔ほど神経は使わなくなった。油料理も平気で作るようになった。
作ったものを一度に全部食べるわけではない。一人暮らしだから三日分から四日分ある。と言うことは一回に取る脂質は3分の1から4分の1である。そんなに気にすることはないのだ。
ただ、たまには肉も食べたいので、1週間から10日ごとに豚ひれか鶏胸肉を食べている。
魚は昔はカレイが多かった。
鯵は干物は脂質が高いこともあって避けていたが、青魚の中では脂質が低い方なので食べろと書いてあった。調べたら100gで7.7gである。私の基準は100gで5グラムまでを許容条件にしていたが、今では青魚の例外魚として食べることにしている。昨日は小鯵を酢で煮たものを食った。
今はまっているのが、スーパー「ホック」の「焼きイカ」。これが絶妙にうまいのだ。
今一番重宝しているのは「うるめ鰯の若干し」。
鰯は脂質が高いので敬遠していたが、去年、うるめ鰯は脂質が低いことを知り、「若干し」を見つけたら買って、冷凍保存している。「うるめ鰯の若干し」のいいところは、好きな本数を食べられることだ。例えば、おかずがちょっと足りない時など、適当な本数を焼いておかずにすることが出来る。

「飛び魚のおかずスープ」はこれほどお手軽ではないが、主菜とスープを兼ねているのがいい。すなわちこれを作ったら別にスープを作らなくてもいいのだから。いやスープを作ったら、自動的におかずもできているのだから。
たまには初めてのものを作るのもいいものだ。作っていて楽しかった。

土曜日にはほぼ毎週、母を自宅に連れ帰っていた。抹茶を飲んで、二人の娘とスマホでお話をし、私の作ったお昼を食べてグループホームに帰っていたが、いつしか毎週のように同じことの繰り返しになっていた。お昼も喉につまらせないように冷凍のあんかけうどんになってしまい、母も帰るたびに「あんた、この家の家賃いくら」と同じことを聞く。親孝行がマンネリ化してさすがに私も辛くなって来た。それがちょうど花見のシーズンだったので、私はドライブして花見に行き、帰りはうどんを食べて帰ることを思いついた。
4月4日
お花見日和。出雲にも桜の名所はあるが、母は少ししか歩けないし、車椅子も持っていないので、ネットで調べて斐川公園の桜を見に行く。
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ここの桜もなかなかのものだったがベンチがあるわけでもなく、石垣に腰をおろして「きれいだね、きれいだね」と言いながらしばし桜を眺め、車で公園内をぐるっと回ってから大社へ行ってお昼。
うどん長屋という讃岐うどんの店でうどんを食べてからグループホームへ戻る。ドライブと言うほどのドライブではなかったが、私とドライブするのはコロナで退院した時以来のこと。喜んでくれてよかった。
4月19日
母の実家へ石見路ドライブ。
お花見ドライブがいい気分転換になったので、この日は石見の母の実家を訪ねてみることにした。母の実家へ行くのも、コロナで退院した時以来のこと。その時は退院して出雲へ戻る途中に母の実家を表から見ただけで帰った。
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前庭に車で入る。マルコも同乗。母はここが生まれ育った場所とは分からなかった。そのまま帰ろうとしたらおじさん(母の弟)が出て来る。はじめは誰か分からなかったようだ。弟嫁や姪も出て来るが誰か分からなかった。上がるつもりはなかったので出雲へ戻る。
途中、道の駅キララ多伎へ立ち寄る。ここは車椅子があり、多目的トイレがあるので助かる。
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左)休息所で海を眺める。左手が今来た石見。
右)レストランでお昼はうどん。右手がこれから戻る出雲。
海がきれいだと感激していた。久しぶりのドライブで楽しかったようだ。
5月10日
母の日。11日はグループホームで母の日の行事があるので、昨日、母を連れて戻る。家に戻って来るのは一ヶ月半ぶり。ささやかに母の日をする。娘二人のプレゼントはこれから着るブラウスとカーディガン。
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とても喜んでいた。
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私はグループホームの職員さんから渡されたメッセージカードにメッセージを書いて、
母を届けた時に渡す。18で結婚して77の息子、76と72の娘を育ててくれた感謝の言葉を記した。今日、発表されたのだろうか。
・・・
さて、来週の外出はどうしよう。
・・・
なぜかPCが直って、写真をアップできるようになりました。

10月21日
子供達、夕食不要。外食(秋刀魚定食)ですますも、きんぴらを作っておく。
OTから電話。11月1日に家屋調査の予定だったが、床暖房の工事を先にしてくれていいとのこと。急遽エネスタ狛江に電話する。一階の和室を邦子の居室にし、ベッドを入れるため床張りをするのに合わせて床暖房にする。明日、見積もり。忙しくなる。
10月22日
京王デパートで邦子の誕生祝いにブラウスを買う。今夜も子供たちは夕食不要。水煮の豆と人参を加えたひじき煮を作る。帰宅した娘がぱくぱく食べてくれる。
10月23日(土)
57歳の誕生日。娘がプレゼントをくれたが、25日(邦子の誕生日)に一緒に開けてくれと言うのでそれまでは内容不明。邦子からもお祝いのメッセージがある。娘が助けて作成したものだと言う。こういうことをしてくれるのが我が娘である。
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誕生日の誕の字が書けていない。文面は『博久様へ 今年は子供たちが喜ぶような有名人を目指しましょう 邦子より』とある。邦子らしい言葉に思わずにやりと笑う。
10月24日(日)
娘が久しぶりにお母さんに会いたいと見舞いに行ったので小説の直しを進める。
菊花賞デルタブルースの単勝、馬連万馬券が的中。5000円が110,520円になる。たまにはこんなことがあっても。
10月25日
娘に託された二人一緒のプレゼントは夫婦茶碗と箸二膳。『家に戻ったらこの夫婦茶碗で仲良く御飯を食べてね』のメッセージ。泣けて、泣けて。邦子に「どうして泣くの」と言われて、また涙が溢れる。
嬉しいことがもう一つ。左足の振り出しが出来るようになった。三回に二回はわずかながらも自分で左足を動かす。まさか左足が動くなんて。夢を見ているようだ。今日もOT、PTからリハビリを少し習う。
10月26日
Tが某大手ゲーム会社に出す見積書に俺のハンコも欲しいと言うので新宿へ出る。有限会社を作ったらやって行けそうな感じになって来た。すべてTの力。
10月28日
連日食費が凄い。三人なのに六人前は作っていて、それがきれいになくなる。
10月30日(土)
小説直し終わる。一人は寂しい。外食しても何か一品だけは作る。ひじきの五目煮を作り、栗をゆでる。遅く帰った娘が栗をぱくぱく食べる。
10月31日(日)
見舞い。久我山の病院の時から比べたら楽になった。ただ尿意を訴えてくれないのは困る。俺にも言いにくいのだろうか。そんなはずはないと思うが。尿意を訴えることがわからないのかとも思う。
11月1日
Tが頑張って何とか会社を作ってやって行けそう。ゲーム会社だから俺のやることはシナリオ関係だけ。シナリオが必要になった時だけ、若い作家が書いたものを監修する役。これなら小説と並行して出来そう。
11月2日
今日も一人飯。コロッケ買って来て冷蔵庫の干物を焼いてすます。食後、高野豆腐と椎茸、人参を煮る。薩摩芋の辛し和えなるものもレシピを見ながら作るも、娘は辛子がだめ。ああ。
11月3日
見舞い。今日は尿意を訴えてくれた。疲れたのかずっと寝ていて、マッサージをしてやった。近くの公園を車椅子散歩する。帰宅後、けんちん汁を作るも外食。
11月5日
今日STを習うために病院へ行くつもりだったが、予定が来るって行けず。明日、行くことにする。明日のために料理を作る。ごぼうのささがきを作っていたら妹から電話がある。ささがきは冷凍の袋を売っていると笑われる。
11月6日(土)
このところ休日と祭日のみ見舞いに行っていたので、今日はOTとSTに立ち会いたかったが、STに立ち会う。また色々と教えてもらう。固い筋肉がずいぶん柔らかくなったので、それに従って足も動くようになったのであろうととのこと。トイレでのつかまり立ちも長く立てるようになった。
11月7日(日)
リフォームの再見積もり。廊下の段差解消を入れたりしたら170万になる。高くなり過ぎたので業者が材質を見直して149万に抑えてくれる。それでも高いことに変わりはない。見舞いに行った娘から電話。邦子が出雲に電話すると言って、自分でプッシュホンを押したそうだ。0853-28-〇〇〇〇。
俺にも電話が来た。へんなことを言っていたが、自分で電話できるようになったのは大変な進歩だと思う。出雲の電話番号も憶えていたのだから。
11月8日
今日は先を考えて料理の練習日。鯖の味噌煮、人参の胡麻和え、豚肉とひじきの煮物。娘はすっかり食べる人になって、帰宅してぺろりと平らげると、二階へあがって仏検の勉強。夏前まで家事負担をかけていたからこれでいいのさ。
11月9日
病院。OT、PTはノートに図解でメモを取る。在宅になってからのリハビリのため。STから邦子は自分の記憶の不確かさに不安を口にしたと教えてくれる。そこまで認識できるようになったのは驚きで進歩だと思うが、反面可哀想に思う。おそらく取り戻せない記憶だと思うのだ。
朝はパンを食べていることを知る。ずっとおかゆを食べていると思っていたのでほっとする。朝がパンなら楽でいいと思う俺。
11月11日
昼食後、どうにも身体が動かぬほどくたびれベッドに鉛の塊となって埋まっていた。こういう時は頑張ってはいけないと割り切って休む。一時間ほどうつらうつらしていたら回復する。
娘、帰宅一声。ニンニクとオイスターの匂いに「いい匂い、なに?」仏検が迫っているので5時半には食べさせてやる。ししゃもとブロッコリーと卵のオイスター炒め。ぺろりと食べて二階へ。
11月14日(日)
母、上京。荷物が重いと言うので東京駅に迎えに行く。喜寿の祝いをする。
11月15日
リフォームが始まる。邦子の居室となる茶の間が6㎝傾いていることがわかるが直すとなると大工事になるのでそのまま進める。
午後から母を連れて見舞いに行く。予想したほどの反応はなし。実母なら違うだろうが、実母は会いたくても体力的に自信がなくて上京はあきらめている。
小説の出版は1月に決まる。一人になると込み上げて来るものがあり泣きそうになる。
11月16日
熊本の義母から電話。退院して26日に戻る連絡。入院していたことを初めて知る。年金ではケアハウス住まいは無理だが、糖尿食を宅配してもらえれば暮らせるとの連絡。今は何とかしてもらうしかない。
11月17日
母と見舞い。小説発売を伝える。邦子、心底喜んでくれる。リハビリの療法士にも俺の本が出ると報告する。俺を困った人だと言わんばかりに三文文士とからかっていた妻が本当に嬉しそうな顔をしていた。よくしゃべるようになった。怒ったり、感情を爆発させるようにもなった。わがままも出たり、わからんことも言い募るが、感情の発現の仕方がより人間らしく感じられるようになって来た。
PTでも今日は両足素足で歩行訓練できるようになった。もちろんPTの介助つきだが、麻痺して拘縮して不自然に歪んでいた左足がぴたりと床に着くようになる。
11月19日
母と見舞いに行く。主治医と面談。話はだいぶ通じるようになったが、関節は固くなり始めたという。STは筋肉は柔らかくなったと言っていたがどう判断すればいいのか?
STでは今日は11月19日と答えたのには驚く。つい二週間前まではでたらめだったのに。
17日はトイレを3回訴えたが、今日は1回だけ。
11月20日(土)
母は藤沢の妹のところへ行く。妹が成城学園まで迎えに来て、おかずをくれる。母が料理してくれたので一週間助かった。今日は台所の工事終了。月曜には終わりそう。
11月21日(日)
母の一週間の滞在でくたびれ、今日の見舞いは1:00~3:30。邦子が看護師の名前を言っていることに気づく。人の名前も覚えることが出来るようになったようだ。と言っても相変わらず変なことは言い続けている。
11月22日
リフォーム終了。床暖は暖かい。これで邦子も快適に過ごせるし、介護する方も楽。
娘が午前中見舞いに行ってから大学へ。タバコは持っていないと言ったら、「高幡不動に誓ってないと言うか」と邦子に言われたよし。退院して「たばこ」「酒」とせがまれるのが今から頭痛の種である。リハビリ科の家屋調査が29日に決まる。
11月23日(勤労感謝の日)
見舞い。1:00~3:00過ぎまで。以前は一人にしておくのが哀れで長くいるようにしたが、さすがに見舞い疲れする。もうすぐ退院だし、しっかりして来たので2時間ぐらいで帰ることにしている。帰り際振り返ると、一人でTVのチャンネルを変えて見ていた。
11月24日
娘と話していて思い出したことがある。邦子が「冬のソナタの映画を見ていない」と俺に言ったことを話したら、娘は邦子が「大統領選挙はゲー(ケリー候補のこと。勝ったのはブッシュ)が勝ったのか」と娘に聞いたことがあると教えてくれた。
冬ソナが流行った時も観るような主婦ではなかったが、話題になっていたことは覚えていたのか。大統領選挙はTVを見ていてインプットされたのかもしれない。希望の持てる話だ。
11月26日
「お母さんの味大百科」を見て、豚肉とニンニクの炒め物と無国籍スープ(ツナ、トマト、豆腐)を作る。酸っぱいスープは疲れた時に美味かったと好評。
11月28日(日)
子供たちは夕食不要なので、久しぶりに邦子の所に4:30分までいる。タバコを吸いたいと言われるのには参る。帰って来てからが思いやられる。トイレには二度行くが一度は手間取っているうちに漏らしてしまう。
看護学校の同期生からの寄せ書きを見せる。「これは誰ちゃん」と言い、「励ましてくれるのは嬉しいね」と言うが、自分の病気をどう認識しているのだろうか。
11月29日
家屋調査。病院からPTとOTが来て、ケアマネージャーとフランスベッドが来る。トイレの手すり取り付けと12月16日ベッドの運びこみ、12月17日退院と決まる。いよいよ介護の生活が始まる。まだ実感が湧かない。どうなるのか不安の方が大きい。
11月30日
9:50のOTに間に合うように病院へ行く。12月17日だと、子供たちが学校で迎えることが出来ないので、退院を18日(土)に変更する。
OTが左手が動く可能性について言及すると、邦子は「こんなこともできるのかと思うと希望が湧く」と言う。(結局、動くことはなかった)
昨日、俺が作った豚汁が一夜でなくなったと言うと、「食べてくれると嬉しいものだ」と言い、保険のことも口にする。邦子に支払われた高度障害の保険金はきちんと管理していると教える。妄想的な話をするが、こんな会話が増えて来ると希望が湧いて来る。
12月1日
小説ゲラを貰う。初版は1万2千部。新人で文庫の初版はこんなものらしい。
12月2日
受け入れ準備。台所用品を買ったり動き回る。疲れて夜は手抜き。あじ塩焼きと筑前煮と味噌汁。これで邦子が帰って来たらどうなるのかと暗澹とする。遅く帰って来た息子があじ塩焼きを「まじ美味かった」と言う。焼き魚なんか好きではないと思っていたので驚く。邦子がよく言っていた台詞を思い出す。「美味しいと言って」その言葉の重みがずしりと伝わる。
夜、ゲラに手を入れる。
12月3日
ゲラ校正、一気に終える。
子供達夕食不要もひじき入りのおからを作っておく。遅く帰宅した娘が「何かある」と聞くのでおからを出すと、うまいと食べてくれる。これだから夕食不要でも何か作っておいてやりたいのだ。
12月4日(土)
パイプ棚を買って来て台所に組み立てる。邦子の居間になる8畳間の家具の配置を変える。化粧道具はまとめて押入れに片付ける。もう使うことはないのだろうなと思うとしんみりする。後は邦子が見るTVを買ってくれば迎え入れの準備はすべて終わる。
12月5日(日)
娘が見舞いに行く。「行くたびに良くなっている」と聞くと嬉しくなる。今日は小説に載せる俺の写真を持って行き、どれを載せたらいいか二人で検討した。
娘がまたボランティアでケニアに行きたいと言ったら、「自分も若い時、外国へ行くと言って皆を心配させた。生水は飲まない。一人では行動しない。約束できるならいい」と、言うようなことを言ったらしい。顔つきが変わって来たと娘は言う。
息子と二人で茶の間の箪笥を移動する。その他こまごましたものを押入れにしまう。後はベッドを入れるだけ。
12月6日
編集者にゲラの校正と写真を渡す。題名は新三郎武狂帖・千両帯にする。帰りに小田急の地下で総菜を見る。あまりにも美味そうなので今夜は手抜き。買って帰る。
12月7日
見舞いに行く。9時半~4時半。PTが4時からだったので帰宅が遅くなる。娘がよくなったと言ったが相変わらずのところも多い。期待し過ぎてはいけないと自戒して行くのだが、どうしても期待して落胆も大きくなる。疲れた。一方的なもの言いや、理解しようとしてくれないところは相変わらず。昼御飯も食べたことも忘れている。
便失禁があり看護師に始末の仕方を習う。在宅になったら全部俺の仕事だ。身体に付いた便を洗い流すためのマジックリンのような空き容器やポリバケツを用意するように言われる。

9月1日
今日の昼食は鶏肉と玉ねぎの卵とじ、ほうれん草の煮たものなど。平気で食べている。味噌汁もお茶も飲む。御飯はまだ全粥。
9月2日
朝から新宿京王デパート。介護用品売り場で妻の服を2着買い、スポーツ用品売り場でトレーナーを買う。昨日手抜きしたので今日は肉じゃが。息子にじゃが芋の皮むきを手伝わせる。
夜の10時に今後の仕事について明日元親会社のえらいさんと会議をするので打ち合わせをしたいと呼び出される。Tは最後まで頑張ってくれたのでもう俺はやらないと断るのも申し訳なくて出て行く。
9月3日
元親会社との話し合いは不調。疲れた。家へ戻り、9月1日からの身障者受給票を持って病院へ。邦子は先生からインタビューを受けていたが、支離滅裂なことを言っている。自宅へ戻れば必ずよくなると信じて希望は絶対に捨てない。ヘロヘロになって帰宅。
(入院して三ヶ月のリハビリを受けたら、転院して三ヶ月の回復期リハビリを受け、それが終わったら自宅に戻る。回復期リハビリが終わったらもう次のリハビリは受けられないことに決まっている。だがごく少数だが特例を設けてそういう患者を受け入れてくれている病院がある。それが八王子永世病院だった。私は妻はまだ若い、絶対によくなると必死に頼み込んだ。転院が決まった時、烏山の病院はこれまでうちの病院で八王子永世病院へ転院した人はいない。初めてのことだと驚いた。それくらいこの店員は奇跡ともいえる転院だったのである)
9月4日(土)【転院】
9時半烏山の病院を出発。中央高速を通って10時半八王子永世病院到着。出発するとき、涙が出るかと思ったが、前回とは病状も状況も違う。在宅になったらまた診察やリハビリを受けに戻って来るし、看護婦さんたちも明るく送ってくれたので泣かずにすんだ。
早速リハビリを受けるが、PTもSTもOTもひとつひとつが丁寧。すべてが在宅準備に向けられていることを感じる。帰宅したら家の見取り図を描き、写真を撮って提出しなければならない。
一体いつになったら小説の直しができるのやら。
9月5日
娘は発熱。俺一人で車で八王子へ。高速を飛ばして50分かかる。府中のおじさん夫婦や隣のYさん夫婦も見舞いに来てくれる。
昼食終了後に到着。邦子はまだ何か食べたいと言う。入院診療計画書を見ると、病名は右脳出血、左辺麻痺、失語症、嚥下障害、高血圧症とあり、病状としては左辺麻痺と失語症とある。治療計画は継続リハビリテーションと在宅準備。推定される入院期間は1ヶ月半とあった。3ヶ月を期待していたので短くて驚く。せめて2ヶ月は預かって欲しいのだが。失語症にもショックを受ける。邦子のような状態が失語症の範疇に入るとは知らなかった。果たして治るものだろうか。
9月6日
9時前に市役所へ行き介護更新の申請。夕方、新宿へ出てTがとって来た仕事を曽田事務所で受ける話し合い。Tは自分の会社を持っていないので俺の会社で受ける形を取らないといけないのだ。
9月7日
10時半前には病院へ着く。午前のOT、昼食、ST、PTと全部付き合う。昼食は鯖の西京焼き。骨は指で出して食べる。レタスは細かく切ったのをそのまま食べている。OTは着替えの練習。PTでは左足に装具をつけたら足裏がぴたりと床につくので、介助されながら手すりにつかまり数メートル歩く。これは歩く練習ではなく、将来的に車椅子の乗り移りが楽になるための練習。STとの応答は哀しいものだった。食べたいが始まってからは意識がすべてそっちに行ってしまう。
8月27日以来、初めて小説の直しにかかる。水、木、金と見舞いを休んで小説に専念しないと。
9月8日
午前中、家屋調査票完成。写真も撮る。午後から小説直し。その後、写真館に娘の振袖の写真を取りに行く。「お母さんに似て来たかな」と娘。息子も母親に似て来たと言われたそうだ。こういう話になると邦子には早く戻って来てほしい。
9月12日(日)
覚悟していたが日曜は混む。調布インターに入るのに1時間以上かかる。行き2時間弱、帰り1時間強。何と看護学校時代の友人4人が見舞いに来てくれていた。邦子は全員が分る。4人だと普通に会話が成り立つ。
左手が不自由なこと。皆に迷惑をかけているようなことを言う。皆に励まされ、これからは何でも旦那にしてもらえばいいと言われ、納得した様子。邦子は島根松江出身の友達が忘れていたドジョウすくいの話をする。
この一週間、装具をつけて歩く練習をしたせいか、なんとなく体がしゃきっとし、心なし表情が出て来たような気がする。相変わらず「食べる」ばかり言うが。
9月13日
息子に15日に見舞いに行ってもらおうと思ったら、ゼミの勉強を口実に渋っている。頭に来て不機嫌な顔をしたらもごもご言い訳をする。要は見舞いに行っても「食べたい」ばかりで、あげく「帰れ」といわれたりするのが苦痛なのだと言う。気持ちはわかるが、妹も同じ目に遭っていると言ったら行くと言う。そっとため息をつく。子供達も可哀想だが邦子も可哀想。俺なら一番可哀想なのは邦子と思うが、これからは無理強いしてまでも見舞いに行かせるのはやめようと思う。
9月14日
10時半に着き4時半までいる。OTで車椅子の乗り移りの正しい方法やこつを学び実際にやってみる。午後、PTでは足の装具作りに立ち会う。STでは月日を問われて「3月」と答える。二人きりになると「食べたい」が始まり辛い。
八王子の介護認定員が介護の見直しに来る。要介護4になるかもしれない。ぎりぎりのところと言う。こんなに大変なのだから要介護5にしてほしいと切実に思う。
9月15日
一日家に居ると小説の直しが出来る。妹が藤沢から車でおかずを届けてくれ、電車で見舞いに行ってくれる。助かった。味噌汁を作るだけでよかったが30分もかかる。
9月16日
今日も小説の直し。夕食は鶏のミートボールと小玉ねぎと隠元の煮物を作る。邦子が戻って来た時のためにレパートリーを増やさなければならない。
9月17日
Tに付き合って仕事の打ち合わせに出る。その後、九段の法務局へ行き、後見の登記事項証明を取る。
帰宅したらTBSのブロードキャスターから電話。明日の夜、戦隊シリーズの特集の取材をしたいと言う。上原さんに断られ、俺に取材しろと言われたのだそうだ。俺だって嫌だ。上原さんを恨む。明日は病院へ行くので無理だと言ったら、赤坂まで来れないかと言う。断ったら夜の10時に来て30分取材撮影して帰る。
娘の見舞い報告。先生たちが邦子の歩行訓練の進歩に感心していたそうだ。明日の主治医との面会が楽しみ。娘は邦子と英会話をしているそうだ。いい手だと思うが俺は英会話はできない。顔つきが変わって来たと娘は言う。
9月18日(土)【リハビリ延長決定】
病院10時半から5時までいる。4時~5時は嚥下の講習会。
先生との面談。リハビリの具合がいい。特に歩行訓練がいいので、もっと入院期間を延ばすことになる。飛び上がるぐらい嬉しい。だがリハビリ計画書を見ると、糖尿病に高血圧と診断され、理解力が低い、すぐに忘れる、見当識、記憶に著しい混乱が見られる。自覚がほとんどないと記されていた。
9月19日(日)
9月のこの時期に31℃。暑い。リハビリはないのでずっと付き添い。それでも写経を40分やり、間を持たす。くたびれて夜は仕事にならず。
9月20日
娘は日本に戻って来た王さんと見舞い。病院は敬老の日フェスティバル。邦子といっしょにプリクラ撮ったり、ヨーヨーをすくったりしたそうだ。「苛立つ」という英語を「イリテーション」と言ったので、娘も王さんも驚いたそうだ。邦子は「イライラするのでイラテーションだ」とも言い換えたそうだ。こんな話を聞くとまともに思えるのだが。
9月21日
今日も30℃を越す。見舞い。昨日、娘が来てぬいぐるみを買ったことは覚えているが、王さんが来たことは忘れている。
9月26日(日)
12時半着。約40分、足をマッサージしながら話す。その後、車椅子散歩して食堂でTVを見る。3時過ぎから食べるコールやたばこコールが始まるが、いつもと比べたら今日は楽な方だった。
9月27日
娘は箱根へ。生姜焼きと味噌汁を作る。息子は寝る前にも食べていた。娘が炒り豆腐を作っておいてくれたおかげ。買い物をいれると結構時間がかかる。邦子が戻って来たら一週間の献立を考え、買いだめもしておかないと、介護と食事作りで一日が終わることになりかねない。
9月28日
見舞い。トイレに付き合ったがトイレ介助は大変。とても一人では出来ない。足の装具が完成してもまだまだである。
今日も二人の子の他に「もう一人出来の悪いひょろっとした子がいる」と言う。どこからそんな話が出てくるのか、理解不能。
9月30日
娘が見舞い。もう4時ごろからテーブルについて食事を要求していると聞かされると俺も落ち込む。でも今日は杖で歩行訓練をしていたそうだ。
ベッドに移される時、餃子を食べたいと言ったら、PTに後でと言われ、邦子は右手で殴る真似をしたそうだ。そういう話を聞くと、妻らしさが戻って来たと思う。
10月1日
息子は内定式。娘はサッカーの夜間練習。夕食は手抜きしてもよかったのだが、邦子が戻って来てからのことを考え、じゃが芋を揚げたものと豚肉とコンニャクの炒め煮を作ってみる。しかし子供たちがいないと寂しさひとしお。早く邦子に戻って来て欲しいと思う。
10月3日
調布から病院のあるめじろ台まで特急ならそう遠くはない。以前は食事が終わってもすぐに「食べたい」と言って疲れさせられたが、このところおとなしくTVをみていてくれたりする。クイズ番組で「秋きぬと目にはさやかに見えねども」の下の句を問うていたら「風の音にぞ驚かれぬ」と、答える。こういう記憶は大したものなのである。
カーディガンを着る時、「人に手伝って貰わないと着れないのは悲しい」と言う。「あぁ、そんな風に思っていたのか」としんみりする。まともな感情を持っていることをわかってやらないといけないと痛切に思う。
夜、息子と二人で焼き肉をして食べていたら、息子が見舞いに行った時には、「お父さんと〇〇(娘)は見舞いに来てもちっとも面白くない」と、言ったそうだ。
10月5日
歩行訓練は目覚ましい進歩。四つ足の杖で介助されながらリハビリルームの半分を一回休んでぐるりと回る。麻痺している左足も「動かしてごらん」と、言われたら、こころなし前へ振られたように見えた。根気よく動くと信じてやれば動くのではないかと思った。
そろそろ自宅を見たいとPTに言われる。OTも息子や娘に介助の仕方を教えたいと言う。在宅が近づいていることを実感する。トイレで20数える間、つかまり立ちできるようになった。ただし、理解力と記憶力は絶望的に悪い。リハビリに行く前に自分で隠しておいた3つの物を戻って来た時には見つけることができない。そのくせ、邦子得意の唐揚げのレシピは、ニンニクと生姜を醤油にすりおろし、一日漬込んでから揚げるとすらすら答える。
10月6日
豚ばらと白菜の土鍋蒸し煮を作る。何かのレシピで覚えたもの。5時限まで授業のあった娘が疲れて帰って来て喜んで食う。「お父さん、主婦してるね」と言うが、しっかり主婦にならないとこの先やって行けないのである。
10月9日
牛肉とキノコのおろし煮好評。遅く帰った娘が作り方を聞きに来る。
10月11日(祭日)
見舞い。病院横の喫茶店で邦子とコーヒーを飲む。「ビールを飲みたい」、「タバコを吸いたい」と、しつこく繰り返すが、こういう試みは悪くない。帰りに「新聞を読む」と言い出したので、病院の食堂に連れて行き、新聞を置き、後は看護師に頼んで帰る。果たして読んだかどうかわからない。新聞を読むと言ったのは初めて。
10月13日
15日から御飯になるので今日から箸で食べる訓練に入る。在宅にあたっておかゆを作るのが大変なので御飯を食べられるようにするものなり。
PTも左足のマッサージの方法を教えてくれる。俺がまじめによく通っているので、「曽田さんなら、ホームワークが出来るから」と、特別に教えてくれたのである。ポラロイド写真も撮ってくれた。
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邦子をマッサージしている写真。今日撮った写真をもとに作ってくれて、退院する時にプレゼントしてもらった。
(後日談:ここまでやって貰ったのに、その後、在宅になってから教わった通りにマッサージをしたのは、ほんの2、3回に過ぎない。介護や食事の支度などに疲労困憊しマッサージをしなければと思ってもそれだけの気力が失せてしまっていたのだ。懇切丁寧に教えてくれたPTに申し訳なく思い、邦子に対してもいいマッサージをしてやれないことに罪悪感を抱き続けた)
10月15日
サッカーの練習があるはずなのに、娘が浮かぬ顔で帰って来る。夜、思い切って声を掛ける。夏休みの間はよかったのだが授業が始まったら、また前のように授業にでるのが辛くなったと言う。母親のことも精神的な負担になっていると言う。またあの重ぐるしい日々が続くのかと思うと目の前が暗くなる。俺だって眠れない夜があり、不安で動悸が止まらない時があり、泣きたい日もあった。自分では乗り越えられたのは頑張る邦子の姿に励まされたからだと思っている。そんなことをとりとめもなく話したが、最後は自分で解決するしかない。いっぱいいろんなことを話せたのはよかった。
10月16日(土)
介護教習があるので急遽行く。片半身まひがどんなに辛いものか体感できる姿勢(段差から半身が出るように寝た時の姿勢)を取って教えられる。体半分が自分のものではない感覚と言ったらいいだろうか。こんな辛い思いをしているのかと思うと涙が出る。
御飯になったので昼食を見に行く。少し硬めのご飯だが箸を使って食べている。おいしいかと問うたら
「古米だからまずい」と言うが、御飯を食べられるようになったのが嬉しそうに見えた。
ケアマネージャーを決めてくれと言われる。治療計画書を見たら11月中旬退院予定とある。いよいよだ。
夜、娘がフットサルして元気に帰って来る。友達が食事に誘ってくれたそうだ。昨夜、俺が話したことなどを話したら、泣きながら聞いてくれそうだ。
10月17日(日)
娘が見舞いに行くと言うのを今日は止める。代わりに俺が行くが二日続けてはさすがにくたびれる。今日は特に妄語が多かった。
10月18日
つつじが丘支援センターに行き、ケアマネージャーの選任を依頼する。事業所とケアマネージャーが決まる。明日、契約。
10月19日
ケアマネージャーが来訪。契約する。経験豊富そうな女性。「まずオムツが取れるようにしましょう」と言ってくれる。
その後、新宿へ出て、編集者と小説の直しの打ち合わせ。帰宅したら豆柴のモモが俺のベッドにおしっこをしている。雨が降っているのに。「ばか犬め」
10月20日
台風接近で雨も降っていたが、今日は午後からのリハビリがない日なのでしゃにむに行く。1時間半マッサージをしてやる。妻はうつらうつら。
「くたびれないか、ありがとう」と、言ってくれる。ほかに「私が死んだらどうなるのだろう。この世から一人少なくなるだけかな」なんてことも言う。支離滅裂なことや、妄語を連発する中で、ひょいとこんな言葉が出て来るから、よくなると信じたいのだ。

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