曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2025年04月

朝40分~50分、夕方30分~45分。一日二回の犬(マルコ)の散歩は絶対に欠かせない我が家のルーティン。一回でも欠けるともうマルコが許してくれない。連れてゆけとすがるような目で訴える。いくら雨が降っていると外を見せても、抱いて外に出て雨にあてて「雨だからだめだよ」と言っても散歩に出たがる。仕方ないので、少々濡れても出て行く。5分でも10分でも外へ出ればいいのだ。ずぶ濡れになっても出て行く。大変なのは私だ。雨合羽を着ていてもびしょ濡れになる。この季節は少しはましになったがさすがに真冬に雨が降ったら心を鬼にして出ない。どんなにマルコが訴えても。そんな時、雨の日でも出雲ドームで散歩ができると知って、初めて行ったのが3月19日。ブログ『この冬最後の雪』で出雲ドームへ散歩に行った記事を載せたが、ちょっとしか紹介しなかったので、今日は犬たちの散歩コース出雲ドームを紹介しよう。
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左)朝6時10分に自宅出発。雨なので窓を閉めているが、晴れた日は身を乗り出す。
右)出雲ドームが見えて来る。
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左)正面。6時17分に到着。
右)正面玄関から入口の方角を見る
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左)正面玄関からスタート。
右)早速、友達に会う。この後、数匹に会う。私のように雨が降ると来る人もいたが、多くは毎日のように来ている常連さんたちだ。犬たちもここの散歩に慣れているのか吠え掛かったりするような犬はいなかった。
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左)円形の建物の外周に沿って歩く。大きな庇があって雨を防いでくれる。
右)ドームを中心に運動公園になっていて、人工芝のグラウンドがいくつもある。女子サッカー・ディオネッサ出雲FC(なでしこリーグ2部)の選手たちが練習していた。
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左)前回は7分ぐらいで一周したが、今朝は途中で何匹ものワンコたちに会ってクンクンしたり、飼い主たちが雑談したので一周20分弱。
右)正面玄関に戻って来た。もう一周する。
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左)二周目を戻って来たら、雨が小降りになった。
右)正面玄関左に広がる広場を散歩する。緑になっているのは全部桜。花が盛りの頃、買い物の帰りに通りかかったがとても綺麗だった。とてもいい場所なのだが、私にはちょっと物足りないものがある。おばさま方の井戸端散歩コースに見えるのだ。実際、晴れた日は散歩そっちのけでおしゃべりしているおばさま達がいた。
私はここはマルコにとっては雨の日のお助け散歩コースと思った。私とマルコには田舎の散歩道がお似合いなのだ。小さくても豆芝はぐいぐい私を引っ張って歩く。私も息切れするくらい歩かないと散歩した気にならないのだ。てれてれ歩くようになったら私も終わりだと思っている。マルコよ、これからも田舎道を歩こうな。

春の畑の始まりはじゃが芋の植え付けから始まった。じゃが芋は3年間人がやらない黒マルチを張った農法を続けた。だが去年、ネギの後に植えるといいと言う農業月刊誌の情報を信じて、ネギを抜いた後にマルチ農法でじゃが芋を育てたが余り結果はよくなかった。そこで今年はマルチを張るのはやめてネギは全部抜かずに、間引きしたネギの間にじゃが芋を植える農法に徹底してみた。
なぜネギの後に植えるといいのかと言うと理由がある。じゃが芋は有機物に弱く、有機物の残った畑では育ちにくいのだそうだ。ところがネギはとても有機物を好むので、ネギを育てた後の畑は残存有機物が少なくじゃが芋を育てるのに最適だと農業月刊誌に書いてあったのである。
3月8日
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左)男爵を植える。はるか、北あかりから始まり、インカやアンデス、はてはフランスのじゃが芋などを試してきたが、結局、去年から定番の男爵に戻る。私にしてみればどの芋を食べても芋は芋。ならば昔から食べられている男爵の安定性に回帰した次第。ただ不安が一つある。本当はネギを抜いた後に植えるのだが、ネギはじゃが芋の嫌う有機物を食べてくれるので、ならばいっしょに植えてもよかろうと思ったのだが、もしかしたら失敗するかもしれない。今からドキドキしている。
右)土を被せる。
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左)三列に渡って間引きしたネギとネギの間に36個植える。
右)7個余ったので、空地に植える。石灰も堆肥や肥料もやっていない。こちらもどうなるか。
3月14日
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左)ぬかを追肥する。私の畑友達が去年からネギとじゃが芋の混植をしていて、肥料にはぬかをやっているというのでぬかを分けてもらった。一握り以上少し多目にやる。ぬかは効力が弱い肥料なので多目にやったほうがよいのだそうだ。但しやり過ぎると発酵熱を持つので注意。
右)土を被せる。きちんと被せないと動物が来てほじくり返すというので注意して被せる。
4月9日
極早生玉ねぎ(俗に言う新玉ねぎ)を収穫する。
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左)玉ねぎは茎が折れたら食べごろ。
右)苗を250本植えた。すでに10本弱抜いていたので240本ほどを全部抜く。
4月10日
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左)200個ほどを娘が東京で働いていた時の職場に送る。毎年送っているが大勢働いているので、今年から玉ねぎは新玉ねぎだけにして沢山送るようにした。
右)昨日から空豆に土寄せをした。空豆は3、4年前から大量に送っている。わざと遅く植えたので去年にょり生育は遅い。したがって土寄せも遅くなった。
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左)苺は植えた時は小さな苗で植えた時期も遅く、どうなるかと思ったらみるみる大きくなり花が咲き出した。
右)ニンニクも植えるのが遅かったがみるみる大きくなった。左の畝のニンニクが小さいのは、大きなニンニク片が足りなくなってしまい、去年のニンニクの食べ残りの小さなニンニク片を植えたから。青森ニンニクだが小さなニンニクしかできないだろう。
4月14日
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左)じゃが芋が芽を出した。
右)空地に植えたじゃが芋も芽を出した。
何だか空地に植えた方が勢いがいいような気がする。7月に入った頃結果が出る。果たしてどうなるやら。

7月18日(日)
今日も暑い。病院に着くなり刑務所に行って誰かに会って来たと言う。
友人から、「延命措置をしたのは君だよ。もうその時から奥さんの命は君のもので一心同体なんだよ。奥さんの病気は君の病気。自分が病気になったと思え」と言われた。娘は明後日モンゴル出発。肉じゃが、カレー、グラッセ、ポテトサラダ、麻婆豆腐を作っておいてくれた。邦子は「病気で迷惑をかける」と言う。「でも意外とみんな頑張っているね」と。娘に報告したら、一ヶ月前に「迷惑をかけている」と言ったそうだ。トイレをさせてもらう時には、動かない手に対してとても切ないことを言ったのだが思い出せない。
『王さんへ手紙を書いた』
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王さんへ
このたび 待ちに待った 〇〇の中国行きがやっと 実行になります
親は心配ですが、本人はあの調子であっけらかんとしています
のん気にかまえています。私たちも中国にちじんとてなくて 心配で心配でなりませんが
せっかく本人がその気に なっているので 喜んで見送ってやろうと
二人で話しています   7/18 邦子

のん気な性格ですし また あの調子で王さんに 迷惑をおかけするかもしれませんが
初めての中国行きを成功させてあげたいので どうぞよろしく御協力下さいませ
7月19日
海の日で病院休み。リハビリもないので今日も午後はずっと病院。高校野球熊本大会の濟々黌の結果を見せてやるも、県予選の意味が分かっていない。「大分や宮崎も来るの」と言う。
ママちゃん(母)に電話すると言うので話をさせる。
夜、義母より電話。娘の意識障害のレベルが分かってずいぶん落ち込んでいる。今日も文章を書かせたが、主旨は取り違えがあっても、書くことはすらすらととても速い。それを見ると意識障害も治るのではないかと思いたくなる。
『息子に誕生祝いを書いた。実際の誕生日は4日後』
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〇〇おたん生日おめでとう あなたも23才(本当は22才)になるのですねえ
信じられないですよ
昨日、生まれてお父さんとお母さんをびっくりさせたような気がしています(2文字不明)
『娘への手紙』
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〇っちゃん 北京語はいかがですか? むずかしいことでしょう
あなたが少しでも話せるようになったら 私たちに教えて下さい
すぐに覚えますよ~ 持ち前の才能とバイタリティがあるつうの~
『娘にも誕生祝いを書いた。誕生日は8月』
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左)〇っちゃん おたん生日 おめでとう
これで23才(本当は20才)の仲間入りですね―(うそ~)ほんとに
信じられません 私の23才の時に比べるとしっかりしてますよね―
私はイギリスに1人で行くのも
どきどきで前の晩 お父さんと二人でずっと
話をしてた(注・勘違いか、作り話) 話をすると気分が楽になるし
おすすめしますよ
あなた(不明)に行って 何を見て
(不明)何をしてくるのか考えて 行って下さい

右)お母さんなんかの行った時とは全然ちがうと思いますが 〇っちゃんのこと
だから もち前の才能とバイタリティでのりきるでしょう
(一行目不明)
(二行目不明・・・有意義な 不明)
お父さんお母さんの願望でもあります

7月20日
娘、出発。殺人的暑さ。都心39.5℃。
義母が落ち込んでいたので、邦子のみんなに書いた手紙を送る。少しずつ良くなる。
7月22日
胸が騒ぎ病院へ行く。おかゆを食べていた。他には魚をミキサーにかけたものなど5品をぺろりと平らげたそうだ。俺が行った時は最後のおかゆがなくなりかけていた。とても美味しかったらしい。
昨日見舞いに来た府中のおばさんの手紙があり、昨日は鯛みそ付きのおもゆ、玉子豆腐、とろろ汁、オレンジゼリーを食べたことがわかる。
トイレ、自分から行きたいと言うようになる。リハビリを見て姿勢が取れるようになったと思う。「誤飲」というような難しい言葉も使う。
『長男の誕生日に邦子の手紙を渡す』
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〇〇〇誕生日おめでとう
やっと大人の仲間入りの年令に
さしかかりましたが何をしたいですか
おとうさんとゆっくり話し合って有意義なことをやったらいい
相談はいつでも (不明)
7月23日
結婚前に勤めていた産婦人科の大の仲良しが見舞いに来てくれたが誰か分からなくて、名乗っても「違う」と言ったそうだ。携帯で御礼を言い。邦子に代わってもらうと「早く迎えに来て」と言う。胸が痛む。二回目のリハビリの予定表を見ると。「覚醒をはかる」と記してあった。「覚醒」してくれたらどんなにかいいだろう。
7月24日(土)
昼食。せっかくおかゆになったのに、土曜はSTがいなくて食べられなかった。あれが食べたい、これが食べたいで参る。
息子のチームの地方大会の優勝記事がラグビーマガジンの9月後に小さく出ていたので邦子に見せてやり、お祝いのメッセージを書かせる。(紛失)
暑くて疲れた。夜は少しでも書こうと思ったがとてもかける状態ではなかった。
7月25日
顔を見るなり食べ物の話が出なかったので疲れは昨日ほどではなかった。娘がモンゴルに行ったことは忘れている。すれ違った見知らぬ人に俺の知らない名前で呼びかける。そんな妻を見るのは辛く悲しい。夜はやっぱり書けない。土日は書くことはあきらめざるを得ない。
7月28日
10時半病院。病院探しの相談。紹介状を受け取る。今後は移る病院のレベルが落ちるので在宅でリハビリしたほうがいいと言われる。先生が一週間後に胃瘻(いろう)の管を抜くと言う。胃瘻は在宅ではヘルパーはやってくれず、家族の仕事になる。胃瘻があると通所介護も出来ないと聞いていたので、飛び上がるほど嬉しい。
三ヶ月後だろうが、半年後だろうが、一年後だろうが、介護が楽になるわけではないのだから、早く自宅に戻した方が本人のためらしい。そうなると俺は一年くらいは小説は休むことを考えなければならないかもしれない。すぎペースでよくなっているような気がする。あとは意識の改善だ。それにしても今日の「食べたい」「食べたい」は異常だった。
7月29日
市役所で身障手帳の申請。こんなものを申請することになろうとは夢にも思わなかった。
7月31日
息子は今日が全国大会。公式戦最後の試合。若くして死んだ祖父(邦子の父)の写真に手を合わせていた。見舞いに行き、邦子に息子が最後の試合に行く前に何をしていたか尋ねる。邦子の覚醒を図るためにそういう試みをしている。いくつかヒントを出したら「パパちゃん」(父はパパちゃん、母はママちゃんと呼んでいた)と答えてくれたもの、すぐに何か食べたいという話になる。
片岡仁左衛門の写真集を買って来たが興味を見せるもすぐに食べたいが出る。昼を食べたばかりなのに食べたことを忘れている。今日も食べることばかりでとても疲れた。
8月1日
今日はたばこを吸いたいとしきりに言う。昨日は酒を飲みたいと言った。邦子らしさが戻ったような気はする。だが、ママちゃんに電話させたら「タクシーで来て」と言う。
看護師が「拘縮するから足のマッサージはした方がいいのよ」と言ったら、「心の拘縮の方が問題だ」と言って、看護師を苦笑させる。俺は思わずにんまりする。心の中で(よく言った)と呟いていた。こんなセリフをしれっと言うのが俺の女房なのだ。一瞬、治ったのではないかと思ったぐらいだ。こういう女房に戻ってほしいと願った。
そこへ友人より電話。実は黙っていたが一ヶ月前に編集者からこれ以上遅れるようだと断ろうと思うと言われたと伝えられる。目の前が真っ暗になる。
妹からは嬉しい電話。息子たち全国大会で優勝。息子はMVP。妹は応援に行ってくれていたのだ。泣いていたらしい。
それにしても腰が痛くてたまらない。車椅子とベッドを移乗させるのを力任せにやっているからだろう。力任せに抱えてはいけないと言われているのに、つい力任せにやてしまう。
8月2日
編集者に4日に届けると伝える。ラストは難渋しているが何が何でも書き上げるしかない。
ケースワーカーから電話があり、八王子永世病院、S記念病院、N病院が受け入れてくれそうなので4、5、6日と訪ねる。八王子永世病院は特例として回復期リハビリで受け入れ在宅をめざすと言ってくれているので心はそこにかたむいている。ただ八王子は遠い。小説さえあげれば会社と病院に時間を割ける。
頑張らないように頑張らなければ。俺が死んだら邦子は子供たちに託すことになる。そんなことにはなってはならない。邦子は俺が見守る。睡眠をしっかりとり、栄養をとり、ストレスをためず、義務と思わず、頑張り過ぎず、人としての情に従い、人としての情に従い、ゆっくりと包むように愛おしく邦子を見守って行く、そういう自分になりたい。
8月3日
夜、やっと小説を書き上げメールで送る。
明日から病院を回る。次の病院が終わったらいよいよ在宅になる。毎日食事を作れるのか、毎日介護ができるのか、小説を書くなんて不可能なのではないだろうかと考えだしたら不安で胸がドクンドクンと息が止まりそうになるほど音を立てて鳴る。プロジェクトXの終わりの方を見ていたら、己が仕事をしたいと身体のハンデを乗り越え、自らを励まし続けた男の人生を放送していた。勇気づけられる。
8月4日
八王子永世病院へ行く。今の烏山の病院はリハビリは週5回だが週6回やる。発症半年で終了する回復期リハビリも特例としてやってくれる。こんなところはここしかない。転院したら二か月後在宅を目指す。
夜遅く娘が戻って来る。1時半まで話をする。日本人ボランティアは娘一人だったそうだ。楽しく学ぶことの多かったキャンプ。これから色々な話を聞くことになるだろう。
8月5日
念のためにあと二つの病院も回る。N病院。」リハビリは朝の20~30分。よくて週5回。後は昼前の集団遊戯(ほとんど老齢者)。しかもSTは非常勤。
烏山の病院に戻り報告。主治医もリハビリの先生も特例で回復期リハビリをしてくれることに驚いていた。主治医も大変だけど在宅は出来ないことはないと言う。大変になったら一週間のショートステイや一ヶ月のステイもあると言う。
邦子とは会話はできるのだがよく考えると、元気な時の口癖を繰り返しているような気がする。記憶は全然だめだ。長男の優勝カップをおじいちゃんの物(ゴルフの優勝カップ)だと言う。仲の良かった産婦人科勤務時代の友人たちとの写真を見て、1人は俺の妹だと言い、俺の写真はと言えばおじいちゃん(俺の父)だと言う。
8月6日
いちおうS記念病院にも行ってみる。午前中、手足のリハビリした後は集団のお遊びしかない。ここもほとんどが老齢者。
娘、久しぶりに見舞いに行き、旅の話をしたら、邦子も若い時はスイスへ行った話(ヨーロッパ一人旅)などをしたそうだ。
8月7日(土)
ケースワーカーと転院の相談。いますぐ転院するのではなく発症半年までいられるように主治医に頼んでくれることになる。
昼食を手伝っていたら終わりかけた時、喉に詰まらせる。詰まると言う状態を初めて見て、いかに大変かを知る。俺たちがものを詰まらせるのとは程度が違う。これで2、3ヶ月後に戻って大丈夫なのか急に不安になる。吸引してもらいそのままベッドへ。背中を立てて休む。
邦子の年令を聞いたらまた43歳と言う。
「それはおかしい、〇〇〇(長男)は22才だよ」と言うと、「じゃあ31を足さなきゃ。53歳か」
倒れる前は53歳だから合っている。31を足すところも脳に障害があるとは思えないのだが、どうしてこうも支離滅裂なのか。
『息子への手紙・日本一おめでとう』
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〇〇 念願の日本一
おめでとう ついにここまで来ました
長い道のりでしたね 明日からの仕合 この調子で 頑張り通して下さい
お父さんもお母さんも 大いに期待しているよ~~!
8月8日
「キスして」と言うので、軽くチュウしてやると「久しぶりだねえ」と言う。
昨日、カーディガンを持って来てと言ったので、渡したら「年寄りくさい」と不評。
8月9日
八王子永世病院、転院決定。ケースワーカーが発症6ヶ月を過ぎた患者が八王子永世病院へ入るのは初めてのことだと驚いていた。俺は自分を褒めた。「発症6ヶ月を過ぎるけどまだ54歳なのです。リハビリしたら必ずよくなるはずです」と、それはもう必死に頼んだのだから。
8月10日
小説を渡し転院も決まり一段落したので、娘の成人式の写真を撮ってやることにする。娘はこんな状況なので成人式は諦めていたので、お母さんに晴れ姿を見せてやろうと言ったらとても喜ぶ。振袖は去年妹の娘が着たものを借りる。
8月12日
相変わらず食べることばかり。だが一喜一憂しないことにした。在宅になれば必ずよくなると信じて。
友人が編集者に会って俺の小説は12月末か来年6月の新聞広告に合わせて出版を考えているようだと教えてくれる。出版しても次の依頼があるかどうか分からないが、今から準備しておかないと時間が無駄になるので次作の構想を練る。
8月14日
昨日、娘が免許を取得したので、今日は同乗して近所を運転コーチ。
午後から見舞い。相変わらず食べることばかりだが、そこに何かあるから出してくれとは前ほど言わなくなった。
8月15日
邦子の足をマッサージしていたら、H夫妻と娘の顔が覗き込む。日野市に住んでいた時、家族ぐるみで付き合っていた一家。親の見舞いに来たのだが、俺たちに気が付き、邦子の容態に声を失うほど驚く。10年以上会っていなかったが、邦子はH夫妻の名前も成長した娘の名前も憶えていた。付き合いが深かった人たちの名前を忘れていなかったことに嬉し涙が出る。
あんまり食べたいばかり言うので看護師さんが「内緒よ」と水ようかんをくれる。よく噛んで食べろと言ったら、三、四回噛んでしっかり飲み込む。
なぜか今日が8月15日と分かっている。
家の改造を見越して今のうちにしておこうと押入れを整理する。片っ端から捨てる。昔、邦子がケーキを作った道具などが出て来るが捨てる。思い出を捨てるようで胸が痛むがこれも邦子を迎えるためだ。
8月16日
都民生協から重度障害の給付金340万円入金。倒れる2ヶ月前に加入して、一回も掛け金を払っていないのに支払われた。助かるが複雑な心境。
8月17日
今朝も運転に付き合う。娘は午後見舞いに行くが浮かぬ顔で戻って来る。運転免許証を見せたのかと聞くと、「わからないから見せなかった」と言う。どうやら落ち込むようなことがあったらしい。
8月19日
どんな風に食べているのか見たいので12時に病院へ。メニューが変わり映えしないので飽きている様子。ただし食べ方は進歩していて詰まらせる不安はあまり感じなかった。作業療法も見学する。ビーズのようなものを仕分けする作業だが、赤を取ってと言われても、初めは赤を取っているがすぐに他の色を取る。障害が奈辺にあるか思い知らされる。見ていて辛い。端座は少し良くなっていたが5分以上は支えなしで座っているのは無理。普通に座っていられるようになるだけでどれほどの時間がかかるのだろうか。大切なことは俺が挫けないことだ。娘の誕生日へのメッセージを書いてもらう。こういうものはすらすらと書く。その姿を見ると元の邦子に戻ったような気がするのだが。
『娘への手紙』
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左)20才のお誕生日おめでとう
一才上のお姉さんになり増々大人ぽく
なることでしょう 性格も容姿も〇〇大人らしく
人に対する思いやりも出て来て 皆のアイドル 間違いなしですねえ
右)おしゃれもいっぱいして いつまでも可愛い〇っちゃんでいて下さい
スポンサーはお父さんが受けおいますので 安心して じゃんじゃん 買っていいですよ
それまで雑誌でよく研究して デパートめぐりは よくなってから つき合います
8月20日
9時に駅前の美容院へ行き着付けをしてもらう。12時に病院近くの写真館で撮影。1時に病院へ。娘の晴れ姿を見るなり「しのぶちゃん」と昔産婦人科で働いていた時の仲の良かった後輩の名を呼ぶ。よく見てごらんと言ったら、従妹の名を呼ぶ。4回目ぐらいにやっと娘の名前が出る。娘が可哀想だった。
長男は最後の大会で新潟へ。娘は今夜もサッカーの練習。一人寂しく夕食。あんな姿でも邦子がいてくれたらと痛切に思う。母親不在でも父親としての責任は果たした。娘は写真撮影など諦めていたのだから。写真が撮影できたのもあの病院にいたおかげなのである。本当なら昨日で病院を出ていなければならなかったのだ。
8月21日(土)
息子は新潟。娘は合宿。今日も一人。二、三年後の我が家は邦子と二人になるとしみじみ思う。心が邦子を欲している。どんな姿でも側にいて欲しいと思う。今日も義務ではなく、会いに行きたいと思った。相変わらず「食べる」ばかりだが、以前ほどの悲痛さは感じなかった。
今日も家の片づけ。昔の青色申告会の提出書類などが山のように出て来る。全部邦子が俺の代わりにやってくれたことだ。捨てざるを得ない。こうして妻の事績が消えて行く。
8月22日(日)
1時に行くとすぐに車椅子に乗りたいと言うので乗せるが、食べる物があると言って、あちこち車椅子で歩き回らされる羽目になる。くたびれ果てる。
オリンピックがアテネであることは知っていた。娘の誕生日にメッセージを書いたことは忘れていた。読んでやると自分でもいいことを書いたと感心している。俺のメッセージも読ませて、二人のメッセージを贈ると言うと、「とてもいいこと、ありがとう」と言う。
8月23日
午前中、市役所。身障者手帳交付。月額15000円の給付あり。タクシー券ももらう。ついに身障一級確定と思うと切ない。
帰宅すると娘は寝ている。息子も朝早く帰って、カレーを食うとバタンキューで寝た。娘もカレーをたっぷり食べていた。疲れて帰って来ても、邦子がいれば何か食べさせてくれる。何もないのは可愛そうに思い、昨日作っておいてやった。これだけ食べてくれれば作り甲斐があったと言うものだ。
8月24日
会社のロッカー整理。いよいよ終わりだ。
8月25日
今日は大勢見舞いがあって賑わった。藤沢の妹もおかずをたくさん持って来てくれる。妹の話では、娘のモンゴル行きの話題から、邦子は倒れる2週間前に海外ボランティアのパンフレットを妹に送ったと話したそうだ。一瞬記憶が戻ったのかと思ったが、邦子には自分が倒れた認識はまだないはずで作り話であろう。それにしては思わず信じてしまうような話だ。
8月26日
今週から全粥。固形物になる。副食は魚、大根と人参を煮たもの、ミカンなど。固形物が食べられるようになったのは嬉しいが、今日もずっと食べることばかり。STも固形食になって少しは変わるかと思ったが相変わらずなので当てが外れたようす。
だが作業療法では支えなしで靴の止めを外すことはできるようになった。
8月27日
新宿で編集者と打ち合わせ。細かい注文はあったが大したことはない。大きな直しも悪党の悪辣さを強調してほしいという程度。シナリオの直しに比べたら楽に思える。1月発売に漕ぎつけたい。
8月28日(土)
1時から5時まで見舞い。初めの一時間はごく普通の会話をしていたのだが、その後は自分で料理を作ると言い出し、「立つ」の「起こせ」のと往生させられる。長男に対しては以前から料理を作ってやると言っているらしい。「食べたい食べたい」から料理を作ると言い出したのは進歩と思うが、自分の肉体や病気の認識は浅い。動かない左手が邪魔なので、俺の方へ移してくれと言う。哀しい。
8月29日(日)
台風16号の影響で朝から雨。寒い。見舞いも土日続けては疲れる。食べ物への固執がなくなるのはいつのことだろうか。どこそこに何があるとか、この部屋に入ってみろと言う。いくらないと言っても聞き入れない。6時の夕食まで待てと言っても分かってくれない。昔の邦子らしい邦子もいるだけに昔と今のギャップが埋まらないことが悔しい。
8月30日
八王子永世病院から電話があり、9月4日が転院と決まる。ここが最後の病院。2ヶ月後には在宅である。いよいよ在宅が現実のものとなって迫って来ると思うとプレッシャーと不安で動悸が止まらない。だが邦子にとってはいいことなのだ自分に言い聞かせる。
8月31日
親会社のえらいさんが来て事務の女の子を含めて6人で会食してサヨナラ。
Tと俺の小さな会社はすでに動き出しているがどうなるかな。

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