曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2025年01月

4月?日
いつから始めたのか記録がないのだが、俺は妻にマジックを握らせ、ノートに何でもいいから書かせることを始めた。手を動かすことが何かの刺激になると思ったのだ。
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書き出してから何日目かに書いたもの。初めは一本の線を引くことも出来ず、力なく震える手を弱々しく動かすだけで、それも長続きしなかった。初めは手を添えて励まし、見舞いに行くたびに少しずつ書かせ続けた。書くと言うより手を動かしていると言う方が正確かも知れない。そのうち手の動きが多少はしっかりしてきたかなと思ったが字や絵を書くのは先のように思えた。
(私はこの語録前史を書くにあたっての前置きで、ノートに字を書かせることを始めたのは邦子の友達だと書いたが、記憶違いだった。青いB5の厚い表紙のノートとマジックを用意して色々書かせることを始めたのは私だった)
4月21日【字を書いた】
娘から報告があった。昨日20日、ノートにお母さんが字を書いていたと言う。どうやら子供二人の名前らしき字が書いてあると言う。昨日は家族三人誰も病院へ行けなかった。見舞いに来たYさんとお友達が邦子に子供の名を書いてごらんと促して書かせたとメモが残してあったそうだ。俺は邦子に字を書かせることまでは考えてもいなかった。書けるようなレベルにはないと思っていたのだ。書けるようになっていたとは!大勢友達がいるとこんなことを思いつく人もいるのだとYさんたちに感謝する。邦子はいい友達を作っていたのだ。
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かろうじて「そだ」と読める。出雲では「そた」と呼ぶが、出雲の外に出るとどこへ行っても「そだ」と濁って呼ばれるので、出雲に戻るまでは「そだ」と名乗っていたのである。ここには映っていないがその横に外れたところに、かろうじて読める息子と娘の名前(平仮名)があった。
4月22日
相談室に行ったので会社は休む。午前午後二回見舞いに行く。期待して行ったのだが字は書かなかった。日によって調子の波がある。相談室で小金井の病院を紹介される。リハビリはきちんとやってくれるらしい。ベッド代やもろもろと医療費で月50万ぐらいかかる。ほんとかよ。
4月23日
娘が字を書かせたら、娘の「名前(平仮名)」、「ひろひさ」、「おじさん」、そのおじさんの「名前(漢字)」、その妻の「名前(平仮名)」、熊本のおばさんの「名前(平仮名)」、俺の母の「名前(平仮名)」などや数字を書く。まだまだミミズ文字だがどんなに嬉しかったことか。
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俺だからわかる文字。下の二つは左「ちせこ」。右「みちこ」上の右端は「やすこ」その隣「おじさん」その隣がおじさんの名前の一字で「幸」とわかる。その隣が「おとうさん」。その隣が娘の名前の頭の一字で「な」の字がわかる。
4月24日
小金井の病院を見学に行く。車で30分かからなかったのは良かったが、リハビリは一日20分と聞いてがっかりする。帰りに病院へ寄る。字を書きそうになかったので、今日は安心させようと府中のおばさんや俺の妹が定期的におかずを届けてくれるとはなす。わかっただろうか。
4月25日
娘と二人で面会。曽田邦子と漢字で書き、山、川、土など簡単な漢字を書く。今日、気がついたのは、2時間近くの間、一度も痰をつまらせなかったこと。
4月26日
明日、胃瘻(いろう)の増設手術があるが、大阪に日帰り出張をしなければならない。親会社の社長に会ってプレゼン。顔を出すだけでいいからと同行を頼まれる。明日の面会ですべてが決まる。
4月27日
プレゼンの感触はあまりよくない。手術はうまく行ったと連絡あり。
4月28日
午前中に見舞い。妹も来てくれる。鼻のチューブが取れていてほっとする。4月7日以来の妹は回復具合に驚いている。後は気管支切開が取れて元に戻ることを祈るのみ。そうすると回復期リハビリを受けることが出来る。
4月29日
午前中に見舞いに行く。車椅子に乗っていた。俺は足を揉んだり手を揉んだり話しかけたりしていた。看護師がベッドに戻るかと問うても嫌だと言うので2時間半くらい車椅子にいる。韓国人留学生の金君が見舞いに来てくれる。金君に字を書こうと言ったら「〇〇すか」と書く。おそらく「げんきですか」とか「どうしてますか」とかこうとしたのだろうと想像する。
だいぶ良くなってきているのに体が不自由なことが歯がゆい。可哀想過ぎる。
4月30日
今日は時代小説を再開して初めて一日10枚書いた。このペースで行きたい。
午前中、娘が面会に行く。Soda Kunikoと筆記体で名前を書いた。「犬は?」と聞いたら、dogと書いたそうだ。クルミを買う。これを握らせて右手のリハビリをするつもり。家族がするしかない。
5月1日
午前中、病院へ。担当医は「劇的に良くなっている」と言う。このままここで手術を受けたいと頼むが、同じような患者が大勢いるので無理だと言われる。転院してからになる。転院先は烏山にある系列の病院になりそう。そんな病院があるならどうして早く教えてくれなかったのか。必死に捜しまわる必要はなかったのに。猛烈に腹が立つ。後で冷静になって考えたら、手術が必要になったので、手術が出来る病院として系列病院に移ることになったのではないかと思う。
娘は午後面会。車椅子で外へ出たそうだ。
5月2日
朝6時半頃、娘に起こされる。朝早く娘に起こされるとドキリとする。果たして、夜、金縛りに遭い右腕がマヒして動かなくなり、2時半からずっと起きていて、友達に助けを求めずっとメールしていたと言う。仰天する。これまでにも何度かあり、大学のカウンセラーに相談し、薬を飲むように言われていたが、精神科の薬を飲むことに抵抗があり医者にはかからなかったと言う。だが、さすがに不安になり病院に行きたいと言う。連休にやっている精神科の病院を探し出し連れて行く。不安神経症と診断される。急に母親がいなくなった喪失感によるうつ病と診断され薬を処方される。
娘の友達の母親にも精神科の薬を飲んでいる人がいて、薬は必ず飲むようにと助言してくれたそうで、娘もこれからは飲むといってくれたのでひとまず安堵する。母親が倒れてショックを受けていることは分かっていたが、元気な女の子なのでこれほど苦しんでいたとは思わなかった。邦子のことで頭が一杯だったとはいえ、心配かけまいと健気に振舞っていたことに気がつかなかった。父親失格である。
娘はゆっくり休ませ一人で面会に行く。今日も車椅子。自分でティッシュを取ったり、手ぬぐいを取って涎をふいたり、鼻をぬぐったりする。
後から息子が行った時は指さす振りをしたそうだ。「ニュースを・・・見よう・・・」とかなんとか書いたらしい。目つきが鋭くなり、廊下に足音がするときらりと顔を向けて見ようとする。二日でこんなに右手が動くようになったのかと驚く。もう少しだ。そんな気がする。俺が倒れるわけには行かない。
しばらく娘は休ませたいので、急遽熊本のおばさんに助っ人を頼む。正月に続いて二度目。歳を考えたら頼めないのだが、邦子を親代わりに育ててくれたと言う言葉にすがるしかない。
5月3日
11時に面会。今日は寝ていた。ベッドでぼうっとしているのを見ると不安になる。娘のことは黙っている。娘におばさんが7日に助っ人に来てくれることを伝える。その日はカウンセリングの日。本当は行きたくないらしい。
5月4日
昨夜は娘のことを考えたら眠れず。娘は昨夜も片手がぬっと出て来る幻覚を見たらしい。胃が痛くなり食欲も失せる。娘の方がもっと辛いのだからと己を奮い立たせる。自分が倒れるわけには行かないと言い聞かせ面会に行く。
クルミを握らせたり、色々なことをためす。書きたいそぶりをするのでペンを持たせるが読めず。
その後、時代小説の資料を探しに調布図書館に行く。
夕方、帰宅。娘が降りて来る。頑張らせ過ぎたことを謝る。一年ぐらい休学するつもりでゆっくりやろうと話し合う。涙を流す娘。話し合ったおかげで胃痛は消える。
5月5日
息子の成績表を見せたがあまり反応しない。今日はずっとそんな調子。車椅子に乗せたらひどく痰が出て咳き込み苦しむ。この前は2時間半も座っていたのに。邦子は自分の状況を見て絶望しているのではないか、その目を見ていてそんな気がした。
5月6日
娘、元気が出て登校。2時限の内1時限だけ受けて戻ってくる。
午後からは登校前に息子が見舞いに行く。ジャンケンしたり、色々やってくれている。
おばさん、夕方、熊本からトンカツと唐揚げを持って来てくれる。
娘は明日はカウンセリングを受け、授業に出て、友達の家で石焼ビビンバを食べ、夜はサッカー(サークル)をすると言う。こんなに元気になってくれて、おばさんから後光が射して見える。
5月7日
朝から法務局。後見登録終了の手続きを取り、証明書を3通発行してもらう手続きをする。転院がどうなるか分からないので、青梅と小金井の病院に再度電話して問い合わせる。妥協して決めるしかないのかとため息をつく。
娘はカウンセリングを受け、頑張ってしまう人だから無理しないように言われ、精神科にも通うように言われたそうだ。サッカーをして戻って来たが、今日は授業には出なかったそうだ。明日、午前中見舞いに行くと言うので無理するなと止める。
5月8日
昨日、大勢見舞いがあって疲れたのか、今日はお眠りモード。昨日書いた「林田さん、元気でました」という字を見て感動する。ようやく何とか読めるレベルに上達していたのである。
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左下に「林田さん」とあり、その上に二行で「元気」「がでました」とある。
新しい担当医に烏山の病院への紹介状と写真を渡される。どうして最初からこうしてくれなかったのだろう。病院探しに無駄な時間を使わなくても良かったのに。担当医がくるくる変わったせいか。
5月9日母の日
娘と見舞いに行く。花屋で作ってもらった花籠と娘が買ったパジャマをプレゼントする。二人だと一方が話しかけている時に一方はマッサージしたりして気分的にも楽である。今日も何か書いたが読めなかった。こんな時は辛くてたまらん。どこまで回復してくれるのだろうかと気持ちが沈む。
5月10日
烏山の病院へCTの写真2枚と紹介状を持って行く。なんと高濃度酸素治療をしてくれることがわかる。タンク内で2気圧の酸素を1時間吸う治療。傷んだ脳細胞を活性化させる。それを10日間やって骨入れの手術。酸素治療の効果があればさらに続ける。その話を聞いてすぐにも転院させたくなった。
娘は語学と社会何とかの講義には出ているが、その他の講義出ていないと言う。と言うかまだ出られないそうだ。
5月11日
娘が8時ごろから自転車で見舞いに行く。
喉を触るしぐさをするので、「どうしたの」と聞いたら、(のどが痛いし、へんとうせんが痛いの)と読める字を書いた。その紙を持って帰る。
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俺は午後から行く。転院すること。高濃度酸素治療を受けること。いいことだと説明する。わかってくれたような気がする。すぐ寝たのでマヒしている左足をマッサージする。ぴくぴく反応する。
5月12日
熊本のおばさんは夕方から見舞いに行く。
「きつくないよ」と書いてくれたらしい。
5月14日
娘がサークルのはずなのに家に居る。疲れたらしい。家事が負担と吐露する。見舞いもある。学校もある。話した後は元気になり、明日はフットサルに行くと言うのでほっとする。
5月16日
会社を一人で背負って頑張っていた若いTがもう辞めたいと言う。俺まで鬱になるが、見舞いに行ったら涙が出て来る。頑張る邦子の姿に泣いてしまったのである。俺も頑張ろうと思い直す。今日は二人きりで夫婦の時間が過ごせたような気がした。
「家にかえって夕ごはん食べて・・・(以下不明)」と書き、「平塚勝利(以下不明)」と書く。平塚のビーチで息子の大会があることを知っている。息子から聞いたのか、あるいは息子は三年間平塚に練習や大会で通っていたので記憶にあるのかもしれない。
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左)「平塚〇〇では」と読めて、その横に「家」「に帰って」「夕ごはん」「たべて」と読める。
右)中央上に「平塚勝利まで」と読める。
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「平塚優勝」右端は「平」「塚ゴール」と読める。
5月18日
娘が見舞いに行く。今日は沢山書いた。見せてくれる。
「自分でやれることをしたい」「歩きたい」「外国へ行きたい」「でもこんな体じゃ」
娘は最後は悲しくなったと言う。明日は俺が励ます。
5月19日【転院】
搬送車で烏山の病院へ。杏林を出る時は命を助けて貰ってからの82日間の希望と絶望の日々が走馬灯のように浮かび涙が出る。
イガイガのアイテムでマヒした左足の親指をマッサージすると左足を引く。引き戻してマッサージするとまた引く。こんなことは初めて。
昼食時、娘と熊本のおばさんにこの先は自宅で仕事をして、邦子の世話ができる体制を作ると説明する。
5月21日
見舞いに行った熊本のおばさんから報告。昨日から高濃度酸素治療と手足のリハビリ、言語リハビリが始まる。
5月22日
今日は疲れているのかあまり反応がない。何か書いたが全然読めない。黙って天井を見ている。やっぱりこのままなのだろうかと絶望的になる。
看護師が床ずれを見せてくれる。お尻の上、尾てい骨あたりに10円玉大。治りつつあると聞いて胸をなでおろす。熊本のおばさんから言語リハビリの様子を聞く。年齢を聞かれて「43才」(実際は53才)と書き、住所を聞かれたら、「府中市矢崎町」と若い時住んでいた住所を書いた。でも。これは誰でもそうであって、治るものらしい。
5月23日
邦子の友達のTさんに病院の道順を問われたので、車で拾って一緒に病院へ行く。邦子はTさんに「おみまいありがとう」と書く。Tさんが帰った後、壁に貼った書道の先生の般若心経を見て、二人で写経することを思い立つ。
邦子に手を添えて、まず「魔訶般若波羅蜜多心経」と書く。するとその後ものすごい集中力で絵を書いたり字を書いたりする。その顔つきは昔、写経する時の真剣な顔と同じだった。邦子は書道が好きでよく写経をしていた。二人の子の受験の時も一心に写経していた。邦子の写経は皆願いが叶って来た。胸の中で今度は自分の願いを込めて写経をするんだよと励ます。
5月24日
調布介護課の調査の人が来る。15分くらいの聞き取り調査。その後、病院。
主治医から気管支切開を閉じる方向で器具を変えて行くと聞かされる。飛び上がるほど嬉しい。気管支切開が閉じれば家に戻ることを本気で考えないといけない。作業療法も受けられるようになる。
【リハビリテーション総合実施計画書】
具体的アプローチとして分かりやすく記述してあるところによると以下の通り。
・手足が固くならないように関節を動かして行く。
・坐っている姿勢が安定するように練習して行く。
・口や舌の運動をする。
・意思の伝達が出来るように方法を検討する。
・日中、車椅子乗車の時間を取り、生活リズムを付けて行くようにします。
・関節拘縮を予防するため、体位交換時良肢位をとれるように努めます。
5月25日
リハビリに立ち合う。家族の希望を伝えるレベルにはないことがわかる。左の足首は完全に硬直していて、これを戻すことからはじめるのだ。言語リハビリにも立ち合う。笑う練習や口を開ける練習。頬を膨らませる練習などから始める。

昨夜は民藝公演のグレイクリスマスを観る。今年第一回の出雲演劇鑑賞会。
ホワイトクリスマスは雪に覆われた美しいクリスマス。それに対してグレイクリスマスは雪のない美しくないクリスマスを意味するのだが、それはまた白く美しい雪は汚れたものを覆い隠してあるのであって、雪のない日に広がって見える世界こそが現実であることを意味している。
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物語は敗戦の年、昭和20年のクリスマスから始まる。
旧華族五条伯爵家は進駐軍の将校クラブに母屋を接収され離れに追いやられていた。天皇は人間になり、華族制度は廃止され、生活力のない当主は自殺を図る始末。その弟は戦犯裁判にかけられ、息子はヒロポン中毒。進駐軍に取り入るために五条は後妻の華子や娘を将校クラブのホステスにするが、女たちは生きるためにたくましくホステスを勤める。
離れに出入りするのは進駐軍民生局の日系二世の軍人ジョージや五条家の資産を狙う詐欺師、正体不明の闇屋の若者権藤たち。華子はデモクラシーを説くジョージに惹かれて行き、五条の娘は悪の匂いを振りまく権藤に魅入られて行く。
この舞台のすごい所はここからの展開である。次は一年後のクリスマス。同じ離れの広間。その次が二年後のクリスマス。同じ離れの広間。何人かの登場人物の出入りはあるが、華子、ジョージ、権藤、五条、五条の娘など主要な役者は変わらない。
それが三年後、四年後、五年後となって行くに従い、世も変わり人も変わって行く。日本を武力なき平和国家に変えようとする理想主義者の集まり民生局は日本を共産主義の防波堤にしようとする情報部との勢力争いに後退を余儀なくされて行く。それとともに息を潜めていた旧勢力も息を吹き返して行く。新しい世の中に自分の未来を賭けた華子の夢も萎んで行く。
そして朝鮮戦争が勃発。五条の弟は無罪放免され朝鮮戦争で一儲けを企み、五条の息子は警察予備隊(自衛隊の前身)に入る。世の中の変わりように絶望した華子はジョージにすべてを賭ける。ジョージと一緒にアメリカに行きたいと訴える。アメリカこそがジョージが説くデモクラシーの国だと思ったのである。だが、ジョージは華子をアメリカには連れて行きたくないと言う。ジョージは言う。アメリカもデモクラシーの国ではない。第二次世界大戦中、日系アメリカ人は強制収容所に放り込まれひどい差別を受けたのである。そんな国に華子を連れて行くことは出来ないと言い、かれもまた現実に絶望して自ら志願して朝鮮へ行ってしまう。
一方、五条の娘の前には姿をくらましていた権藤が現れる。権藤は朝鮮の不穏な輩として警察に追われていた。権藤は自分が朝鮮人であることを打ち明ける。父親は朝鮮で朝鮮語の歌を歌って日本人の警察に殺された。日本人を憎んでいても屈折した愛を抱く権藤は警察の目を欺くために一緒に逃げてくれと五条の娘に哀願するが娘はすでに権藤への思いは捨てていた。一人で雪の中に逃げて行く権藤。遠くから銃声が聞こえて来る。
後日、雪の降る夜。離れにたった一人の華子にオルゴールが届く。それは何年か前に華子がジョージにプレゼントしたオルゴール。ジョージは朝鮮で戦死したのだ。オルゴールを聞く華子。雪が降って来る。オルゴールを聞きながら見えないジョージと踊り出す華子。初めて会ったクリスマスの夜に恥ずかしがるジョージと踊ったことを思い出しながら、華子は踊る。たったひとりの踊りは続く。その上に舞い落ちる真っ白な雪。

最初から最後までたった一つの舞台でクリスマスが五回行われて一つの物語が完結したのである。私は近年は芝居を観ていないので論評する資格はないのだが、この芝居には度肝を抜かれ感嘆した。映画やTVのように時間や空間を自由に移動することなく、舞台と言う広くもないただの板の上で幕も使わずに芝居をやり通したのである。
これが民藝の芝居かと正直驚いたのです。なぜなら私が20代そこそこの頃は大劇団の芝居は古臭いものと思われ見向きもしなかったからである。宇野重吉という名優がいたが、演目も有名だけど古臭く演技も泥臭く感じたものだった。だが昨夜の芝居は一つの舞台を時間経過だけで進めると言う方法で、そこで演じられている芝居の印象までも何か新しく先鋭的なものに一変させていたのだ。
芝居を観る時はいつもドラマに集中しているのだが、今回の様に舞台構成に感嘆して観たのは初めて。
民藝を古臭いと言って御免なさいである。こういう努力を積み重ねているから50年以上経った今も続いているのだろうなと思った。
2026年のラインナップはもう決まっていて、その中に文学座の「欲望と言う名の電車」がある。若い頃古臭い芝居だと思って見向きもしなかったが、来年のことを言えば鬼が笑うが必ず観に行く。

昨日からこの冬一番の寒気が来て島根県東部の平地でも雪が10㎝~15㎝積もると言う。最低温度もこの冬最低の-4℃になると言う。去年もそんなことを言われて大したことなかったので半信半疑だったが、確かに中国地方の山間部は暮れから大雪だったので今回は降るかも知れないと思い、昨日の夕方寒風吹き付ける中、水道管の防寒対策をする。
1月9日夕方。
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左が市水道、右が池や畑の水やりに使う部落水道。母のオムツパットが残っていたのでそれを巻き付け、さらにタオルを巻き付け、ビニール袋を被せ、最後に肥料の空き袋を被せる。完璧。夜、11時ごろ外を見たら、庭一面うっすらと白くなっていたので、これなら少なくても5㎝は積もるだろうと思って寝る。確かに寒くて、いつもはエアコンを入れて寝ない(4時か5時にタイマーで20℃に入れておく)のだが、昨夜は一晩中20℃に入れておく。それ以上だと暑くなって眠れないのだ。ところが、朝起きたら・・・
1月10日
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朝7時半の玄関前。わずか1㎝。松江の娘からは2㎝と言って来た。
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畑もうっすら。家の横の道もうっすら。
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毎朝の散歩コースの新内藤川の土手もうっすら。だが、風は冷たい。この数日朝夕冷たい西風が吹き付けていたが、今朝も縮みあがるほど冷たい。去年より元気に敢然と散歩できているのは、ウオークマンの防水防寒コートと防水靴のお蔭。これがなかったら風邪を引いていたと思う。
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犬は元気。         昼食後、イオンへ買い出しに行く時には雪は綺麗に消えていた。
夕方、雨が止んだ時に、犬の散歩に出かける。
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何とおツルさんが来ていた。一昨日の夕方に会って以来。その前は数日前の朝に会っていた。風が強かったり、大雨が降ったりすると来ないと聞いていた。この数日間はものすごく風が冷たく強く、ふきとばされそうだったから、この数日間で今日会ったのを入れて3回しか会っていない。今日も風が強く朝は会えなかったが、私が犬と現れると、向こうから橋を渡ってやって来るほど。よほどお腹がすいていたのだろう。食パンと秋田県大潟村の発芽玄米をやっていると、ツルのお婆さんが手押し車を押して現れたので後を託して私は犬の散歩をする。
天気予報を見ると、明日も雪が降ると言っているが、もう信用していない。出雲に来る雲は雨雲ばかりでそれも東に移動する。降るならどかんと10㎝20㎝降ってこその冬を期待しているのだが、出雲の平地はもうこれからも降らないのかもしれない。それでも今日はずっと会えなかったおツルさんに会えたからよしとしよう。私を覚えていて犬を連れているのに向こうから近寄って来たのだから。今年もなかよくしよう。マルコをつついて威嚇しようとするのだけはやめておくれ。
(訂正)
ウォークマン→ワークマンでした。笑われました。たしかにウォークマンは今や死語ですよね。

(1)からの続き

3月15日
仲の良かった妻の友達に見舞いの御礼の手紙を書いていたらとめどもなく涙が出て来る。
3月16日
府中に住む義理のおばさんが妻の従妹を伴って見舞いに来る。従妹が泣くので私は今日も泣く。おばさんは夕食のおかずを持参。これがなかったら私たちはどんな食事をしていたことか。
3月17日
家裁八王子支部へ行き後見人手続きを教えて貰う。想像以上に大変。その後、病室で年配の美容師さんと会う。客と美容師の間を超えた友達。妻は友達作りの天才だった。
暑いので風を送ってやったら小さなあくびを三回する。こんな反応は初めて。生きていることを実感する。
帰宅して娘を図書館へ送った帰りに、小学校の塀に車をぶつける。何をしても心ここにあらず。
3月18日
近所の酒屋の御夫婦が見舞いに来てくれる。奥さんが「くにちゃん、くにちゃん」と名前を呼びながらずっと足を揉んでくれた。
相談室で次の療養病院の相談。
3月19日
昨日今日と後見人申請のための必要書類集め。熊本の市役所まで手紙を出す。
午後から見舞いし、その後、相談室で昨日の続き。月37万円~38万円かかりそうだが、高額医療費の減免制度があることを知る。二人部屋で差額ベッド代は7000円~1万円。
3月20日
妹が藤沢から見舞いに来てくれる。おかずも持って来てくれる。これで夕食は娘がシチューを作ってくれたらOK。助かる。
今日は妻の父親の50回忌。妻が熊本へ帰ったのはこの50回忌の相談。母親に任せきれないので喧嘩までして妻がすることに決めたのだが結局出来なかった。若くして死んだ義父におはぎを供える。
妻は昨日から水枕をしている。熱が引かない。耳元で妻の名を呼ぶが二回繰り返したらもう涙が出て来て声にならない。
3月21日
妻が倒れてから小説はストップしたまま一行も書けない。何とかしなければと焦るのだがPCに向かったからと言ってすぐに書けるものではない。妻のベッドサイドに見舞いに来た人からの置手紙があった。
3月22日
いよいよ会社が危ないようだ。報酬は月給制に変わっていた。月給がなくなる。そのためにも小説を頑張らないといけないのだが、頭を切り換えて小説の世界に没入することがでいない。
3月23日
看護学校の同期の女性で介護の仕事をしている人が見舞いに来る。元気ではつらつとした姿を見ると、もはやこのような姿は望むべくもない妻が可哀想で涙が出て来る。HさんとYさんがまた見舞いに来てくれる。
3月24日
長男の小学校時代の友人のお母さんが見舞いに来てくれる。
3月25日
朝一番に家裁八王子支部に行き成年後見の申請をする。妻は被後見人になる。法的に一人前の人間としては扱われなくなる。遠くへ行ってしまったような気がしてしんみりする。
看護学校時代の先生が次の病院を紹介してくれるが、西武多摩湖線の八坂駅。乗り換え乗り換えして1時間半はかかる。
このところ瞼が動くようになる。あくびをした時は今にも起きるのではないかと思うくらいになった。少しでも良くなるのは嬉しいが赤ん坊のようなあくびしかできないことに切なさが募る。
3月27日
妻が倒れて一ヶ月。早いような長いような。娘が春休みで手伝いしてくれたが新学期が始まったらこうはゆくまい。息子も就活でますます忙しくなる。
今日は微かにではあるが左腕が動いた。元気になってくれるような気がした。
3月28日
熊本の義母から電話。娘のことを考えると泣いてばかりいると言う。
妻の瞼が開くことが多くなる。半開きの目にじっと見つめられる。
「どうしてわたしの苦労に気がついてくれなかったの」
「どうして私が疲れていたことに気がついてくれなかったの」
と言われているようで、辛くてたまらない。
3月29日
今日はぐっすり寝ていた。ピクリとも動かず。一月寝ていたら脚の肉がすっかり落ちて痛々しい。
夜、車で会社へ。若い者達がすっかりだらけてしまっていると言うので、明日から会社へ出ることにする。毎日見舞いに行けなくなるが許してもらわないといけない。
3月30日
留守中、妻のおじさん夫婦がおかずを届けてくれる。西武多摩湖線八坂の病院まで見学に行き、パンフレットまで取って来てくれる。本当なら自分がしないといけないこと。頭が下がる。
ようやく小説に取り掛かるも100枚分を読み返しただけ。
3月31日
編集者と会う。一枚も書けずに心配をかけているので一章を読んでもらう。意見を出してもらい先へ進む約束をする。
娘が報告をすることがあると電話して来た。友達と会って遅く帰宅した娘から話を聞く。午後の見舞いで娘が持って来たお守りを手を伸ばして取ろうとしたそうだ。花瓶を動かすと目で追ったり、手を強く握り返したと言う。思わず耳を疑う。いつの間にそんなによくなっていたのか。嬉しい。
4月1日【耳が聞こえていたことがわかる】
今日もどうしても会社へ行く用があり、病院は娘に任せる。
教授回診があり、「視線が合っている。良くなってきている」と言われたよし。すると看護師が「曽田さん、手を上げてと言うと、昨日は手を上げた」と言ったよし。
まさか耳が聞こえていたとは。そんな話を聞いたら会社はどうでもよくなる。俺が行かない日に限ってこんな嬉しいことが起きていたなんて。決して過大な期待はしてはいけないと自戒しつつも胸がどきんどきんと高鳴る。この先どこまでよくなってくれるのか。車椅子でもいい、寝たきりでもいい。意思疎通ができることを願った。
4月2日
11時病院へ。ちょうど入浴するところ。看護師が「手伝いますか」と言うので、二つ返事で手伝うことに。まさか入浴していたとは。知らなかった。すでに二三回入浴しているそうだ。反応は期待し過ぎていた。だが看護師が「曽田さん、気持ちいいですか?手を上げて下さい」と言うと、かすかに手を上げる。目も見開いたままだが瞳がかすかだが動くようになった。妻を可愛がってくれていたお婆さんが妻が倒れたことを知り、「生きていてよかったとじゃない」と言ってくれた。その言葉を実感する。
4月3日
午後一、娘と病院へ。これまで話しかけても何の反応もなかったが、私たちはいつも話しかけていた。いつから聞こえるようになっていたのかわからないが、それがよかったのだ。聞こえていると分かると励みになる。今日も話し掛け、足の指もしっかりマッサージし、音楽も聞かせる。暗い気持ちで通った一ヶ月が嘘のような気がする。希望に向かって進むことだ。耳元で呼び続けることだ。
出版社を紹介してくれた友人がとにかく前へ進めと言うので、一章の手直しは後回しにして二章に入ることにする。
4月4日
娘と病院へ。見舞客も妻が反応を示したので驚く。帰宅後、後輩のライターから電話。親子三人で見舞いに行き、幼い娘が声をかけたら足をぴくぴくさせたらしい。今日は何組も見舞いがあった。
4月5日
今日から二章に入るも40日以上間が空いたので筆が一ミリも進まない。
妻は回復の兆しを見せてくれた。私は車椅子でもいいと思う一方で、ふともしこのまま寝たきりで口もきけない状態のままだったら、本人は何と思うだろうと後ろ向きなことを考えてしまう。
4月6日
今日は家裁調査官が来るので会社は休む。
午後から病院へ。脳外科病棟の主治医と会える。胃瘻(いろう)による栄養補給に切り替えると伝えられる。経管だと食事の訓練の時に戻すことがあるらしい、胃瘻の方が直接胃に栄養を送る(腹部から胃に穴を開けて送る)ので効果があるらしい。意識回復が進めば頭蓋骨を元へ戻す(開頭手術をした時の穴が開いたままになっている)骨入れの手術もした方がよいと言われる。
食事の訓練や意識回復が視野にはいっていることを知って嬉しい。
先生に無理を言ってどこまで回復するか聞く。左半身の麻痺は治らないが車椅子なら・・・と言われる。今日は車椅子に30分座ったそうだ。知らない所でどんどんすすんでゆくのが驚きであり嬉しいことである。
会社は6月に閉鎖になるらしい。
4月7日
妹が長女を連れて来る。娘と三人で見舞いに行く。今日の反応はとてもよく、「お母さん、右手が動くよね」と話しかけたら、ピアノを弾くように指を動かしたそうだ。そういう話を聞くと明日見舞いに行きたくなるが、親会社に提出する資料作り。
4月8日
会社で小説を進めるもまだ本調子にならない。結局会社での打ち合わせはできず。
娘によると妻はずっと眠っていたそうだ。
4月9日
娘に電話で様子を聞く。タオルを剥がそうとしたり、オムツを嫌そうにしたり、ずいぶんよくなったようだ。
4月10日
期待に胸を膨らませて娘と見舞いに行くも危惧した通り今日は何の反応もしてくれない。やはり一生このままかと哀しくなるもこういうことは一進一退と自分に言い聞かせる。目の光だけは強くなったような気がする。もっと大きな声で話しかけないといけないのかもしれない。娘も息子も俺がいない時は色々と喋りかけているようだ。
後見人と認める通知が来る。病院の妻にも俺が後見人になった報せが行くそうだ。読めないのに。後見人なんてなりたくない。一生後見人なんてたまらない。
4月11日
見舞いに行く。暑い日で汗を浮かべて眠っている。冷たいタオルで汗を拭き風を送る。今日も駄目かと思ったら目を覚ましたので、MDウオークマンで母校県立済々黌(せいせいこう)高校の校歌をきかせてやる。
***妻は自分の青春は済々黌で終わったと言うぐらい濟々黌が大好きで、先輩の古葉竹識が広島の監督の時は熱烈な広島ファン。横浜の監督になったら横浜ファンになった。その影響で長男は30年以上経った今も熱烈な横浜ファンである***
すると、妻がウオークマンを掴んで手に持つ。イヤホンのコードも掴む。妻が手を動かして物を持ったり動かしたりするのを初めて見る。嬉しいがどこまでわかってやっているのか分からない。よくなったらよくなったで煩悶は尽きない。週に3回しか来れないので、今日は2時間以上いて脚や手を揉み続けた。
4月12日
今日は400字で7枚書けた。これでも今の俺にしたらいい方。さらに嬉しい報せも。娘が扇子で仰いでやっていたら、妻が扇子を取って自分で仰いだと言う。その光景を携帯で撮影したものを見せてくれる。感激して何度も見る。回復に自信を持つ。
4月13日
季節の変わり目で風邪を引く。長男も軽い喘息の咳をする。長じて良くなったが完治したわけではない。妻は長男の幼い時からずっと喘息に付き合ってくれていたので、妻が不在だと不安になる。
4月14日
明日、見舞いに行くため薬を飲んで寝る。長男は明日が最終面接の発表。
4月15日
主治医と面談。回復しているように見えるが、ダメージの大きさから見たらいい経過と言うレベルと言われる。積極的なリハビリはまだ無理だそうだ。まず4月末に胃瘻の手術。その後、転院して人工頭蓋形成。そしてリハビリ付きの長期療養になるようだ。
終って病室に行くと息子が来ている。ちょうど最終面接に合格した報告をしたところだったようだ。妻の顔が泣き出しそうになったように見えた。分かったのだろうと思う。
看護師が来てグーチョキパーをすると言うので試してみたらかすかにそれらしく指を動かす。これもダメージの大きさからみたらいい経過なのだろうか。
4月16日
会社で内部分裂が起きてもうお手上げ。少しでも時間があれば小説を書きたいのにそれどころではなくなる。泣きたくなる。
4月17日
家族で一緒に見舞いの行くのは無駄なので土日木が俺。残りを子供達で手分けして行くことにする。長男は内定したがスポーツサークルのキャプテンをしているので夏の大会に向けて忙しい。長女は新学期が始まった。
今日は2時間いたが目を開けている時間はわずか、5月下旬の状態が行く末に反映すると言われたので、少しでも覚醒時間が長くなるように願うのだが、このまま止まってしまうのではないかと悲観的になる。
4月18日
今日は俺がいる間、半分近く起きていた。しきりに右手を動かしていたし、目が合うと沢山話し掛けた。いい見舞いだった。
4月19日
息子が見舞いに行ったら王さんが見舞いに来てくれたそうだ。お見舞いを3万も包んで。王さんは中国人の若い奥さん。ご主人が家電メーカーに派遣された技術者。スーパーでバイトしていた王さんがパートのおばさんから馬鹿にされていたのを見て腹を立てた妻が王さんを慰め、爾来仲良しになった女性。英語ペラペラのインテリ。妻は家の前で道に迷った韓国人留学生金君とも仲良くなり、留学生仲間を呼んでお好み焼きをふるまった。日本人の家に初めて上がった若者たちは大喜びした。妻は外国人だってすぐに仲良くなる友達作りの天才だった。

正月の午後から孫一家が松江から2泊3日で来ると言うので、出雲の爺さんは孫のために凧を作ってやろうと思い立つ。凧を初めて作ったのは小学5年生か6年生の時。山口県の防府市に住んでいた時。見よう見まねで縦60㎝横40㎝ぐらいの子供にしては大きい凧を我流で作り、ちゃんと空高く豆粒の様に小さくなるほど高く揚げた。それから20数年たって、我が子たちが小学校1年生の頃の冬休み、出雲に帰省した時、同じ手製の凧を作ったのが2度目。この時も出雲の空高く舞った。そしてそれからまた30数年経って凧を作るのが今回で生涯3回目である。ところが記憶が怪しくなり、自信が持てなくなり、ネットで和凧の作り方を見て作ることにした。時間がかかりそうなので大晦日の夜から始める。
12月31日
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左)秋祭りの神事花の傘の骨にした竹を割って使うことにする。
右)この竹が太かったので薄く削らなければならなかったのは誤算。
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33㎝1本、43㎝1本、53㎝2本を揃える。
1月1日
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午後、やって来た孫に凧の絵を描かせるが、まだ紙いっぱいに大きな絵を描くことができなくて、おばけだのアンパンマンだの一畑電車だのごちゃごちゃ小さな絵をいっぱい描く。「かあかあ描いて」と母親にも描いてもらう。午後は絵を描くだけで費やす。
孫が寝てから、33㎝の竹ひごに43㎝の竹ひごをT字型に縛り、53㎝2本を斜めに交叉するように縛り付けたものに孫の絵を貼り付ける。昔、私が作ったのは縦横四辺に竹ひごを縛って作ったので、和凧のように左右と下辺に竹ひごのない凧はいかにも頼りなく、嫌な予感がしたがネットの動画で教えてくれているので大丈夫だろうと言い聞かせる。
1月2日
午前中に出雲大社に参拝に行く。10時ごろは覚悟していたほどの渋滞はなく、大駐車場も身障者用があいていたので楽に入れる。
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本殿には参拝せず、神楽殿に参拝し、おみくじを引き、帰りに「うどん長屋」でうどんを食べる。
帰宅して孫が見てない所で、婿さんと試し揚げしてみると、危惧したとおりくるくる回って揚がらない。糸を調節し直すが、それでも駄目そうなので、イオンに買い物に出たついでにアンパンマンのゲイラカイトを買って来る。
そして3時ごろ、いよいよ凧あげ。孫一家4人(3歳男児、1歳女児)と私とマルコ総出で家の前の休耕田に行く。
案の定、糸を調節し直しても和凧はきりきり回って墜落。べりッと無残な姿。
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孫は失望。そこでアンパンマンのゲイラカイトの出番である。
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揚がる揚がるゲイラカイトはすごい。和凧の悪戦苦闘が嘘のように。風も強く、指が千切れそうだ。右の写真は父子で上げているのだが、婿さんは都会育ちで凧あげをしたことがなくてうまくあがらないので、私が助っ人する。
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孫はアンパンマンが飛んだので喜んでいたが私は複雑な心境。これが和凧だったらどれほど嬉しかったことか。でも家に引き上げる時、アンパンマンのカイトは「とうとう」が持ち、破れた和凧は孫が両手で持っていたのが嬉しかった。ちょっと救われた気持ち。

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