4月?日
いつから始めたのか記録がないのだが、俺は妻にマジックを握らせ、ノートに何でもいいから書かせることを始めた。手を動かすことが何かの刺激になると思ったのだ。

書き出してから何日目かに書いたもの。初めは一本の線を引くことも出来ず、力なく震える手を弱々しく動かすだけで、それも長続きしなかった。初めは手を添えて励まし、見舞いに行くたびに少しずつ書かせ続けた。書くと言うより手を動かしていると言う方が正確かも知れない。そのうち手の動きが多少はしっかりしてきたかなと思ったが字や絵を書くのは先のように思えた。
(私はこの語録前史を書くにあたっての前置きで、ノートに字を書かせることを始めたのは邦子の友達だと書いたが、記憶違いだった。青いB5の厚い表紙のノートとマジックを用意して色々書かせることを始めたのは私だった)
4月21日【字を書いた】
娘から報告があった。昨日20日、ノートにお母さんが字を書いていたと言う。どうやら子供二人の名前らしき字が書いてあると言う。昨日は家族三人誰も病院へ行けなかった。見舞いに来たYさんとお友達が邦子に子供の名を書いてごらんと促して書かせたとメモが残してあったそうだ。俺は邦子に字を書かせることまでは考えてもいなかった。書けるようなレベルにはないと思っていたのだ。書けるようになっていたとは!大勢友達がいるとこんなことを思いつく人もいるのだとYさんたちに感謝する。邦子はいい友達を作っていたのだ。

かろうじて「そだ」と読める。出雲では「そた」と呼ぶが、出雲の外に出るとどこへ行っても「そだ」と濁って呼ばれるので、出雲に戻るまでは「そだ」と名乗っていたのである。ここには映っていないがその横に外れたところに、かろうじて読める息子と娘の名前(平仮名)があった。
4月22日
相談室に行ったので会社は休む。午前午後二回見舞いに行く。期待して行ったのだが字は書かなかった。日によって調子の波がある。相談室で小金井の病院を紹介される。リハビリはきちんとやってくれるらしい。ベッド代やもろもろと医療費で月50万ぐらいかかる。ほんとかよ。
4月23日
娘が字を書かせたら、娘の「名前(平仮名)」、「ひろひさ」、「おじさん」、そのおじさんの「名前(漢字)」、その妻の「名前(平仮名)」、熊本のおばさんの「名前(平仮名)」、俺の母の「名前(平仮名)」などや数字を書く。まだまだミミズ文字だがどんなに嬉しかったことか。


俺だからわかる文字。下の二つは左「ちせこ」。右「みちこ」上の右端は「やすこ」その隣「おじさん」その隣がおじさんの名前の一字で「幸」とわかる。その隣が「おとうさん」。その隣が娘の名前の頭の一字で「な」の字がわかる。
4月24日
小金井の病院を見学に行く。車で30分かからなかったのは良かったが、リハビリは一日20分と聞いてがっかりする。帰りに病院へ寄る。字を書きそうになかったので、今日は安心させようと府中のおばさんや俺の妹が定期的におかずを届けてくれるとはなす。わかっただろうか。
4月25日
娘と二人で面会。曽田邦子と漢字で書き、山、川、土など簡単な漢字を書く。今日、気がついたのは、2時間近くの間、一度も痰をつまらせなかったこと。
4月26日
明日、胃瘻(いろう)の増設手術があるが、大阪に日帰り出張をしなければならない。親会社の社長に会ってプレゼン。顔を出すだけでいいからと同行を頼まれる。明日の面会ですべてが決まる。
4月27日
プレゼンの感触はあまりよくない。手術はうまく行ったと連絡あり。
4月28日
午前中に見舞い。妹も来てくれる。鼻のチューブが取れていてほっとする。4月7日以来の妹は回復具合に驚いている。後は気管支切開が取れて元に戻ることを祈るのみ。そうすると回復期リハビリを受けることが出来る。
4月29日
午前中に見舞いに行く。車椅子に乗っていた。俺は足を揉んだり手を揉んだり話しかけたりしていた。看護師がベッドに戻るかと問うても嫌だと言うので2時間半くらい車椅子にいる。韓国人留学生の金君が見舞いに来てくれる。金君に字を書こうと言ったら「〇〇すか」と書く。おそらく「げんきですか」とか「どうしてますか」とかこうとしたのだろうと想像する。
だいぶ良くなってきているのに体が不自由なことが歯がゆい。可哀想過ぎる。
4月30日
今日は時代小説を再開して初めて一日10枚書いた。このペースで行きたい。
午前中、娘が面会に行く。Soda Kunikoと筆記体で名前を書いた。「犬は?」と聞いたら、dogと書いたそうだ。クルミを買う。これを握らせて右手のリハビリをするつもり。家族がするしかない。
5月1日
午前中、病院へ。担当医は「劇的に良くなっている」と言う。このままここで手術を受けたいと頼むが、同じような患者が大勢いるので無理だと言われる。転院してからになる。転院先は烏山にある系列の病院になりそう。そんな病院があるならどうして早く教えてくれなかったのか。必死に捜しまわる必要はなかったのに。猛烈に腹が立つ。後で冷静になって考えたら、手術が必要になったので、手術が出来る病院として系列病院に移ることになったのではないかと思う。
娘は午後面会。車椅子で外へ出たそうだ。
5月2日
朝6時半頃、娘に起こされる。朝早く娘に起こされるとドキリとする。果たして、夜、金縛りに遭い右腕がマヒして動かなくなり、2時半からずっと起きていて、友達に助けを求めずっとメールしていたと言う。仰天する。これまでにも何度かあり、大学のカウンセラーに相談し、薬を飲むように言われていたが、精神科の薬を飲むことに抵抗があり医者にはかからなかったと言う。だが、さすがに不安になり病院に行きたいと言う。連休にやっている精神科の病院を探し出し連れて行く。不安神経症と診断される。急に母親がいなくなった喪失感によるうつ病と診断され薬を処方される。
娘の友達の母親にも精神科の薬を飲んでいる人がいて、薬は必ず飲むようにと助言してくれたそうで、娘もこれからは飲むといってくれたのでひとまず安堵する。母親が倒れてショックを受けていることは分かっていたが、元気な女の子なのでこれほど苦しんでいたとは思わなかった。邦子のことで頭が一杯だったとはいえ、心配かけまいと健気に振舞っていたことに気がつかなかった。父親失格である。
娘はゆっくり休ませ一人で面会に行く。今日も車椅子。自分でティッシュを取ったり、手ぬぐいを取って涎をふいたり、鼻をぬぐったりする。
後から息子が行った時は指さす振りをしたそうだ。「ニュースを・・・見よう・・・」とかなんとか書いたらしい。目つきが鋭くなり、廊下に足音がするときらりと顔を向けて見ようとする。二日でこんなに右手が動くようになったのかと驚く。もう少しだ。そんな気がする。俺が倒れるわけには行かない。
しばらく娘は休ませたいので、急遽熊本のおばさんに助っ人を頼む。正月に続いて二度目。歳を考えたら頼めないのだが、邦子を親代わりに育ててくれたと言う言葉にすがるしかない。
5月3日
11時に面会。今日は寝ていた。ベッドでぼうっとしているのを見ると不安になる。娘のことは黙っている。娘におばさんが7日に助っ人に来てくれることを伝える。その日はカウンセリングの日。本当は行きたくないらしい。
5月4日
昨夜は娘のことを考えたら眠れず。娘は昨夜も片手がぬっと出て来る幻覚を見たらしい。胃が痛くなり食欲も失せる。娘の方がもっと辛いのだからと己を奮い立たせる。自分が倒れるわけには行かないと言い聞かせ面会に行く。
クルミを握らせたり、色々なことをためす。書きたいそぶりをするのでペンを持たせるが読めず。
その後、時代小説の資料を探しに調布図書館に行く。
夕方、帰宅。娘が降りて来る。頑張らせ過ぎたことを謝る。一年ぐらい休学するつもりでゆっくりやろうと話し合う。涙を流す娘。話し合ったおかげで胃痛は消える。
5月5日
息子の成績表を見せたがあまり反応しない。今日はずっとそんな調子。車椅子に乗せたらひどく痰が出て咳き込み苦しむ。この前は2時間半も座っていたのに。邦子は自分の状況を見て絶望しているのではないか、その目を見ていてそんな気がした。
5月6日
娘、元気が出て登校。2時限の内1時限だけ受けて戻ってくる。
午後からは登校前に息子が見舞いに行く。ジャンケンしたり、色々やってくれている。
おばさん、夕方、熊本からトンカツと唐揚げを持って来てくれる。
娘は明日はカウンセリングを受け、授業に出て、友達の家で石焼ビビンバを食べ、夜はサッカー(サークル)をすると言う。こんなに元気になってくれて、おばさんから後光が射して見える。
5月7日
朝から法務局。後見登録終了の手続きを取り、証明書を3通発行してもらう手続きをする。転院がどうなるか分からないので、青梅と小金井の病院に再度電話して問い合わせる。妥協して決めるしかないのかとため息をつく。
娘はカウンセリングを受け、頑張ってしまう人だから無理しないように言われ、精神科にも通うように言われたそうだ。サッカーをして戻って来たが、今日は授業には出なかったそうだ。明日、午前中見舞いに行くと言うので無理するなと止める。
5月8日
昨日、大勢見舞いがあって疲れたのか、今日はお眠りモード。昨日書いた「林田さん、元気でました」という字を見て感動する。ようやく何とか読めるレベルに上達していたのである。

左下に「林田さん」とあり、その上に二行で「元気」「がでました」とある。
新しい担当医に烏山の病院への紹介状と写真を渡される。どうして最初からこうしてくれなかったのだろう。病院探しに無駄な時間を使わなくても良かったのに。担当医がくるくる変わったせいか。
5月9日母の日
娘と見舞いに行く。花屋で作ってもらった花籠と娘が買ったパジャマをプレゼントする。二人だと一方が話しかけている時に一方はマッサージしたりして気分的にも楽である。今日も何か書いたが読めなかった。こんな時は辛くてたまらん。どこまで回復してくれるのだろうかと気持ちが沈む。
5月10日
烏山の病院へCTの写真2枚と紹介状を持って行く。なんと高濃度酸素治療をしてくれることがわかる。タンク内で2気圧の酸素を1時間吸う治療。傷んだ脳細胞を活性化させる。それを10日間やって骨入れの手術。酸素治療の効果があればさらに続ける。その話を聞いてすぐにも転院させたくなった。
娘は語学と社会何とかの講義には出ているが、その他の講義出ていないと言う。と言うかまだ出られないそうだ。
5月11日
娘が8時ごろから自転車で見舞いに行く。
喉を触るしぐさをするので、「どうしたの」と聞いたら、(のどが痛いし、へんとうせんが痛いの)と読める字を書いた。その紙を持って帰る。

俺は午後から行く。転院すること。高濃度酸素治療を受けること。いいことだと説明する。わかってくれたような気がする。すぐ寝たのでマヒしている左足をマッサージする。ぴくぴく反応する。
5月12日
熊本のおばさんは夕方から見舞いに行く。
「きつくないよ」と書いてくれたらしい。
5月14日
娘がサークルのはずなのに家に居る。疲れたらしい。家事が負担と吐露する。見舞いもある。学校もある。話した後は元気になり、明日はフットサルに行くと言うのでほっとする。
5月16日
会社を一人で背負って頑張っていた若いTがもう辞めたいと言う。俺まで鬱になるが、見舞いに行ったら涙が出て来る。頑張る邦子の姿に泣いてしまったのである。俺も頑張ろうと思い直す。今日は二人きりで夫婦の時間が過ごせたような気がした。
「家にかえって夕ごはん食べて・・・(以下不明)」と書き、「平塚勝利(以下不明)」と書く。平塚のビーチで息子の大会があることを知っている。息子から聞いたのか、あるいは息子は三年間平塚に練習や大会で通っていたので記憶にあるのかもしれない。


左)「平塚〇〇では」と読めて、その横に「家」「に帰って」「夕ごはん」「たべて」と読める。
右)中央上に「平塚勝利まで」と読める。

「平塚優勝」右端は「平」「塚ゴール」と読める。
5月18日
娘が見舞いに行く。今日は沢山書いた。見せてくれる。
「自分でやれることをしたい」「歩きたい」「外国へ行きたい」「でもこんな体じゃ」
娘は最後は悲しくなったと言う。明日は俺が励ます。
5月19日【転院】
搬送車で烏山の病院へ。杏林を出る時は命を助けて貰ってからの82日間の希望と絶望の日々が走馬灯のように浮かび涙が出る。
イガイガのアイテムでマヒした左足の親指をマッサージすると左足を引く。引き戻してマッサージするとまた引く。こんなことは初めて。
昼食時、娘と熊本のおばさんにこの先は自宅で仕事をして、邦子の世話ができる体制を作ると説明する。
5月21日
見舞いに行った熊本のおばさんから報告。昨日から高濃度酸素治療と手足のリハビリ、言語リハビリが始まる。
5月22日
今日は疲れているのかあまり反応がない。何か書いたが全然読めない。黙って天井を見ている。やっぱりこのままなのだろうかと絶望的になる。
看護師が床ずれを見せてくれる。お尻の上、尾てい骨あたりに10円玉大。治りつつあると聞いて胸をなでおろす。熊本のおばさんから言語リハビリの様子を聞く。年齢を聞かれて「43才」(実際は53才)と書き、住所を聞かれたら、「府中市矢崎町」と若い時住んでいた住所を書いた。でも。これは誰でもそうであって、治るものらしい。
5月23日
邦子の友達のTさんに病院の道順を問われたので、車で拾って一緒に病院へ行く。邦子はTさんに「おみまいありがとう」と書く。Tさんが帰った後、壁に貼った書道の先生の般若心経を見て、二人で写経することを思い立つ。
邦子に手を添えて、まず「魔訶般若波羅蜜多心経」と書く。するとその後ものすごい集中力で絵を書いたり字を書いたりする。その顔つきは昔、写経する時の真剣な顔と同じだった。邦子は書道が好きでよく写経をしていた。二人の子の受験の時も一心に写経していた。邦子の写経は皆願いが叶って来た。胸の中で今度は自分の願いを込めて写経をするんだよと励ます。
5月24日
調布介護課の調査の人が来る。15分くらいの聞き取り調査。その後、病院。
主治医から気管支切開を閉じる方向で器具を変えて行くと聞かされる。飛び上がるほど嬉しい。気管支切開が閉じれば家に戻ることを本気で考えないといけない。作業療法も受けられるようになる。
【リハビリテーション総合実施計画書】
具体的アプローチとして分かりやすく記述してあるところによると以下の通り。
・手足が固くならないように関節を動かして行く。
・坐っている姿勢が安定するように練習して行く。
・口や舌の運動をする。
・意思の伝達が出来るように方法を検討する。
・日中、車椅子乗車の時間を取り、生活リズムを付けて行くようにします。
・関節拘縮を予防するため、体位交換時良肢位をとれるように努めます。
5月25日
リハビリに立ち合う。家族の希望を伝えるレベルにはないことがわかる。左の足首は完全に硬直していて、これを戻すことからはじめるのだ。言語リハビリにも立ち合う。笑う練習や口を開ける練習。頬を膨らませる練習などから始める。
いつから始めたのか記録がないのだが、俺は妻にマジックを握らせ、ノートに何でもいいから書かせることを始めた。手を動かすことが何かの刺激になると思ったのだ。

書き出してから何日目かに書いたもの。初めは一本の線を引くことも出来ず、力なく震える手を弱々しく動かすだけで、それも長続きしなかった。初めは手を添えて励まし、見舞いに行くたびに少しずつ書かせ続けた。書くと言うより手を動かしていると言う方が正確かも知れない。そのうち手の動きが多少はしっかりしてきたかなと思ったが字や絵を書くのは先のように思えた。
(私はこの語録前史を書くにあたっての前置きで、ノートに字を書かせることを始めたのは邦子の友達だと書いたが、記憶違いだった。青いB5の厚い表紙のノートとマジックを用意して色々書かせることを始めたのは私だった)
4月21日【字を書いた】
娘から報告があった。昨日20日、ノートにお母さんが字を書いていたと言う。どうやら子供二人の名前らしき字が書いてあると言う。昨日は家族三人誰も病院へ行けなかった。見舞いに来たYさんとお友達が邦子に子供の名を書いてごらんと促して書かせたとメモが残してあったそうだ。俺は邦子に字を書かせることまでは考えてもいなかった。書けるようなレベルにはないと思っていたのだ。書けるようになっていたとは!大勢友達がいるとこんなことを思いつく人もいるのだとYさんたちに感謝する。邦子はいい友達を作っていたのだ。

かろうじて「そだ」と読める。出雲では「そた」と呼ぶが、出雲の外に出るとどこへ行っても「そだ」と濁って呼ばれるので、出雲に戻るまでは「そだ」と名乗っていたのである。ここには映っていないがその横に外れたところに、かろうじて読める息子と娘の名前(平仮名)があった。
4月22日
相談室に行ったので会社は休む。午前午後二回見舞いに行く。期待して行ったのだが字は書かなかった。日によって調子の波がある。相談室で小金井の病院を紹介される。リハビリはきちんとやってくれるらしい。ベッド代やもろもろと医療費で月50万ぐらいかかる。ほんとかよ。
4月23日
娘が字を書かせたら、娘の「名前(平仮名)」、「ひろひさ」、「おじさん」、そのおじさんの「名前(漢字)」、その妻の「名前(平仮名)」、熊本のおばさんの「名前(平仮名)」、俺の母の「名前(平仮名)」などや数字を書く。まだまだミミズ文字だがどんなに嬉しかったことか。


俺だからわかる文字。下の二つは左「ちせこ」。右「みちこ」上の右端は「やすこ」その隣「おじさん」その隣がおじさんの名前の一字で「幸」とわかる。その隣が「おとうさん」。その隣が娘の名前の頭の一字で「な」の字がわかる。
4月24日
小金井の病院を見学に行く。車で30分かからなかったのは良かったが、リハビリは一日20分と聞いてがっかりする。帰りに病院へ寄る。字を書きそうになかったので、今日は安心させようと府中のおばさんや俺の妹が定期的におかずを届けてくれるとはなす。わかっただろうか。
4月25日
娘と二人で面会。曽田邦子と漢字で書き、山、川、土など簡単な漢字を書く。今日、気がついたのは、2時間近くの間、一度も痰をつまらせなかったこと。
4月26日
明日、胃瘻(いろう)の増設手術があるが、大阪に日帰り出張をしなければならない。親会社の社長に会ってプレゼン。顔を出すだけでいいからと同行を頼まれる。明日の面会ですべてが決まる。
4月27日
プレゼンの感触はあまりよくない。手術はうまく行ったと連絡あり。
4月28日
午前中に見舞い。妹も来てくれる。鼻のチューブが取れていてほっとする。4月7日以来の妹は回復具合に驚いている。後は気管支切開が取れて元に戻ることを祈るのみ。そうすると回復期リハビリを受けることが出来る。
4月29日
午前中に見舞いに行く。車椅子に乗っていた。俺は足を揉んだり手を揉んだり話しかけたりしていた。看護師がベッドに戻るかと問うても嫌だと言うので2時間半くらい車椅子にいる。韓国人留学生の金君が見舞いに来てくれる。金君に字を書こうと言ったら「〇〇すか」と書く。おそらく「げんきですか」とか「どうしてますか」とかこうとしたのだろうと想像する。
だいぶ良くなってきているのに体が不自由なことが歯がゆい。可哀想過ぎる。
4月30日
今日は時代小説を再開して初めて一日10枚書いた。このペースで行きたい。
午前中、娘が面会に行く。Soda Kunikoと筆記体で名前を書いた。「犬は?」と聞いたら、dogと書いたそうだ。クルミを買う。これを握らせて右手のリハビリをするつもり。家族がするしかない。
5月1日
午前中、病院へ。担当医は「劇的に良くなっている」と言う。このままここで手術を受けたいと頼むが、同じような患者が大勢いるので無理だと言われる。転院してからになる。転院先は烏山にある系列の病院になりそう。そんな病院があるならどうして早く教えてくれなかったのか。必死に捜しまわる必要はなかったのに。猛烈に腹が立つ。後で冷静になって考えたら、手術が必要になったので、手術が出来る病院として系列病院に移ることになったのではないかと思う。
娘は午後面会。車椅子で外へ出たそうだ。
5月2日
朝6時半頃、娘に起こされる。朝早く娘に起こされるとドキリとする。果たして、夜、金縛りに遭い右腕がマヒして動かなくなり、2時半からずっと起きていて、友達に助けを求めずっとメールしていたと言う。仰天する。これまでにも何度かあり、大学のカウンセラーに相談し、薬を飲むように言われていたが、精神科の薬を飲むことに抵抗があり医者にはかからなかったと言う。だが、さすがに不安になり病院に行きたいと言う。連休にやっている精神科の病院を探し出し連れて行く。不安神経症と診断される。急に母親がいなくなった喪失感によるうつ病と診断され薬を処方される。
娘の友達の母親にも精神科の薬を飲んでいる人がいて、薬は必ず飲むようにと助言してくれたそうで、娘もこれからは飲むといってくれたのでひとまず安堵する。母親が倒れてショックを受けていることは分かっていたが、元気な女の子なのでこれほど苦しんでいたとは思わなかった。邦子のことで頭が一杯だったとはいえ、心配かけまいと健気に振舞っていたことに気がつかなかった。父親失格である。
娘はゆっくり休ませ一人で面会に行く。今日も車椅子。自分でティッシュを取ったり、手ぬぐいを取って涎をふいたり、鼻をぬぐったりする。
後から息子が行った時は指さす振りをしたそうだ。「ニュースを・・・見よう・・・」とかなんとか書いたらしい。目つきが鋭くなり、廊下に足音がするときらりと顔を向けて見ようとする。二日でこんなに右手が動くようになったのかと驚く。もう少しだ。そんな気がする。俺が倒れるわけには行かない。
しばらく娘は休ませたいので、急遽熊本のおばさんに助っ人を頼む。正月に続いて二度目。歳を考えたら頼めないのだが、邦子を親代わりに育ててくれたと言う言葉にすがるしかない。
5月3日
11時に面会。今日は寝ていた。ベッドでぼうっとしているのを見ると不安になる。娘のことは黙っている。娘におばさんが7日に助っ人に来てくれることを伝える。その日はカウンセリングの日。本当は行きたくないらしい。
5月4日
昨夜は娘のことを考えたら眠れず。娘は昨夜も片手がぬっと出て来る幻覚を見たらしい。胃が痛くなり食欲も失せる。娘の方がもっと辛いのだからと己を奮い立たせる。自分が倒れるわけには行かないと言い聞かせ面会に行く。
クルミを握らせたり、色々なことをためす。書きたいそぶりをするのでペンを持たせるが読めず。
その後、時代小説の資料を探しに調布図書館に行く。
夕方、帰宅。娘が降りて来る。頑張らせ過ぎたことを謝る。一年ぐらい休学するつもりでゆっくりやろうと話し合う。涙を流す娘。話し合ったおかげで胃痛は消える。
5月5日
息子の成績表を見せたがあまり反応しない。今日はずっとそんな調子。車椅子に乗せたらひどく痰が出て咳き込み苦しむ。この前は2時間半も座っていたのに。邦子は自分の状況を見て絶望しているのではないか、その目を見ていてそんな気がした。
5月6日
娘、元気が出て登校。2時限の内1時限だけ受けて戻ってくる。
午後からは登校前に息子が見舞いに行く。ジャンケンしたり、色々やってくれている。
おばさん、夕方、熊本からトンカツと唐揚げを持って来てくれる。
娘は明日はカウンセリングを受け、授業に出て、友達の家で石焼ビビンバを食べ、夜はサッカー(サークル)をすると言う。こんなに元気になってくれて、おばさんから後光が射して見える。
5月7日
朝から法務局。後見登録終了の手続きを取り、証明書を3通発行してもらう手続きをする。転院がどうなるか分からないので、青梅と小金井の病院に再度電話して問い合わせる。妥協して決めるしかないのかとため息をつく。
娘はカウンセリングを受け、頑張ってしまう人だから無理しないように言われ、精神科にも通うように言われたそうだ。サッカーをして戻って来たが、今日は授業には出なかったそうだ。明日、午前中見舞いに行くと言うので無理するなと止める。
5月8日
昨日、大勢見舞いがあって疲れたのか、今日はお眠りモード。昨日書いた「林田さん、元気でました」という字を見て感動する。ようやく何とか読めるレベルに上達していたのである。

左下に「林田さん」とあり、その上に二行で「元気」「がでました」とある。
新しい担当医に烏山の病院への紹介状と写真を渡される。どうして最初からこうしてくれなかったのだろう。病院探しに無駄な時間を使わなくても良かったのに。担当医がくるくる変わったせいか。
5月9日母の日
娘と見舞いに行く。花屋で作ってもらった花籠と娘が買ったパジャマをプレゼントする。二人だと一方が話しかけている時に一方はマッサージしたりして気分的にも楽である。今日も何か書いたが読めなかった。こんな時は辛くてたまらん。どこまで回復してくれるのだろうかと気持ちが沈む。
5月10日
烏山の病院へCTの写真2枚と紹介状を持って行く。なんと高濃度酸素治療をしてくれることがわかる。タンク内で2気圧の酸素を1時間吸う治療。傷んだ脳細胞を活性化させる。それを10日間やって骨入れの手術。酸素治療の効果があればさらに続ける。その話を聞いてすぐにも転院させたくなった。
娘は語学と社会何とかの講義には出ているが、その他の講義出ていないと言う。と言うかまだ出られないそうだ。
5月11日
娘が8時ごろから自転車で見舞いに行く。
喉を触るしぐさをするので、「どうしたの」と聞いたら、(のどが痛いし、へんとうせんが痛いの)と読める字を書いた。その紙を持って帰る。

俺は午後から行く。転院すること。高濃度酸素治療を受けること。いいことだと説明する。わかってくれたような気がする。すぐ寝たのでマヒしている左足をマッサージする。ぴくぴく反応する。
5月12日
熊本のおばさんは夕方から見舞いに行く。
「きつくないよ」と書いてくれたらしい。
5月14日
娘がサークルのはずなのに家に居る。疲れたらしい。家事が負担と吐露する。見舞いもある。学校もある。話した後は元気になり、明日はフットサルに行くと言うのでほっとする。
5月16日
会社を一人で背負って頑張っていた若いTがもう辞めたいと言う。俺まで鬱になるが、見舞いに行ったら涙が出て来る。頑張る邦子の姿に泣いてしまったのである。俺も頑張ろうと思い直す。今日は二人きりで夫婦の時間が過ごせたような気がした。
「家にかえって夕ごはん食べて・・・(以下不明)」と書き、「平塚勝利(以下不明)」と書く。平塚のビーチで息子の大会があることを知っている。息子から聞いたのか、あるいは息子は三年間平塚に練習や大会で通っていたので記憶にあるのかもしれない。


左)「平塚〇〇では」と読めて、その横に「家」「に帰って」「夕ごはん」「たべて」と読める。
右)中央上に「平塚勝利まで」と読める。

「平塚優勝」右端は「平」「塚ゴール」と読める。
5月18日
娘が見舞いに行く。今日は沢山書いた。見せてくれる。
「自分でやれることをしたい」「歩きたい」「外国へ行きたい」「でもこんな体じゃ」
娘は最後は悲しくなったと言う。明日は俺が励ます。
5月19日【転院】
搬送車で烏山の病院へ。杏林を出る時は命を助けて貰ってからの82日間の希望と絶望の日々が走馬灯のように浮かび涙が出る。
イガイガのアイテムでマヒした左足の親指をマッサージすると左足を引く。引き戻してマッサージするとまた引く。こんなことは初めて。
昼食時、娘と熊本のおばさんにこの先は自宅で仕事をして、邦子の世話ができる体制を作ると説明する。
5月21日
見舞いに行った熊本のおばさんから報告。昨日から高濃度酸素治療と手足のリハビリ、言語リハビリが始まる。
5月22日
今日は疲れているのかあまり反応がない。何か書いたが全然読めない。黙って天井を見ている。やっぱりこのままなのだろうかと絶望的になる。
看護師が床ずれを見せてくれる。お尻の上、尾てい骨あたりに10円玉大。治りつつあると聞いて胸をなでおろす。熊本のおばさんから言語リハビリの様子を聞く。年齢を聞かれて「43才」(実際は53才)と書き、住所を聞かれたら、「府中市矢崎町」と若い時住んでいた住所を書いた。でも。これは誰でもそうであって、治るものらしい。
5月23日
邦子の友達のTさんに病院の道順を問われたので、車で拾って一緒に病院へ行く。邦子はTさんに「おみまいありがとう」と書く。Tさんが帰った後、壁に貼った書道の先生の般若心経を見て、二人で写経することを思い立つ。
邦子に手を添えて、まず「魔訶般若波羅蜜多心経」と書く。するとその後ものすごい集中力で絵を書いたり字を書いたりする。その顔つきは昔、写経する時の真剣な顔と同じだった。邦子は書道が好きでよく写経をしていた。二人の子の受験の時も一心に写経していた。邦子の写経は皆願いが叶って来た。胸の中で今度は自分の願いを込めて写経をするんだよと励ます。
5月24日
調布介護課の調査の人が来る。15分くらいの聞き取り調査。その後、病院。
主治医から気管支切開を閉じる方向で器具を変えて行くと聞かされる。飛び上がるほど嬉しい。気管支切開が閉じれば家に戻ることを本気で考えないといけない。作業療法も受けられるようになる。
【リハビリテーション総合実施計画書】
具体的アプローチとして分かりやすく記述してあるところによると以下の通り。
・手足が固くならないように関節を動かして行く。
・坐っている姿勢が安定するように練習して行く。
・口や舌の運動をする。
・意思の伝達が出来るように方法を検討する。
・日中、車椅子乗車の時間を取り、生活リズムを付けて行くようにします。
・関節拘縮を予防するため、体位交換時良肢位をとれるように努めます。
5月25日
リハビリに立ち合う。家族の希望を伝えるレベルにはないことがわかる。左の足首は完全に硬直していて、これを戻すことからはじめるのだ。言語リハビリにも立ち合う。笑う練習や口を開ける練習。頬を膨らませる練習などから始める。



















