曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2024年12月

昨日でマスカットの剪定が終った。自分の畑ではないが、マスカットの剪定を見るのは初めてだったのでご紹介します。
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左)枯れ葉が鬱蒼と茂って昼間でも暗い。(ハウス1)
右)伸びた枝を伐る。幹から二節の所で伐る。
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左)下から鋏で伐るところ。
右)チョキン
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伐った長い枝は短くチョキンチョキンと伐ってポリバケツに貯める。ハウスに伸び放題に伸びた枝を全部伐り落して裁断するから膨大な量になる。二つのハウスの枝を伐り落して処分するのに1週間以上はかかっている。
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左)伸びた枝を伐った後。(こちらはハウス2)
右)剪定した後はこんなにすっきり。
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ハウスの横の奇妙な果物。緑色だったが黄色くなると食えると言うので頂く。
種ばかりで口中種だらけになる。実らしきものはないのだがとても甘くて美味しい。名前は分からない。本人は忘れたと言う。どなたか名前がわかったら教えてください。
これでこのお宅は仕事納め。正月はこちらで正月の折を貰って(この地区はもう新年会はやめて折を配ることにしているのだ。私の地区では11時に自治会館に集まって新年会をやる)家のある広島に戻り、来年は2月頃に戻って来るのだろうか。島根の単身実家暮らしと家族のいる広島の二重生活をしているのだ。
私は玉ねぎとニンニクの追肥は終わり、ネギの土寄せをし、今日いちごの草抜きをしたので畑は終了。
庭も草抜きや厄介なカヤ抜きなどを少しづつやって来てほぼすませたが、これを書いていてまだお墓の草抜きをしていないことに気がつく。明日、やってしまおう。

今日はグループホームで蕎麦打ちがあった。
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家族も招待されたので10時過ぎに行く。すでに蕎麦打ちは始まっていて、入所者は東ブロックと西ブロックに分かれてお茶を飲みながら蕎麦打ちの見物。背中の左端が母。横の椅子に座って一緒に見物。東西各8人ずつ入所しているので、計16人入所しているのだが、訪れた家族は3人。うち2人は夫婦で奥さんの母親はこの4月に亡くなっていたので、実質訪れた家族は私一人。私のように車で5分で来れる人はいないのでやむを得ないことだ。施設の人は喜んでくれた。
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西のみんなのお茶を注ぐ母。洗い物をしたり、野菜を切ったり、色々なお手伝いをする。
私は店屋の蕎麦は食ったことがあるが、一般人が目の前で打った蕎麦を食うのは初めて。美味かった。お代わりをすすめられたのでお代わりする。もう一杯食べたかったが遠慮した。
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96歳の母と77歳の息子。
右は貼ってあった母の塗り絵。みな、べたっと塗っていたが、白い所を残して薄く色を入れるところが母の絵心。母にはこういう絵心というかちょっとした工夫をするところがある。歳をとっても三つ子の魂を感じるのだが、今日は折角やって来た私がさっぱり分からない。いくら「博久」だと言っても、そんなことはないと断固否定する。それでは私が誰かと問うと、大真面目な顔で弟だと言う。
毎週、自宅に戻る時も初めは弟と思い込んでいても、家に着く頃には私が息子であることが分かるようになるのだが、今日みたいに最後まで弟だったのは初めてであった。
27日は「もちつき」がある。職員さんからはまた是非来てくれと言われたがどうしよう・・・。

ダービーと有馬記念だけは競馬口座の残額がある限りは続けようと思っていたので今年もやる。ダービーは3才馬なので知らない馬ばかりだが、有馬は3才馬と古馬が走るので何年か前に儲けた名前を知っている馬がいたが、8才馬と7才馬なので勝負になる可能性はほとんどない。4歳馬から6才馬は知らない馬ばかり。それでも当たっちゃったから面白い。どんな馬なのか、どんなレースをするのか、皆目分からない。それでも当たったのは、有馬記念と言うレースの特徴や中山競馬場の特徴とかは何十年やって知識としてある。世代間の実力差や牡馬や牝馬の差もだいたい分かっている。私は何年も前から牝馬の強さは知っていた。特に3歳の牝馬には注目していた。しかも3才馬と4歳馬以上の古馬とは背負う斤量に差がある。3歳牝馬と3歳牡馬は2㎏の差があり、3歳牡馬と古馬の牡とは2㎏の差がある。即ち3歳牝馬と古馬の牡とは4㎏の差があるのである。私は前々から近年の強くなった3歳牝馬のトップクラスは4㎏も軽い斤量で走れば古馬の一流馬に引けをとらないと思っていたので、4枠8番のレガレイラの単勝を買う。この馬は取り消しになったが武豊の乗る断然一番人気の1枠2番ドウデュースが出て来ても買うつもりだったのである。
PXL_20241222_095425470.MP青枠の8番が5番人気のレガレイラ。
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最後の直線の攻防。青帽のレガレイラとピンク帽のシャフリヤールと直線のたたき合い。手に汗握る所だが私は意外と冷静で最後は4㎏軽いレガレイラが勝つと信じて見ていた。こういう競り合いで4㎏差がものを言うと思っていたのだ。
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レガレイラの単勝の他は枠連で1-2,1-4,2-4と買っていた。8枠16番が来なければ枠連1-4も当たっていたのだが、まさか大外18番ゲートの馬が来るとは。データー的に外枠は連対立は低いので軽視していた。でも10倍の単勝が当たったのだからよしとしなければ。これで来年のダービーと有馬記念の軍資金が出来た。
暮れはこの後、競輪グランプリンと中央のダート馬と地方のダート馬が激突する東京大賞典が残っている。幸いこちらもわずかだが口座に軍資金が残っているのでやるつもりでいる。
このところグンと冷え込む。雨ばかり。雨雲レーダーを見ながら犬の散歩に出るが、出雲の天気は突然変わるのでしょっちゅうずぶ濡れになっている。風は冷たいし、夏から比べたら遅くなったといえ7時頃から出かける散歩と夕方4時過ぎに出かける散歩は楽ではない。だが犬は催促するし、おツルさんも餌を待っているので出かける。おツルさんは俺たちの姿を見ると田圃を横切って走って来る。先日はしゃがみ込んで餌を置こうとしてもたもたしていたら、早くしろと背中を一回、頭を二回突かれた。おかげさまでこれだけ散歩しているおかげだろう。今年は一度も風邪を引いていない。インフルエンザもコロナも無縁だ。

今日は出雲演劇鑑賞会の12月例会。大社のうらら館でミュージカル「おれたちは天使じゃない」の公演があった。
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「今、今、今」は「翼のない天使」とともに演奏されたテーマ曲。作詞・藤田敏雄、作曲・いずみたく。初演は1974年。私が27歳の時。当時から評価の高かったミュージカルだったが、当時はミュージカルに興味がなかったので観ていなかった。あれから50年近く、1200回以上も上演され続けていると知り、忘れ物を取りに行くようなつもりで観に行く。今回はしんどい芝居ではなさそうなので、一年の疲れを落とそうと気楽に楽しもうと思っていた。
ところが50年近く、1200回以上上演され続けていたミュージカルはただものではなかった。話は単純である。冬の山荘に逃げ込んだ三人の脱獄囚が娘と心中しようとした父子を咄嗟に助けてしまう。知的障害のある娘は三人を天使と思い込む。脱獄囚は逃げるチャンスを窺っていたが、娘の姉が戻って来る。さらに姉の婚約者が父の金貸しと一緒に乗り込んで来る。金貸し親子は悪辣な手段で婚約者一家を破滅に追い込もうとしていた。それを知った脱獄囚は・・・と言うお話である。
「今、今、今」は脱獄囚が金貸し親子を成敗し(証拠の残らない方法で殺す)、山荘に別れを告げた後、エンディングに歌われる曲である。知的障害のある娘はいつか必ず天使たちが戻って来ると信じて別れる。

今、今、夜の終わりに 今、今、暗い広場で
今、今、見つめ合いつつ 今、今、恋が別れる
今、今、けれどその時 今、今、陽はまた昇り
今、今、空を見上げて 今、今、わたしは生きる
二度と帰らぬ時 今 それが私の命
今、今、このひととき ああ、今、この今こそ
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今、今、花が死ぬ時 今、今、虹を待つ時
今、今、船が出る時 今、今、涙ふく時
今、今、私は生きる 今、今、私は生きる
今、今、私は生きる 今、今、今、また生きる
二度と帰らぬ時 今 それが私の命
今、今、このひととき ああ、今、この自由を

このブログを書きながらも、今、私はこの歌詞を何度も何度も繰り返し口ずさんでいる。20年前に思いを致しながら。確かに私は生きて来たが、妻の病を前にしたあの時、「今、今、私は生きる 今、今、今、また生きる」と歌いながら生きていたらどうなっていたのだろうかと。
芝居や歌の受け止め方は人それぞれだが、今の私はもっと早くこの歌を知っていれば良かったと思いながら口ずさんでいる。「今、今、私は生きる 今、今、今、また生きる」

突然、前方の席から三人の女性観客がスタンディングオベーションした。私は驚いた。出雲でスタンディングオベーションを初めて見たのだ。これまで立ち上がって拍手したいと思った芝居はあったが、出雲の観客は誰も立ち上がらないので私もしたことがなかったのだ。私は嬉しかった。東京でスタンディングオベーションしたのは後に先にもまだ染五郎の時代の「ラ・マンチャの男」だけであった。
私も立ち上がって拍手した。「ラ・マンチャの男」以来20何年ぶりのスタンディングオベーションである。つられて隣の女性二人も立ち上がった。私たちの周囲だけだったが2、30人は立ち上がった。もっと大勢立ち上がって拍手してあげればいいのに。本当に出雲人はシャイなのだ。

本ブログの妻の語録(1)~(36)は2006年から2010年までの妻との会話を2017年から5年間36回にわたって紹介したものである。妻が倒れたのは2004年なので、2006年までの2年間が空白になっていたが、このたび入院してからの記録が見つかったので、改めて整理して紹介するものです。ただ手術してから声が出るまでに時間がかかったので、しばらくは術後の経過や病人を取り巻く状況の記述が続きます。少しずつ妻らしい個性的な会話を取り戻すまでの過程として読んで頂ければ幸いです。3回忌の年に妻への供養として記します。

2004年2月27日
朝早く娘に起こされた。「お母さんが倒れている」跳ね起き台所に駆け降りると妻が仰向けに倒れていた。氷のように冷たくなっていたが脈はかすかにあった。時刻は5時40分。すぐに救急車を呼び近くの杏林大学病院の救命センターに運ばれる。
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【術前の病状説明】
病名・脳出血。原因・高血圧。不整脈、意識障害重度、瞳孔不同、麻痺、呼吸はある程度しっかりしている。出血の範囲としてはかなり広範囲。一部(脳幹、生命中枢)にも及んでいる。手術(開頭血種除去術)は救命と言う意味で行う。手術をしてもいわゆる植物状態になる可能性は高い。

担当医はこのままだと一両日の命。延命手術をするかどうか決めてくださいと言う。ただし延命手術は命を取り留めるだけの手術で回復はしない。一生寝たきりかもしれない。よくて車椅子だと言う。親子で話し合う。息子と娘はどんな姿でも生きていて欲しいと言う。熊本の義母は「そのまま死なせてくれ」と言う。私は妻の言葉を思い出していた。いつだったかまるでこんなことが起きるのを予期していたかのように、「絶対に情けをかけないで、すっぱり死なせて」と言っていたのだ。妻は若い時は看護師だった。迷う私に義母から電話が来た。「やっぱり手術してください。みなが助かるかも知れない、と言うのです」
決めるまでに2時間ほど要した。手術は8時半から3時過ぎまでかかった。その間、また妻の言葉を思い出していた。「私は長生きしない」とか、「太く短く生きるタイプなの」とよく言っていた。「孫の顔を見たいとも思わない」とも言っていた。
【術後の病状説明】
大きなトラブルなく手術は終了してます。血圧が少し低かったので昇圧剤を使用しました。全身麻酔の影響は明日まであります。意識障害の程度(マヒ)の評価は明日以降。血種はほとんど取って来ました。周りの正常な脳組織は保ったが、一部の血種は残っています。脳圧への圧迫、解除、救命と言う意味では目的を達しえた。はじめの脳(生命中枢)へのダメージが大きく今後も急変の可能性はあります。今後、感染症、水頭症、再出血、脳梗塞の可能性はゼロではない。
2月28日
面会に行くが昏睡状態。その日の夕食は娘がスープを作ってくれる。冬休みに妻が教えたスープだ。妻は言った。「私にいつどんなことがあってもいいように教えたのよ」その言葉が昨日の様によみがえる。まさか本当にその言葉通りになるとはと思いながらスープをすする。
2月29日
親子三人で面会に行く。娘と二人で足を撫でていたら足が動き、しきりに上半身を動かそうとする。医師は予想通り脳のむくみが来ている。意識障害のレベルが判断できるのは5~7日後で、呼びかけに反応を示す程度と言う。
3月1日
医師は19年の経験で妻のレベルでは意識回復の例はなかったと言う。気管切開の説明を受ける。
【病状説明】
意識の中枢が血液によって破壊された。遷延性意識障害を起こしている。頭蓋内圧亢進により脳幹圧迫。瞳孔不同を起こしている。外減圧するために骨を外している。(手術する時頭蓋骨を切って穴を開けている)
【気管切開についての説明】
気道確保する。自発呼吸を促す。呼吸器の使用孔。
現在気管内挿管しているが3週間が限度。気道分泌物や口腔内雑菌が肺炎の原因になり、気管圧迫壊死を引き起こす恐れ。利点は呼吸管理が楽になる。換気効率が上がる。吸痰が容易になる。欠点は喉に傷が残る。声が出なくなる。
3月3日【気管切開手術】
大手術をしたばかりなのにまた手術。喉に管が通されているのを見ると余りの痛々しさに胸が潰れる。人外の存在になったような気がする。娘が泣いて、泣いて・・・。
こんな日もその足で銀行へ。診断書を持って行けば貸金庫を開けて貰えると思ったら戸籍謄本と印鑑証明が必要と言われる。私はお金のことは妻に丸投げしていたのでお金のことはよくわからず、妻のカードの暗証番号も知らなかった。市役所の出張所へ印鑑証明を取りに行き、出雲市役所にと戸籍謄本を請求する。
3月4日
娘と熊本から駆け付けたおばさん(母の妹)と三人で病院へ。温かいタオルで顔を拭くと口をかすかに動かす。昏睡状態は続き閉じたままの目じりに涙がたまっている。
3月5日
医師からこの先転院しなければならないと伝えられる。入院して8日目。気管切開して集中治療室にいるのに出て行かねばならないとは。茫然と耳を疑う。私はこの病院でずっと面倒をみてくれるものだとばかり思っていたのだ。病院は長くても三ヶ月しかいられず、三ヶ月経ったら転院しなければいけないなんて何も知らなかったのである。医師は気管切開している患者を受け入れてくれ、寝ていても関節を動かしりリハビリの施設のある所でなければならないと言う。病院のケースワーカに相談に行く。ケースワーカーも探してくれると言うが自分でも探さないわけにはいかない。だが皆目どうやって探せばいいのかさえも分からないと言うよりも、私にとっては目の前の妻のことだけで頭が一杯で、これ以上病院のことまで頭が回らなかったのである。ただただ途方に暮れるばかりだった。
3月8日
病院へ行く前に朝一番に調布市役所の介護保険課に行き介護保険の事を聞く。何しろ介護保険料は納めているがお世話になるのは初めてなのでイロハのイから聞かないと何も分からない。
【病状説明】
大脳広範囲にダメージ。脳幹へのダメージも大。神経症状の改善は困難。肺炎を起こしている。

医師から身障手帳の手続きをするように言われる。医師は重度障害と認定されるだろうと言う。
その後、また市役所へ行く。障害福祉課へ行き、身障手帳の手続きをする。妻が身体障害者になったことを法的にも確定される気がして寂しく思ったことが思い出される。まったく想像だにしていなかったことだ。
妻の看護学校時代の友人に電話して転院の相談をする。とても仲のいい友人で私も会ったことのある人。大きな公立病院の看護婦長をしている。行く先が決まらない場合、一時的に預かってあげると言ってくれた。その一言でどれだけ救われたか。地獄に仏だった。
3月9日
ようやく貸金庫が開けて貰える。その中に二人の子供名義の通帳があった。その時、「私がどうなってもいいようにしておいてあげる」と妻が言ったことを思い出す。いつのことだったか覚えていない。字ヅラでは重い話をしているように見えるが、特段深刻な話をしていた訳ではない。子のために貯金する。普通に親の気持ちを口にしたと思っていた。妻は生来気性が激しく気が強い、女にしては根性が座っている。典型的な肥後女で情が深くて、普段からこう言うもの言いをしていたのである。だがその言葉を覚えていたぐらいだから心の隅でどうしてこんなことを言うのかなと気になったのも事実である。
その足でつつじヶ丘支援センターへ行き介護の話を聞くが、この先の妻のことは想像も出来ず、介護と言われても声だけが通り抜けて何にも残らない。
3月10日【集中治療室を出る】
春の温かい風が吹き込む日。集中治療室から脳神経外科病棟に移る。二人部屋。13日目にして一般病棟に移ることが出来たのだから喜んでいいのだろうが、私は低いレベルではあるが安定したので移ったと受け止めていた。
一般病棟に移ったので、パジャマ4枚、バスタオルとタオル各数枚、シャンプー、洗面器などなど買い出し。
成年後見の資料集めも進める。妻は熊本の田舎(熊本地震の震源地)に数筆の小さな土地(山林とか雑種地)を所有しており、ほとんど無価値なのだが謄本をとらなければならないのだ。
3月11日
資料集めは今日も続く。九段下の東京法務局へ行き、【後見人になっていない】という証明書を取る。
夕方、娘と面会に行く。部屋を変わっても眠り続ける妻に、「お母さん」「お母さん」と小さな声で呼び続ける娘の声を聞いていると涙が出て来る。
3月13日
病室でお見舞いに来た妻の友達と会う。その人には「血圧が高い」と言っていたそうだ。どうして俺には言ってくれなかったのだろうと思ったが、妻は看護師だったから体調は自分で判断していた。本当に休みたいほど疲れた時は、コネのある先生に頼んで適当な病名を付けて貰って入院し休んでいた。妻はこれを「お休み入院」と言って、休みたい時の奥の手だと自慢していた。私も笑って聞いていて、妻が
「疲れた」と口にしたら、「お休み入院したら」と言っていたのだ。血圧が高くても休むほどではないと思っていたのだろうか。倒れる前も、熊本から戻って来て疲れていた妻に、お休み入院を進めたら、1週間後に入院すると言っていたのだ。
3月14日【妻の目が開く】
体位を変えてやろうとしていたら妻の目がふっと開く。何の前触れもない、突然の出来事に吃驚して思わず妻の目を覗き込む。倒れて17日目、初めて目が開いたのだ。だが喜びはすぐに消える。そこにあったのはガラスのように無機質な瞳。私を見ているのか、いやそもそも見えているのかどうかもわからない虚ろな瞳だった。ぴくりとも動かない。ようやく開いてくれたのに哀切限りなし。見ている方が辛くて目をそらす。
その時、なぜか思い出したのが、「私、死相が浮かんでいる」と言った妻の言葉。一年前だったか二年前だったか定かではないが、その時は気味の悪いことを言うなあと思いながらも、疲れているからだろうと深刻には考えなかった。だが妻の言葉を思い出した時はさすがに背筋がぞくっとしたことを覚えている。
「私、死相が浮かんでいる」と言ったあの時から、妻は「やっぱり疲れていたんだなあ」と思ったが、そこで思考停止状態になってしまいそれ以上深く考えようとはしなかった。と言うより、心がそっちに向かっていなかったのだ。妻が倒れて生活が一変していた。先が見えない不安。山積する後見人などの諸手続き。注文を受けて買い出した小説が一行も書けなくなった焦り。こういう時だからこそ、子供達にもまともな物を食べさせなければ・・・と、私もいっぱいいっぱいだったのである。
あれから20年、その妻も死んで2年経ち、今になって改めて遠い昔に思いを致した時、私は今回の出来事の根はもっと深い所にあったことに気づいたのである。
それは妻が倒れるよりも10年くらい前だった。私は一年間仕事が途切れたことがあった。長年メインで書いていた番組のライターの交代があったのである。私は師匠からこの仕事をしいていると一年くらい仕事のない事があると言われていたので覚悟は出来ていたのだが、妻はショックだったと思う。突然、翌月から収入がなくなるのだから。仕事はぼちぼち開拓するので大丈夫だと言ったが不安だったのだろう。私たちは息子が小児喘息だったので、マンションを賃貸に出して一戸建てを借りていたのだが、妻は早速引っ越そうと言い出した。言い出したら聞かないし、私の説得力不足もあって引っ越す。そして、一、二年して仕事も前ほどではなくてもぼちぼち回復した頃、働くと言い出す。文筆業の不安定さに懲りたのだろう。仕事は保険だが、妻は働いていることは絶対に子供達には知らせないと言い、子供が下校する時間には帰宅して夕食を作っていた。よくそれで勤まるなと思ったが、勤まるようにしてしまい、会社にも認めさせてしまうのが妻だった。しかも長男が小5も秋になって夫婦話し合い中学受験をさせることにした。
その頃、私にもまたまた一大転機が訪れた。ライター仲間に誘われて某大手ゲーム制作会社のゲームシナリオの制作にかかわることになったのである。だが専門の子会社を立ち上げるのでほぼ専任になる。TVの仕事はほとんど不可能になった。問題は報酬はゲームが完成して発売されてからになるのでその間は無収入になることだった。いくら妻が働いていると言っても貯えを崩さなければ生活できない。2年の辛抱(それくらいかかると思っていた)とはいえ、妻の不安と疲れは増すばかり。その間、長男の中学受験が終ったら、長男だけ私立にやるのは不公平なので長女も中学受験をさせることになった。
かくして2年以上経ってようやくそれなりの報酬はあったものの妻は疲れ切っていた。一方会社はうまく行くはずだったが、私は体力以上の仕事を進める経営方針に違和感を覚え、会社の将来に不安を感じていた。そこへ小説執筆の話が舞い込んで来たので、私は会社のかたわら時代小説の執筆に取り掛かることにした。
妻にしてみれば、やっと会社がうまく行くと思ったところに、私がTVの脚本ならいざ知らず、時代小説作家を目指すと知ってどれだけ驚いたことだろう。いい加減にしてくれと思ったことだろう。だが私にしてみれば時代小説を書くことは夢だったからこればかりは譲れなかった。どの道、会社はうまく行かないことは分かっていたから、時代小説には背水の陣で臨んだ。二人の子はもう大学生になっていた。「子供たちが小学校に入ったら小説を書いてもいいよ。それまではTVに専念して」と妻が願ったのは下のお子が生まれた頃だった。それが、中学校に入ったら、高校に入ったら、大学に入ったらとどんどん延びて、長男は来年卒業というところまで漕ぎつけていた。妻には苦労を掛けさせたが、私にしてみればここまで我慢して来たのだからもういいだろうと思っていた。これ以上齢を取ったら執筆の依頼は来なくなる。私にとっては最初で最後のチャンスだったのである。
ところが状況はさらに悪化し、会社は継続か閉鎖かのぎりぎりの所に来ていた。私は時代小説を書きながらも、会社を存続させようと頑張っている若手に請われて、朝早くから夜遅くまで会社に通っていた。妻が倒れたのはそんな時だったのである。あの当時の私は妻の積もり積もった不安や滓の様にたまった疲労の何分の一も分かっていなかったのである。

次回は「耳が聞こえることが分かった日」です。

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