曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2024年10月

 この芝居は昭和20年8月下旬、演出家八田元夫が世田谷赤堤にある劇作家で詩人の三好十郎宅を訪れる所から始まる。
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 八田は広島から運んで来た新劇の俳優丸山定夫の骨壺を三好に差し出す。丸山は移動演劇桜隊を率いて広島に滞在中に原爆投下に遭ったのである。丸山は新劇の団十郎と呼ばれる名優だった。丸山は三好の芝居「獅子」を演じるために広島に下っていたのだ。丸山の死を悼んで苦い酒を酌み交わす八田と三好。「獅子」は作者三好、演出家八田、俳優丸山三人の共作とも言うべき芝居だった。

 時は昭和19年の秋に戻る。
 丸山は主催する劇団「苦楽座」で演じる「獅子」の演出を八田元夫に依頼した。だが八田は治安維持法に触れて検挙投獄され出獄したところで演出家登録は抹消されていた。演出は不可能だった。「獅子」の成否を八田の演出に賭ける丸山は八田に覆面演出家になることを要請する。ばれたら八田のみならず丸山もただではすまない。丸山の覚悟と熱意に八田の演出家魂も動かされる。
 そして、この「苦楽座」の「獅子」の稽古が劇中劇として演じられて行くが、すでに戦局は悪化の一途をたどっていた。空襲に逃げまどい、突然役者が兵隊にとられるなどの窮地に追い込まれながらも丸山たちは「獅子」の公演にすべてを賭ける。
 
 戦時下に丸山たちが命がけで演じようとする「獅子」とはどんな物語か。それは嫁ぐ娘雪と丸山演じる父とのドラマだった。雪は母が進める意に沿わない結婚に従おうとしていた。それが貧しい一家を救うことになるから。だが父は知っていた。雪には本当に好きな男がいることを。父は何度も娘に問う。「この結婚、本当にいいのか」
 父はくどいほどに問うが雪の決意は固かった。固ければ固いほど、父は娘の心根がいじらしくてならない。父は最後に声を振り絞って訴える。
「人には最後には自分一人だけで決めなければならないことがあるのだぞ」と。
 雪はうつむいたまま応えなかった。

 次々と襲い来る苦難を乗り越えて稽古に打ち込む「苦楽座」に国から衝撃の通達が下される。国内すべての劇団は移動演劇連盟に編成され、国が決めた国策演劇を演じなければならなくなったのである。参加しないと最早自由な演劇活動は出来なくなるのだ。だが参加して国策演劇を一本演じれば、もう一本は自分たちのやりたい芝居をできるという餌を投げ与えていた。
 丸山たちは悲憤慷慨する。国家は何と卑劣な策を弄するのか。丸山たちが目指す演劇は国策演劇とは相いれないものだった。国策演劇を演じることは魂を売り渡すに等しいことだった。だが、我慢して国策演劇を一本演じれば「獅子」をやれる。丸山たちは悩む。そして丸山は「獅子」を演じるために移動演劇に参加することを決意する。国は丸山たちに移動演劇桜隊の劇団名を与える。拠点は広島だった。広島を拠点に中国地方を慰問して回るのだ。
 広島と聞いて動揺する劇団員たち。広島は軍都として知られている。誰もが大きな空襲必死の都市と思っていたのだ。
「他に候補地はなかったのですか」
 実は丸山たちが移動演劇の参加に逡巡している間に、他の劇団は長野のような安全そうな都市を選んでいて、広島だけが最後まで残っていたのだ。どの劇団も広島を忌避していたのだ。
 丸山は笑って仲間を励ます。丸山の出身地は松山。広島にはなじみがあった。自分にとっては故郷に帰るようなものなのだと。ところが広島へ行く直前になって、雪役の女優が辞めると申し出る。母一人娘一人の母娘は東京から疎開するのに母を一人で疎開させるわけには行かなくて、女優は母と一緒に疎開したいと訴える。丸山は快く受け入れた。突然重要な役者を失ってどうするのだと皆途方に暮れるがが代わりの女優が現れた。
 彼女の出兵した恋人が朝鮮にいる。広島なら朝鮮に近い。少しでも恋人の近くに居られるのならと代役を志願したのである。他にも天下の名優丸山定夫と芝居が出来るのならと広島行きを望む役者も現れる。移動演劇桜隊はまるで魔に魅入られたように広島に向かう。そして、桜隊は国策演劇と「獅子」を持って中国各地を慰問して回り、昭和20年7月中旬に広島に戻って来たのである。

 「獅子」の最後の場面は劇中劇で演じられる。
 雪の祝言の日。丸山演じる父の元に雪が祝言の途中に愛する男と駆け落ちして満州へ向かったと知らされる。そこへ列車の汽笛が聞こえて来る。その列車に娘が載っていると知った父は部屋の隅にあった獅子を被ると、走り去る列車を獅子舞で見送る。それは娘の幸せを願う一世一代の獅子舞だった。
「お雪、人間一生一度の大事の時は、自分が本当に正直に、したいと思うことを思い切ってやらなならんぞ。それが人間の道じゃぞ」
 
 その振り絞るような絶叫はまさしく丸山定夫その人の絶叫であり、「獅子」にすべてを賭けた人たちの叫びであることを観客は知るのだ。

 私は久しぶりに心の底から感動する芝居に出会ったと思った。実は私はこの芝居を見るまでははっきり言って余り期待していなかったのである。今年の出雲演劇鑑賞会はすでに4本公演しているが、気乗りのしない演目が続いていたので3本連続で休んでいたのだ。だがこのままでは観劇料がもったいないので年内最後の二本はどんな芝居でも見ようと決めていて見た一本だったのである。
 なぜ「獅子の見た夢」に気乗りしなかったかと言うと、実は宣伝のビラに書かれていた数行の文章にあった。それには
 
 「平和」「民主主義」を
 口にしただけで・・・。
 それでも命をかけて芝居をやり続けた
 新劇人たちがいた・・・。
 彼らにとっての果てしなき夢とは!

 とあったのだ。私はっこの冒頭の二つの言葉「平和」と「民主主義」に引っかかるものを感じたのである。率直に言って「ああ、そういう芝居か・・・」と先入観を持ってしまったのだ。「平和」と「民主主義」、何も間違ってはいない。正しい言葉である。77歳になる戦後生まれの私はこの二つの言葉を生まれた時から散々聞かされて育って来た。反論のしようもない正義であった。だがその言葉は錦の御旗のように振りかざされるうちに、私にとっては手垢のついた言葉になっていた。その言葉を語る人はみな同じ顔で、その言葉で動く人もいつも同じ方向。非難している訳ではない。どんな素晴らしい言葉も人間と同じように老いる。その言葉が悪い訳では決してない。使い続ける人(社会)が気づかないうちに、人も社会もいつしか力を失い輝きを失うように言葉も力も輝きも失ってしまう。私にとって「平和」と「民主主義」はそういう言葉になっていた。

 そして、芝居を見て私は衝撃を受けた。何だ、私が想像した芝居と全然違うではないか。いい意味で裏切られたのである。手垢のついた「平和」と「民主主義」でくくれる話ではなかったのである。もっと根源的な、極限に生きる人間がどう生きるかと言う普遍的なテーマを追求する芝居だったのである。
 もう一度繰り返そう。
「お雪、人間一生一度の大事の時は、自分が本当に正直に、したいと思うことを思い切ってやらなならんぞ。それが人間の道じゃぞ」

 丸山定夫が叫んだであろうこの台詞に太刀打ちできる言葉があるだろうか。
 だからこそ芝居のビラの下の小さな宣伝文に不用意に使われた「平和」と「民主主義」が勿体ないのだ。どんな時代にあっても人が自分に正直に生きることがどういうことかを追求した芝居だと書いていてくれたら、私も先入観を持たずに観劇できたのに。
 でも、こういうことがあるのも芝居の面白さかもしれません。
 期待して裏切られたことも何度もありますしね。

 先日、古いノートが出て来た。それは20年前の2004年の2月末、妻が脳出血で倒れてからの記録だった。重度の障害が残った妻を伴って2011年に帰郷した時、どこかに紛れ込んで行方不明になっていたのである。それは救急車で運ばれて延命手術を受けた時から始まり、二度の転院、リハビリを経て自宅に戻り、その後の在宅介護の日々を記したものだった。
 見つけた時の第一声は「ああ、もっと早く見つけていたら間に合ったのに・・・」
 どういうことかと言うと・・・

 私はこのブログのカテゴリー『泣き笑い介護日記』の中で、2017年7月から【語録】というタイトルで妻の言葉を掲載していた。これはその時からさらに遡ること11年の2006年の1月から日々記録した妻の言葉を紹介したものである。
 2004年に入院した時から記録したものは言わば治療記録であり、リハビリや病院生活、家庭に戻ってからの妻の介護に振り回されてのてんやわんやの日々を記したものである。
 これに対して2006年から書き留めたたのは折々の妻の言葉だけである。食卓の上に置いてある小さな手帳に、脳に障害を負った妻の発した面白い言葉や、はっと胸を突かれた言葉、時には哀しい言葉など心に止まった言葉だけを書き留めた。在宅介護にも慣れて来て、少し心身に余裕が出来た時、妻の言葉に衝撃を受けたことがあって、妻が懸命に生きている証として書き留めて置かなければいけないと思って始めたことなのである。
 2017年に『泣き笑い介護日記』の中で、この【語録】を掲載しようと思い立ったのも、たまたまこの時も行方不明になっていた手帳が出て来たからだったような気がする。そして、この【語録】を掲載する時に思ったのが、(2004年に入院した時からの、あの記録があれば、初めて目を開けた日、初めて字を書いた日、初めて声が出た日のことなどを載せることが出来るのだが・・・あの過程があったからこそここまで喋れるようになった妻をより深く理解してもらえるのだが・・・残念ながら諦めざるを得ない・・・)
 だが遅くなったけれど思いがけず待望の記録を手に入れた。これで2004年2月から2006年1月までの空白期間を埋めることが出来る。曖昧な私の記憶もはっきりし、常々もう一度見たいと思っていた妻が初めて書いたぐじゃぐじゃの文字のコピーもあるかもしれない。

 期待に胸をふくらませて読み返した私を襲ったのは衝撃だった。曖昧な記憶どころではない。私の記憶は間違いだらけだったのである。例えば気管切開したのは開頭手術してから1月後ぐらいだと思っていたのだが、実は術後わずか三日目だったのである。さらにひどいのは、妻が字を書くようになったのは私がマジックを握らせて書かせたからだと思っていたのだが、実は妻の友人の二人の主婦が見舞いに来た時ふとためしに書かせたのがきっかけだったのである。ガーンと頭を殴られた。この20年間で何と私はモーロクしていたことか。
 喉を切開されチューブを通された悲惨な姿になった日を忘れていたなんて、いい加減にもほどがあると叱る妻の言葉が聞こえたような気がした。字が書けるようになったのがあなたのお陰なんてどの口が言うのかしら。あなたは私が書けることを知ってから見舞いに来るたびにマジックを握らせ
て書くことを無理強いしていたのではないですか。ほんとにあなたと言う人は、と呆れる声も聞こえた。
 返す言葉もなかったが救いは一つだけあった。
 それはこの記録が出て来たのが妻の三回忌の年だったことである。私は妻が届けてくれたような気がしたのだ。馬齢を重ね、妻よりも長生きしているモーロク爺さんに、妻はあれこれ書かれるのは迷惑だけど、ここまで書いて来たのだから最後まできちんと書きなさいよ。と、そう言っているような気がしたのだ。妻の三回忌の年は私の喜寿でもある。これ以上モーロクが進む前に、まだ体力も気力もあるうちに在りし日の妻の言葉を書き留めておこうと思う。感謝を込めて。

 次回から「目を開けた日」「耳が聞こえていることが分かった日」「字を書いた日」を経て、「はじめて声が出た日」、そしてその後の妻らしい言葉の数々を綴って行く予定です。

今日は町内の大年神社の秋祭り。町内5組が毎年持ち回りで祭りを主催するので5年に一度回って来る。今年が我が中組の主催。神社は元は中組内の家の屋敷神が勧請されたもので神社も中組内にあるからか、私がみるところ祭りに対する愛着はひときわ強く思われる。他の4組が主催する時はどんどん簡素化して行くのだが、中組だけは時代の波には抗せず、昔のようには出来ないまでも頑張ろうと言う気持ちは強い。
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左)10月9日 中組の会館の前にはやばやと神事華(じんじばな)の杭が打たれる。
右)10月17日 神事華の傘が作られる。これを作るのが大変で今では中組以外ではどこも作らないうちに最早作れなくなってしまっているが、中組ではまだ作れるのだ。しかし、5年前と同じ大きさの物を作るのは流石に辛くなり、前回の7割の大きさの神事華を作ることになった経緯がある。
この会館で夜中に獅子舞の練習をしている。
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10月18日 19日が雨予報になったので、本当なら当日の朝7時から各家庭15個ずつ折った花を持ち寄って結びつけるのだが、18日の朝7時に持ち寄り、法被を受け取って帰る。前回まではみんなで結びつけたが今回は役員だけで結びつけたようだ。
ひどい雨になりそうだと言うので午後ビニールを被せる。
10月19日 朝5時ごろから雷が鳴って雨が降っている。風もすごい。どうなることやらと思っていたが8時頃には小降りになる。
10時。会館前で全員法被姿で集合写真を撮って、会館でお祝い。酒が振舞われ仕出し弁当が出る。
11時。お開きになり、いよいよお祭り。
町内各戸を番内と獅子が回る。
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我が家にも番内と獅子が来て、私は獅子に頭を噛んでもらい、番内は青竹で玄関先を激しく叩く。私はご祝儀3000円を渡す。一人暮らしで、迎えるのは私一人だから撮影係がいないので頭を噛んでもらう写真などは撮ることができない。
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その後、会館前で出発の獅子舞。
神事華を先頭に組内を練り歩き大年神社に向かう。
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笛を吹いたり、車で太鼓を打つのは大年神社の氏子ではないが、近くの神楽保存会の人たち。獅子舞を教えに来てくれるのも保存会。この保存会があるおかげで祭りが出来ているのである。
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中組内をぐるっと回って大年神社に神事華到着。皆で拝む。
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神社で獅子舞奉納。獅子舞の3人は酒と疲れでヘロヘロ。
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獅子舞の奉納が終った後、神事華倒し。私も花を貰って帰る。
番内と獅子舞が各戸を回り始めた時、30分ぐらい強い雨が降っただけで家で迎える私たちは濡れることはなかった。土砂降りの祭りを覚悟していたので皆無事に終えて喜んでいた。
だが、私と同じ年のMちゃんは今回も少し手伝ったが5年後にはもうできないと言っていた。後を継いで神事華を作れる者がいないので、今年が最後かもしれないとあきらめ顔。

2年前に部落水道の水質が悪化したので井戸を掘りなおしたものの、また水が濁りさらに水量まで極端に減ってとうとうちょろちょろとしか出なくなった。我が家だけでなく隣家もその裏の家三軒は夏前からみな同じ状態。この夏も部落水道を使っての水まきが出来ないほどだったので、ついに三軒を代表して畑先生が前回井戸掘りした水道屋を呼び、修理を依頼する。調べた結果、井戸は移動して掘り返したが水道管は何十年も昔のまま。水垢がたまっているのだろうとの結論に達したのだが、ポンプの東側4軒の水道管を掘り返して取り換えるとなるとどれだけの金と日数がかかるかわからない。そこで水道屋と畑先生が考えたのは市水道の水を部落水道の水道管に流して圧をかけるというもの。市水道の水の圧力で部落水道の管にたまった水垢を押し流そうと言う訳だ。二、三回ためしてもあまり効果がないので、少し離れた東側のもう1軒を含めた4軒全部の水道管に一斉に圧をかけて水を流すことに。そこでポンプに一番近い所から市水道の水を部落水道の管に流し込んだのであるが、我が池は・・・
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9月30日の池。          10月3日の池
部落水道の水はホースで池に流していたのであるが、水道屋のミスで私の家の部落水道の蛇口を確認していなかったので、一気に圧をかけて水を流し込んだらあっと言う間に池はまっ茶色に。目論見通り水垢が一気に押し流されたのはいいのだが、排水溝に流すはずの水が全部池に流れ込んでしまったのである。気がついて慌てて蛇口を締めるも後の祭り。沢山のメダカや島根県の準絶滅危惧種の水カマキリの全滅を危惧したが市水道の水を流し込んだら10月3日には茶色の水は消えた。メダカも水カマキリもトンボのヤゴや川えび、貝もどうやら無事。水道管のつまりはとれて水量は元に戻ったが、水垢は完全にはとれなかったようでいまだに流れ出るので、池に水を入れる前には30分ぐらい水を流しっぱなしにして綺麗な水が流れるのを確認してから使わないといけない。
8月9月の市水道代の請求が来た。いつもなら6000円ぐらいだが、この夏は部落水道がほとんど使えず池や庭の水まきに市水道を使ったので17000円もかかっていた。
さて、次の問題が我が家の門の東側のヒイラギの生垣。
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10月2日
ここはヒイラギの生垣だったのだが、カヤが繁茂しヒイラギが見えないほどになってしまった。何年も前からカヤを抜こうとしていたのだが、ヒイラギの根にからみつきもう手の施しようのない状態になっていた。このまま放置していたらカヤはどんどん庭に向かって伸びて来るので、ついにヒイラギごとカヤを抜いてもらうことにした。10月2日に半日で一気に抜いてもらう。
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礎石の上には私が大学生頃までは土壁に黒い板を打ち付けた上に瓦屋根の長い塀が続いていた。50年くらい前に祖父が崩れかけた塀を取り壊してヒイラギの生垣にしていたのだが、それも父の代になってきちんと管理していなかったのでこんな有様になった訳である。
見た目はすっきりしたが礎石の内側にはまだ取り残したカヤの根があるのでこれを時間をかけて取り除かないとまたカヤがはびこる。どんな塀にするかはカヤを綺麗に取り除いた後のことだ。カヤが除草剤で枯らすことが出来たらいいのだが。多分できるはずだ。

お彼岸は9月19日から9月25日までであった。毎年、お彼岸は土手道、野良、畑、庭、どこも彼岸花が咲き誇り真っ赤に染まっていたものだが、今年はうちの近所ではどこも彼岸花が咲かなかった。9月の10日を過ぎても芽が出て来ないのでおかしいなと思いながら毎日見るも一向に芽が出る気配もない。
9月18日。明日が彼岸の入りなのに。
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道路からの入り口。毎年たくさん咲くのにこの有様。気配もない。球根もこの状態。今年の暑さで枯れてしまったのかと思った。この頃には、皆、この夏の猛暑のせいで遅れているのだろうと言っていた。最低温度が20℃ぐらいにならないと咲かないのだが、この時期の出雲は最低気温が27℃と言う日もあったくらい暑かった。私は8月よりも9月の方が暑かったのではないかと思うくらいだった。朝夕、犬の散歩をするので暑さは骨身に沁みていたのだ。朝夕でさえこたえたのである。昼間なんて畑に出たら目が眩んだものだ。
9月24日の朝。
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前日の23日になって、ちょっと涼しくなったかなと思った翌朝、やっと小さな芽が数本顔を出す。最低気温は22℃だった。今年は駄目かと思っていたのでほっと胸をなでおろす。
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左)9月26日朝。芽が伸びて、本数も増える。
右)9月28日夕。一気に芽が伸びて蕾が膨らむ。
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10月1日。ようやく咲くも去年の三分の一ほど。全国ニュースで彼岸花は一週間から10日遅れていると言っていたが我が家でも10日近くは遅れたのではなかろうか。
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生垣の中。柿の木の下の彼岸花。去年より少ない。
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左)庭の片隅。白いのが一本ぽつんと咲く。去年までは毎年赤い彼岸花が咲いていた場所である。突然、赤が白に変わることがあるのだろうか?それとも今年は赤が咲かなくて、白いのが新しく芽を出したのだろうか。来年、どうなるか。楽しみが出来た。
右)池の側の白い彼岸花。去年より少し少ない気がする。
昨日10月2日雨になり、突然、寒くなる。最高気温が22℃。今日3日も雨で最高気温21℃。例年の10月中旬から下旬の天気になり、大慌てで半袖を片付け、長袖を引っ張り出して秋仕度したが、5日土曜日は30℃になるらしい。秋になるなら今からでもいいから秋になって欲しいものだ。もう暑いのはさよならしたい。

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