曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2024年05月

去年、100個作るとぶち上げて敢え無く大失敗した『ウルトラ万次郎』かぼちゃを今年こそはと再挑戦した。同じ雑草ぼうぼうの荒れ地を気合を入れて3月頃から少しずつ草抜きし、1週間前には苦土石灰をまき堆肥も撒く。普通、カボチャ作るのに全面に石灰や堆肥をまいたりしないので、畑先生も首を傾げていたが「100個も作るとなると堆肥もまいておかないといけないんじゃないんですかね」と説明書通りにやる。
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5月21日
苗の穴を掘り底に堆肥を放り込み土を放り込む。去年はさらに化成肥料と鶏糞も入れたが、ネットで調べたら万次郎かぼちゃは肥料過多にならない方がいいとあったので堆肥だけにした。
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5月22日
ウルトラ万次郎かぼちゃの苗を植える。右が受粉専用苗。去年、敷き藁を敷いたらダンゴ虫が襲来して小さい受粉専用苗は数日後には無惨に食われてしまった。これが失敗の原因だったので、今年は高畝にしてマルチまで張る。さらに、強い風から守るためにカバーもする。
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カバーの天井には小さな穴が開いているのでじょうろで水をやることができる。
この二本の苗が伸びてこの畑を埋め尽くして、うまく行けば(上手な人は)100個のかぼちゃを作ることができるのだそうだ。今年はダンゴ虫の姿も影も見ないので、10個もできればいいなと思っている。20個も出来たら大成功だ。さて、どうなることやら。
ところで『万次郎かぼちゃ』はあまり聞いたことのないかぼちゃだが、これは高知県で開発されたかぼちゃだそうだ。西洋かぼちゃと日本かぼちゃをかけあわせたものである。西洋と日本の融合を象徴するものとして、幕末の土佐の漁民で漂流してアメリカに渡ったジョン万次郎から名前をとって命名したのだそうである。『万次郎かぼちゃ』は熊本で力を入れて作っているそうだ。多収量のカボチャだそうだが、同じ多収量の『ウルトラ万次郎』との関係はネットを読んでもよく分からない。写真の見た目はほとんど同じなのだが。

今日5月25日、空豆の残っているものを全部収穫する。昨日、収穫して人にあげたものが黒い斑点が出来ていたり、実が割れていると知らせて来たので慌てて調べる。
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半分以上がこんな感じ。シーズン末期で葉も落ち始めている。
空豆の第一弾は大量に収穫して東京に送った。実は例年よくできているので確かめずに送ったのだ。御礼のメールは美味しかったとあったので安心していたのである。そして第二弾を送ろうと思っていたのだが、色々忙しくて延び延びになっていて昨日送ったらおかしくなっていたと言うわけである。おそらく熟れすぎてしまったのだろう。
今朝、第二弾の残りを隣のMちゃんにおすそ分けしていたので、慌てて謝りの電話をしたら、何と夕方隣から空豆御飯が届く。
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小さい空豆も入っている。食べたら傷んでいるかどうか全然分からない。Mちゃんの奥さんは料理がうまいのだ。出来損ないの空豆をおいしい空豆御飯にしてもらってとても救われた気持ちになった。
秋にはウルトラ万次郎で御礼をしよう。

5月13日には薩摩芋を植えた。
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『らくらくいもづる植え棒』なるものを、ネットで500円ほどで購入。
マルチに穴を開けなくても、芋のツルにひっかけて直接植え付けることが出来るのだ。これは簡単。
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じゃが芋(手前)の向こうに、薩摩芋を植える。
最近はねっとり系がブームだけど、飽きたので「バイオ鳴門金時・24本」と「べにあずま・31本」を植える。

だいぶ前の記事で私はおツルさんの世話をしているお婆さんが入院しているのではないかと書いたが、ある日の夕方、マルコの散歩の帰りに川の側でばったりとお婆さんに会った。思わず「退院されましたか」と言ったら、「はあ?私は元気ですけど」と言われてしまった。いつも夕方5時半頃にはおツルさんに橋の袂の定位置で餌をやっていると言う。

それが一ヶ月以上も前の48日のこと。
私は夕食を作る時間があるのでその頃は犬の散歩は4時から5時の間にすませていたから5時半に現れるお婆さんにはすれ違いで会えなかっただけのことだったのだ。分かってみればアホみたいな理由だ。それを早とちりして病人にしてしまって申し訳ないことをしてしまった。
たまたまその日はお婆さんが早く出て来て、私の犬散歩がいつもより遅かったので会えたのだ。久しぶりに会ったので話が弾む。お婆さんはそろそろおツルさんは7月頃までは定位置に現れなくなると言う。なぜなら中学校の校庭でテニスボールを集めて温めるからなのだそうだ。以前、誰かがそのボールを処分してしまったらおツルさんがパニックを起こしたこともあったそうだ。今はどこで温めているかわからないがきっと中学校の近くのどこかでテニスボールを集めて温めているに違いないと言う。
不思議なことに毎年、7月7日~9日を過ぎると必ずまた5時半ごろにはこの場所へ戻って来るのだそうだ。
その話を聞いてから1ヶ月以上になるが、お婆さんの言葉通り、おツルさんは夕方には段々現れなくなり今や朝夕は中学校の近くの麦畑や土手などに出没している。
私は朝夕中学校の近くへ犬散歩するので殆ど毎日のように餌をやっているのだが、近ごろやたらおツルさんが座り込む場面に出くわしていた。時には座ったまま翼を丸めてヒナをくるむような格好をする。それ以前からもたまに座りこむことがあってどうしたのだろうと思っていたのだが、お婆さんの話でようやく納得が行った次第である。
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お婆さんが言うにはこのおツルさんは30年も前からここに住み着いたようだが、どうやら鹿児島の出水で越冬する鶴だったようだ。いつからテニスボールを抱くようになったのかは分からないが、毎年、季節になったら本能と言うか、習性と言うか、遺伝子の命令なのか、テニスボールを抱き続けるおツルさんが哀れに思えてならない。一度でも本物の卵を抱いたことがあるのだろうか?
本物の卵を抱いたこともなくテニスボールを抱くのも哀れだが、もしかして一度でも卵を産み孵したことがあったとしたなら、それもまた哀れな話であるが、実はこのおツルさん、おばあさんにもオスかメスかわからないのである。おばさんはツルはオスも卵を温めるのでオスではないかと言っていた。
そう思うと会えない日もあるが顔を合わせる度に、齢も性別も分からないのだけど決して若さは感じない顔が愛おしくてならない。どんな鶴の人生を歩んで来たのか。

おばあさんとの出会いはお婆さん夫婦が引っ越して来た十数年前になると言う。

その頃、住まいの前の川には4羽の白鳥一家がいて、一家と一緒におツルさんもいたのだそうだ。夫婦は毎日白鳥一家とおツルさんを見物していたところ、何を思ったのかおツルさんが川から上がって来たのだそうだ。その時、お婆さんはふと餌をやれば食べるのではないかと思って餌やりを始めたのだそうである。

その後、御主人が亡くなり、えさやりは10年以上になる。数年前までは朝夕やっていたのだが、さすがに朝が辛くなり、「ごめんね、私も齢で朝は辛くなったので、朝はどこかで誰かに貰ってちょうだい」と言って、今は夕方だけに餌

やりをしていると言う。

だから朝、私が餌をやり元気でいると報告するととても喜ぶ。毎夕方会えない日もあるので今では餌をやった日は小石を所定の場所に置いて教えることにしている。七夕を過ぎて戻って来たらおばあさんと二人で餌をやることができるだろう。

ところで我が家に毎年来る鴨のカップル。
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毎年、必ず卵を一個だけ産むが温めたことはない。産みっぱなしである。

4月28日の補欠選挙の前日、私は隣家に電話した。「投票用紙が送って来ないんだけどどうしたんだろう」「選挙があるのは島根1区ですよ。出雲は2区ですよ」と笑われた。道理で静かなはずだ。世間で騒がれているわりには静かだなあと思っていたのだ。
結果が出た後の翌日、畑で近所の主婦二人を交えて選挙の話。一人は60代後半、一人は70代前半。60代主婦はなんと亀井亜希子の応援に行ってたと言うのでビックリ。選挙区でもないのに手伝いに行ってたとは。「他県の人からは保守王国なんて言われて馬鹿にされているみたいでねえ」「ほんとよね、応援した甲斐があったわねえ」
まさか60代主婦と70代主婦からこんな台詞が出て来るとは。当地は出雲でも昔ながらの古い風習が未だに残っていると言われている土地柄なのにである。「ま、これからが、どうかよねえ」と今回が一過性のものかどうかまで言及するほど冷静に見ているところもなかなかのものである。出雲の老年主婦もたいしたものだと改めて見直す。
日本中の小選挙区の中でたった一つ自民党が独占していた議席を今回初めて奪ったのが亀井亜希子。父親が亀井久興という自民党代議士で、亀井亜希子も小政党を渡り歩き今回は立憲から立候補した訳だが、実はこの亀井亜紀子はその血筋を遡ってゆけば、このブログでもしばしば取り上げ、わたしが小説を書いている多胡辰敬につながるのである。
辰敬の子孫の話もブログでは何回か書いているが(最終章10章の後日談にも書いた)忘れている人もいれば最終章は読んでいない人もいるでしょうから改めて紹介することにします。

岩山城で自害した多胡辰敬には一男一女があり。その娘が結婚したのが湯永綱。湯氏と言うのは今の玉造温泉あたりを領した国人領主で尼子氏でも有力な武将だった。辰敬の娘と永綱の間に生まれたのが湯新十郎である。尼子氏が毛利に滅ぼされた後、この新十郎が山中鹿之助のもとに馳せ参じて尼子再興のために戦う。鹿之助は若くて豪胆有能な新十郎をいたく可愛がる。この時、鹿之助は尼子の重臣だった亀井氏の長女と結婚し亀井鹿之助と名乗っていたが、鹿之助の兄が死んだために山中家を継がなければならなくなる。尼子の名家亀井の名が絶えることを惜しんだ鹿之助は、妻の妹を新十郎に娶わせ新十郎に亀井姓を名乗らせる。亀井新十郎の誕生である。亀井新十郎は山名鹿之助が毛利に殺された後は尼子再興の中心となって秀吉に仕え、尼子びいきの秀吉からも可愛がられる。
有名な話がある。秀吉が毛利攻めをしている時、秀吉は毛利を滅ぼしたら亀井茲矩(これのり・新十郎改め)に出雲半国を与えると約束した。ところが本能寺の変で信長が殺されたので秀吉は毛利と講和し中国大返しをする。茲矩との約束も毛利と講和してしまったので果たせなくなってしまった。
秀吉は気の毒に思い、茲矩に望みの国を与えるから欲しい国を申し出るように言うが、茲矩は琉球を征服するから琉球を下さいと言い秀吉をいたく喜ばせる。秀吉は茲矩に琉球守と言う受領名を与えた。正式な受領名の中に琉球守という受領名はない。後にも先にも一時的であったが琉球守を名乗ったのは亀井茲矩ただ一人である。この後、茲矩は因幡国鹿野城主に取り立てられ一万三千五百石の大名となり、秀吉没後は関ヶ原の戦いでは東軍につき、三万八千石となる。
そして、その子政矩(まさのり)の時、津和野藩主となって四万三千石を領す。
以後、亀井家は津和野藩主として明治に至り、今回の補選で当選した亀井亜希子に続くのである。
ところで、亀井家の次女を娶った新十郎であるが夫婦の折り合いが悪く暫くして別れてしまう。その再婚の相手が、多胡重盛の娘である。即ち辰敬の長男の娘。新十郎にとっては従妹になる。新十郎は母が辰敬の娘で、妻は辰敬の孫ということになる。津和野亀井家の初代は母から辰敬の血を受け継ぎ、再婚した妻からも辰敬の血を受け継いでいるのである。

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