曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2024年02月

去年の暮れから犬の散歩コースを新内藤川の南の田園地帯に広げた。
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そこで出会ったのがこの景色。冬の朝日の中に静かにたたずむ小さな社(やしろ)。新内藤川の土手を歩いていれば遠くに見えるのだがまじかに見たことはなかった。この日の朝は近くを通りかかった時、これまで感じたことのないとても清らかですがすがしいものを感じて思わずスマホで撮影した。それからは散歩の途中、立ち寄っては写メする。
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遠くから見ると広い田圃のなかにぽつんとある小さな小さな社である。
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個人の田圃の中にある。昔からあるのか、それとも田圃の所有者が作ったものかはわからない。
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社には新屋荒神社とある。平成2410月吉日建立。ご神体は2つの石である。
新屋(にいや)荒神社(こうじんしゃ)と読むのだと思う。「新屋」とは調べたら「新しく作る家」他に「本家と分かれて分家をたてる」と言う意味があった。畑先生に聞いたらこの荒神様は畑先生が子供の頃からあったと言うから80年以上も昔からあったことは確かだ。ただしここらは田んぼの区画整理をしているので昔から同じ場所にあったのか、移動したのかは分からないと言う。今もどの程度の規模かわからないが祭りをしているそうだが、私は見たことがない。

小さな石の御神体が二つあるところを見ると、いつの頃からか田んぼの中に小さな荒神様があったが、社が古くなったのか、廃れたので新しく社を作り直し敷地も整備し、「新屋荒神社」と名付けたのではなかろうか。

我が家の先祖が享保年間に没しているので、このあたりが開墾されたのはそのあたりと思われる。それ以前はこの辺から海岸まではずっと荒れ地だったし、さらにそれ以前、杵築大社(出雲大社)が出来た頃はこの近くまで神門(かんど)水海という入海になっていたので、この荒神様の起源がそれほど大昔に遡ることはないと思われる。

だが私は朝日を受けるこの小さな社を見た時、出雲人の魂を揺さぶられるような感動を覚えた。その理由が私には解る。それはこの数年間、「出雲国風土記」を荒神谷博物館の「風土記談義」で学んできたからだと思う。古代出雲人は石や岩、泉や川、古木などに神が宿ると信じて祀り社としたのだ。そして、風土記を編纂した時、「出雲国風土記」では郡内の社をすべて書き出した。我が家のある辺りが昔は「出雲郡」だったか「神門郡」だったか境目にあってよくわからないのだが、「出雲郡」をみると、もちろん一番最初に来るのは「杵築(出雲)大社」で以下58社の名前が列挙されている。これは中央に登録された神社で神祇官社と呼ばれ、その後にさらに64社の非神祇官社の名前が並ぶ。これらは中央に登録されていないちっぽけな社なのだが、これが面白い。たとえば「阿受支(あずき)社」の場合、その後に「同阿受支社」「同社」「同社」「同社」…と20社分以上続くのである。神祇官社は名前が残っているので現代にも比定できるのだが、非神祇官社はどこにあったのか見当もつかない。ただそれだけの数の社があったとしかわからないのだ。その社というのが、石であったり、山中の岩であったり、原野の一本の木であったりしたのである。
時代は移り「阿受支社」は消えたが、石や岩を祀った素朴な信仰心は消えることなく出雲人に受け継がれ、江戸時代になってからか、明治になってからか、写真のような社の原型を作ったのではなかろうか。
そう思って見るからここを通るたびに私は古代出雲人の魂に触れる気がするのだろう。
近頃私は「出雲大社」よりも「阿受支社」を崇拝した古代人に親近感を覚えている。

4月26日(追記)
犬の散歩途中、初めて荒神様を掃除している女性を発見する。声を掛けてこの荒神様はいつからあるのか尋ねたところ、「嫁いで来て50年になるが何も分からないの」と笑っていたが、「上向(かみむこう)から移ってきたと聞いたことがある」と教えられる。
どうやら昔はここから西の方にあったらしい。いつ、だれが、なぜ移したか。私の付き合いも広がって行けばそのうち分かるかも知れない。

2月9日マミイを大社うらら館で見る。感想が遅れたのには訳がある。実は見る前から今回の舞台には気乗りがしていなかったのである。というのも題名から分かるようにこの作品は「母」をテーマにしたものである。女優熊谷真美(今は60代)の母親の実話をもとに作られたのだ。熊谷真美という女優は昔NHKの朝ドラ(マー姉ちゃん)で有名になった人で劇作家のつかこうへいと結婚したがすぐに離婚した人と言うぐらいの認識しかなくて、内心、そんな人の母の話なんてなあと思っていたのだ。
それに加えて、もう一つ気乗りしない理由があった。次回作品が何と「音楽劇 母さん」♪サトウハチローの詩と母の物語♪と言うではないか。「何だよ、二回続けて母物かよ」と文句の一つも言いたくなる気持ちは分かって頂きたい。だからと言って見なければ返金してくれるかと言うと、そこが会費制の鑑賞会の決まりで返金はしてくれないのだ。
9日の朝、近所の同じ鑑賞会のサークルの奥さんと顔を合わせた時、「昨日見たAさんがとても面白いと言ってましたよ」と教えてくれた。うちの近所で鑑賞会に入っているのは、私とこの二人の奥さんの三人だけなのである。Aさんは50代で私ともう一人は団塊世代の70代。Aさんが面白いと言ったのだから面白いのかもしれないと気を取り直して見に行った。
15年前に蒸発して音沙汰なかった夫(モロ師岡)が突然戻って来る。15年もの間、残された義母を支え、娘と息子を育て上げた妻の咲(サキ・熊谷真美)と家族の愛憎こもごものドラマが展開するのだが、異色なのはこの咲なる女性のキャラクターなのである。底抜けに明かるく苦労を苦労とも思わずたくましく生きて来た女だった。実母でさえ拒否する夫を受け入れようとする。そんな母を子供たちでさえ呆れ、怒る。
そのギャップが笑いを生み、全編、笑わせてくれるのだ。たしかに笑わせてくれる話なのだが、ラストも秀逸だったが、なにしろ初めから偏見を持っていたものだからこのドラマをもう少し深く考えてみようと言う気にならなかった。
ところが、10日の朝、犬の散歩に出たら偶然犬の散歩に出たAさんと出会う。開口一番Aさん「どうでした、昨日のお芝居」私も当たり障りなく「はあ、面白かったです」と答えたら、「でしょう、私、つぼにはまっちゃって、ずっと笑い通しで、面白くて、面白くって、ほほほ」と笑い転げながら犬に引っ張られて行ってしまった。
私は呆気に取られたように見送った。そして犬の散歩をしながら考えた。「どうしてあの奥さんにはあんなにうけたのだろう」と。答えは簡単だった。「主婦だから」なのだ。あの作品には主婦だから分かる。主婦だから共感できる。主婦だから泣きたくなる。主婦の琴線に触れる場面が随所にちりばめられていたことに気がついたのだ。その中でも忘れられなかったのは咲の「笑わなければ生きて行けなかった」というセリフだった。このセリフだけはずっと心に残っていたのだ。そして、Aさんの言葉でこのセリフこそが世の主婦ならば誰でもいつかどこかでふっと口にしないではいられない言葉だったのではないかと思ったのだ。これは外で働く男のセリフではない。家庭の中にいることが当たり前と思われ、家庭を守ることを期待された主婦が必死に生きた証のせりふだったのだ。
だからAさんをはじめ多くの主婦たちの共感を得たのだ。
彼女は蒸発した夫が送って来た離婚届に判を捺さなかった。離縁すれば夫の借金からは逃れられるのに離婚せず、働いて夫の借金まで返済したのだ。本当に笑わなければやってられない人生だったと思う。
阿保みたいに明るい、能天気な母親だとばかり思っていた子供たちも初めて母の辛さを知る。咲も自分が余りにも頑張ったために母子の間を逆に遠ざけてしまっていたことを知る。夫も本当は泣いて土下座をして謝りたかったが、借金まで返してくれた妻の前に帰りたくても帰れなかったことが分かる。
こうして夫は15年ぶりに戻ったが、ここからが秀逸だった。
夫が家に戻るのと入れ替わるように咲は家を出るのだ。今度は自分が一人で今度こそ自分の人生を生きると宣言して。娘の妊娠が分かって子供が出来ていることも分かると、
「この家にはもうおばあちゃん(義母)がいるから、孫には私のことはマミイと呼んで」
遠く離れた植物園で咲は働く。毎年息子が半ば義務化したようにくれたカーネーションを枯らすことなくいまだに育て続けて来たのとは違う、純粋に花を育てる喜びに浸る第二の人生に踏み出すのだ。
これも家庭の主婦には共感を得たのだろう。
熊谷真美の母親が本当にこのような第二の人生を歩んだのかどうかは知らない。この部分は創作(作:田村孝裕)かもしれないが昭和の話が令和の話にうまくつながったと思う。

近所の奥さんのお陰で結果的にいいお芝居を見ることが出来た。今ではつぎの「音楽劇母さん」もどんなお母さんが描かれるのか楽しみしている私なのである。


夜の7時半。洗い物を食洗器に放り込みさて書斎に籠ろうかと思った時、グループホームから電話があった。グループホームからの電話にはいつもどきっとする。「転んだ」か「救急」のどちらかだ。「転んだ」場合はたいてい状況を聞いて「様子を見ます」で終わるのだが、「転んで」痛みがひどい場合や、その他の場合は病院に運ぶので病院まで来てくださいになる。12月の場合は「転んで痛がっている」というので徳洲会病院へ駆けつけ、色々検査したので病院に5時間もいた。午前中だったからまだよかったがもしこの時間から救急に付き合ったら……と12月のことが頭をよぎる。
職員さんからの電話はどちらでもなかった。
「曽田さんが息子さんに食べさせないといけないので家に帰らないといけないとずっとそればかりおっしゃっているので電話しました」
相当往生していたらしく、何とか言って納得させて欲しいと言う頼みだった。
まったく予想もしなかった内容に驚く。今までこんなことは一度もなかったのである。その時、思ったのは、母の認知症のステージが進んでしまったのかなと言う事だった。電話を替わって話しかけると、
「あら、あんた、どこにいるの」と問う。
毎週土曜日の10時から1時まで、一時帰宅して抹茶を飲み、うどんを食べているのにまるでわかっていない。
「田舎の家だよ。先祖代々の、みんなが住んでいた田舎の家でしょうが」と、言うと、
「あ、そう。お父さん、どうしてる?」
と、言う。ここで「もう死んじゃったでしょう」と6年前に死んだことを教えると、「え、うそ」「はじめて知った」と、いつもの繰り返しになるので、今夜のところは「元気だよ」と、答えておく。
すると母は「私、これから皆と会議があるからとお父さんに言っておいて」
と、言う。俺に飯を食わせなきゃという話はどうなったのだろうと思ったが、
「わかった。会議をするんだね、ちゃんと言っておくよ」と、返事したら納得したので、職員さんに今後もよろしくお願いしますと言って電話を切る。
母は今年96歳になる。足腰は弱くなったし、物忘れはひどくなったが、明るくおしゃべりで、施設でも軽い手伝いはしている。妹たちとも認知症はしかたないけれど一般的な96歳のなかでは元気な方だと喜んでいたのだが、見えない所では進行している部分があることを認識させられた。
先週、私の娘が曾孫を見せてあげるのだと連れて来た時は抱いて「可愛い、可愛い」と喜んでいたのだが、その時も、初めは「誰の子供」と言い、私の娘と分らなかった。
2月からようやく外泊も出来るようになった。4年ぶりだろうか。二人の妹もやっと間近で会えると大喜びしていたが、この寒い時期に無理しない方がいいので暖かくなって、夜、トイレにつきそうにも楽な季節に帰って来る予定でいる。
私一人で外泊させることは絶対に無理だ。三人の子供が協力してやっとだろう。今のところ6月頃になりそうだが、それまでステージが進まないことを祈るばかりだ。それまでは土曜日の一時帰宅で勘弁してもらおう。

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