去年の暮れから犬の散歩コースを新内藤川の南の田園地帯に広げた。

そこで出会ったのがこの景色。冬の朝日の中に静かにたたずむ小さな社(やしろ)。新内藤川の土手を歩いていれば遠くに見えるのだがまじかに見たことはなかった。この日の朝は近くを通りかかった時、これまで感じたことのないとても清らかですがすがしいものを感じて思わずスマホで撮影した。それからは散歩の途中、立ち寄っては写メする。

遠くから見ると広い田圃のなかにぽつんとある小さな小さな社である。


個人の田圃の中にある。昔からあるのか、それとも田圃の所有者が作ったものかはわからない。


社には新屋荒神社とある。平成24年10月吉日建立。ご神体は2つの石である。
新屋(にいや)荒神社(こうじんしゃ)と読むのだと思う。「新屋」とは調べたら「新しく作る家」他に「本家と分かれて分家をたてる」と言う意味があった。畑先生に聞いたらこの荒神様は畑先生が子供の頃からあったと言うから80年以上も昔からあったことは確かだ。ただしここらは田んぼの区画整理をしているので昔から同じ場所にあったのか、移動したのかは分からないと言う。今もどの程度の規模かわからないが祭りをしているそうだが、私は見たことがない。
小さな石の御神体が二つあるところを見ると、いつの頃からか田んぼの中に小さな荒神様があったが、社が古くなったのか、廃れたので新しく社を作り直し敷地も整備し、「新屋荒神社」と名付けたのではなかろうか。
我が家の先祖が享保年間に没しているので、このあたりが開墾されたのはそのあたりと思われる。それ以前はこの辺から海岸まではずっと荒れ地だったし、さらにそれ以前、杵築大社(出雲大社)が出来た頃はこの近くまで神門(かんど)水海という入海になっていたので、この荒神様の起源がそれほど大昔に遡ることはないと思われる。
だが私は朝日を受けるこの小さな社を見た時、出雲人の魂を揺さぶられるような感動を覚えた。その理由が私には解る。それはこの数年間、「出雲国風土記」を荒神谷博物館の「風土記談義」で学んできたからだと思う。古代出雲人は石や岩、泉や川、古木などに神が宿ると信じて祀り社としたのだ。そして、風土記を編纂した時、「出雲国風土記」では郡内の社をすべて書き出した。我が家のある辺りが昔は「出雲郡」だったか「神門郡」だったか境目にあってよくわからないのだが、「出雲郡」をみると、もちろん一番最初に来るのは「杵築(出雲)大社」で以下58社の名前が列挙されている。これは中央に登録された神社で神祇官社と呼ばれ、その後にさらに64社の非神祇官社の名前が並ぶ。これらは中央に登録されていないちっぽけな社なのだが、これが面白い。たとえば「阿受支(あずき)社」の場合、その後に「同阿受支社」「同社」「同社」「同社」…と20社分以上続くのである。神祇官社は名前が残っているので現代にも比定できるのだが、非神祇官社はどこにあったのか見当もつかない。ただそれだけの数の社があったとしかわからないのだ。その社というのが、石であったり、山中の岩であったり、原野の一本の木であったりしたのである。
時代は移り「阿受支社」は消えたが、石や岩を祀った素朴な信仰心は消えることなく出雲人に受け継がれ、江戸時代になってからか、明治になってからか、写真のような社の原型を作ったのではなかろうか。
そう思って見るからここを通るたびに私は古代出雲人の魂に触れる気がするのだろう。
近頃私は「出雲大社」よりも「阿受支社」を崇拝した古代人に親近感を覚えている。
4月26日(追記)
犬の散歩途中、初めて荒神様を掃除している女性を発見する。声を掛けてこの荒神様はいつからあるのか尋ねたところ、「嫁いで来て50年になるが何も分からないの」と笑っていたが、「上向(かみむこう)から移ってきたと聞いたことがある」と教えられる。
どうやら昔はここから西の方にあったらしい。いつ、だれが、なぜ移したか。私の付き合いも広がって行けばそのうち分かるかも知れない。