曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2023年09月

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                                                   大社文化プレイス・うらら館

30日は出雲演劇鑑賞会。加藤健一と佐藤B作の「サンシャイン・ボーイズ」。ニール・サイモン作の有名な戯曲である。今年の5月に鑑賞会に入会した時から一番楽しみにしていた舞台である。なぜなら二人の役者はほぼ同世代である。若干年下かも。加藤健一は私が初めて見たつかこうへい劇団の「熱海殺人事件」で出会った役者。若かった。眩しいくらいに。ナイフのように研ぎ澄まされた役者だった。
佐藤B作は「東京ボードヴィルショー」の役者だったが、私がボードヴィルに興味がなかったので電信柱に貼られた宣伝ビラや、小劇場の入り口に置かれた宣伝ビラで、その名をよく見た役者だった。二人はその後気がついたら売れ出して、名前を聞くようになり、今や二人とも数々の演劇賞を受賞するまでになった。TVでは見ても生の舞台で観ることは何十年もなかった二人だが、私がこの年になって出雲にやって来るとは。この日が楽しみで楽しみで待ち望んでいたのだが、この芝居をみるまでが一苦労あったのである。
それが我が同棲相手のマルコである。私が畑に出ただけで後追いして寂しがって鳴く。お昼に外食に行ったり、ちょっと買い物に行こうものならパニックを起こして、所嫌わずオシッコやウンチをしてしまうのだ。しかし、私には検査で病院に通うこともある。仕方ないので外出時には車の助手席に乗せて出かける。お昼の外食と買い物の間はそれでもいいが、病院や観劇など2時間以上になるとそれも不安になるので、長時間になる時は後部席を車椅子仕様にして、床にブルーシートを敷きその上にタオルケットを敷いてマルコを閉じ込めておくことにした。予定地に早めに到着し、散歩してオシッコさせてから車に閉じ込めておくのだ。この日まで3回くらい予行演習していたが、今日が一番長く1時半開演の4時前終了である。会場の大社うらら館は遅く行くと駐車場に入れないと聞いていたので12時に駐車場に車を入れる。そしてマルコの散歩をする。
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大社うらら館(左端のかまぼこ型)を出て堀川を渡る。背後の鳥居が神門通り。左へ真っ直ぐ行くと出雲大社。散歩もくたびれるのでこの後、大社吉兆館へ行き、足湯に浸かる。タオル代100円だった。50分ほど時間を潰して駐車場に戻り、マルコを車に閉じ込める。曇っていていてよかった。昨日みたいに暑かったら犬も死んじゃうかも。

一世を風靡したボードヴィリアンの二人がコンビ解消して11年。二人とも齢を取り落ちぶれてしまったが未だに犬猿の仲。その二人にTV局から特別番組の為に一度限りのコンビ再結成の話が持ち込まれる。夢よもう一度と願うも絶対に元相方を許せぬクラーク(加藤健一)。二度とない話を断るが、マネージャーの奮闘で相方ルイス(佐藤B作)と再会し稽古をすることになる。
お互いに過去の栄光を取り戻したいのだが犬猿の仲の二人は意地を張り合い、見えを張り合い、稽古も決裂する始末。しかしどうにか収録に漕ぎつけるがクラークが心臓の発作を起こしてコンビ再結成の夢は潰える。二人とも人生最後に賭けた夢を失ってしまう。
ホテルのベッドに横たわるクラークにもうこのホテルに居続けることは不可能なので、芸能人専用の老人ホームに入るしかないと提案される。そこへルイスが見舞いに来る。娘夫婦と幸せに暮らしているはずのルイスは別れを言いに来たのだ。ルイスは一緒に暮らせなくなったので芸能人専用の老人ホームに入るのだと打ち明ける。
この瞬間、私はどっと涙が溢れた。涙で舞台が見えないくらい。
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舞台挨拶で加藤健一がTシャツ(2500円)とパンフレット(600円)を買って下さいと訴えたので、帰りに買う。だって同時代の同志だもの。変わらぬ歳で頑張っているのだから。

ところで、佐藤A作と言う役者がいたことをご存じだろうか。若い頃、東京ボードヴィルショーの宣伝ビラを見て、佐藤A作、佐藤B作とはなんてふざけた名前をつける連中だろうと思ったのだ。佐藤A作は多分時の総理大臣佐藤栄作をもじってつけたのだろうと想像していた。二年ぐらいでA作の名前は宣伝ビラからも消えて、佐藤B作だけがずっと残っていて、気がついたら有名になっていたという訳だ。
佐藤A作、どんな人だったのだろう。佐藤B作の名前を見る度にA作はどうしたのだろうと今でも思っている。

「男なのに女性化乳房」にコメントを頂いたのだが、これが意外な身近な人で吃驚した。私よりも年下(60代)なのだが、その人も女性化乳房になったと言い、経過を報告して下さったのである。
それによると、その人は
「7、8年前に前立腺肥大の薬の副作用による女性化乳房になったが、しばらく薬を止めたらそのうち痛みはなくなり、膨らみも小さくなった。その後、おっぱいは多少膨らんでも前立腺の薬は続けて様子を見た方がいいでしょうと言う事になり、薬を再開。今のところ左胸の方が若干膨らんでいるものの、痛みは再発せず問題ない」
ので、過度に心配しなくてもよいと言う内容であった。

癌でないことは分かってほっとしたのだが、乳腺外来の先生は「原因は夜間頻尿の2つの薬のせいで女性化乳房が起こったと思われる。でも、その薬が夜間頻尿に効いているなら止めなくても続けて飲みなさい。しばらく様子を見ましょう」と言う。
そう言われても、私も困ってしまい、これから先どうなるのだろうと不安になっていたので、このコメントには本当に助かったのである。その人も必要な薬は飲み続けた訳で、それでひどく悪くなった訳ではない。多少膨らんでも痛みはないのなら御の字ではないかと私も思った訳である。要はよくなるかならないか分からないが、どっちにしてもそんなにひどくなるものではなさそうな気がするのだ。
私だって、今の薬を飲み始めたのは1年以上も前のことで今頃になって副作用が出たわけで、これが早いのか遅いのか分からないが、なんとなく時間はかかりそうな気がする。すぐに良くなることはないだろうが、どんどん悪くなるような気もしない。
その人は「前立腺肥大の薬」。私は「夜間頻尿の薬」。両方とも泌尿器科である。泌尿器の薬はどうやら男性ホルモンを低減させる作用があるようだ。だから乳房が大きくなってしまうのだろう。と言って、「前立腺肥大の薬」も「夜間頻尿の薬」もやめるわけには行かないのだから、これはもううまく付き合って行くしかないのではないかと思うのである。
でも、同病の先達がいるということは心強いことである。そのうち女性化したおっぱいの写真でも撮って比べて見たら面白いのではないかと、馬鹿なことを考えた。

二カ月前ぐらいから何となく左の乳房が痛むので気になっていた。はじめは乳首をおさえるとちくちくする感じだったので周辺も触ったり揉んでみたりしてみたら、やっぱり何だか痛い。飛び上がるような痛みではない。右の乳房周辺は揉んでも何ともない。その右の乳房と比較すると少し痛む感じがする。そんな程度だったので何か炎症でも起こしたのかなと思ってほうっておいたら、8末にバブルガム・ブラザーズのブラザー・コーンが乳がんになったと発表する。男でも1000人に一人は乳がんになると言う。ブラザー・コーンは67歳。ステージ2でこれからは治療に専念すると言う。
そのニュースを知って、急に心配になる。9月初めにかかりつけ医に中性脂肪の薬を出してもらうために病院に行った時に診て貰ったら、「女性化乳房(にゅうぼう)ではないか」と言うが、専門ではないので詳しく診てもらった方がいいと言われる。ホルモンの異常で起きるが、そのホルモンの異常も癌から起きることもあると言う。もちろん乳がんの可能性もある。だんだん不安になって来る。翌週が半年に一回の膵管のMRIの結果が出るので、その時、島根医大の先生にも相談してみることにした。
それが先週で、MRIの結果は異状なしだったが、先生は女性化乳房は左右同時に起こるのだがと言う。私は痛むのが左だけなので、「やばい、だったら癌じゃないか」と思うも、そこは深くは追求せず、「乳腺外来」の紹介状を書いてもらう。
そして、今日、どきどきしながらちょっと恥ずかしそうに乳腺外来へ。最初の検査で左の乳腺が1.4㎝。右の乳腺が1㎝と分る。やはり左の乳腺が大きいことが分かる。次にマンモグラフィーを撮りに行く。
まさか男の俺がマンモグラフィーを受けることになろうとは。健康診断のために大勢の人が集まっている部屋からマンモグラフィーの部屋へ入る時の恥ずかしいことよ。
検査技師はアラサーの女性技師。おっぱいをぎゅっと掴まれてアクリル板の間に挟まれる。男のおっぱいであるから、いくら女性化した乳房とは言え貧乳女性程度であるから無理やりひっぱられるのには参った。比較のために右も撮るという。右はないに等しいおっぱいである。これもぎゅっとひっぱって無理やりアクリル板に挟むのだが結構痛いのである。
検査結果が出る。超音波も撮る。
診断結果は「女性化乳房」。高齢男性にみられるものらしい。何らかの原因で男性ホルモンが減少すると起きる症状らしい。で、その原因だが、お薬手帳を見た先生は、泌尿器科で出している内の2種類の薬の所為ではないかと言う。
泌尿器の先生に相談して止めると言うと、「いま効果ある薬をやめることはないので、半年くらい様子を見ましょう」と言う事になる。
ひとまず乳がんでないことがわかってほっとしている。
字ヅラだけみると病院へ行くのが恥ずかしい病名だが、高齢男性には多い病気と知り少し気が楽になった。でも、毎月の集金会で話したら笑われそうなのでこればかりは誰にも秘密にしておこうと思っている。歳は取りたくないものですな。

三連休に保育園で「敬老会」が予定されていたがコロナで中止になってしまった。引っ越し前に松江の保育園を調べていた娘が「松江の保育園はすごいね。どこの保育園も敬老会をやるのよ。東京の保育園で敬老会をするところ見たことないのにさすがは島根県だね。ジジババがいっぱいいるのね」と笑っていたので、楽しみにしていたのに残念だ。ブログも少し間があいたので楽しい記事ができると思っていたが、それもあてが外れたので、少し高尚なブログになるが、前回の続きで「出雲国風土記」の中の記述についての謎解き(?)が面白かったので、それを紹介しようと思う。

最初に「出雲国風土記」に出て来る「正倉」の説明から。
奈良の「正倉院」とは全く別物。「正倉院」は聖武天皇の遺品や宝物を収めたものだが、普通「正倉」と言われているのはイネや米を納める倉庫である。
ところがこの「正倉」の記述があるのは「出雲国風土記」のみで、他国の風土記には記述された気配がない。本来「正倉」は風土記に記載されるべきものではなかったのである。
疑問1「なぜ出雲国風土記にのみ正倉の記述があるのか」

ところが、出雲国風土記にも全九郡のうち三郡だけ正倉の記述がない。
疑問2「なぜ楯縫(たてぬい)郡、秋鹿(あいか)郡、神門(かんど)郡だけ正倉の記述がないのか」

疑問2から解いて行く。
出雲国風土記は郡ごとにまとめられて国造のもとに集められて一つにまとめて中央に提出した。
楯縫郡と秋鹿郡は宍道湖の北岸に隣り合う小さな郡であるから、これまでは小さな郡なので正倉はなかったと考えられていた。だが神門郡は大きな郡である。(我が家も昔の神門郡に入っている)杵築大社(出雲大社)の鎮座するところである。そんな大きな郡に正倉がないのはおかしい。現に正倉と思われる建物跡が発掘されている。どうやら神門郡には正倉はあったようだ。ではなぜ記述されていないのか。楯縫郡や秋鹿郡にも本当は正倉はあったのだがその跡が見つかっていない可能性がある。となるとこの三郡は正倉があったのに記述されていないことになる。
残り六郡にはすべて正倉ありと記述されているが、正倉跡がよくわからない所もあるのだ。以上のことから考えられるのは、出雲九郡にはすべて正倉があったが、楯縫・秋鹿・神門郡だけ記述されていないということである。

では、正倉とは何かを考える。イネや米を蓄える倉庫だが、なぜそのようなものを作るのか。今なら非常用倉庫だが昔ならまず第一に兵糧と考えるべきであろう。となると、なぜ兵糧用の倉を作ることになったのか。
そこで着目すべきが732年に「節度使設置」があったことである。
朝鮮の新羅との関係が悪化し、大和朝廷は山陰に節度使を設置した。これは軍事を司る使者で山陰道を管轄し、国司よりも上位だった。これにより当時の出雲はある意味戦時体制にあったことが分かる。

風土記編纂においては各郡で原稿を提出して国造がまとめたのだが、この各郡の原稿提出順で楯縫郡と秋鹿郡が早かったことが分かっている。なぜなら他の郡の産物についての記述で「楯縫郡の如し」とか「秋鹿郡の如し」の記述があるからである。早く提出された原稿は各郡で共有されていたのである。
そこで原稿提出順と正倉の有無を年代順にまとめると以下のようになる。

713年5月風土記撰進命令
    秋鹿郡・楯縫郡・神門郡原稿提出(三郡は正倉記述なし)
732年8月節度使設置
    残り六郡原稿提出(六郡は正倉記述あり)
733年2月出雲国風土記完成
734年4月節度使停止

これを見れば、節度使の設置で正倉の記述がなされたことが分かる。
出雲は新羅と戦争になるかも知れないという緊迫した状況にあったがゆえに、兵糧の役目を果たす正倉を記述したのである。だが節度使設置前に原稿を提出した三郡はそのような緊迫した状況ではなかったので正倉の記述をする必要がなかったのである。

地道な古代史の研究が上質な推理小説を超える喜びを与えてくれました。これだから出雲国風土記はやめられない。

9月2日、松江テルサで「ここまでわかった『出雲国風土記』」の講演があった。これは聞き逃すわけにはいかんと駆けつける。ただ犬を預かっているので長時間家に閉じ込めておくわけには行かず、松江に引っ越した娘の家に一泊二日で預けて講演に行く。翌3日は私は親戚の葬儀で鳥取まで行くので、それもあって預けざるをえなかったのである。わんこは元気になったので一泊二日なら大丈夫だろう。玄関を開けたら2歳になったばかりの孫がわんこを見るなり「ぎゃあ」と飛び上がって喜ぶ。

今年の3月31日に島根県古代文化センター編「出雲国風土記ー校訂・注釈編ー」が出版された、その成果についての講演である。
〈風土記とは〉どういうものかを説明すると以下の通り。
〈風土記撰進の命令の内容〉
一、地名に好ましい漢字を用いなさい(これで日本中の古い地名が失われてしまった:私見です)
一、物産品目を報告しなさい。
一、土地の肥え具合を報告しなさい
一、山川原野の名とその由来を報告しなさい
一、古老が伝える土地の伝承を報告しなさい
ほぼ完全な形で残っているのは出雲国風土記のみ、一部残っているのが常陸・播磨・豊後・肥前だけで、後は失われているのはよく知られていること。

〈風土記編纂の背景とは〉
撰進の命令が出た713年は大宝律令が発布されてから10年で実情に合わなくなっていた。
一、庸調制が改訂された(租庸調の庸調)
一、丹後国、美作国、大隅国が作られた。(大き過ぎる国を分割して新しい国を作った)
一、新たな郡を設置した。郡司の任用制度が変わった。
一、新しい交通路を作った。(美濃国と信濃国の間)
このように地方統治に関わる政策が連続したので、地方の実情を正しく把握する必要が出て来た。

ここで〈出雲国風土記の特徴〉をあげておく
一、出雲地域の有力者である国造(今の千家や北島の先祖)が編纂している。在地出身の郡司がまとめたものを国造が編纂している。
これに対し、常陸国風土記は朝廷から派遣された国司が編纂している。恐らく他国の風土記はすべて国司が編纂しているであろう。
一、天皇がほとんど出て来ない。欽明天皇が2か所に登場するだけ。
他国の風土記では天皇は頻繁に登場する。
一、399もの神社が記載されている。
現存する風土記では出雲国風土記のみに見える

講演した島根県古代文化センターの橋本氏は「出雲国風土記」を行政文書として捉える。
出雲国風土記は国引き神話から始まるので多くの人がその雄渾な文章に魅了され文学作品として捉えてしまう。私もその一人であった。出雲人の末裔(?)として他国の風土記とは違う気高いものであってほしいから。人情である。
しかし、氏は時代背景から中央が地方の実情を知る必要に迫られて作ったものと結論する。
なぜ「行政文書」と結論付けたかの理由が学者らしく説得性があるので紹介する。

常陸国風土記には「常陸国国司解(げ)し申す」とある。
「解」は上申文書の様式なのである。即ち、下が上に提出する正式文書であることを意味している。

これを補完する資料もあげておく。
郡司は上から大領→少領→主政→主帳の順の四等官で主帳が一番下の№4である。
ところが郡司からの「解」が国府でまとめられる際に風土記では、各郡の編纂者の名前が主帳→大領→少領→主政の順に改められている。№4が一番上に来るのはいかにも奇妙な話である。
実はこれが「解」の書式にあっていることがわかる。文書の書式について定めた公式令によれば「解」の記載順は主帳→大領→少領→主政となっているのである。
これを見ても風土記が厳密な「解」の決まりを守っていることが分かるのだ。即ち正式な「行政文書」なのである。こういうことが謎解きのように分かって行くところが古代史のおもしろいところである。

この後、さらに風土記の編纂理由を追加し、編纂過程などについても講演があったが、長くなるので次の機会に譲ります。

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