曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2023年05月

今日、20年ぶりに劇場で観劇した。場所は出雲市民会館。出雲演劇鑑賞会主催で栗原小巻一人芝居。
シャンソン歌手エディット・ピアフの自伝にもとづいた芝居であった。
2004年の2月に妻が病に倒れてから19年間、私は劇場では一本の演劇も一本の映画も見ていない。TVでも長時間拘束される映画も1時間のドラマも見ていない。妻の介護で精いっぱいで時間的余裕も精神的ゆとりもなかったからである。
昨日、隣の奥さんが上記の芝居を紹介してくれて会員になって観ないかと誘ってくれたのだ。妻が亡くなって余裕が出来たように見えたのでもう誘ってもいいだろうと思って誘ってくれたのである。
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ビラを見たら、最後に観たのは歌舞伎か映画か忘れてしまったけれど、不意に20年の空白を越えてあの空間が無性に懐かしくなり、「そうなんだ、もう芝居でも映画でも観ていいんだ」と気がついたのである。ただ、栗原小巻の名にはいささか驚いた。TVでも出ている記憶はなかったし、もう引退していたと思ったのである。思い出してみれば、私より3、4歳上ぐらいのはずであるから、頑張ればできない歳ではない。多少の不安を抱いて席に着く。
が、冒頭で歌い出した瞬間、危惧は消し飛ぶ。声の張り声量の大きさに驚く。この人は演劇人だと思っていて、歌手とは思っていなかっただけに驚きは大きかった。同時に自分より年上で一時間半の舞台を独演する体力と精神力に舌を巻く。50年前は若手の美人女優としか思っていなかった人が年を重ねて一流の舞台人となりシャンソンを歌うとは。
いつしか自分の人生に、栗原小巻の女優人生、エディット・ピアフの人生を重ねて観ている自分がいた。「愛の賛歌」を歌った時には胸が熱くなった。ピアフの最後は車椅子だった。妻の車椅子を重ねて観ていた。
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お芝居が終って。
今日のこの時間は私の宝物であった。
次の次の9月公演は加藤健一と佐藤B作の「サンシャインボーイズ」。加藤健一を観たのは今から40数年以上も昔に、新宿の紀伊国屋演劇ホールで「熱海殺人事件」を観て以来である。佐藤B作も舞台で観たのは作品は忘れたがその頃だったと思う。観る方も観られ方も時代の戦友である。今から楽しみにしている。

ウルトラマンタロウは言わずと知れたウルトラシリーズの一作品である。ウルトラマンジロウと言う作品はないし、いかにもウルトラマンタロウの弟ぽい名前だが、ウルトラマンタロウの中にウルトラマンジロウは登場もしない。いかにもウルトラマンに関係がありそうだがウルトラマンシリーズの没になった幻の企画でも、没になった脚本に登場した訳でもない。
では、一体ウルトラマンジロウとは何者なのか?
正確にはウルトラ・マンジロウと言う。漢字で書けばウルトラ万次郎である。ではウルトラ万次郎とは何か?実はこれがカボチャの名前なのである。
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このかぼちゃ、一本の苗から何と100個ものカボチャが出来ると言うギネス級のウルトラかぼちゃなのである。4、5年前から田中種苗で目にしていたのだが、このかぼちゃは店に出るのが遅く、5月の半ば過ぎなのである。普通の人はその頃にはカボチャの植え付けは終わっている。私も興味はあったのだが店に出るのを待ってられなくて毎年買いそびれていた。しかも入荷数が少なくすぐに売り切れてしまう。去年は植え付けが遅れたので植えようと思ったのだが売れ残りのしなびたのが一本残っていただけなので諦め、今年こそはと4月から予約し、5月の25日にやっと手に入れたのだ。今年は例年よりさらに入荷が10日も遅れた。苗、一本1650円である。カボチャの苗は280円とかそんなものだからべらぼうな値段だが100個できることを考えたら高くはない。私なんか普通のカボチャは良くて2個。満足の行くものは1個もできない苗もあるのだから。写真では2本あるが、青ポットは専用受粉苗で、赤ポットだけでは花粉が足りないので、受粉用の花粉を飛ばしてくれる苗である。2本で1セットと言う訳だ。専用受粉苗にもかぼちゃは出来るが、赤ポット苗のカボチャの方が美味しいそうだ。
葬式の張場の雑談でこのかぼちゃの話をしたら、皆に笑われた。100個もできるかぼちゃがうまいはずがないと。だが説明書には「粘質系でしっとりと食感、上品な栗味。どんな料理にも抜群に合う」とある。見た目も去年作った「ロロン」に似ている。ロロンはうまかったのでひそかに期待している。
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右の小さい苗が専用受粉苗。
深さ30センチの穴を掘り、牛糞たい肥を10㎝、化成肥料と鶏糞をばら撒き、有機石灰を撒いた上に土を戻し植え付けた。
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風で飛んで来たカバーで保護する。専用受粉苗の方は敷き藁をしておく。
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すごく広がると言うので離して植える。奥の藁を敷いた所が専用受粉苗。普通のカボチャでも広がるからこの広さでは多分狭いだろうと思っている。受粉は自然交配はするが手伝った方がいいらしい。秋にはみんなを黙らせることができるか、それとも笑われるか。

畑と池の様子。
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5月12日薩摩芋シンシアを植える。垂直植えは楽だけど収量が減るので、今年は斜め植えにする。竹で斜めに穴を開け、そこに苗を植える。今年の苗はひどい。おんぼろ苗。
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植付終了。            5月21日
右)葉っぱは枯れたり萎れてしまったが、新し葉が出て来る。これで一安心。薩摩芋は強い。
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左)5月15日池で見つけたギンヤンマとシオカラトンボのヤゴ。
右)5月16日。真夜中。ギンヤンマが孵化し始める。
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左)5月17日12時を過ぎる。     右)5月17日朝
ここまで脱皮したところで動きが止まった。眠くもあり、ふ化に失敗したと思って寝てしまったら、朝起きたら孵化していた。
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出雲の空へ飛んで行く。
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5月21日
池で鴨が交尾していた。水中に沈んで見えないのが雌。鴨の交尾は初めて見た。
「疲れたなあ」と言っていた。

今日、隣保で3回目のお葬式が終った。4月12日に隣保で2番目の長老のお葬式をし、5月15日に隣保の最長老のお葬式をし、今日5月24日に77歳のOさん(男性)のお葬式を済ませたところである。隣保で1ヶ月半の間に3つのお葬式はみな初めての経験。私は5月15日の葬儀では「つぼかき」をしていて、墓掃除をしている時に「Oさん、危ないらしいよ」と聞いてはいた。癌で入院して余命宣告をうけていたことは知っていたので「もしかしたら、また葬式かも知れないねえ」と言っていたら、本当にその通りになってしまった。
打ち合わせに12軒が集まったが、今回は若い人は一人も顔を出さず。これ以上会社を休むのは不可能なのだ。年寄りばかりが口には出さないが参ったなあと疲れた顔を突き合わせる。年寄りと言ってもブドウ農家は一番忙しい時期だし、コンクリートを打たなければならない人もいるし、二人は病院に検査の予約が入っているし、もう一人は奥さんを病院に連れて行かねばならない。私も妻の葬儀のアルバムを一年がかりで作っていて、その最後の打ち合わせを写真屋とする予定が入っていた。
救いは4月12日には葬祭会館の「香典受付」、5月15日には一番大変な「つぼかき」をしていたので、今回は黙っていても「張場」に座って香典の受付をするだけの楽な役割になるはずだったのであるが、何と今回は全員が「張場」。「香典受付」も「つぼかき」もなし。
どうしてこうなったかと言うと、故人は独身で家族がなかったので親戚が喪主となったのだが、その人が葬儀のすべてを葬儀社に任せたのである。「香典受付」も「つぼかき」もすべて葬儀社がやるので、「張場」だけをやって欲しいと言われたのだ。私が見るに正直みんなほっとしたように見えた。隣保のお手伝いもこれだけ続くとさすがにみんなくたびれ切っていたのである。
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5月15日「つぼかき」をしていた時の写真。左上(かまぼこ・野焼き)、右上(醤油をかけた豆腐)
下(煮しめ)を肴に日本酒。墓掃除の途中に女性が運んで来る。つぼかき二人は墓の裏で酒を一杯やるのだが、炎天下、私のような酒の飲めない者は嬉しくともなんともない。一昔前にはこの酒にありつきたくて「つぼかき」の手伝いをしに来る酒好きがいたそうだが、昨今そんな人はいないし、「つぼかき」をいまだにやっているのは我が隣保ぐらいなものではなかろうか。今ではみんな葬儀社にまかせているのだ。
思いがけず旧習を守る我が隣保も葬儀社に任せたらいかに楽かを身をもって知ったかたちになったのだが、大いに問題になったことが一つ。
それは今日が友引だったことである。
「嫌だわ、友引に葬式なんて」女性陣は嫌がったが、喪主はサラリーマンで忙しい人だから意に介せず進めてしまったのである。農協の葬儀部は友引は公休日にして葬儀を扱わないようになっているが、民間の業者は友引でも葬儀をするのだそうだ。今日も出雲では4件の葬儀があったそうだ。
すべてを葬儀社に任せたが、いつまでたっても墓は草ぼうぼうだし、庭も草だらけ。葬儀社はやると言ったんだからやるからほっておけばいいと皆が言うのに、見かねた畑先生は「見ておれん」と言って葬家の庭掃除に出て行った。この畑先生が男の最長老になった。最年長は95歳の私の母である。

私のおばさんにK子さんというお婆さんがいる。昭和10年生まれだから87歳になる。正確にはおばさんではない。父の従妹であるが、家庭の事情で出雲の我が家に4歳の時から預けられ我が子同様に育てられ、我が家からお嫁に行った人である。父はこの人のことを「K子、K子」と呼び捨てにしていたし、K子さんも私の父のことを昔から「あんちゃん、あんちゃん」と呼んでいた。
私は子供時代から田舎に帰ると「K子さん、K子さん」と小柄で綺麗なお姉さんを呼んでいたが、祖父の弟の子で預けられていることは知っていた。その頃は高校を卒業して出雲のダイワ紡で働いていたと思う。
その人の御主人がこの1月の末に亡くなった時に、K子さんは免許を返上した。後1年免許証が有効だったのでもう1年だけ乗りたかったのだが、娘たちに説き伏せられて返上せざるを得なくなったのだ。
有名な出歩きお婆さんだったK子さんは車がなくなって家から一歩も出掛けられなくなりとても寂しがっていた。気の毒に思った私は49日を過ぎてからK子さんを神立食堂に誘って昼ご飯を一緒に食べた。
K子さんはとても喜びをご飯を食べながら昔話をしてくれた。
昭和22年。K子さん12歳の時、私の母(19歳)は出産のために父の実家に帰っていたそうだ。私はこの時自分がどこで生まれたのかを75歳にして初めて知ったのである。
私の母は無類の柿好きで、「K子さん、柿取って来て」と頼まれると、K子さんは庭の柿を取って来たのだそうだ。妊婦に柿は体を冷やすからいけないと言われていたが母はお構いなしに食べていたそうだ。その年の10月末に私は生まれた。
年が明けると、K子さんは私の子守をするようになった。小学校6年から中学1年になる遊びたい盛りだが、自分の立場を心得ているK子さんは不満も言わず子守をしてくれたのである。
その頃、ピンポンに夢中になっていて、K子さんは私を背負って小学校の講堂へ行くと、私を講堂の横の宿直室に預けて、自分は講堂でピンポンに興じていたと笑っていた。宿直室にはお婆さんオバサンがいて竈で湯を沸かしていた。炬燵もあり、そこに赤ん坊の私を寝かせていたのだそうだ。
中学に上がると、その頃は私も座れるようになっていたので、小さな掻い巻きのようなものでぐるぐる巻きにすると廊下の壁を背に座らせて自分は廊下でピンポンをしていたのだそうだ。
K子さんとは小学校時代から今日まで帰郷するたびに顔を合わせていたのに、どうして今までこんな話が出てこなかったのか不思議でならない。
母の認知症も進み、昔のことも忘れているだけに、K子さんのこの話が私には宝物のように感じられた。
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75年前、私を背負ってくれた背中である。
「しゃべったら止まらないおしゃべりおばさんと疎ましく思ったりして御免よ。12歳の子守、有難う。この御恩は忘れないよ」
今日の神立食堂は3回目である。K子さん、夕ご飯のおかずも持ち帰りしてとても喜んでくれている。
車で出かけたいところがあれば連れて行ってあげると言ってある。私にできるせめてもの75年前の(75歳の87歳への)恩返しである。

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