曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2023年04月

3日前の4月27日に部落水道の井戸掘りがあった。我が第3隣保では簡易水道とも言う。昔は市水道が通るまでは飲み水としても使っていた命の水だったが、今では畑や庭の水まきと水洗便所に使用している家が一軒あるだけである。去年、私がこの部落水道の水道委員をしている時、汲み上げポンプが度々止まってしまった。この時は水源が遠い上に水量が少なくなったのだろうと言う事で、高性能のポンプに交換した。確か35万円ぐらいかかったと思う。月1000円の積み立てが7、80万くらいあったので思い切って買い換えて、一年でまたポンプが止まる事態に。明らかに水源が枯れたので新しく水源を探して掘りなおさざるを得なくなった次第である。
二軒の水道屋に見積もりして貰ったら、一軒はポンプの性能が上がっているのでポンプの近くに井戸を掘ったら土まで吸い上げてしまうので遠くを掘った方がいいと言う。もう一軒はそんなことはない近くに掘ってもいいと言う。私たち素人には判断がつかない。値段も変わらない。だが遠くに掘るのはなんとなく大変そうなので近くても大丈夫だろうと近くに掘って貰うことにした。
27日の朝、9時頃、気がついたらもう始まっていた。これまで井戸掘りなんて見たことがなかったので見学に行く。
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太いパイプを埋めた中に細い塩化ビニール(?)だと思う、固いパイプを突き立てながら埋めて行くとパイプの上の穴から土砂が吐き出される。流し込んでいるのは水溶性の粘土。これはすぐに固まるそうで土が崩れるのを防ぎ、突き立てたパイプを垂直に保持するためのものなのだそうだ。
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左)このパイプを継ぎ足ししてどんどん掘って行く。
右)2メートルも掘ったら土が砂になる。このあたりは古代は神門(かんど)水海という入海になっていたのですぐに水が出て来る。
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左)ポンプ小屋のすぐ近くに掘っていることがわかる。左の建物は第3隣保が所属する組のふれあい会館。
右)去年買った高性能ポんプ。これで吸い上げて10軒に配っている。我が家では池の水と畑の水やり、庭の水やりに使っている。洗車には市水道を使っている。
この部落水道ができたのは戦後すぐらしいので、ほぼ私たちの年齢75年ぐらいの歴史があるらしい。それまでは各戸ごとに井戸を使っていたそうだ。私の子供の頃は市水道が通った後でも台所に手押しのポンプがあり夏は冷たくとても美味しい水が出た。がぶがぶ飲んだ記憶がある。スイカも冷やした。しじみも砂出しに使っていた。簡易水道は我が家では飲み水としては使っていなかったはずだ。それくらい我が家の井戸水はおいしかったらしい。畑先生も美味しかったと言ってた。
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ちょっと目を離した隙にあっと言う間に敷設された。
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水源の位置を示すパイプ。6mまでは掘らなかったそうだ。午前中3時間強で終わる。飲み水にするわけではないので少々かなけがあってもいい。とにかく水が出ればいいと言う方針で掘った。3人で来て、井戸掘り料は約15万円。積立金は残り15万ぐらいになってしまった。2年越しの騒動だったから、これで10年は無事であって欲しいものだ。

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昨日4月26日の夜、多胡辰敬の小説の第十章(最終章)を書き上げた。この完という字を目指して足掛け十三年かかった。完を入力した瞬間はどんなに嬉しいだろうとその瞬間の喜びを想像していたが想像していたほどの感情の高ぶりはなかった。自分でも意外だった。多分、書きあがることは分かっていたからだと思う。ラストはこう書こうと今年になって決めていて、この十日ほどはその最後のくだりを何度も書き直し少しづつ書き進み、昨夜も9時過ぎには予定通り書き上がったからであろう。書き上げた瞬間は重荷をおろして、気が抜けたような感じで、しばしぼおっとしていた。
「女房に報告しなければ」と思い立ち、仏壇に行く。線香をあげて報告する。
妻がいてくれたから書けたと感謝する。普通なら重度の妻の在宅介護をしながら小説を書くなどあり得ないことだと思われるかもしれないが、私の場合は逆だった。在宅介護をしていたからこそ書けたのだと思っている。
その前日か、前々日かに、私は日本の女性物理学者の草分けと言うべき米沢富美子の記事を読んだ。彼女は子供が生まれた時、研究を続けるか子育てをするかの選択を迫られた。彼女は子育ても研究もする道を進んだのである。どちらかを選ぶのが普通なのに、あれもやりたい、これもやりたい、ならば両方やると決断し、子育てと研究を両立させたのだ。その話を読んで私は思わず「そうだよね、両方できるんだよね」と呟いていた。自分も似ていると思ったのである。在宅介護と小説の執筆を私も両立させたのだ。やれば出来たのだと。
子育ての場合は子の成長が励みになる。私の場合は重度の障害を負いながら頑張る妻の姿が私を励ましてくれたのである。
思えばはるけくも来たものである。果たして書き上げられるのか、死ぬまでに書けるのか、書きかけを残してくたばるのだけは嫌だなあと思いつつ、非才の身に鞭打って、途方にくれながら、小説の神様がいるなら助けて下さいと願いながら書いて来た。だが、ようやくその不安の日々から解放された。
毎晩、ほとんどの夜、寝る時も小説のことを考えていた。「どうしよう」「どう書こう」「困った、前に進めない」そして、夜中にはっと目が覚めたら、メモを取る。こんな生活がひとまず終わったのである。
実は書き上げたらやりたいことが一つある。
それはご褒美温泉である。帰郷して温泉に行ったことはあるがほとんど近場で名のある温泉でもなかったし、心底心身を休めた訳ではなかった。これからはちょっとした旅気分で島根県内の秘湯を一日がかりでゆっくりと楽しんでみたいのである。今のところ月に一度を計画している。本当はもう少し早く書き上がっていれば連休前には出かけるつもりでいたのだが、連休後にコロナの6回目ワクチンを受けてから行こうと思っている。
実はすでにいい温泉の情報を入手している。

4月に入ってからの畑は例年と比べてちょっとおかしい。おかげでてんてこまいさせられた。
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4月6日
まずは強風の洗礼。何日か冷たい風が吹いて一回目の土寄せをしたのに空豆が倒れる。去年はこんなに強い風が吹かなかったので支柱を立てることはなかったのだ。うんざりしながら倒れた空豆を起こして行く。
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4月7日
かたわら空豆の整枝をする。余分な茎を間引く。間引いた茎は捨てる。日光があたり風通しがよくなるように密生した細い茎を間引く。去年は4本から5本残したが、8本残してもいいようなことが書いてあったので6本~8本残す。欲を出していいことはないのだが誘惑には勝てない。こんな作業にも時間は取られる。
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4月8日
2回目の追肥をして土寄せをする。
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4月11日
空豆の頭を切る。これ以上伸びても豆は出来ないので栄養を豆に回すため。頭が伸びていると風に煽られる。茎の数だけでも一株8本近くあるから200本はある。手間のかかることです。
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4月14日
じゃが芋が大きくなったので、こちらも茎を3本立てにする。抜いた茎は捨てて置いた。
こんな作業もちょこまかこまかやらないといけない。
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同じ4月14日
今年もギンヤンマの第一号が羽化した。が、その後今日23日まで次が出て来ない。
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4月17日
左)間引いたじゃが芋の茎。すっかり畑仲間になった民生委員さんが、間引いた苗を植えるとじゃが芋できるらしいと教えてくれた。そこで11日に間引いて捨てて置いた苗を一日水に漬けておいたら元気になったのでこの後2本ずつ植える。4、5日ほうっておいたのだがその間雨が降っていたので枯れずに残っていたのである。
右)今年もカエルが卵を産んだ。ほうっておくと池中カエルだらけになるので早速すくって下水溝に流す。これまでに三回捨てたがこれからどんどん産むぞ。
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4月20日
極早生の新玉ねぎに続き、早生の新玉ねぎも収穫した。自分は出来の悪い小さいのを食べて、いいのは娘と娘の職場に送る。
ところが晩生の玉ねぎがいけない。(右)葉が変色し始める。畑先生はべと病だと言う。こうなったらお手上げ。あきらめろといわんばかりの口ぶり。私も薬を買って来て噴霧する手間を考えたらどうにでもなれと投げ出した。どうせ薬をやっても治りはしないのだから。近所の玉ねぎもみなこんな感じ。こんなことは玉ねぎを作って12年、初めてのこと。異常に暑いせいなのだろうか。
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4月21日
ニンニクも葉っぱが黄色くなる。民生委員さんは消石灰を撒いたという。二日ほど様子を見ていたら葉っぱがさらに黄色くなる。これは病気に間違いないと私も消石灰を撒く。
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葉っぱが真っ白になる。消石灰には消毒作用があるらしい。ニンニクがこんなことになるのも初めて。これも天候のせいだろうか。やれやれである。
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4月21日
消石灰を買ったので前から気になっていた笹退治に取り組む。ここは隣の畑で我が家の南の塀の西端でうちの畑とは離れているのだが、前から笹が気になっていた。こいつが我が家の庭に侵入されるといやなので隣の畑の笹を退治することにしたのだ。忙しい時に限ってこんなことを始めるのが私と言う人間。笹ははびこると手に負えないが、実は私には笹退治の実績があった。帰郷してすぐのこと、我が家の墓の塀の外に笹がはびこっていのだが、私は笹を掘るとその穴に大量の消石灰をぶち込んだ。笹はアルカリに弱いので残った根を枯らすと何かの記事を参考にしたのだ。以後12年、笹は生えて来ない。多分大丈夫だと思うのだが、よく見ると笹の小さな芽があちこちに広がっている。隣の奥さんと協力して退治することにした。
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                  4月23日
掘ったあとに消石灰をぶちこんだところ。こんなことまで始めるのだから。忙しい訳だ。
右)芽掻きしたじゃが芋の芽を植えた畝。毎日朝夕水やりしていた。なんとか根がついた感じ。じゃが芋は沢山作っているのだからこんなことまでしなくてもいいのにと思うのだが、面白そうな事はやりたくなる性分なのである。ここは隣の畑。我が家の畑にはもうスペースがないので、端っこの空き地を借りてチャレンジしてみた。自分で自分を忙しくしている。

4月12日に隣保で葬儀がある。私の父の葬儀をしてから5年ぶりの葬儀だが隣保の手伝いの顔ぶれがすっかり寂しくなってしまう。まず亡くなったのが83歳の長老格。それより年上の最長老が入院中。もう一人80歳に近い人も入院中。もう一人80近い人がいるのだが、この人は息子に後を譲ったので引退してしまって出て来ない。私と同世代は自宅療養中。男性陣がいきなり5人も減ってしまった。その上、前回手伝ってくれた30代、50代は今回は手伝い不可。男は65歳が1人と後は70代4人と83歳が1人の6人しか動けず。他に30代3人、50代1人いるが彼らも仕事。ちょっと前までは田舎だからおおらかなもので近所の葬式の手伝いをすると言えば休ませてくれたのだが、昨今は厳しくなって以前のように簡単に休ませてくれなくなったのだそうである。
男6人をどう振り分けるか。「どげするだ」と思案投げ首するも、今回は「つぼかき」が不要。「つぼかき」は昔は墓穴を掘ったのだが土葬がなくなってからは、お墓の掃除と納骨の手伝いになった。
出雲葬儀の順番は、自宅出棺⇒斎場で火葬⇒お骨にして葬儀⇒お墓に納骨なのだが、今回は葬家が49日が終ってから納骨するので「つぼかき」は不要になったのである。隣保では斎場の付き添いと言うのもある。火葬して待っている間の葬家の飲み物などの立て替え払いをする役である。
今回は、病院⇒葬儀場⇒通夜・葬儀⇒火葬⇒自宅の順になったので、なぜか付き添いはなくなった。どうやらこの順番だと隣保の手伝いが長引いてしまうからかもしれない。本当ならさらに納骨があるのだから。手伝いは原則出雲葬儀の順序をもとに作ってあるので、この順序が狂うとややこしいことになるのだ。近年は初七日法要をすますようにもなり、私のように最近田舎の葬儀に関わるようになった者にはわからないことだらけである。
そういうわけで「つぼかき」2人、「付き添い」2人がいらなくなったので、6人が半分ずつ張場3人、葬儀場3人に分かれることになり、私は葬儀場の受付になったのだが、色々あって葬儀場に行くのは男は私一人、後四人は女性。字が下手なのに香典帳を記帳する役目になる。
この時、色々話していて、もう煮炊きはやめようと言う事になる。葬家のために女性たちが集まって食事の世話をしていたのだが、私の父、その前あたりから、この煮炊きは断っていた。七、八年はやっていなかったのではなかろうか。これだけやっていないと、いまさらやろうと言う人もいなくなり、いつのまにかやめることが暗黙の了解になっていたようだ。
そして、煮炊きの準備に使う「配膳棚」や「机」「食器」も「すぐに捨ててしまおうや。明日、捨てよう」という次第で13日に捨てに行ったのであった。
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大正12年に発足した葬儀の記録。「無常講」。100年の記録。葬儀の手伝いは大幅に簡略化されるが、記録だけは書き継がれて行くのだろう。
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我が家の西の廊下に積んであった配膳棚と机、什器の入った箱。これを葬家は使っても使わなくても次に葬式があるまで預からなくてはならない。私は5年も預かった。去年、掃除したので綺麗に見えるが鼠のフンで埋まり、蜘蛛の巣は張り、ひどいことになっていたのである。こんなにあっさり廃棄が決まるなら、どうしてもっと早く決めてくれなかったのかと大いにぼやく。
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左)昭和48年に新調した机。葬家(親戚が集まり大人数になる)はこの机で食事をする。
右)配膳棚。台所に組み立てる。
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プラスチックの食器類が何十人分。
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左)出雲市のクリーンセンターに運び込む。ここは不燃ごみの処分場。
右)5年ぶりにすっきりした西の廊下。ガラス戸を開けて風を入れたのは5年ぶり。 これで今年の夏から風を通すことが出来る。夏は西の海のほうから涼しい風が入り、昼寝には最高なのだ。

特養に入所して1年と3ヶ月。この頃は今読み返しても随分口が悪くなった気がする。私をお前呼ばわりする。それまでもお前呼ばわりされたことはあったが、それは機嫌が悪い時だったような記憶がある。おそらく特養の暮らしになじめないところや不満、辛いところなどがあったのだろうと思う。私たちだって長期に入院すればストレスでおかしくなる。入院はいつか退院できるが、妻の場合は死ぬまで出られなかったのだから。


2018.5.16

「お前、世田谷にいたから知り合ったのか?(私が)学校(看護学校)に行ってたから」

(知り合ったのは世田谷の池尻のバス停近くの小さなスナック。マスターが松江工業の出身で、その店には島根県出身の新聞配達員たちも通っていたので、私も師匠の家での仕事が終わったら金のある時だけ時々顔をだしていたのだ。近くに島根出身者の経営する新聞配達店があり、働きながら学ぶ島根の学生たちの間では知られた店だったらしい。妻は若いマスター夫婦と仲がよかった)

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「チョコレート、チョコレート、チョコレートは明治。どうしてこんなに歌がうまいのだろう」
(このように特養で会話をしているのはお昼どきである。週に何回かはお昼ご飯の前に特養へ行き、車いすで散歩したり、ベッドでマッサージをしたりして、それから妻の食事に付き合っていた。そのうち自分の弁当を買って来て一緒に昼ご飯を食べるようになった。食事が終ったら歯磨きして帰る。よく通ったものだと思う。こういう人は私以外にもいて、老母の世話をする女性や、お爺さんの食事に同席する孫(息子かも知れない)のような人もいた。この人は私が行くと必ず来ていた)

2018.7(外泊中)

「お前と俺は結婚したのだぞ」と、妻が言う。

「それがどうした?」

「だからもっと言うことを聞け」
(ずっと特養に閉じ込めておくのは余りにも可哀そうなので、この頃は6泊7日で自宅に連れ戻していた。預けっぱなしにすることはとてもできなかった。1ヶ月の間でわずか1週間だけのお世話である。
それまで在宅介護をしていたことを考えれば。在宅介護をしていた時は楽できたのは妻がお泊りに行く10日だけだったのだから)

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「顔拭いてあげる」

「顔拭いてあげるなんて言うな。恩着せがましい」

2018.9.17外泊中
(特養から出る時貰った介護記録を見ると、この時の外泊は9月13日から9月18日までとわかる)

妻が私に「お前、顔がつぶれてるぞ」

「疲れたの」

♪見~たくない♪見~たくない」

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「よかよか」と、言うと

「気持ち悪いから熊本弁使うな。いいよ、いいよと言え」
2018.9.26

特養で散歩中

「車椅子を押して、人がうらやましがるぐらい」

2018.10.15 外泊中
(10月11日から10月16日まで外泊。)
「やりたいんだけどできないんだよ」

なにをやりたかったのか?

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「手洗ったか」

「下の世話をした時もちゃんと洗ってるよ」

「下の世話をしてくれたのか。そりゃあすまなかったな」
(この外泊中の夕食
11日栗ご飯、まぐろ山掛け、いものツル、野菜煮、ノンアルビール、梨
12日カレーライス、生野菜、ノンアルビール、梨
13日レタス鍋、ポテトサラダ、ノンアルビール、ぶどう
14日春巻き、いも天、ポテトサラダ、生野菜ノンアルビール、梨
15日手巻き寿司、ノンアルビール
毎晩ノンアルビールを出し、我ながら必死にメニューを考えたのだなあと思う)

2018.12.09 特養で

「島根と聞くとド田舎と思う」

2019.1.2外泊中
(年末年始は12月29日から1月4日まで外泊。年末年始は必ず娘夫婦が戻って来てくれるので気分的にはとても助かった。この年はテーブルピンポンを買って来て、娘と妻がダイニングのテーブルでピンポンに興じたのを思い出す。この頃はまだ妻はテーブルピンポンが出来たのだ。ただ当てるだけだけど。大声をあげていた)

妻はベッドに腰かけ、儂が足に装具を付けていたら頭の天辺をぷうっと吹く。

「薄くなったねえ」

「ほんとに、そんなに薄いか」

「露骨に薄いよ」

2019.2.14外泊中
(2月10日から2月15日まで外泊)

浣腸して、オムツ交換をした後

「ああ、終わった、終わった」と、思わず叫んだら、

「へたくそにやられると、こっちだって疲れるんだ」と、言われてしまった。

2019.2.15外泊中

ベッドに寝せたら

「このまま熊本に行くの?」

「うん」

「みんな、迎えに来てるよ。邦ちゃん、たいへんだったねと……」

2019.4.30

連休に娘夫婦が戻って来て特養へ見舞いに行く。

「足はよくなったか」と、聞く。

娘が足が悪かったことを覚えている。(なんでそんな歩き方するの)と、術後の回復が思わしくなくて足を引きずって歩く娘を怒ったことは私もよく覚えている。

その後、令和に改元することを教えたら、

「令和を祝す、令和を祝す……片足なおる」

娘の足がなおると歌う。
(この年は1月に父が入院。5月に死去。私は膵臓が悪いことが分かり、一時はすい臓がんになることを覚悟したほどの大変な年だった)

2019.7.7

特養のお昼。入所者の男性が大きな声で、「ごちそうさま」と、言うと

「元気ですねえ。今日の天気みたい」

2019.8.7(特養で)

長男の息子がハワイの幼稚園へ入る話をした後で

「〇〇君、来て。I wait for you. Hurry up please come here.

今日、〇〇君来ると言うから、おばあちゃん、掃除してくたびれたから、寝ている」

(自分のことをお婆ちゃんと言ったのは初めて)

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「来たらだっこしたいよ。ここに寝せてあげるの」(ベッドで)

2019.8.24(特養で)

昼食前に車椅子を押して表に出る。実り始めた田圃を見て

「イネが実り始めたね」と、言うと

「イーネ」と、返し、おかしかったのか笑う。気に入ったのか、何度も繰り返して笑う。

2019.9.1

TVで「チャゲ&飛鳥」の話題をしていると

「はげ&飛鳥だって、はげだって」と、笑う。

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「じゃあ、帰るから。また来るからね」

「(私は)もう、こんな所にいたくないの」
(やっぱりそうなんだ。そりゃそうだよなあ。と思いながら部屋を出る)

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