曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2023年03月

出雲大社周辺の古代集落
PXL_20230312_081823255
古代においては北山から流れ出る小さな川が作る扇状地に集落が出来た。緑の付箋が扇状地の出来ているところ。オレンジ色は泉の湧いているところ。一番左の出雲大社がある所は西が素鵞(そが)川、東が吉野川と二本の川が流れていたので一番大きい扇状地で、出雲大社はこの二本の川の間に立っている。
PXL_20230312_070645751 (1)PXL_20230311_011648045
左)出雲大社の東側。18世紀の屏風だがこの時はすでに北島家は現在の場所に移っている。
境内に十九社とある。今では神在月に集まった神様が泊る所とまことしやかに言われていて、私も信じていたのだが、何と真っ赤な嘘と分かる。昔は三十八社と言って、出雲大社の領内にある末社や摂社の三十八社を出雲大社の境内に勧請したものだそうだ。こういうことはよくあること。それが神様が泊る所になって十九社になったのだそうだ。恐らく、昔、出雲大社を宣伝する時に、日本中の神様が集まると言う話を作ったのだが、神様が泊る所がないのはおかしいので三十八社を宿泊所にして名前も十九社に改めたのだと思う。
右)Aから北山の方を見た写真。吉野川沿いに東の塀が北島家。
PXL_20230311_012218986.MPPXL_20230311_012518582.MP
左)塀越しに四脚門の屋根が見える。
右)四脚門。現存する一番古い建築物。江戸時代初期のもの。寛文1660年以降のものらしい。出雲大社は檜皮葺(ひわだぶき)だが、これはこけら葺き。薄く削った杉板をびっしりと重ねたもの。
PXL_20230311_012601367PXL_20230311_012814250
右)北島家から出雲大社を望む。木の間ごしに本殿の屋根が見える。とても静かで心安らぐ空間である。出雲大社は西の千家さんがある方に大駐車場があり、飲食店や土産物屋が並んでいるのでいつも観光客でごった返しているが、こちらには飲食店も土産物屋もないので実に静かだ。北島を訪れる人はみなその静けさを愛している。
PXL_20230311_013126668.MPPXL_20230311_013407930
閑話休題。北島家の中には天神社がある。なんで菅原道真が祀ってあるのか不思議でしょうと解説員。実は北島家と菅原家は親戚なのだそうだ。一体いつ親戚になったのか。
北島家の横から入って門からでる。門の前が社家通り。この後は社家通りを東へ歩いてからぐるっと回って古代出雲歴史博物館に戻る。
PXL_20230311_014459459.PORTRAIT
北島家の隣に急な階段あり。登らなかったが上には日吉社がある。なぜ北島国造館の隣に仏教施設があるかと言うと神仏習合の名残。裏山の鰐淵寺から坊さんが派遣されていた。
PXL_20230311_015237234.PORTRAITPXL_20230311_014616462.PORTRAIT
命主(いのちぬし)社。右は樹齢700年から800年と言われるムクの老樹。
大国主と国土平定した神様が祀ってあるのだが、ここで大切な事はこの裏から銅戈と勾玉が発見されたこと。勾玉は糸魚川のメノウ製。古代の交流をうかがわせる。近くには弥生時代の祭祀跡も残っており、出雲大社との関連で興味のある場所になっているのだそうだ。
PXL_20230311_015856861.PORTRAIT
真名井の泉。出雲大社の儀式で使う清水を汲む。最後に歯固めの儀式を行うためにここの清水の中から小石を二つ拾う。学芸員が言うには日本の神社や遺跡などを考える場合はまず第一に自然を見なさい。どんな場所にあるのか、綺麗な水が湧いているか、そういうことが一番大切なのだそうだ。
PXL_20230311_020323726.PORTRAITPXL_20230311_020857751.PORTRAIT
社家通りから弥山(みせん)をみる。北山で一番高い山。みんな「みせんさん」と呼ぶ。還暦記念に登った時は数百メートルの山に過ぎないのに道なき道をよじ登るように上ったが、少し行くと登山道の案内が。いつこんなものが出来たのか。もう一度登ってみたいが無理だろうな。
PXL_20230311_021939336.PORTRAITPXL_20230311_021527719.PORTRAIT
出雲井社。
ここから東が外界と考えられていた。出雲大社領との境である。実際の境は中世においてはここからさらに東へ600m行ったところだそうだが、人々の心理的境界はここだったのだろうとの解説だった。
PXL_20230311_021729952.PORTRAIT
出雲井社から南を望む。
昔は手前まで葦の生い茂る湿地。その向こうには一面の砂地が広がっていた。江戸時代1600年の後半から水を抜き、耕地を増やした。向こうに見える松林も昔は砂山で長い年月をかけて砂を防ぐために植林したものである。
好天に恵まれた1時間半であった。

第六章発売しました。
表紙0601small
第五章までは過去に連載した原稿に手を入れて一章ずつ発売して来ましたが、その五章を前月発売し、今月ようやく六章の発売に漕ぎつけました。ここから先は未発表の書下ろしになります。すでに九章までは書きあがっていて、今は最終章十章のラストにかかっていて何とか今月中に書き終えようとシャカリキになっているところです。七章から十章までももう一度見直しますので、表紙作成の時間も考えると年内12月には最終章が発表できると思います。今ははるけくもここまで来たかと感慨に浸りながらラストに向かって書いているところです。本当にこんな小説書けるのだろうか、途中で行き詰まってしまうのではないかと不安を抱えて書いていた10年が今となっては嘘のようです。今は本当に楽しいです。

                 六章あらすじ

8年ぶりの都。辰敬は土倉泉覚坊の前に立っていた。想像を絶する繁盛ぶりに辰敬は圧倒される。なんといちが泉覚坊の女主人になっていたのだ。いちは病に倒れた高利貸しを座敷牢に閉じ込めて復讐すると、高利貸しにとって代わったのである。美貌と才知にものを言わせ、幕府や公家に食い込み今や都でも5本の指に入るほどの大金持ちになったと言うが評判は悪いものばかりだった。いちは別世界の住人になっていた。

 辰敬は恩師加田公典を訪ねるが懐かしいぼろ屋敷は空き地に変わっていた。辰敬が出雲に戻った年に公典との生活に疲れた妻が火をつけ、家は焼け落ち妻も焼死したという。加田が一生かけて書き貯めた宮中の記録も灰になり、爾来誰も加田の姿を見た者はいないと言う。

途方に暮れた辰敬は蹴鞠が縁で公家の若者飛鳥井雅文と知り合う。飛鳥井家は蹴鞠師範で名の知れた公家で、二人は意気投合する。辰敬が加田公典を探していると知ると協力を約束し、公典の屋敷の裏に住んでいた山伏が知っているはずと突き止めてくれた。辰敬は山伏探しの旅に出るが見つけることは出来なかった。

 都に戻った辰敬は飛鳥井家から雅文探しを依頼される。雅文は蹴鞠師範の旅に出たまま行方不明になっていた。休む間もなく旅に出る辰敬。

辰敬は下剋上で成り上がろうとする若き国人領主浅井亮政と出会う。南近江の名門守護大名六角氏の若き棟梁六角定頼の知己を得る。さらにはやっと見つけた雅文を救うために甲賀の地侍と渡り合い、そこからまた戦に負けて奴隷にされた百姓を救う旅を続ける。戦国に女の幸せを求める女、戦国に生きる母と子、さまざまな出会いを経て、ついに辰敬は加田公典を見つけた。だが公典はすでに気が狂っていた。

「先生、多胡辰敬です。たった一人のあなたの弟子です」

涙の訴えも公典には通じなかった。

3月11日島根県立出雲歴史博物館で、弥生ブロンズネットワークリレー講座①研究者と巡る出雲の歴史『出雲大社周辺を歩く』と言う講座が開かれた。コロナでこの類の催しは軒並み中止になっていて、去年あたりからぼつぼつ再開していたが用心してずっと休んでいたが、天気も良くなったのでそろそろよかろうと3年ぶりに歴博に行く。参加者は20人ほど。ほとんど60代70代の年寄りばかり。まるでゴールデンウィークのような陽気の中、1時間半ほど解説を聞きながら歩く。今日歩くのは出雲大社の東側、北島国造館のある方である。
PXL_20230311_065504469
写真で分かりにくいが青がぐるりと回ったコース。左の緑がが出雲大社境内の松並木。その上が本殿。右隣が古代出雲歴史博物館。

PXL_20230311_045442832
PXL_20230311_045401445
       ⑴                ⑵
⑴が出雲大社ならびに神郷図(鎌倉末14世紀)
⑵が杵築大社近郷絵図(寛文5年・1655年ごろ)
PXL_20230311_045112496PXL_20230311_045208372
     ⑶            ⑷
⑶は江戸初期の大社境内に周辺を再現配置した図
⑷は天保杵築惣絵図
PXL_20230311_045619182PXL_20230311_045631966
       ⑸               ⑹
⑸は身逃神事図屏風(19世紀個人蔵)
⑹は慶長出雲大社境内図(北島国造家屋敷図)(1630年代頃)

⑴⑵でBとあるのが北島国造家を示している。二つBがあるのは境内北の山側にあるのが昔の北島国造家の位置を示していて、右手東側にあるBが現在の北島国造館を示している。
⑶を見ると江戸時代初期には今の北島さんがあるところには神宮寺や大日堂、本願屋敷などの仏教施設ががあることが分かる。これは神仏習合の長い歴史を示す施設である。正確には出雲大社がいつから神仏習合したかはよくわからないが鎌倉以前には坊さんに支配されていた。日本の神社が長い間神仏習合して仏教に支配されていた歴史を今の人はほとんど知らない。今の出雲大社はずっと昔から今の神さびた出雲大社と思ってお参りしているのだ。
本願とは禅坊主のことである。本願屋敷で出雲大社の財務を預かっていたのである。禅坊主は寺院経営で鍛えられているので昔か錢勘定に長け、金儲けがうまかったのである。この出雲大社を支配した禅坊主がどこから来たかと言うと、出雲の一の寺、鰐淵寺(がくえんじ)から乗り込んでいた。鰐淵寺は出雲大社の殆ど裏山にあると言ってよい。尾根道を通ってくればすぐなのである。
日本中の神社は神仏習合に苦しむのであるが、出雲大社は山崎闇斎(闇斎)の垂加神道の影響を受ける。神仏習合から抜け出そうとし始めるがそのためには理論武装しなければならず、本居宣長の復古神道をもってようやく神仏分離に到達する。そういう話は無茶苦茶好きでもっと話を聞きたいのだがさらりと触れたただけで終わる。時間が出来たら本も読んだりして勉強したい。ちなみに私が知っている限りでは出雲大社は江戸時代に幕府に願い出て神仏分離を果たしている。これは早い方であると聞いている。一番早かったかどうかは知らない。
この後、北島国造館から命主社、真名井の清水、出雲井社を巡りますが今日は書き切れないので後日報告します。

我が家の西側の垣根になっている貝塚がお化けのように凄いことになっていて、前からいつか剪定しないとと思っていた。南の貝塚は3年前に剪定して、その時の庭師に西も伐ってと頼んでいたのだが忙しくてなかなかやってくれなくて困っていたのだ。たまたま去年、近所が大きくなり過ぎた貝塚を伐っていたので聞いたら陰手刈りの職人に頼んだと言う。「のうてがり」と思っていたが、どうやら「のうてごり」と出雲風になまるのが本当らしい。だが、近所の人は「のうてがり」と言っていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
陰手刈りとは築地松を剪定するのを専門とする出雲地方の職人のことを言う。
PXL_20230304_025838012
斐川平野の風物詩である築地松。このように四角く剪定する。明治期から大正にかけて始まったものらしい。冬の季節風をふせぐ。独特の切り方があるのだが、近年は築地松も減り、後継者不足が問題になっている。その職人が貝塚を伐ってくれると言うので大いに期待した訳である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3月2日から土日を休んで3日間の予定で始めたが、結局4日かかって、今日7日に終了した。
PXL_20230301_231852775⇒⇒⇒PXL_20230307_023534799
    before                                                       after
写真のサイズが違うのでよくわからないかもしれないが高さにして3分の2ぐらいに低くなっている。20年以上も前に(この時すでに伸び放題になっていた)親父の知り合い(素人)が安く伐ってあげると
言って、無茶苦茶に伐ったものである。
PXL_20230302_010042760⇒⇒⇒PXL_20230307_074248173
     before                                                    after
庭から母の部屋だった西を見る。いかに伸び放題になっていたかわかる。西風を防ぐためにはもう少したかくてもいいのではないかと思ったが、そうすると雨樋が貝塚の葉で埋まってしまうので雨樋よりも少し高い所で伐ってもらった。それより低くすると風よけにならない。
PXL_20230301_230816126⇒⇒⇒PXL_20230307_005651949
   before                                          after
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下は途中の様子
PXL_20230302_060431167PXL_20230303_060402350
左)どの辺りで伐ったかわかる。昔、無茶苦茶に伐っているから伸びたところを伐ったら下はすかすかで風よけにならない。
右)ものすごい量の枝が出る。森林組合の処分場に持ち込むとチップになるのだそうだ。実際はこの何倍も出た。
PXL_20230303_055859403.PORTRAITPXL_20230303_005426147
3月3日ですべて伐り終えるが枝の積み込みに人手がかかる。3日に一人。6日に二人、手伝いが来る。
今日7日、最後に切り口に防腐剤を塗って終了。今日は4月上旬の陽気。4日間、10時と3時にお茶出ししたのでくたびれた。天気が良かったのだけが救いであった。

一年の畑は毎年じゃが芋から始まる。年末年始をはさんで2カ月休んでいたが、そろそろ始めないとなあと重い腰を上げてまだ風の冷たい畑に出たのが2月12日。
PXL_20230212_001521342PXL_20230212_011918583
池の東の畑を今年はじゃが芋と薩摩芋に決めたので、まずは東の畑の半分を耕運機で耕し、苦土石灰を撒く。
PXL_20230217_232445990PXL_20230220_021922644
2月17日             2月20日
玉ねぎは追肥でいつも悩む。3度する人もいれば、2度の人も。去年の私みたいに忘れて気がついたら3月になっていたので追肥をやめて、1回しかしてない者もいる。常識的には2回だが時期が人によって言う事が違う。今年は原点に戻り、帰郷した時、母に教わった通りに12月の後半と2月の後半に追肥する。
左)極早生の玉ねぎに化成肥料(白い粒)を撒く。玉ねぎも極早生、早生、晩生の3種類を植えたので本当は肥料をやる時期も違うのではないかと思うのだが、いくらネットで調べても3種類の追肥の時期については載ってないのでエイヤッと17日にまとめて全部に追肥する。
右)手前から三等分に極早生ジェットボール、早生ソニック、晩生ソニックを植えたが極早生は成長が速く、晩生は極早生の3分の2ぐらい。
PXL_20230220_072945323
2月20日
今年はなぜかニンニクの葉が黄色くなって成長が悪い。多分肥料が足りないのだろうと思って化成肥料をたっぷりと与える。
PXL_20230224_225221874PXL_20230226_023616805
2月24日             2月26日
左)じゃが芋をマルチで作るプロはじゃが芋は荒れ地で育つものだから肥料はやらなくていいと言うのだが、やっぱり不安なのでじゃが芋専用肥料を少なめにまいた畑をもう一度耕運機で耕す。
右)マルチを張る。
PXL_20230226_230700603PXL_20230226_230759835
2月26日
左)マルチに切れ目を入れる。
右)2週間ほど日当たりのいい縁側で芽出しをしていたじゃが芋を切れ目から押し込む。
PXL_20230226_230858267
土から顔を出す程度まで埋める。後は茎が伸びて3本立てにするだけで収穫までなにもしなくていい。草取りしなくていい、土寄せしなくていい、追肥もしなくていい。どんな野菜もみんなこんなふうにできたらどんなに楽だろう。ちなみにこのじゃが芋は『とうや』。今年で3年目か。私のお気に入り。『男爵』に似ているが、玉ぞろいがよいのだそうだ。今年はこの他に『シンシア』と言う新品種を植える。フランスのじゃが芋を改良したもので、煮崩れしなくて肉じゃがに向いているそうだ。外国への持ち出しは禁じられていると大層な断り書きがあった。【田中種苗】に行くとこういう珍しいものがおいてあるのが私みたいな新しもの好きにはたまらない。
PXL_20230226_232413287PXL_20230227_071039871
この日の朝は最低気温が0℃で霜が降りていた。日陰は土がカチカチで芋を植えられないので午後になって暖かくなってから植える。翌28日も霜が降りていたが。今日3月1日は4月上旬の暖かさ。
今年は『とうや』38個、『シンシア』15個、『男爵』16個を植えた。合計69個。
去年は『とうや』17個、『男爵』45個、『メイクイーン』21個、『キタアカリ』21個。合計104個だから今年は去年の約7割弱。去年は暑いのに水やりをさぼって出来が悪かったので今年は最低限水やりだけはしっかりやろうと思っている。

↑このページのトップヘ