曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2023年02月

亡き妻が特養に入ったのは今頃のような季節だったと思って調べてみたら、2017年(平成29年)2月6日に入所していることが分かった。あれからもう6年になるが入所させた時の胸の痛みは今も残っている。知らないうち骨折を2回繰り返し、2回目のリハビリ入院はもう効果がないと断られたのであった。退院しても車椅子に座って体勢を維持するのも難しくなり、デイサービスに通うのも困難になったので入所したのであった。
入所してからは自分は確かに楽になったが、妻を施設に入れたことには申し訳ないと言う気持ちを払うことが出来ず、施設には出来るだけ通うようにした。昼ご飯を一緒に食べ、施設の周りを散歩したり、時には妻の部屋でマッサージをしてやったり。それでも自分としては納得できず、月に4泊5日ぐらいで自宅に外泊させたりもした。年末年始ぐらいはと正月を自宅で迎えたりもした。
そして、1年経った2018年の2月になって、私は2010年の11月でやめてしまっていた妻の語録を再び書き留め始めたのであった。書き留め始めたのは東京の病院を退院してからの2006年の1月からで、当初は手帳に細かい字で克明に記録していたのであるが、さすがに疲れが出て来てついに5年目に力尽きるようにやめてしまったのであった。
2011年に出雲に戻ってからもまた書き留めようと言う元気は出なかったのに、なぜ、急にまた8年ぶりに書き留めようと思ったのか。それは妻が施設に入り別れてしまったからだと思う。会って話をするのは1週間に何日かだけのお昼の一時間ほどと月に数日の外泊の時だけ。限られた時間にしか会えない妻の言葉がとても大切なものに感じられ、これは書き留めて置いてあげなければいけないと思ったのである。たくさん話せないのでたくさんは書き留められなかったが、今読み返すと施設や散歩コースや外泊で戻って来た時のことが甦って来る。

再開語録【1(通算38)】

2018.2.18

外泊で戻って来た時。食事の世話をしていると

「お父さんには一家の主婦と言う仕事があるの」

2018.2.28

特養でマッサージするが、痛むので

「殺せ、保険金がもらえるぞ。いい暮らしができるぞ」
※痛みを訴えられるのはいつも辛かった。

2018.3.4

特養でマッサージしていると

「奥さんと入れ替わりましょうか。いい奥さんになりますよ。犬だって猫だって可愛がります。鶏だって可愛がりますよ」

2018.3.20

外泊で戻って来た時、昼食の世話をしていると、

「良く動く男だな」
※こういうセリフというか言い回しが妻らしくて好きだった。いい言葉が書き留められたと嬉しくなったものだ。

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「だめじゃないですか、コサインコサインタンジェントを忘れたら」
※こんな台詞が出るのも妻らしいが、なぜかコサインが連続して出て来た。

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外泊の時、手伝いに来てくれた私の妹にローションを塗って貰って

妹「こんなにきれいになるのに」

妻「もともときれいだからな」
※笑った。

2018.4.12

TVCMを聞いて

「バイト探しはインディード。バイトしたいな」

「なにしたいの?」

「私がするのは飲み屋に決まっているじゃん」
※この頃、このCMをよく繰り返していた。
※お酒は好きだった。飲ませるのが怖くてノンアルコールビールしか飲ませなかったがそれも二口か三口だった。いっぱい飲ませてやりたかったと思う。

2018.4.16

「玉子焼き作ってくれた。ふわっとして、おいしかったあ」

「誰が作ったの」

「お前が。風邪ひいたらすぐ作ってくれた、すぐに治った」

※子供の時の記憶が入り混じったようだ。

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「お母さん、お母さんと言うから、子供たちがお母さんと言う。気持ち悪い。言い直せ。〇子さん(妻の名)と言え」

2018.5.1
ゴールデンウィークに見舞いに来た娘夫婦に向かって
「〇〇ちゃん、フルーツポンチの逆を言ってごらん」

と、むりやり言わせてゲラゲラ笑う。

2018.5.6

特養で足のマッサージをしていたら

「ねえ、畳の上にごろっとなりたい」
※何気ない当たり前のことを言われるのが辛かった。

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特養の中を車椅子で散歩中

「館内放送で〇〇(息子)と〇〇ちゃん(娘)を呼んで」

長いコロナで面会が出来た時はあったが外出はほとんどできず、たまに美容院へ行くことが出来ただけであったが、コロナが穏やかになって来たので(と、言っても以前なら外出なんて絶対に許されない患者数なのだが)外出が許されるようになった。気分転換のドライブ(と、言っても店に入ることは禁止)や自宅に戻ること(まだ短時間)がOKになった。4年前にグループホームへ入所してすぐにコロナ騒ぎとなり3年間は美容院へ行くことと施設での15分面会しかできない籠の鳥生活を続けていた。先週の日曜日、美容院がOKになったので連れて行った時、「こんなところにいると嫌になる」と言うようなことを言ってたので、今日は帰宅させてやろうと決めていたのだ。3年ぶりの帰宅である。幸い好天。
だが家へ帰ると言ってもぴんと来ないみたいで私が遠くから迎えに来たように思っている。これまでも何度も車で5分の近い所だよ言ってるのに理解できていない。家の近くのお寺の手前まで来てやっと「そこを左へ曲がるのね」と言うが、そこを曲がることを覚えていただけで家の前まで行ってもどこか分からないと言う。家の前に止めてもまだ自宅と分からない。門の表札を見て私の名前に気がつく。
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敷地に入ってもぴんと来ない様子。鍵を開けて入る時「借りてるの」と言う。
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蔵を改造した部屋で休ませる。「広い家だねえ」「いい部屋だねえ」と感心する。25年ぐらい前に父が退職して帰郷し、古い家をリフォーム、蔵も父の部屋用にリフォームしたことなど綺麗に忘れている。何度説明しても全然頭に入っていない。スマホで下の娘と久しぶりにたっぷり話すが、はじめは誰か分からなかった。10時のおやつにあんぽ柿を食べ、ブラックコーヒーを少し飲む。
父が死んだことを話すといつも驚く(5年前に死んだのに「知らない、葬式も出ていない」と言う)ので今日は仏壇へ連れて行く。妻が去年死んだことを話すととても驚き、「かわいそうに」と言うが、妻の介護のために帰郷し一緒に暮らしたことなど覚えていない。妻の遺影を見て「この人は誰かね」。父の遺影を見ても何も言わず、仏壇を眺めて「たくさん位牌があるねえ」とそちらの方に驚いていた。
仏壇にある部屋に入る時、障子を見て、「まあ、障子だ。まるで田舎の家みたい」と言った。
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昔の母の部屋へ連れて行く。自分の部屋を父が作ってくれたことも忘れている。自分の部屋があったことも。だが入ったら「ああ、この部屋は」と思い出したようで、和箪笥の中をみたりしていたが、ドレッサーを開ける。早速服をかき分けると一着引っ張り出してきて着る。シーズンにはまだ早い服だったが本人が着るというのでそのまま着せて11時過ぎには施設に戻る。
帰宅して、この日、一番ほっこりした場面であった。
またいつ外出禁止になるかわからないので来週も連れて帰ってやろうと思っている。お土産には昼と夜に食べるように赤飯。おやつのあんぽ柿。女性セブン。こんなに認知症が進んでいるのに週刊誌を読んでいるのが不思議でならないのだが、読むことだけは続けてもらいたいと思っている。

たまたま去年の記録を見たら2月6日に春キャベツを食べていたことがわかり慌てて畑に出たのが2月8日。うっかりしていたらまるまる太っていたので早速収穫する。
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去年は青虫(モンシロチョウの幼虫)が大量発生して秋からずっと畑に出ては薬を撒くのが嫌なので手で一匹一匹退治し、年を越してもまだ生き残っている奴を退治したものだが、今シーズンは葉が大きくなった頃ぼろぼろの穴だらけにされてこの先どうなるのだろうとため息をついていたのだが、ぼろぼろ食われているのになぜか青虫の姿を見つけることができず、その後も青虫を一匹も見ることがなかったのである。そういうわけで青虫探しをしなかったことも春キャベツの成長に氣がつかなかった理由の一つでもある。去年、苗を10本植えて2個ほどまだ小さめだが後は全部食べられるので5個ほど収穫。
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この4個は東京の娘に送ってやる。1個は自分で食う。千切りにして食う。春キャベツはこれが一番うまい!はずだったのだが、今年は期待したほどではない。去年に比べて固いのである。去年は柔らかいキャベツをもりもり食べた。孫も離乳食に潰したキャベツをモリモリ食べて娘が喜んでいたのにどうしたことだろう?
思い出すと確かに去年のキャベツは葉がやわやわと言うか、ふかふかと言うか、一枚一枚がとても柔らかく、その柔らかい葉っぱが何枚も包み込むように重なっていたのだが、今年のキャベツはまるで夏キャベツのように一枚一枚がしっかり重なっているのである。葉も一枚一枚も去年のような柔らかみに欠ける。種類は同じ。植えた時期も同じ。肥料をやり忘れるのも同じ。天候もそれほど違いはない。だから同じ頃に出来たのだし。むしろ成長期に青虫の被害はなかった。どうしてなのかさっぱり訳がわからない。
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1月26日の空豆            2月10日の空豆
寒さにやられてどうなるかと思ったら少し葉っぱが伸びて来た。それでも生育具合は去年の半分以下ではないだろうか。去年はもっと大きかった。
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1月26日のえんどう          2月10日のえんどう
寒さにやられてぼろぼろだったが、少し元気な葉が出ていた。エンドウ類の生育は空豆どころではなくてもっとひどい。去年の今頃はつるが伸びて網に巻き付いていたのに、今年はまだ一本も網に巻き付いていない。だが、焦ってはいない。豆類は暖かくなったら一気に伸びる。今つるは伸びないが地中では根が伸びているのである。根がしっかり張れば栄養を吸い上げてくれるのだ。そう信じて成長を待つ。
今は根を伸ばす時、人間と同じですね。

5章容量小
五章をようやく発売に漕ぎつけました。連載したところですが連載はここまでで次章から書下ろしになります。六章に続く重要な章になりますので手直しに時間がかかり遅くなったしだいです。最終十章はようやく目途が立ったところで連休前には書き上げようと頑張っているところです。

五章あらすじ

帰国したが辰敬を見る目は冷たくいつまでたっても出仕できず、守護所に独り暮らす吉童子丸に会うことも禁じられていた。そんな孤独な辰敬の味方は再会した小屋爺一人だけであった。ある日、吉童子丸が大方様の見舞いに行ったと知った辰敬は矢も楯もたまらず大方様を訪ねたが面会は果たせず、怒った父から蟄居を命じられた。

辰敬は真夏の蟄居で皮膚病に苦しむが、大方様の嘆願で許されて湯治に行くことが出来た。

そこで辰敬は深夜に湯浴みする娘と鉢合わせする。祖母の湯治に付き添って来た富田衆玉木家の娘きいであった。いちを忘れられず悶々とする辰敬の胸に滑り込むきい。その美しさにおいてはいちには及ばないが辰敬の鬱屈した心を癒やしてくれる娘だった。だが阿用城城主桜井宗的の反乱が二人のはかない恋を引き裂く。思いを打ち明ける間もなく辰敬は戦いに駆り出される。

その戦場でまたもや失策を冒した辰敬は安来の港の蔵番に落とされる。そこは人生の落伍者の掃きだめだった。お頭は経久に疎まれ左遷された男であった。追い打ちをかけるように縁談が決まったきいから別れの文が来る。

その後、富田に戻るも相変わらず出仕できない辰敬は京羅木山で行倒れた多聞を救う。多聞は桜井宗的の反乱を知り阿用城へ行こうとしていた。愛する女と東国へ向かったものの女を失った多聞は阿用城で尼子経久に一矢報いる覚悟でいた。それが御屋形様の恩に報いるただひとつの道だったのである。御屋形様への深い思いを初めて知る辰敬。辰敬は阿用城へ向かう多聞を見送る。次に会う時は阿用城であることを覚悟して。

果たして辰敬は瀕死の多聞と出会い介錯を頼まれる。泣いて首を取る辰敬。

その首は刑場に晒された。辰敬にとっては耐え難いことだった。辰敬はその首を盗んで御屋形様の側に葬ろうと思い立つ。だが辰敬より先に首を盗んだ者がいた。小屋爺だった。小屋爺は見張りに見つかり斬られるが、多聞の首を抱いたまま深夜の富田川に消えた。

辰敬の気持ちを察した小屋爺は辰敬のために首を盗み出そうとしてくれたのであった。無学な乞食同然な爺さんの無償の行いに涙する辰敬。

そこへ、安来の蔵番のお頭が切腹した報せが届く。部下の不始末を救うために温情を願い出たのを一蹴されたお頭は尼子経久に抗議して腹を切ったのである。辰敬はここにも真の武士がいたことを知る。多聞とお頭と武士よりも武士らしい小屋爺の死が辰敬を再び旅に駆り立てる。己が生き方を探して。

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