第五章 出雲の武士(10)
八の字の髭がぴくりと動いた。
「理由を言え」
「生き方を考えたいのです」
阿用城から戻って、辰敬が思い悩んでいることは忠重にも分かっていたから、その言葉には驚かなかったが、一番聞きたくない青臭い言葉だった。つとめて感情を抑え、
「旅に出ずとも考えることはできよう」
「このまま妻を持ち、御奉公に励む人生でよいものかどうかを悩んでおります」
「悩むことではあるまい。亀井一族から妻を娶り、ようやく日の当たる場所に召し出されたのじゃ。どこに不足がある」
辰敬は唇を噛みしめた。血の色が失われて行く唇を見て忠重は焦れた。
「何もかもはきと言え。奥歯にものが挟まったような物言いでは何も分からんではないか」
辰敬は意を決した。確かにこれは家族にしか言えないことである。
「私は大好きな多聞さんの首を獲りました。命を奪ったのです。此度の縁談も約束される将来も、私にとっては多聞さんの命と引き替えに得たものになるのです」
「それが手柄と言うものじゃ」
「それが辛いのです」
忠重は苦い顔で吐き捨てた。
「桜井多聞は敵じゃ。尼子家に背いた男じゃ」
「ただの謀反ではありません。多聞さんは御屋形様への恩顧に報いようとしたのです。これは武士の大儀です。たとえ敵でも大儀に命を捨てた武士は称えられるべきです。私はそういう武士の首を獲ったのです」
忠重は黙った。京極家への恩顧は忠重にとっても心の棘だった。
「私には多聞さんが武士の死にざまを身をもって示してくれたように思えてならないのです。私にとっては師であり、時には兄であり、父とも思える人が、武士にとって何が大切なのか、武士はどうあるべきかを教えてくれたのです。安来津の瀬島さんも同じです。瀬島さんは私に言いました。武士の最期は腹を切るか切らぬかで決まると。そして、言葉通りに腹を切りました。多聞さんと瀬島さんが身をもって示したことは私にとっては遺言です。遺言は重い。それも武士の中の武士の遺言です。私は答えなければならないと思うのです。その答えを探さなければなりません。それが旅に出ることなのです」
忠重は横を向いていた。
「縁談をどうする気じゃ」
「お断りするしかないと思っております」
深々と頭を垂れた上に忠重の一喝が炸裂した。
「たわけ、今更そのようなことが出来るか。一体何と言ってお断りするのじゃ。お前は儂に腹を切らせる気か」
はっと顔をあげると怒りに震える父の顔があった。
「よいか、儂は腹を切ってお詫びしなければならぬ。この縁談はそれほど重いのじゃ。断ることなど絶対に許されぬぞ」
父子は決裂した。
部屋に下がると暫くして母が不安と悲嘆の塊になって現れた。
「お前はもう二十五にもなるのですよ」
辰敬は申し訳なさそうに頭を下げた。
「その歳には正国も重明も結婚し子も持っていました。お前にも早く一家を構えて欲しいのです。これはわらわだけではない、多胡家みんなの願いなのですよ」
「わかっております。わかっておるからこそ辛いのですが、最後の親不孝を許していただきたいのです」
「今から旅に出て一体いつ戻って来るのですか。何年経ったら戻って来るのですか」
答える代わりに頭を下げるしかなかった。
「わらわはお前が都へ行った時もいつになったら帰って来るのか、心配で心配で毎日東の空を見上げては、一刻も早く帰って来ることを念じておりました。辰敬、お願いですからもうあのような思いをさせないでください。今度出て行ったらわらわはもう会えないような気がするのです」
母にまでこのような思いをさせたことに辰敬は胸を引き裂かれた。父と話すより辛い時間が過ぎ、
「明後日には掃部介様に会わないといけないのですよ。今晩一晩よおく考えて下さいね。頼みます、頼みますよ。この通り」
握り締めた我が子の手にぼろぼろ涙をこぼした。
翌日の昼前、玄関前に馬蹄の音が駆け込んで来ると縁を踏み鳴らし血相を変えた正国が現れた。石見の余勢城から馬を飛ばして戻って来たのだ。
「お前、何を考えているのじゃ」
怒鳴りながら殴れば手が届くところにどかっと座り込んだ。部屋が揺れた。
「父上は腹を切ると仰っている。お前は父上を殺す気か。多胡家を潰す気か」
凄まじい剣幕に圧倒され辰敬は拳を覚悟した。兄の膝で固く握り締めた拳がわなわなと震えている。今にも火を噴かんばかりに。辰敬にも火が点いた。心の中で殴るなら早く殴れと叫んでいた。殴られたら殴り返してやる。挑むように顔を突き出した。
次の瞬間、目の前が真っ赤になった。衝撃と痛みで一瞬気が遠くなったが、歯を食い縛って耐えると辰敬も殴り返していた。言葉で。
「私の縁談ごときで腹を切るなんぞくだらんことじゃと思いませんか」
「何じゃと。お前、いま何と言った」
「末代まで語れる死に方でしょうか」
「も、もう一度言って見ろ」
正国は真っ赤になり全身を震わせていた。
「兄上、桜井多聞は大義に身を捧げました。安来津でお頭だった瀬島平七は部下と盲目の娘を逃がしてやると部下の罪を背負って切腹したのです。もし、父上が切腹したとして、この二人の最期ほど心を打つものでしょうか」
「貴様、言わせておけば……」
「最後にもう一つだけ言わせて下さい。父上には敢えて黙っていたことなのですが小屋爺が殺されたことは御存じですか」
「小屋爺……」
正国は怪訝な顔をした。
「私に将棋を教えたために父上に折檻されたことのある乞食同然の老人です」
「それがどうした」
「桜井多聞の晒し首を盗んで斬られたのです。この私のために」
「なに」
「私は多聞さんの首を盗もうとしたのです」
正国は驚愕した。
「気が付いた小屋爺は私より先に首を盗み、私のために首を隠してくれようとしたのです。自分の命を捨ててまで私を救ってくれたのです。いえ、この多胡家も救ってくれたのです。もし私が首を盗むのに失敗していたら私も多胡家もどうなっていたことか」
辰敬は身を震わせ声を震わせた。
「いくら私を愛していてくれたとは言え、まったくの無償の行いです。武士でもないのに、学問をしたわけでもないのに、修行を積んだわけでもない無学文盲の老人です。この尊い犠牲に私はどう答えればいいのでしょうか。結婚して、家族を安心させ、家を保ち、御奉公するためだけの人生でいいのでしょうか」
正国も震えた。怒りで。辰敬の言葉は自分を否定する言葉でもあった。
「黙れ」
「言わせてください。私は私の心に一生その面影を残す二人の武士と一人の老人が、この私に残したものを考えたいのです」
「武士はそれを御奉公の中で学ぶのじゃ」
「私は旅で学びたいのです。旅には力があります。人を変え人を磨く力が。それが十二歳で都へ行って覚えた事なのです」
「減らず口をききおって」
茹蛸のようになった時、不意に、
「か、か、か……」
場違いな桶を叩くような笑い声が響き渡り、襖が開くと一人の僧が立っていた。
「正国殿の負けじゃな」
「妙案様」
正国は戸惑いを隠せないでいた。
僧は惟高妙案と言う。都の臨済宗相国寺の禅僧で山陰にある寺領や権益を守る重要な任務を負っていた。永正十年に伯耆守護山名澄之を頼って西下し今年で六年になる。四十になったばかりである。伯耆の保国寺を拠点に在地武士勢力と交渉し、奪われた荘園を取り戻し、さまざまな権益の確保に当っていた。度々出雲にも来て、その学識と磊落な性格、弁舌の巧みさで尼子経久に気に入られ、経久は相国寺の庇護者となった。三十四歳で京都五山二位の名刹の重要な任務を託されたほどだから優秀な僧である。忠重とも昵懇となり、富田滞在中はしばしば多胡家を訪ねていたので皆顔見知りである。
「辰敬殿の言わんとしていることは禅で言えば公案のようなものと思えばよいのではないかな」
公案とは悟りを開くための修行の一つとして、修行僧に与えられる問いかけである。高僧の言葉であったり、行動であったりする。
例をあげると「隻手の声」がある。意味は両手を叩くと音がする。では片手の音とはなんぞや。修行僧は考えた答えをもとに導師と問答をする。これが禅問答である。
「十年かかるか二十年かかるか、野垂れ死にするかもしれぬ」
正国の顔が曇った。
「覚悟は出来ておるのじゃな」
鋭い目が辰敬を突き刺した。
「はい」
嬉しさが真っ直ぐな声になった。
「伊予殿は拙僧が説得してやろう。伊予殿が認めれば掃部介殿も引き下がるしかない。入道殿も諦めるしかないな」
「ありがとうございます」
平伏し紅潮した顔を上げると妙案の目は同じ位置にあった。
「儂も昔は武士じゃった」
にかっと笑うとさっと踵を返した。
妙案は経久に勇猛な武士だけで強い国は出来ない。一つの色しか持たない集団は脆いもので、人が集まった処には必ず異なる色をした者がいなければならない。辰敬はそうした武士になれると説得し、辰敬の旅を認めさせた。経久が認めればもう誰も反対できない。
恨めしい目をした忠重に妙案は辰敬と故郷との間で連絡がとれる便宜をはからってくれた。妙案は常に都の相国寺と文のやりとりをしているので、妙案が辰敬と出雲の間の文の取次をしてくれることになったのだ。辰敬宛の文は相国寺が預かる。辰敬は時々相国寺に顔を出して受け取る。すぐに連絡はつかないが確実に届く方法である。辰敬が故郷に文を出す場合は相国寺に届ければ、相国寺の使いが妙案に届けてくれる。忠重はしぶしぶ認めた。
認めたからには早い方がいい。杵築大社の遷宮前に出立することになった。十三年前は都に旅立つ十二歳の少年への不安を打ち払うかのように盛大な宴を設けたが、今回は辰敬の希望で親と正国と辰敬の四人だけのささやかな宴となった。供もつけない一人の旅なので持てる荷も限られている。旅支度もすぐに終わった。
その夜、辰敬の部屋に正国が現れた。正国は何も言わずに座り、ちらりと小さな荷物に目をやった。
「支度は出来たようだな」
「はい」
静寂が二人を包み込んでいた。
「昔、お前が都へ旅立った時は桜が満開じゃった……」
「はい」
今年はすでに桜は終わっていた。
「お前が羨ましかった……」
驚いた目を向けると兄は遠い日の桜を追うような目をしていた。
「儂も都へ行きたかったのじゃ……じゃが、儂は誘われなかった。たとえ誘われても儂が都へ行くことは許されぬ……切なくてなあ……儂はお前に嫉妬した……」
辰敬ははっとなると思わず頭を垂れていた。深々と。
「申し訳ありません」
兄の目が綻んだ。
「お前が謝ることはない。長男に生まれた宿命じゃ。家は儂が守る。お前は何も心配せずに好きなことをやれ。好きな所へ行け。儂には出来ないことをやるのじゃ」
熱いものが噴き上げて来た。
「有難うございます」
「馬鹿者、男が泣くな」
そう言う兄の目も潤んで見えた。
翌朝、日が出る前に辰敬は出立した。
目立たぬように母と兄だけが門前で見送りをした。父とは座敷で別れ、家人たちとは玄関先で別れた。
「もしかしたらもう会えぬかも知れない。今生の別れになるかも知れない。辰敬、よおく見せておくれ。お前の顔を」
薄闇の中でくっつかんばかりに覗き込む母の顔に、出発間際の最後の一瞬まで辛い思いをさせられる辰敬であった。
(最後の親不孝をお許しください)
涙の母を兄に託すと辰敬は振り切るように歩き出した。
辰敬の足が向かったのは守護所であった。出雲を離れる前にどうしても会わなければならない人がいる。これまで周囲を憚っていたがもう構うことはない。知れることは覚悟の前である。知れたところで辰敬はもう富田にはいない。この先、いつ戻って来るかも分からないのだ。宙の一点を見据え暁闇を突っ切った。朝の早い行商人が吃驚して見送った。
こんなに近くに住んでいながら何と遠い場所であったことか。失われた時間の中を進み、守護所の門前に立った時、辰敬は屋敷も老いることを知り悲哀に胸を掴まれた。門番に名乗る声が詰まった。
屋敷の中も洞のように虚ろで足裏で縁がきしむ度にここに御屋形様との楽しい日々があったことが夢幻のように思えた。
座敷に通されしばし感慨に耽っていると、足音が蹴り立てるように床を鳴らしさっと勢いよく襖が開いた。
十九歳の若者が見下ろしていた。二十五歳の辰敬が見上げた。十一年の歳月を埋めたのは無言の時間だった。辰敬は驚いていた。面影はどこにもなかった。これが同じ人間とは思えなかった。戸惑いを隠せなかった。どのように懐かしさを見せたらよいのか。
若者の白い歯が零れた。辰敬はあっと叫びそうになった。似ていたのだ。御屋形様の笑みに。この若者は祖父の血を引いていたのだ。血筋は争えない。寝起きのままの姿で現れたのだが、鎌倉から続く貴種はまごうとなき源氏に連なる武門の末裔だった。
「辰敬か、会いたかったぞ」
「お懐かしゅうございます」
平伏した辰敬は面を上げることが出来なかった。
別れた時のひ弱な少年の面影が消えていたことが嬉しかった。凛とした声と物腰にも感激したのであるが、同時にこの個性が悲運と孤独に耐えて作り上げられたものと思うと、痛ましさの余りまともに顔を見ることが出来なかったのである。
「長い間の御無沙汰をお許しください。吉童子丸様の何一つ支えになることも出来ず、辰敬、お詫びの言葉もございません」
平伏した頭の前に吉童子丸がどかっと腰を下ろした。
「お前が来れないことは分かっていた。母上には会いに行き、謹慎を食らったこともおまんから聞いておった」
「今にして思えば何かできたはず……文を差し上げることも考えたのですが……」
年下の若者が諭すような笑みを浮かべた。
「お前が同じ出雲にいるだけで支えになっていたのや。みを誰よりも信じ、思ってくれる男がいる。いつもそう思っていた。ま、寂しい時もあったが……みも人やから……」
八歳からの十一年は長い。
「申し訳ございません」
感極まって落涙した。
若者の顔に疑念が差した。
「それにしても突然どうしたことや、その姿はもしや……」
「旅に出ます」
「そうか、そう言うことやったか……」
利発な若者の目は深く、吐息も深かった。
「色々あったことは聞いておった。桜井多聞の最期も宗済様(政経)に報告し、みも多聞を弔った」
辰敬は感謝の目を向けた。ここに理解者がいたことに。この若者こそが一番の理解者であったことに。
「みも旅には憧れがある。何もかも捨てて旅に出たいと思ったことも一度や二度やない」
辰敬ははっと若者を見つめた。
「じゃが、みにはできぬ。母上を泣かせることは出来ぬ。京極の名も重い」
ふっと若者は遠くを見るように呟いた。
「京極家はどないになるのやろう」
辰敬は胸が塞がった。この若者が背負い続けるものを想像したら自分の悩みなど芥子粒のようなものではないのかと。
若者が笑みを作った。
「人それぞれや。悩みのない人間はおらん。辰敬が人生を真剣に考えている男であることが分かってみは嬉しい」
年上が恥じらった。
「みはここで悩み苦しみながら生きることになるがそれはお前も同じや。み一人ではない。そう思うとどれだけ勇気づけられることか。辰敬がどんな男になって戻って来るか待っている。みとて恥ずかしい男にならぬよう励む。ほんに今日はよう来てくれた」
その顔には普段は話すことも出来ず、心の奥底に押し込めていたものを、すべて解き放った清々しさが溢れていた。
辰敬とて若者同士だけで語り合える言葉で語り合えたことが嬉しかった。吉童子丸がそういう言葉を吐き出せる若者になっていてくれたことが。
障子が白み始め、出立の時が来た。



































