第五章 出雲の武士(9)
凱旋した辰敬を父悉皆入道は上機嫌で迎えた。杵築大社造営を成し遂げた年に不肖の裾子が面目を施したのである。
「伊予様(経久)からお褒めの言葉を頂いたぞ。総大将刑部様(国久)のお命を狙った、桜井一族一の武辺者の首を獲ったのじゃから大変なお喜びじゃった。お前のこともお考えくださり、引き続き儂のもとで励めとのお言葉を頂いたぞ」
父のもとで働くと言っても立場は大違いである。これまでは父の私用を務めていただけであったが、これからは大社奉行のもとに正式に出仕し、尼子家に御奉公することになったのである。
「来年の遷宮で大社造営の一大事業が終わる。伊予様は我ら親子の為に遷宮と言う晴れ舞台を用意して下さったのじゃ」
正国も大きく頷いた。
「伊予様の親心じゃ。辰敬、大変な名誉だぞ」
辰敬は低頭した。見えない兜がずしりと重かった。
母の笑顔を見るのも数年ぶりだった。それは嬉しいことだが心を軽くすることはなかった。どこへ行ってももてはやされたが、もてはやされるほどに心は叫んでいた。
「違う」
そこへ追い打ちを掛けるように一番聞きたくない報せがもたらされた。
多聞の首が晒し首になったのである。
城下の外れの刑場に、桜井宗的以下桜井一族と重臣たちの首が晒されたのだ。戦後の始末としていつも行われることで、覚悟はしていたのだが到底平常心は保てない。聞けば黒山の人だかりと言う。一番注目を集めるのは多聞の首と思うと胸は張り裂けんばかりであった。
夢に多聞の首が浮かんだ。
阿用城が落ちた後、首実検は同じ磨石山の頂上近くにある古刹蓮花寺で行われた。
国久を前にして、首注文を記録するために、辰敬は首台に乗せられた多聞の首と相対した。
変わり果てた首があった。何が変わっていると言って、奇麗に血を洗い流した顔はまるで白粉を塗ったように白く、漂泊の人形師が操る人形の顔のように見えたのであった。敵であっても、それが死者を弔う作法とは言え、辰敬には逆に多聞を冒涜しているように思えた。抉れた片目や米粉をこすりつけて止血した無数の刀傷の跡が、ぱっくりと開いて、まるで作り物のように見える。
(違う、多聞さんの首ではない)
そう叫びたい声をこらえるだけで精一杯だった。多聞は血と泥にまみれた顔で国久を睨みつけていたかったに違いないのだ。
その多聞の首は毎晩夢に出て来た。眠れぬ夜が続いた。首が腐乱し始めたと言う噂を聞いてからは夜の底が耐え切れないものになった。辰敬はたまらず布団を抜け出すと、夜が明ける前に裏口からそっと屋敷を出た。
まだ暗い刑場は深まり行く秋の露をたっぷりと含み、足をぐっしょりと濡らした。冷気に満ちた靄の中にぼおっと十数本の杭が現れた。その上に物言わぬ黒い塊があった。
濡れた足音しか聞こえなかった。濃い靄の中を真っ直ぐに進み、黒い塊のおぼろな輪郭が一つの形となった時、辰敬は強烈な腐臭にたじろいだ。肺腑を破裂させ、息をすることもできなくなるような、この世の物とは思えぬ臭いだった。
まじかで見る首はどれも首化粧の跡形も残っていなかった。想像以上に腐乱は進んでいた。ハエやウジ虫がたかり、中には腐敗が進み、悲しく俯いたように崩れ、今にも首台から落ちそうな首もあった。
足が止まった。
そこにあるのもまた多聞であって、多聞の首ではなかった。辰敬は後悔した。来なければよかったと。幾つもの壮絶な戦いの証さえ溶けていた。腐った肉の塊としか見えなかった。余りのおぞましさに、声もなく、悲しさも虚しさも放棄した人の抜け殻のように立ち尽くしていた。
びちゃっと濡れた足音が止まった。
振り返ると真後ろに幽鬼のような人影が立っていた。
「爺……」
思いがけない顔に驚いたが、そこにいてくれるだけで救われる老人の顔だった。
「そろそろ現れると思っちょったよ」
小屋爺は多聞の首を見つめながらそう言った。
「爺はなして……」
「ほんの三日ほどお世話をしただけじゃがのう、忘れられん御仁じゃった。一日で人となりはわかる。三日もいれば辰敬殿とのつながりも見えて来てのう。こんな爺でも男として羨ましいものがあった……なむあみだぶ……なむあみだぶ……」
ちいさく念仏を唱えた。
「多聞さんの首はどうなるんじゃろう」
「恐らく捨てられるじゃろう」
辰敬は思わず小屋爺の顔を睨んだ。
「ここにある首は全部首塚に葬られることは許されぬはずじゃ」
厳しい声音に辰敬は項垂れるしかなかった。
(ここまでの仕打ちを受けたのに、弔うことも許されぬとは)
その横顔を小屋爺が険しい顔で見据えていたことを、この時、辰敬は気が付かなかった。
「人が来る」
小屋爺の声に辰敬は我に返った。
東の空がわずかに白み、靄がゆっくりと動き始めていた。
「早く帰るのじゃ。いいか、もう二度と来るんじゃないぞ」
小屋爺が辰敬にこのような厳しい態度をとるのもこれまでになかったことだ。奇異に思いながらも辰敬は老人の気迫に気圧された。
二人は足早に刑場を離れ無言で別れた。
屋敷に戻っても刑場の光景が脳裡から消えることはなかった。書物に集中しようとしても、庭で素振りに没頭しようとしても、食事をしている時も、日々腐り崩れて行く首が目の前に浮かぶ。多聞の首のことを考えない時はなかった。寝ても覚めても。眠れぬ夜は続いた。思いはいつも同じだった。
(多聞さんの首をあのままにしてよいのか。見るに堪えないほど腐り果てるのを有象無象の人目に晒して。あれほどの武士を見世物にして。挙句捨てられると言う。葬って上げたい)
そして、行き着くところも同じ。
(御屋形様のお側に葬って上げられたら)
多聞の首と別れて三日目の夜になった。布団の中で同じ事ばかり考え続けていた身体が辰敬を叱った。いつまで同じ事ばかり考えているのかと。むっくりと起き上がった。
実は辰敬が起き上がったのはそれだけが理由ではなかった。辰敬はそっと縁に出ると夜空を見上げた。低く雲が垂れ込め、星一つ見えぬ闇夜だった。夕方、雲が出て来た時から、ふっとその思いが頭を過っていたのであった。
(今夜なら……)
鼻を摘ままれても分からぬ闇夜が辰敬を突き動かした。
(御屋形様のお側に葬って上げるのじゃ)
辰敬は小屋爺に来るなと言われたことは忘れていた。
寝静まった城下を抜け、闇の中を刑場へ急いだ。心の臓は激しく波打ち、全身燃え上がるように熱かった。
城下の外れまで来た時、足が止まった。
前方の闇の中に松明の明かりが幾つか揺れていた。刑場の辺りだ。足音を殺しそっと近づくと、晒し首を載せた棒杭の間に蠢く人影があった。
「何者じゃ」
不意に誰何され、闇の中からぬっと刑場の見張りが現れた。
「多胡悉皆入道の家の者じゃ」
見張りは畏まって頭を下げた。
「用を済ませて帰るところじゃったが、一体何があったのかと思って見に来たのじゃ」
「首を盗んだ者がありまして」
「なに」
胸が音を立てて鳴った。
「誰の首を」
「桜井多聞です」
辰敬は殴られたような衝撃を受けた。その時、遠くから人の声がして松明が振られた。
見張りが駆け出したので辰敬も追った。
そこは刑場の近くを流れる富田川の下流で、堤の下の河原の水辺に刑場の下役人や番人たちが松明を手に集まっていた。その足元に横たわる骸らしきものがあった。
堤を降りた辰敬は立ちすくんだ。松明の火の粉を浴びながら、かっと目を剥いていたのは小屋爺だった。小屋爺の身体はずぶ濡れだった。川から引き揚げられたのだろう。
「首はどこじゃ」
誰かが聞いた。
「流された」
斬られた小屋爺は川を渡って逃げようとしたが力尽きて倒れ、抱いていた首は川へ落としたのだと説明する声も、辰敬は途中から聞こえなくなっていた。
小屋爺が来るなと言った意味が今になって分かった。辰敬がこうなることを危惧したのだ。だが、小屋爺は分かっていた。警告しても無駄なことを。辰敬は必ず多聞の首を盗み出し、御屋形様のお側に葬ろうろうとするだろうと。だから月も星もない夜に、辰敬よりも先に首を盗み出したのだ。
激しい水音に辰敬は我に返った。暗い流れを目が追った。多聞の首に会うことはもう永遠にない。
辰敬は踵を返した。水音が遠ざかって行く。
(小屋爺、有難う。こんな形で別れることになろうとは……)
多聞との……小屋爺との……数々の思い出が涙となって零れ落ちた。屋敷に戻るまでに流し切ると言い聞かせた。
屋敷では誰も多聞と小屋爺のことを口にする者はいなかった。小屋爺が辰敬に将棋を教えたことで忠重の怒りを買い、折檻されたことは誰もが知っていた。数年の空白を経ても昔と変わらぬ交わりを結んでいることにも気が付いていた。
都の京極屋敷での多聞と辰敬の奉公ぶりもいつしか出雲に伝わっていた。どこまで深くかは定かではないが。
その小屋爺が多聞の首を盗んで殺されたのである。何かあると思うのが当然だが、皆、知らない振りを装い、腫れ物に触るように辰敬に接した。
辰敬の顔つきは変わっていた。思いつめた顔で沈黙の日々を過ごしていた。
忠重は遷宮の打ち合わせと称して、辰敬を伴い杵築へ向かった。富田を離れたら少しは気分が変わるかと思ったのだが、かえって孤独な時間を増やしただけで、ひたすら懊悩の底に落ちて行くのであった。
人は天晴尼子武士と褒めるが、多聞の首を斬ったのは死の間際の多聞に頼まれ、叱咤されたからであった。兄とも、父とも、師とも敬愛する男への愛念ゆえに出来たことで、後にも先にも最初で最後の事と思っていた。誠の武士と言う言葉が空々しく薄っぺらに感じられてならなかった。二度と同じことをする自信はなかった。これからもし平気で首を斬る武士になったら、多聞はどんな目で辰敬を見るだろうか。
(多聞さん、我はどうすればいいのじゃ)
心の叫びは一つでは収まらなかった。
小屋爺の無残な死も辰敬を苛み続けていた。辰敬の身代わりとなったかのように殺された小屋爺への自責の念は片時も離れることはなかった。何よりも辛かったのは、小屋爺が命を引き換えにしても辰敬を守ろうとしてくれた愛情の深さに気が付かなかったことだった。辰敬を愛してくれていたことは分かっていたが、命と引き替えにするほどまでに愛してくれていたとは。
(許してくれ、小屋爺)
生かしてもらった命が切なかった。どうすればいいのかが分からずに。
野分が吹き、晒し首をすべて吹き飛ばしてしまったのを機に、晒し首は集められて、山中深く打ち捨てられた。おそらく小屋爺の亡骸が捨てられたのと同じ場所だろうが、何処かは定かにされることはなかった。
その日、辰敬は小屋爺の小屋を訪ねた。
主が一月いなくなっただけで、谷底の掘っ立て小屋はすでに廃屋の気配が漂っていた。辰敬はそっと目を閉じ耳を澄ました。小屋爺の声がどこかに潜んでいるのではないかと。枯れ葉がかさかさと鳴る音がした。見上げると屋根の穴から枯れ葉が舞い落ちて来た。冬はもうそこまで来ていた。
帰宅すると、屋敷は辰敬達が凱旋した時のように華やぎ、笑顔と明るい声で満ち溢れていた。どうしたことだろう。辰敬はすぐに父に呼ばれた。父の目の端からも笑みがこぼれていた。
「お前に縁談じゃ」
「えっ」
思いもかけない言葉に声が詰まった。普通ならめでたい言葉が悪魔の声に聞こえた。
「亀井様からお話があったのじゃ。御一族の亀井掃部介様から婿に貰いたいと申し出があった。有難くお受けしたぞ」
辰敬は狼狽えた。今はとても結婚を考えるような精神状態にはない。それをどう説明すればよいのか、俄かにはその言葉さえ見つからなかった。よしんば見つかったとしても決して分かっては貰えないだろう。そもそも断ることなど許されるはずもない縁談なのだ。茫然とした辰敬に、
「遷宮の前に祝言を挙げたい。一月は忙しいゆえ、二月になるじゃろう。よいな」
父はご機嫌だった。ふさぎ込んだ辰敬を持て余していた多胡家にとっては渡りに船の縁談だったのである。結婚して妻を持てば変わる。親なら誰しも期待することであった。しかも、相手が亀井一族ならこれ以上は望むべくもない。多胡家の頭痛の種であった裾子の未来が一気に拓けたのである。
多胡家にとっては最高の新春となった。
一人辰敬を除いて。辰敬が密かに多聞と小屋爺の喪に服した正月を迎えたことに気が付いた者はいなかった。憂いは深まるばかりだった。周囲は縁談に当惑していることには気が付いていたが、結婚すれば納まる所に納まるだろうと思っていた。亀井一族から望まれた縁談に多胡家の意思を挿む余地はない。
松の内が明けて、掃部介から辰敬に会いたいと言って来て、四日後に訪問することに決まった。辰敬の固い顔をやわらげるように父が付け加えた。恐らく娘も顔を出すのではないかと。辰敬はいよいよのっぴ切らないところに追い詰められた。断る方策がないことは分かっていた。残された手段は逃げ出すしかないと実行不能なことを虚しく呟くしかなかった。
その翌日、思いがけない来客があった。安来津の蔵番矢田であった。最早忘れていた男の顔は死人のように青白かった。
「お頭が切腹した」
全身から血が引いた。
「瀬島さんが……なして、なして、一体何があったんじゃ」
青白い顔が青白い顔に食らいついた。
「笹野が蔵の荷を盗んで売り払っていたのがばれたのじゃ」
酒焼けした中年男の顔が浮かび上がった。
辰敬は吐き捨てた。
「遊ぶのに使ったんか」
矢田は首を振った。
「娘の薬代にしたんじゃ」
笹野に一人娘がいることは辰敬も知っていた。矢田の話によると、今年十四になるが辰敬が安来津を離れた後、急に目が見えなくなった。娘の目が治らないと分かった笹野の酒は一層ひどくなり、そんな夫と娘の不治の病に絶望した女房は娘を置いて家を出た。
「酒毒に冒された笹野と目の見えない娘が残され、それは哀れなものじゃった。どうなるのかと心配しておったら、何とあの笹野が変わったんじゃ。人が変わったように娘の介抱を始めたのじゃ。そりゃあ甲斐甲斐しく世話をしておったが、後はもう想像がつくじゃろう。薬代を作るために……」
笹野は死罪と決まった。
「お頭は富田の伊予守様へ御慈悲を願う嘆願書を出されたのじゃ。父が処刑されたら盲目の娘は生きて行けぬ。今回の不始末は監督不行き届きの自分に責任がある。自分が罪を引き受けるから、父と娘を巡礼の旅に出すことで許してやって欲しいと」
伊予守は嘆願書を引き裂いた。
「お頭は牢から笹野を救い出すと親子を連れて逃亡し、三日後に一人戻って来たんじゃ。そして、富田の方角へ向かって坐すと、見事に腹一文字に掻き切ったのじゃ」
声が震えていた。が、その声も途中から聞こえなくなった。辰敬の中で何かが崩れる音がした。それは次第に大きく、崖が崩れるような音となって辰敬を激しくゆすりたてた。一人の若者が崩れる音だった。多聞と小屋爺の死に耐えていたものも三つ目の死には耐えきれなかったのだ。
「今朝港に入った船乗りが言うには、石見の波根の港から九州行きの船に盲目の娘を連れた巡礼の親子が乗り込んだそうじゃ……今頃は長州の沖じゃろう……どんな旅になるのか……儂は目が治ることを信じちょるのじゃが……」
その声が途切れた。矢田の前にある顔は辰敬の顔であって辰敬の顔ではなかった。目は矢田を見ているのに見ていない。叫び声とも悲鳴ともつかぬ獣のような声が部屋を震わせた。矢田は驚きその顔を覗き込んだが、聞き返そうとはしなかった。
「終わりじゃ」
心が折れた若者から迸った声であった。
若者が人生が終わったようなことを言えば笑われるだろう。辰敬が言いたかったのは出雲でのここまでの人生が終わったと言うことだった。区切りをつけると言う意味だったのである。辰敬にとってこのまま出雲にいるのは耐え切れるものではなかった。今こそ区切りをつける時が来たと、もう一人の自分が、いやこちらこそが本当の自分であるべきもう一人がそう言わせたのであった。どう区切りをつけるのか。答えは用意されていた。それは何カ月も前から心に芽生え、次第に大きくなっていた思い。
辰敬は父と向かい合うとまっすぐに父の目を見た。
「旅に出たいのです」
父は何も言わなかった。表情も態度も何一つ変わらず、視線も微動だにせず辰敬を見据え続けていた。父子を中心とする世界の全ての動きが止まっていた。音一つしない。異様に長い沈黙が続いた。












