曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2021年10月

10月20日、妻の退院前日、県立中央病院の主治医から電話があった。
「抗生物質の点滴治療の結果、蜂窩織炎は治ったので明日退院しますが、実は骨折していることがわかりました」と、言われ、思わず「なんでやねん」と叫びそうになる。13日に救急で運ばれた時にレントゲンを撮っているのに、なぜ退院する時になって骨折だなんて。誰だって「なんでやねん」である。
先生曰く。発赤は退いて、蜂窩織炎は良くなっているのに痛みを訴えるので、レントゲンより一段上の機械で調べたら上腕部に骨折が認められたとのこと。発見が遅れた理由は妻が痛みの程度や場所などを正確に言えなかったからだそうだ。そう言われれば、妻はしきりに肘が痛いと訴えていたが、蜂窩織炎の発赤は上腕部から肩、肩甲骨の辺りだった。先生だって、同じ場所で蜂窩織炎と骨折をWるで起こしているなんて夢にも思わないだろう。
儂も付き添いで来た施設の看護師さんと、「骨折でなくてよかったねえ。皮膚科でよかった」と喜んでいたので、両方で苦しんでいたと知り胸が痛む。
整形の先生と変わり治療方針を聞く。本来なら手術をするのだが、麻痺している腕を手術しても腕が動くようになるわけではないので、手術はしないで三角巾で、2、3週間安静にするとのこと。
10月21日退院。立ち会う。骨折の痛みと蜂窩織炎の痛みの違いがどのようなものか分からないが、左腕を動かすと痛いと言う。思いがけず、救急、入院、退院と三回ナマの面会が出来たが、次はいつナマの面会が出来るか分からない。妻はこれから継続的に骨粗しょう症の薬を飲み続けることになる。

10月25日は妻の古希の誕生日。三角巾で腕を吊っている者が車椅子で移動するのは大変だろうと思い、
面会はせず、バースデイケーキとノンアルコールビールを届ける。
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イオンで買って届ける。誕生日の面会は娘のオンライン面会に任せる。こちらはベッドで寝たまま面会できるので妻も楽である。
9月からのオンライン面会は孫の映像が出ると大きな声を上げて喜ぶと言う。
今回もとても嬉しそうに何やら大声で言うので、娘が妻に「何かメッセージはありますか」と聞いたところ、「けんかで一番になるのよ」と、言ったのだそうだ。
娘と大笑いする。これほど妻らしい言葉はない。喧嘩では一度も負けたことがないのが妻の自慢だった。
今日が自分の誕生日だと言うことは分かっていたそうだ。
「可愛い顔に生まれてよかったね」「また正月に会おうね」「元気が一番よ」とも言ってたそうだ。
「腕大丈夫」と聞いたら
「骨折しました」と答え、「痛いけど、いい先生がいるから大丈夫」と言ったそうだ。
早く骨折が治って欲しいものだ。
孫が生まれてから娘とのオンライン面会が絶好調なので、妻との面会は娘に任せ、その分を93歳の母の面会に充てている。グループホームの面会は特養ほど厳しくなく、短時間だが玄関先で距離をおいてマスクで話をすることが出来る。
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右の柿3つは隣家の熟柿。左の2つは我が家の柿。母は熟柿が大好きなので、隣の柿を勝手にとっては(取っていいことになっている)母に届けている。10月中には4回ほど届けた。土曜日には必ず女性週刊誌を届けている。右の刺し子は妹が送ってくれたもので夜一人で縫ったそうだ。物忘れはひどくなったがまだこんな細かいことが出来るとわかって喜んでいる。

    第五章 出雲の武士(8

 

「何じゃと」

「有田の戦いをこの目で見たいのです」

正国は顔をしかめた。

「戦見物など聞いたことないわ。物見遊山と違うぞ」

「無論軽い気持ちで行くのではありません。包囲されながらも毛利・吉川の戦いぶり天晴と言えませぬか。五倍の兵力にも負けず渡り合っております。どうして毛利はかくもしぶとく精強なのかこの目で確かめてみたいのです」

 正国は冷ややかに見下した。

「そんなことをしてどうなると言うのだ」

「私は尼子の将来を考えているのです」

 兄は怪訝な顔で見返した。

「今は小さくとも毛利が力をつけて来たら侮れなくなると思いませんか。だからこそ今の内から毛利を見ておきたいのです。兄上、私には毛利元就と言う男がただ者とは思えないのです。兄の興元は優れた武将でしたが、元就は兄を越える武将になるのではないかと思うのです」

「口ばかり達者になりおって」

 苦々しい顔でため息をついた。

「三郎助を連れて行け」

「ありがとうございます」

「危ない処には近づくなよ」

 ぶすっと呟いた。

「負けるに決まっちょるに」

 

 中野から国境を越えた吉川領大朝までは南へおよそ四里、大朝から有田まではさらに南へ三里強。辰敬と三郎助は大朝の手前で大きく迂回し、樵に案内を頼むと紅葉に染まった中国山地を越え、安芸国に入ったのは十月半ばを過ぎていた。二人とも猟師に姿を替えていた。芸北は低い山々や丘の間に刈り取りの終わった田が広がる高原地帯だった。

 二人は有田の地を一望出来る山の中腹に潜んだ。有田城はその拓けた地の西端の低い山の上にあり、十重二十重に取り囲まれていた。無数の旗指物が揺れ今にも押しつぶされそうだった。包囲されて半月以上になる。ここまで持ちこたえているのが奇跡と思われたが、その理由はすぐに分かった。

 包囲軍の城攻めが始まると、周辺の山や丘の陰から毛利や吉川の兵が現れ包囲軍を攻撃した。城の東側には又打川が流れその向こうは湿地が広がっている。その湿地の中からも毛利兵が現れ川を越えて襲い掛かった。包囲軍は柵を構えていたが、毛利兵たちは少数の部隊に分かれて攻撃した。武田方が柵を出て反撃すると、たちまち毛利方は蹴散らされるが、それでもひるまず態勢を立て直して反撃する。

 これが早朝や深夜にも繰り返された。数では敵わぬ毛利方の兵力が削ぎ落されるように減って行くのは遠目にも分かる。にもかかわらず毛利方は執拗に包囲軍に挑んだ。

 しつこい攻撃に城攻めが捗らぬ包囲軍の苛立ちが、見物する辰敬達にも明らかに見て取れた。

 二十二日の早朝。鬨の声に辰敬達は跳ね起きた。二百ほどの兵が又打川を越えて攻め寄せたのである。昨日までの少数の兵で多方面から攻める作戦とはあきらかに気配が違っていた。毛利・吉川軍は総勢千人。かなりの犠牲が出ているから二百は連合軍の虎の子ともいうべき中核と言ってよい。

 辰敬達は固唾を呑んで見守った。

 柵を挟んで激しい戦いが繰り広げられていたが兵力の劣る毛利方が崩れた。毛利兵は川を越え湿地に逃げ込んだ。それを見て武田方の重臣熊谷元直が柵を打って出るや毛利兵を追走、一気に川を越え湿地に雪崩れ込んだ。すると茂みから毛利方の伏兵がわらわらと現れ熊谷勢に襲い掛かった。不意を突かれた熊谷勢は湿地に足を取られて大混乱に陥り、熊谷元直は呆気なく討ち取られてしまった。それまでの武田方を苛立たせていた小さな戦いは、湿地の一番深い所へ武田方をおびき出すための罠だったのである。

 無様な敗北に武田元繁は激怒し、重臣達が止めるのも聞かず、自ら全軍を率いると又打川に乗り入れた。すかさず対岸から元繁めがけて無数の矢が射かけられ、一本が元繁の喉を貫いた。元繁は水しぶきを上げて落馬、総大将も首を取られてしまった。

 武田勢は混乱し有田城の包囲を解いて自領へ引き上げた。この戦いは後の世に西の桶狭間と称されるほどの衝撃を与え、陰陽に毛利元就の名を一挙に轟かせた。

 帰りの辰敬と三郎助は無言だった。

 自分が戦って負けたわけではないのに、辰敬は地べたに叩きつけられたような敗北感に打ちのめされていた。心をかき乱すのは妬ましさだった。一番認めたくない感情の嵐に辰敬は情けないほど翻弄された。自分にない物の全てを持っている年下の若者の出現に、妬みしかない己を認めるのが疎ましかった。

 だが、余勢城へ帰りついた時には現実に向き合う若者に戻っていた。毛利元就とは否応なく生涯に亘って向き合うことになるだろう。その時、自分は元就に何を持って向き合うのか。果たしてそのような武器が自分にはあるのだろうかと。

閏十月。

都から大内義興動くの報が届いた。帰る帰ると言いながら、いつになったら帰国するのかと思われていた義興がついに腰を上げたのだ。将軍足利義稙(よしたね)のわがままに愛想をつかしたのである。

義稙は中風に苦しんでいた。その中風が悪化し、かねてより義稙は有馬温泉に湯治に行きたがっていた。だが周囲は将軍が都を離れることを諫めた。権力の中枢が不在となればどんな不穏な事態を招くや知れぬ。そうでなくとももはや安定した政権とは言えない。にもかかわらず我慢が聞かない義稙は周囲の猛反対を振り切り、強引に有馬温泉に行ってしまったのである。

その二日後に義興は堺へ向かった。

余勢城もその噂で持ちきりだった。今度こそ必ず戻って来る。船団を仕立てて戻るとなると来春は無理でも夏には帰国するだろう。十年も不在だった西の太守が戻ってくれば陰陽の勢力図に大きな揺り戻しが来るのは必定である。大内方は勢いづく。石見でも前守護山名系の国人や支援する尼子方は、辛い戦いを強いられることを覚悟しなければならないだろう。

そういう情勢の中で尼子氏にとっては喉に刺さった魚の骨のような存在があった。阿用城である。経久の長男政久が戦死してから四年、長い休戦状態の間、阿用城は最早昔の勢いは失い、小魚の骨程度の存在になっているが、このまま放置しておいてよい城ではない。経久にとっては長男の仇、必ず滅ぼさなければならない城であり、経久がそのことを忘れたことは片時もなかった。彼我(ひが)の情勢により対外進出を優先して来たが今こそ内を固める時、義興帰国の前に目障りな城を一掃しようと決意したのである。義興帰国に勇を得て勢いを取り戻すことを恐れたのも理由の一つだ。抵抗籠城が長引けば各地の反尼子勢力を力づけることにもなる。

だが、季節はすでに冬に向かっていた。今から兵を動員するには無理がある。田植えを前にした春にも戦いは出来ぬ。経久は来年秋早々に阿用城を攻め、政久の命日までに落とす決意を固めた。

 この四年間、尼子方は兵を退いたが、阿用城を望む丘に構えた本陣と政久が死んだ向城には部隊を残し、城に通じる道には関所を置き間道には見回りを置いた。

阿用城は磨石(とぎし)山の東に続く山中から細々と物資を運び込むしかなかった。

 尼子方は年内に関所の数を増やし間道の監視も厳しくした。磨石山の東の山中の見回りも強化したので、阿用城への兵糧の運び込みは次第に難しくなって行った。

 

 年末から年始にかけて、堺には都から天皇の勅使や有力な公家たち、将軍の使いなどが入れ替わり立ち替わりやって来て、義興に都に戻るように説得したが、義興は帰国の覚悟が固いことを繰り返し、逆に将軍に帰国許可を出すことを要請した。

 その永正十五年の春の終わりに杵築大社が十年の歳月を掛けて落成した。経久は来年四月に遷宮を行うことを決め、新しい大社に政久の仇を取ったことを一番に報告するべく決意を新たにした。

 八月に入ってすぐ大内義興は管領代を辞した。管領は細川高国だったが、義興は幕府の職制にはない管領代と言う異例の職を拝命し、細川高国と共に政に預かっていた。その職を返上したのである。なかなか帰国を許可しない将軍への催促であった。義興も焦れていた。すでに帰国の船団は揃っていたが、義興ほどの立場になると、国人武将たちが義興に対して無許可で帰国したようなことは出来ない。将軍の意に背くことは謀反とみなされるからであった。

 八月二十七日、ようやく将軍は帰国を許可したが義興はその二日前に堺を出帆していた。義興の復帰を諦めた将軍が帰国を許可するとの内々の情報を得た義興は、正式な許可が出るのも待てなかったのである。

 義興が堺を出帆したことは早馬でその日のうちに富田にもたらされた。

 

 経久は直ちに阿用城攻めを命じた。総大将は次男国久。三男興久も加わるまさに弔い合戦の陣容であった。経久は政久の命日までに城を落とすことを厳命し、籠城勢の降伏は認めず一人残らず皆殺しにせよと命じた。

 戦いを前に阿用の田の稲はすべて刈り取られ、八月の末には磨石山の麓は尼子の軍勢が十重二十重に取り囲んだ。五年前と同様に磨石山を望む麓の小山に本陣が敷かれた。辰敬は此度も正国に従い政久が落命した向城に陣取った。

 九月一日、法螺貝が鳴り響き陣太鼓が打ち鳴らされると、尼子の大軍は磨石山の山腹に津波のように押し寄せた。大地が震え向城の櫓も震えるほどに山も揺れた。

 向城からも鬨の声を上げて打って出た。その中に槍を構えた辰敬がいた。戦いの火ぶたが切って落とされるまでは、頭の中は多聞のことで一杯だった。

(戦場で出会ったらどうしよう。多聞さんは何と言うだろう。俺は何と言えばよいのか。刃を交えることになるのか。あの多聞さんと……。)

だが、谷を駆け下り阿用城の山腹に取り付いた時は、降り注ぐ矢や落ちて来る岩から身を守るだけで精一杯で多聞のことは頭の中から吹っ飛んでいた。阿用城攻めは二度目だが、何も見えず何も聞こえず何も考えられなかった。それほど反撃は激しかった。城兵は脱落が相次ぎ弱兵ばかりと侮っていた気分は木っ端微塵に打ち砕かれた。城を枕に死を覚悟した者達の士気は高かった。五年の間に空堀は増え一段と深くなり柵も櫓も強化されていた。

 山腹は尼子兵の血に染まり呻き声が覆った。だが、犠牲をものともしない数の力の前に、死体で埋まった空堀は乗り越えられ、柵は引き倒され、籠城兵はじりじりと山の頂へ追い上げられて行き、辰敬達はついに阿用城の尾根の北端を守る出丸を占拠した。

 ここまで七日を要した。山腹にへばりつき上ばかり見ていた辰敬は多聞に会うことは一度もなかった。一度似た人影にドキッと心の臓が鳴ったことがあった。多聞の鎧姿は見たことはないが、短軀で樽のような分厚い胸は鎧に包まれていても分かるつもりでいた。息を止めて見たその姿には、尼子兵を圧する猛々しさと重量感はなかった。

 桜井勢は本丸に籠城した。

 尼子国久は本陣を払い、阿用城の北の向城に移り、興久は磨石山の南の尾根に陣を移した。最早戦いの帰趨は決まったも同然であった。出丸には戦勝気分が蔓延していた。一人辰敬を除いて。

総攻撃の前夜は新月だった。暗夜、本丸の篝火が赤々と櫓や柵を浮かび上がらせていた。

出丸も静まり返り篝火の爆ぜる音しか聞こえなかった。離れた本丸を見つめる辰敬は本丸からも多聞が同じようにこちらを見つめているような気がしてならなかった。そう思っただけで胸が圧し潰されそうだった。多聞がすでに死んでいるとは考えなかった。そんな武士ではない。

(あの中に多聞さんがいる。今度こそ会うことになる。これまで会わなかったのは運が良かっただけだ。)

いよいよその時が明朝に迫っているこの期に及んで、覚悟も出来ていない自分をどうしていいのかもわからず気が狂いそうだった。このまま永遠に時が止まらないものかと思わずにはいられなかった。

 眠れぬ夜が過ぎて行く。

 かすかなざわめきが耳をぞわっと嫌な感じで(なぶ)った。耳鳴りかそれとも幻聴か。頭が重い。辰敬は疲労と寝不足のせいだと思ったが、すぐにそれは人の声の集まりと分かった。怒声と喚声が闇を突き破り、刀と刀が打ち合う激しい音も加わった。谷を越えて聞こえて来る。

「夜討ちだ。本陣に敵襲」

 出丸が騒然となった時、辰敬は出丸を飛び出していた。

 向城の篝火に駆け回る兵士たちの影が浮かび、雄叫びと激しい剣戟の音が暗い谷間を震わせていた。

 桜井方が向城の本陣を急襲したのだ。瞬時に辰敬は夜討ちを率いているのは多聞と悟った。恐らく多聞はこの戦いが始まった時から国久一人の命を狙っていたのだろう。阿用城には籠らず、磨石山の東に広がる山中深くに襲撃部隊を率いて潜み、国久を襲う機会をうかがっていたに違いない。多聞の姿が見えなかったはずだ。そして、決戦前夜の新月の夜、早や戦勝気分の漂う向城に斬り込んで来たのだ。多聞でなければ出来ないことだ。

 出丸から喚声を上げ救援部隊が地響きを立てて谷を下った。幾つもの松明が暗い谷間を下って行くのを見た時、辰敬も救援部隊と一緒に谷を滑り落ちていた。

「若」

 三郎助の声は聞こえなかった。

 あれほど戦場では多聞と会いたくないと思っていたのに、身体は向城に突進していた。自分でも不思議だった。自分で自分の体と思えなかった。何かが辰敬を駆り立て突き動かしていた。谷を転がり落ち向城の斜面をしゃにむによじ登った。

 向城には無残な光景が繰り広げられていた。追い詰められた一人の桜井兵に、数十人の尼子兵が襲い掛かり膾のように切り刻んだ。

さして広くない向城の内の何ヵ所かで、絶望的な抵抗を試みる兵士が一人また一人と血祭にあげられて行く。その阿鼻叫喚の火の粉が舞い上がる向こうに、近習に守られて床几に坐す国久の微動だにしない姿がちらりと視界を過ったが、辰敬は狂ったように駆け続けた。鎧を被ったこって牛のような武士を探して。

(多聞さん、多聞さん)

 心が叫んでいた。ほとんど悲鳴だった。

 辰敬は向城を突っ切って裏手に出た。どこにも多聞の姿はなかった。篝火は倒れ燃え燻る炎の中には敵味方の死体が幾つか横たわっているだけであった。恐らく斬り込んだのは二、三十人ほどの部隊か。全員死ぬ覚悟で。多聞は国久と刺し違える覚悟で。

(いったい多聞さんはどこに)

 引き返そうとした時、がしっと足首を掴まれた。はっと振り返ると壊れた柵の隙間から血まみれの手が伸びていた。振り払おうとしたが、猛禽の爪のように食い込んだ指は離れず、体勢を崩した辰敬は壊れた柵ごと堀切の下に転落した。

 ガシャッと鎧と鎧がぶつかる音がした。辰敬の下には固い鎧があったが、分厚く逞しい胸の上に乗っていることがすぐに分かった。その胴丸がひゅうっと(ふいご)のような息を吐いた。辰敬は飛び離れると暗闇の中で覆い被さるように鎧武者を覗き込んだ。鎧はべっとりと血に濡れていた。

「多聞さんか、多聞さんか」

またひゅうっと胸が鳴った時、松明の明かりが射し込まれた。炎が炎よりも赤い悪鬼の形相を浮かび上がらせた。辰敬は凍り付いた。兜はなかった。ざんばら髪の頭は割れ夥しい血糊が髪にも顔にも貼りついていた。初めは多聞とは分からなかった。それほど想像を絶する凄まじい変わりようだった。片目も抉られていた。刀傷は数え切れなかった。胴丸にも槍が貫いた穴があり、胸が鳴るたびに血糊が噴き出した。

松明が降りて来た。かざしているのは三郎助だった。三郎助は目を背けた。

辰敬は顔を覆う蓬のような髪をそっとかき分けた。もう一方の細い目が現れた。いつも眠っているような目。見えているのか見えていないのか分からないような目がそこにあった。

「多聞さん、辰敬じゃ」

 細い目の隙間が微かに光った。

 ううっと言葉にならない声が漏れるとごほっと血を吐いた。

「多聞さん、しっかり。何じゃ、何を言いたいんじゃ」

 思わず顔を近づけると生温い血の臭いがかすれた声を押し出した。

「……かいしゃくを」

「何じゃと」

 全身が凍り付いた。言葉を失い、我を失い、それが長い時間だったのか、ほんの一瞬だったのかも分からなかった。

「……頼む……介錯を……」

 強い声だった。

 辰敬は思わず三郎助を振り返った。三郎助は何も言わなかった。表情一つ変えない顔は怒っているように見えた。辰敬が振り返ったことを。松明に赤々と浮かぶ三郎助は憤怒(ふんぬ)と炎の化身、不動明王だった。

「……御屋形様のもとへ」

 乞い願う声であった。辰敬の身も心も震えた。多聞の最期の願いが分からぬ辰敬ではないが……。

「お前の手で行きたいのじゃ……それが本望じゃ……」

 血の声を振り絞って多聞が叱った。

「……尼子の端武者が儂の首を獲ってもよいのか」

 細い片目がかっと見開かれた時、せめても辰敬に出来たことは、この世で最後の血の色に染まった視野一杯に己が顔を映して見せる事だった。そして……。

「御免」

 腰刀を抜くやぐさりと首に突き立てた。

 本当は何か叫ばずにはいられなかった。胸が張り裂けんばかりの声を力にせずば、到底なしえない行為だったが、辰敬を押しとどめたのは多聞にそのような無様な声は聞かせたくないと言う思いだったのであった。ただ一人多聞を敬い、愛した武士の顔で多聞を送りたかったのだ。

 噴き出す血はもはや勢いさえ失っていた。

 七年前、人の妻になった娘が暮らす土倉の前を通って都を後にした時、辰敬は首を斬る武士になると決別の言葉を吐いた。それは十七歳の自分への決別でもあったが、七年の歳月が過ぎこのような形で首を斬る武士になるとは。

 夜明けとともに総攻撃が行われ阿用城は落ちた。

 

一昨日、コメダ珈琲でパソコンに向かっていたら昼前に特養から電話。いつもドキッとさせられる。昨日から腕が痛いとしきりに訴えるので救急で県中(県立中央病院)へ行くので立ち会ってほしいと言う。コメダと県中は目と鼻の先なのですぐに救急に行く。すでに妻は診察中。付き添いの看護師さんと骨折とか神経系統の変な病気にかかってなければよいがと心配していたら、幾つか検査をした結果、蜂窩織炎と分る。ばい菌が入って炎症を起こしたと思われるので、今日は抗生物質の入った点滴を受けて特養に戻り、改めて二日後の金曜日に皮膚科で診察を受けることになる。点滴は時間がかかるので点滴の終わりの頃、処置室で1年7ヶ月ぶりにガラスなしで長時間面会することが出来た。炎症を起こしている左腕が痛むせいもあって相変わらず喋ることが聞き取りにくいが、念願のマッサージをしてやることが出来た。と言ってもただ撫でるだけだが。本当は体を横にして背中をマッサージしてやると喜ぶのだが腕が痛いのだから望むべくもなし。何とか会話もする。俺が誰かわかるかと聞いたら、「スチュワートさん」と言われる。
誰じゃ、それ。それでも「お父さん」と言った時もあったからよしとしよう。点滴が終わり「皮膚科でよかったねえ」と看護師さんと笑顔で別れる。

そして、今日15日が皮膚科診察の日。11時に県中で妻と合流。
儂も職員さんも、皮膚科の診察を受けたらすぐに終わるものだと軽く考えていた。
妻は肘が痛いと訴えていたが、診察したら赤みを帯びているのは二の腕から肩の辺りで、先生は炎症を起こしている範囲をマジックでマークする。
熱は37.8、脈拍120、血圧169。脈拍と血圧はとても高い。熱は炎症のせいらしい。ばい菌を調べるための血液検査とかあって、延々待たされる。その間、救急の時よりもずっと長い時間一緒に居られる。
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左の写真)マッサージもたくさんしてやれた。足の裏を揉んでやると喜ぶのも以前と同じ。痩せていることを心配していたが、肉付きは良かった。体重は53㎏あると言うので安心する。一時食欲不振で48㎏まで落ちたことを考えたら太り気味の方が安心する。
右の写真)抗生物質の入った点滴を受ける。

「あっ、お父さんの声だ」と言ってくれた時は嬉しいのよりほっとしたのが正直なところ。
昔は看護師だったから病気のことは正直に教えている。「蜂窩織炎だって、どんな病気かわかるだろう」と聞いたら「ばい菌がムニャムニャ」と言っていたから、分かったのだろう。
だが、とりとめもないと言うか、脈絡のないと言うか、訳の分からない話は相変わらず。
「ヒロアキ兄ちゃんに電話しろ。ヒロアキ兄ちゃん来るから。何か食べるから。チャーハンかどうせ野菜いため」とか、
「今日の夜おでん」儂が「おでん?」と問い返すと「喜ばないの」とか、
『憧れのハワイ航路』を口ずさみ、「ああ、憧れのホーカシキエン」とか、
色々検査した結果、抗生物質の点滴が一番いいだろうと言うことになる。それには入院がいいのだが、先生は特養でも対応できるか問う。
職員さん、曰く。昼間は医療行為をできる者がいるが、夜間は医療行為は出来ない。抗生物質の点滴は不可能。先生は妻の認知症を心配していて、急に環境が変わって騒いだり暴れたりして治療できなることを恐れていた。妻は何度も長期入院したことがあって大丈夫であること、部屋は個室にすると言うことで1週間の入院が決まる。入院手続きなどをすませて病院を出たのが4時前。長かった。でも、抗生物質の点滴で治るのだから喜ばなければならない。入院中は面会できないが、1週間後退院の時、また会える。
職員さんとも話したのだが、いつ面会解除をしたらいいのか悩んでいるそうだ。

6日の水曜日に娘が妻とオンライン面会してくれた時の話が面白かったので紹介する。娘はスマホで妻は職員さんにタブレットを見せてもらう形式。ちょうど赤ん坊がギャン泣きしていて映像でも見ることが出来たので、妻は「可愛い、可愛い」とめろめろになり、「おばあちゃんが泣き止ませてあげる」と歌い出したのが妻の出身校である熊本県立濟々黌高校の校歌。この校歌は明治45年に創立30周年を記念して制定されたというから学校も古いが校歌も相当に古い。4番まであるのだが、妻は3番まで歌ったと言うので長いけど3番まで紹介する。
1          
碧落仰げば偉なる哉   
渦巻く煙幾百丈
世界一てふ大火山
我らの意気を示さずや
銀杏城東龍山の
翠を占むる濟々黌
滾々尽きぬ白川に
宏壮偉大の影うつす
2
往昔懐へば遠き哉
同心の友集まりて
道を講ずる一茅舎
金石透す赤誠の
心筑紫の杜鵑
声は雲井に聞こえてや
恩命一下我黌の
無比の光栄銘せよや

終始一貫渝らざる
教えは知れよ三綱領
「清明」「仁愛」「剛健」の
三徳之れがもとゝとなる
ふりさけ見れば碧万里
暾出でんず大海原
宇宙の偉観清新の
景趣はやがて我理想

卒業生でもない者には、意味不明の語句や読めない語句があるだろうが、実は自分も読みが分らない漢字がある。妻はまだ病に倒れる前から昔を懐かしんではよくこの校歌(濟々黌では黌歌と言う。母校は母黌と言う)を歌っていた。だが、その時も一番までで、興が乗ったら二番まで、それも途中までが多く、三番を歌った記憶は儂にはない。だから三番まで歌ったと聞いてびっくりしたのだ。
孫が可愛かったのだろう。嬉しかったのだろう。妻が喜んでくれたことが嬉しかったが、儂は三番まで覚えていてくれたことが嬉しかった。脳に重いダメージを受けているはずなのに失われていないものがあることに感動する。
大学と言う所に行かなかった妻の青春は濟々黌で終わっている。妻の人生で一番楽しかった時、自分でもいつもそう言っていた。一番輝いていた時の思い出が黌歌という歌になって蘇って来るのだろう。妻が病気であることを忘れさせてくれる一瞬に立ち会えると希望をもって前に進もうと言う気持ちになる。最後に妻は「大学に行くためには本を読ませなさい」と言ったそうな。
赤ん坊はその後すやすや寝たそうだ。
赤ん坊は大きくなって母から聞かされるだろう。
「おばあちゃんはね、子守歌に濟々黌の黌歌を三番まで歌ったんだよ」と。

12年前の妻の語録。三番まで歌いきれるとは知らなくて、一番を歌っただけでもすごいなあと褒めていた。
語録(31)

2009.1.3

「モモちゃん、幸せだよ。お前に顔を拭いてくれるタオルくれる人いないだろう」

(仕上げに拭いてやると)

「もういいよ、うるさい」

2009.1.4

(風邪をひいていたので)

「正月早々えらい目にあったな。身体もだるかったろう」

「家の仕事、何もしたくなかった」

2009.1.6

(はみがき仕上げをやったら)

「しつこ過ぎる」

「しつこいのはお父さんの性分なの」

「はみがきで殺されたなんて知らないぞ」

2009.1.8

(料理する俺を見ながら)

「こういう目で待ってるよ」

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「何でも自分で作るのね」

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「ヒデキお兄ちゃんの作ったおにしめなんか美味しいだろうな」

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「モモ、お母さん、お茶もらうんだよ」

2009.1.9

「お父さん、夕食がんばってね。がんばって食べようね」

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「アキちゃんはね、お父さんみたいに鼻高くないよ。あんまりよく見たらいかんけどね」

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(ご飯の途中キスしたら)

「モモ、見たか。お父さん、こんなに優しいのだぞ」

2009.1.10

「お父さん、昼寝しよう。いっしょに寝てあげるから昼寝しよう」

2009.1.11

「私を立たして。モモを後ろから追い出す」

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「左足が痛い」

「揉んでやるよ」

「忙しいからいいよ。そっちだって」

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「ヒロアキ兄ちゃん、ピーナッツちょうだい」

「俺、ヒロアキ兄ちゃんじゃないよ」

「ごめん、ここ、ヒロアキ兄ちゃんのとこだったから」

2009.1.12

「急に寒くなった。学校から帰る時そう思った」

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「今日はいっぱい歩いたからすぐ眠れそう」

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「飛行機を土井先生の横にとめてもらうの。みな驚くよ。川尻始まって以来だって。飛行場あるのに、みな、土井先生の横に止めるようになったら、土井先生、困るよ」
※土井先生は近くのお医者さん。今はもうない。

2009.1.21

「お父さん、いつもかっこよく立ってられていいね」

2009.1.22

「お父さん、目の下にくまがあるね」

※邦子はクマ一つなく、しわも一つない顔になった。

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「ヒロアキ兄ちゃん、今日手術するから付き合ってね」

2009.1.25

「(夕食)まだできていません。すみません」

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「お父さんが死んだらお父さんと呼ぶよ。戻って来てね」

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「お父さん、いつも死ぬ死ぬと言うの、すごくいやなの」
※夢の中の話か何かだと思う。

2009.1.29

(着替えか何かをしていて)

「荒すぎるよ」

「ごめんごめん」

「お前も今度そうしてやる」

2009.1.30

(パット交換時、暗いところで)

「お父さんね」

「誰だと思った?」

「誰かと思った」

2009.1.31

「お父さん、げた箱の中からアンパンとって」

2009.2.6

「お父さん、あそこまで立てない」

(カステラのある所まで)

2009.2.8

「ヒロアキ兄ちゃん」

「ヒロアキ兄ちゃんじゃないって」

「うん、お父さんと言えばお父さんなんだけど……」

2009.2.9(夜)

「おむつ替えて、ずぶ濡れ」

開けてみたら全然濡れていない。俺の顔を見て

「なんか違うみたい」

2009.2.10

「私ね、普通の人とちょっと違うの。みかんが大好きなの」

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「ヒロアキ兄ちゃんにいろいろやってもらって、感謝感謝感謝」

2009.2.11

「ごはん遅くなってごめんなさい。私も疲れてるの」

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「お父さん、自分の鼻見える?」

「ちょっと目をつむったらこの辺が。お前は?」

「見えない、ふ、ふ、ふ」

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「お父さん、最近、すっかり週刊誌買わなくなったねえ」

⇒「おつとめ行かなくなったねえ」

⇒「稽古しなくなったねえ」

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「お父さん、愛しているからしっかりお茶入れてね」

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「モモ、かわいいねこ。可愛いけど返すの」

「えっ、どこへ」

「向こうの三軒の家の……お父さんがいやだなと思っている家へ」

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「寒くはないけどお金はない」

2009.2.12

「そんなにしないで、人形じゃないんだから。蹴飛ばすことだってできるんだぞ」

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俺「(邦子が)戻って来てから5年になる」

「戻って来たって、それまでどこに行ってたの」

「入院してたの」

「ずっと入院してたの?」

「いや9ヶ月」

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「私と一緒にいると仕事が増えるね。私がヒロアキ兄ちゃんを頼るから」

2009.2.14

「モモ、死ね、いっぺん」

2009.2.26

(深夜)「お父さん、起こして」

「起きてどうするの」

「あいさつするの」

「誰に」

「お客さんに」


9月後半に「1年検診」「半年検診」「3ケ月検診」怒涛の三連チャンがあった。
9月15日が島根医大で甲状腺の「1年検診」。数年前の健康診断で甲状腺に嚢胞のようなものがあり精密検査を受けろと言われ、3ヶ月検診を何回か、その後半年検診を何回か受けて、1年検診の3年目。変わりがないので検診期間が伸びている訳で、今回も大丈夫だろうと思うも余り気分のいいものではない。結果、無罪放免される。「これだけ変わりがなければいいでしょう。後はかかりつけ医に手紙を書いておきますのでそちらで診てもらってください」と言われて、やっと甲状腺検診から解放される。大丈夫だろうとは思っていたがまさか解放されるとは思っていなかったので、思わず胸の内で万歳する。これでもう医大に行かなくてもいいのかと思うと帰りの神戸川の土手道もドライブ気分。降りる所を通り過ぎてしまう。
9月24日が平田の総合医療センターで膵臓MRIの「半年検診」。
3回目の半年検診で、前回、前々回、膵管に出来ている腫瘍(?嚢胞みたいなもの)に変化なしが続いているのだが、さすがに甲状腺ほど安気にはなれない。35分縛り付けられて身動き一つできないのも地獄の苦しみだったが、3回目の今回は全然苦痛にならず。慣れたのかもしれない。
9月27日にMRIの結果が出る。MRIの写真を見せられ、嚢胞みたいなものが少し大きくなっていると言われる。確かに写真では小指の先っぽよりも小さい丸いふくらみが気持ち大きくなっている。
やっぱり膵臓は甘くなかったかと思ったら先生曰く。「中の液が増えてふくれることもありますから
あまり気にしなくていいです。これが大きくなったら(親指大より大きく)手術しないといけません」
「僕はまだ癌じゃないんですよね」
「はい、癌ではありません。ま、曽田さんはこのまままっとうできますよ」
と、妙な慰め方をされて狐につままれた気がする。
そりゃあこのまままっとうできるならそれに越したことは無い。嬉しいのだが、現に膵管に小といえども腫瘍のようなものはあるし、大きくもなっているのに本当に大丈夫なのだろうか。2年半前に膵臓の異常が見つかり、カナダまで血液を送って検査を受けた結果99%の確率で膵臓癌になると判定された。
あの自信に満ちたカナダからのお墨付きは一体何なんだと言いたくなるではないか。
思うに自分が自信を持って言えることはただ一つ。
この2年間、徹底した自己節制をして来たからではないかと言うことである。この自己節制だけは大威張りできる。1回の脂質が10g、一日の脂質が20g以下になるように気をつけ、油は断ち(最近はほんの少しは使っている)、焼き肉、ステーキ、ハンバーグ、とんかつ、すき焼き、しゃぶしゃぶ、中華、てんぷら、うなぎ、ピザ、コーヒー、ビール等々一口も口に入れていない。魚と野菜中心だがトロやブリは脂質が高くてアウト。外食の最大の贅沢が「スシロー」と「出雲そば・羽根屋の五段割子」なのだからその節制ぶりを察してほしい。
そのおかげで膵臓が鳴りを潜めていると思っているのだが、今回は先生に確認をとれず。実は儂の診察の前に一人で30分も話している患者がいて、廊下で待たされた患者がぶうぶう文句を言っていたのだ。
わしも相槌を打っていた手前、あまり長い時間先生を独占するわけには行かなかったのである。来年、3月に引き続きMRIがあるので、その時にでも確かめようと思っている。
そして、9月29日が前立腺の「3ヶ月検診」。おしっこの検査があるので貯めて来てくれと言われていて、漏れそうになるのを必死に我慢して検査を受ける。容器におしっこをしてその勢いを計測する。その後、超音波でおしっこの残りを検査する。
「あっ、残ってませんね。いいですね」
この3ヶ月の様子を問われる。例によって、7、8、9月の記録を見せる。
9月分(7、8月分は省略)

12時過ぎトイレに行って就寝   7時起床してトイレに行く

 

 

1日(9月)                     5:00         〇
2
日                            5:50     〇
3
日           2:30              5:40
4
日                3:20              6:40
5
日               3:10            6:05

6日                        5:00        〇

7日                        5:00        〇
8
日                      4:35         7:00

9日            2:40              5:50
10
日            2:40                 6:20
11
日         2:25                 5:50
12
日                3:30               7:00
13
日                              6:15  〇
14
日               3:00             6:10
15
日             2:40                 6:30
16
日                3:25               6:45
17
日                              6:00  〇 
18
日            2:30   3:35             6:30
19
日            2:30                 6:20
20
日               2:55                6:35
21
日                               6:20  〇

22日                            5:45     〇

23日                          5:10       〇

24日                 3:10                〇

25日                    3:55          6:15                        
26
日            2:20       4:00 4:45        7:00
27
日                       4:30          〇
28
日                                6:10 〇

29日                          

30日                          

31日                               

 

 〇がついているのが夜中に一回だけ起きた日。一回だけでも7時に起きてすぐにトイレへ行った日は当てはまらない。多少はよくなっているのかなあと言う感じである。この3ヶ月はタムスロシン(尿を排泄しやすくする作用あり。前立腺肥大に伴う症状{頻尿、残尿感}を改善する)を服用していたが、10月からはこれに加えてデュたステリド(男性ホルモンの働きを抑え、前立腺の肥大に伴う症状を改善する)と言う薬が出る。先生は前立腺を小さくする薬だと言っていた。果たしてどうなることやら。これも長くなりそうだ。

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