第三章 戦国擾乱(8)
辰敬は御前を下がると一目散に上京へ飛んだ。文字通り辰敬の身体は宙を飛んでいた。足の裏に固い大地を感じなかった。
「いち……」
叫びながら土間へ飛び込んだが、狭い家の中はがらんとして静まり返っていた。
「もの申す……いち……」
「なんや、うるさい」
二間続きの部屋から公典が現れた。手には筆があった。書きものをしていたのだろう。
「あのう、いちは」
「おらん」
「どこへ」
「……」
「いつ戻りますか」
「もう戻らへん」
怪訝な顔をすると、
「嫁に行ったんや」
辰敬は呆けたように立ち尽くした。気が遠くなって行くのが分かる。冷たい土間に吸い込まれ、深い奈落の底に落ちて行くようだ。目の前も真っ暗になった。
「いつ……」
うわ言のように呟いていた。
「昨日や」
残酷な声だった。
「ああ……」
崩れ落ちるようにがっくりと両の膝をつくと、辰敬は握り拳で土間を打った。
「御屋形様は御褒美を下さると仰せになったんじゃ。いちの望みのままに……」
今更どうにもならぬ事とは言え、盗賊撃退にいちの手柄があった顛末を叫ばずにはいられなかった。無念の余り、涙がこぼれた。
公典は最後まで聞かず、ぷいと引っ込んでしまった。
再び家の中は墓場のように静まり返った。
いちの母親もいるはずなのに、ことりとも音がしなかった。
呆気ない別れだった。
辰敬が路地を抜けて、表通りに曲がろうとした時、呼び止める声がした。
振り返ると公典が追いかけて来て、
「なあ、ものは相談やけど、その御褒美とやら、いちの代わりに貰えんものやろか」
辰敬は返事もせず、足を速めた。
どこをどう通って帰ったのか、辰敬は何も覚えていなかった。
誰にも会いたくなかったが、御屋形様に報告しない訳には行かない。
「一足違いか。それは残念やったな」
同情するような口ぶりだったが目は笑っていた。いちの代わりに褒美を取らすと言われたが辰敬は辞退した。
人の気も知らないで。褒美など貰う気持になれる訳がないではないか。
御屋形様にもむかっ腹が立った。自分の良き理解者だと思っていただけに失望を禁じえなかったが、少し冷静になると、大人から見たらきっと大したことではないのだろうと思うに至った。御屋形様のように辛い事や、苦しい目にばかり遭って来た人にとっては。
御屋形様のあの笑みも、長い人生においては誰にでもあることなのだよと、辰敬を慰めていたような気もする。だが、笑われたのはやっぱり恨めしかった。
長屋の一室に戻ると、辰敬は身投げをするように倒れ込んだ。
昨夜の惨劇の衝撃も覚めやらぬうちに、別離の悲運に襲われた辰敬は、身も心もすでに限界だった。
そのまま死んだようにぴくりとも動かなかった。
死んでも良かった。
いや、死んでしまいたかった。
だが、現実はそう簡単には死なせてくれなかった。
何やら耳元で叫び喚くような声がしたかと思うと、辰敬は激しく揺すぶられた。
「辰敬、起きよ。早う、起きてたも」
ぼんやりと目を開けると、辺りは真っ暗だった。肌が知る夜気は夜更けと言うにはまだ早かった。
死んでいた時間は短かったようだ。
「おまん様がお呼びや」
はっきりとそう聞こえた。
喚いていたのは吉童子丸付きの女房である。
「すぐに奥へ来てたも。吉童子丸様をお救いできるのはわぬししかおらぬと仰せなのや」
またかと辰敬はうんざりとした。正直いい加減にして欲しいと思った。今夜だけは一人にしておいて欲しかったのに。
しぶしぶ起き上ると、女房はその背を突き飛ばすように急き立てた。
奥に行くと、おまんが髪を振り乱してすがりついて来た。片頬が青く腫れ上がり、血が滲んでいる。
「遅いやないか、辰敬……」
襖の向こうから、きいっと吉童子丸の金切り声が聞こえて来た。昨夜の盗賊騒ぎの時と同じ悲鳴である。
「今宵はまた一段とひどいのや。昨夜のことがあったからやろう」
おまんが襖を開けると、射し込む灯明の明りの奥に、小さな狂人が蹲っていた。
吊り上がった目が辰敬を睨みつけている。
昨夜は白刃から護るために無我夢中で抱きついたが、今夜の辰敬はそのおぞましい姿を前に立ちすくんだ。心が拒否していた。もうこんな子の相手はしたくないと。
「なにぼやぼやしとるのや。早うお慰めせぬか」
どんと背中を突き飛ばされ、辰敬は吉童子丸の前につんのめるように倒れた。咄嗟に両手を突き、四つん這いになった、次の瞬間、左のこめかみ辺りに凄まじい衝撃を受けた。ぐしゃっと鈍い音がして辰敬は目が眩んだ。一瞬、頭の骨が砕けて飛び散ったのかと思ったが、視界に散らばったのは花瓶の破片だった。
吉童子丸に花瓶で殴られたのだ。小さな狂人はその花瓶の残骸を振り上げた。
辰敬は頭を抱え転がるように逃げていた。勢い余って庭へ転落、頭の同じ場所をまた踏石の角にぶつけてしまった。呻きながらよろよろと起き上ったもののすぐに蹲った。頭が朦朧とする上に、痛みがひどくて立っていられなかったのである。
女房達が背後で騒ぎ立てる声もまるで遠い別世界の声のように聞こえる。
「辰敬……辰敬……」
おまんの金切り声が頭に響く。
辰敬は振り払うように頭を振ると、ふらふらと歩き出していた。
おまんが叫んでいた。
「どこへ行くのや、辰敬……」
どすんと辰敬は固いものにぶつかった。
分厚い胸板が立ちはだかり、多聞の細い目が刃のように見下ろしていた。
「だらずが」
いきなり頭から冷水を浴びせられた。
前にも「だらず」と叱り飛ばされた時の光景が昨日の事のように浮かんだ。
「なんじゃ、その体たらくは」
押し殺した低い声がきりきりと辰敬の胸を突き刺した。
「武士たる者、己を滅し奉公しなければならぬ時がある。それが今じゃろうが」
いちを河原者から助けてくれた時、多聞は多くを語らなかったが、同じ意味の事を言った。武骨な多聞は辰敬にあからさまな好意を示す事はなかったが、気を掛けている事は辰敬も感じていた。
多聞の怒りは痛いほど判る。
辰敬は多聞の顔を見る事が出来なかった。
「その一番大切な時におなごなんぞに魂を抜かれおって。おなごのことは忘れたのではなかったのか」
本当に怒っている。声が震えていた。
「恥を知れ、恥を」
ふっと涙が込み上げて来た。悔し涙だった。叱られた悔しさだったのか、多聞の信頼に応えられなかった悔しさなのか、いや、いちへの想いが判って貰えない悔しさなのか判らなかった。きっと全部ないまぜになった悔しさだったのであろう。
辰敬はぱっと振り返った。多聞に涙を見られたくなかった。おまん達にも見られたくなかったが、女房達は遠巻きにしていたので、灯りは遠かった。暗いのが救いだった。
辰敬は薄暗い座敷に引き返した。
「来るな」
吉童子丸は割れた花瓶を振り上げた。
「若様、辰敬でございます」
「来るな、来るなと言うのに」
もはや吉童子丸は正常な判断を失っていた。
恐怖に引きつった目で辰敬を睨みつけている。辰敬が盗賊にも、敵兵にも、悪魔にも見えるのだろう。
辰敬は思案すると、
「怪しい者ではありません。よおくご覧ください。ほれ……」
と声を掛け、着ている物をかなぐり捨て、下帯ひとつの素っ裸になった。
吉童子丸はぽかんと呆けたように見ていた。辰敬はにっと笑みを返した。
「すっぽんぽんの辰敬でございます。御安心めされ」
滑るように近づくと、素早く吉童子丸を抱きしめた。
「辰敬がついております。もう恐ろしい者はおりませぬ。ずっとずっと辰敬がお側に……」
と言ったところで言葉が途切れた。
腕の中の身体が余りにも痩せていた事に驚いたのである。吉童子丸を抱き締めるのも二度目だったが、数ヶ月前より明らかに痩せていた。骨と皮と言ってよかった。
戦で受けた心の傷がこれほど残酷なものだったとは。父を失った悲しみも時間は癒していなかったのである。勿論、その間、辰敬も何の力にもなっていなかった。
「おいたわしや」
はらはらと涙がこぼれていた。
この子を離れてはならぬ。ずっとお側にいなければならぬ。
腕に力を込めた時、涙が吉童子丸の頬にぽたぽたと滴り落ちた。
吉童子丸ははっと見上げた。まるで不思議なものが落ちて来るように見ていたが、やがてそれが辰敬の両の目からこぼれる者と判ったようだった。そっと目を閉じると辰敬の腕に身を委ねた。
静寂が戻った。
辰敬の背にふんわりと暖かい小袖が掛けられた。おまんが掛けてくれたのだ。
辰敬はそっと見回したが、多聞の姿はなかった。
吉童子丸の身体に温もりが戻り、辰敬の身体も温もって行くのが判った。人は抱き合うことでこんなにも満たされるものかとしみじみと思った時、辰敬の胸に勃然と浮かんだのは、この腕の中にあるのがいちだったらとの思いであった。
多聞に叱責されたばかりなのに、失ったものの大きさを噛みしめながら、長い間、抱き締めてくれる者が誰一人としていなかった吉童子丸を辰敬は抱き締め続けた。
その夜から、辰敬は奥に宿直することとなった。吉童子丸の隣室に泊り、吉童子丸が発作を起こした時に、慰める役である。
発作は毎晩のように起きたが、辰敬が慰めることで、これまでのように長い時間、吉童子丸が苦しむ事はなくなっていた。
辰敬にとってもこの勤めは苦ではなかった。辰敬の心にはぽっかりと大きな虚ろな穴があったが、吉童子丸を抱き締めている時だけ、その穴にすっぽりと吉童子丸が収まっていたのである。辰敬は傷ついた小さな魂の温もりを感じていた。その温もりは少しずつではあるが夜毎に増して行き、辰敬をも癒してくれるのであった。冷たい夜のその一時だけではあったが。
都の片隅の、今や忘れられた屋敷の中で、このような日々が過ぎて行く間に、政治の世界では、飽くなき政争がまたぞろ呆れるような展開を繰り広げていた。
畠山尚順と義英の争いの淵源は、応仁の乱のきっかけの一つとなった、管領畠山家の家督争いにあった。実に応仁の乱の前から始まり、未だに続いているのだから、三十五年続いた京極騒乱よりもさらに長い年月を争い続けていることになる。
その両家が政元暗殺に始まった都の擾乱を奇貨として手を結び、細川澄元に対して決起したのであったが、澄元が腹心の赤沢長経を奈良に送り込むと、畠山尚順はたちまち赤沢長経と和睦してしまったのである。
そして、畠山尚順と赤沢長経は共同して畠山義英を攻撃したのであった。
この時、細川高国も摂津や和泉の軍勢を率いて尚順の支援に回った。
政権転覆を目指す戦いが、また畠山一族の内紛に戻ってしまい、尚順たちが義英を攻め立てている頃、十二月の半ばになって、一番恐れていた知らせが西国からもたらされた。
流れ公方足利義尹が将軍復帰を目指し、上洛の途についたとの急報であった。
義尹は庇護者であった大内義興を動かす事についに成功したのだ。上洛の噂が現実のものとなったのである。これまでにも義尹は度々上洛を図ったが、ことごとく挫折し、庇護者を求めて逃亡を続けて来たのだが、此度の上洛の知らせは天下を震撼させた。
過去に義尹の上洛を支援したのは、地方の弱小の守護代や守護大名に過ぎなかった。結果を見ても分かる通り、その力において西国の太守大内義興とは比べものにならない。
その大内義興が周防・長門・安芸・石見・豊前・筑前の六カ国の分国を傾けて大船団を組織し、周防松崎(現在の防府市)の湊を出帆したのである。その数、数百艘に及ぶ。
その船数が都の噂では、数千艘に、さらには一万艘にも膨れ上がっていた。
石見からは、三隅・福屋・周布・吉見・益田氏などの諸将が従った。
出雲からは民部様(尼子経久)も従った。辰敬は父の忠重も上洛するかと期待したが、誰も何も教えてくれなかった。
家中は尼子経久の上洛をことさら無視する雰囲気だったので、辰敬は聞くことも憚られた。もし誰か縁者や知り合いが上洛するなら、連絡があるはずだから、それを待つ事にした。
一方、幕府の慌てようは不様だった。予想された事なのに、何の対策も練られていなかったと言ってよい。幕府は細川澄元を通じて義興に和議を申し込んだ。
澄元はその役目を細川高国に命じ、義興との交渉に当たらせたが、足元を見透かされた幕府は鼻であしらわれる始末であった。
このような状況下、年を越した永正五年の正月、ようやく尚順達は義英が籠もる河内嶽山城(現在の富田林市)を落とした。
ところが、あろうことか赤沢長経が畠山義英を助けて逃がすという椿事が出来した。
その前から長経と尚順の間に不和が生じていて、ついに抜き差しならぬまでに高じてしまったのである。
打って一丸とならねばならぬ時に、このような内輪揉めを目の当たりにして、将軍足利義澄も細川澄元も焦燥を募らせるばかりであった。











供えてあるひらひらしたものは、洗米して浄水した後に、一本ずつ貰って来るもの。家に戻ってからお供えする。この他に塔婆も貰って来て立てて置く。