第三章 戦国擾乱(2)
「ああ、やめとこ、こんな辛気臭い話」
公典は話を切り上げると、
「今日は何の用や」
と改めて問いかけると、手ぶらの辰敬を物足りなさそうに見詰めた。
辰敬は九条葱の束こそ背負っては来ないが、痩せた葱でも必ず一本は背負って来る鴨であったから、手ぶらは嫌でも気になる。
「用事で近くまで来たので、心配しておられると思い、顔だけでもお見せしようと参じました」
と用意していた言葉を返した。
「そりゃあ、御丁寧な事や。わざわざすまんこっちゃ」
いちの顔を見たくて来たことなど百も承知のくせに、公典はすっとぼけた顔で礼を言うと、
「まあ、折角来たのやから、手習いでもしてゆけへんか」
思わず口に出かけた礼の言葉を、辰敬はすんでのところで呑み込んだ。都の人間のこの手の言葉を真に受けてはいけないことは、いやになるほど学んでいた。
「いえ、反古を無駄にするだけじゃから」
「そうやな……反古ももう底を尽きかけとるさかいになあ……」
と公典は深いため息をついて見せた。
結局のところ、公典は辰敬の貢物がなくなることを心配しているのだ。
話の接ぎ穂がなくなっても、茶の一杯でも出ていれば座は持つし、もう少し長居も出来たのだろうが、湯の一杯も出ないのだから、引き上げるしかなかった。
辰敬は後ろ髪を引かれる思いで加田家を後にした。
今度はいつ来る事が出来るのだろうか。邸の目が緩んだからと言って、そうそう外出は出来ない。それよりも次があるのか。その前に出雲へ戻る事になるかもしれないではないか。となるともういちには会えないことになる。途端に奈落に突き落とされたような気がした。
足取りも重く都大路を歩いていると、ぺたぺたと下駄の音が追いかけて来て、
「辰敬はん」
はっと振り返ると、ぶつかりそうなところにいちの顔があった。汗がきらきらと光り、熱い息を吐くたびに、胸前が肌蹴るのではないかと思うほど大きく波打っていた。
辰敬は思わず息が止まった。
いちは一、二歩下がると襟を合わせた。
そして、息を静めると、わざとらしい声を上げた。
「ああ、しんど……」
手の甲でぐいと額の汗を拭い、にこっと笑った。
つられて辰敬も微笑もうとしたが、目と目がぶつかった瞬間、笑みは不自然に引きつった。すると、いちも頬を赤らめ、二人はぎこちない笑みを向け合った。
嬉しいくせに照れ臭くて、辰敬はまともに目を見る事が出来ず、
「あ、あの……」
声までぎこちなくなってしまった。
「えっ」
「いや、あの、何か……」
いちは首を振った。
「ううん、別に……」
辰敬が怪訝な顔をすると、いちは怒ったような顔をした。
「わけがないとあかんの」
「いや、そう言う訳じゃ」
「ほな、ええやないか」
つんと小さいけれど形のいい鼻を突き出して同じ方向に歩き出したので、辰敬も自然とついて行く形になった。
辰敬はいちの背に揺れる長い髪を見ながらつかず離れず歩き続けた。
どれくらい歩いただろうか、不意にいちがくるりと振り返った。
「わぬしはおしか」
「えっ」
いちは呆れ顔で睨んだ。
「何か言うことないんか」
「うっ」
辰敬は声を詰まらせた。いきなり何か言えと言われても困ってしまう。しどろもどろになり、顔まで真っ赤になった。
すると、いちはにっと悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「ちょっと言うてみただけや」
さっと踵を返して歩き出した。
辰敬はふうっとため息を漏らした。
振り回されてばかりで癪なのだが、この小柄だけど年上の娘にはどうにも太刀打ちできなくて、また木偶の坊のようについて行くしかなかった。
焦れたように前を行く背中が問うた。
「出雲ってどんなところや」
「田舎じゃ」
ぶっきら棒に答えた。
「そんなことわかっとる」
いちが振り返るとまた怒ったような顔をして睨みつけた。
「どんな田舎かと聞いとるんや」
「嫌になるくらいの田舎じゃ」
「もう」
いちは憤然と歩き出した。とうとう本当に怒らせてしまったようだ。
辰敬はからかった訳ではない。日頃から思っている通りのことを正直に言ったに過ぎないのだ。
辰敬は慌てて追いかけた。
「雲が綺麗じゃ」
大きな声で叫んだ。
道行く人々が振り返ったが、人目も気にせず声を張り上げた。
「出雲と言うぐらいじゃから、雲が湧き立つのじゃ」
いちは立ち止まると空を見上げた。
辰敬も並んで見上げた。
「八雲立つ国やものなあ……」
いちは歌うように呟いた。
春から初夏へ、季節が変わろうとする都の空にも雲は浮かんでいたが、辰敬は出雲の雲が一番だと思った。都より優れたものがあるとしたら、それは雲だけだと改めて思った。
「行きたいなあ」
「どこへ」
いちが振り返った。
「出雲に決まってるやろ」
辰敬は驚いた。
「雲を見にか」
いちは天を仰ぐとふうっと大きなため息をつき、ほとほと呆れたような顔で辰敬を見詰めた。
ちょっと哀しげに見えたその顔が不意に真顔になると、
「あのな……わぬしが出雲に戻る時、連れて行って欲しいのや」
思いもかけない言葉に辰敬は混乱した。その混乱に輪を掛けたのが、いちの思い詰めたような表情だった。すがりつくように見詰める瞳が言わんとしている事を想像しただけで、辰敬の身体はかっと熱くなった。
いや、そんなはずはない。二人はまだそんな年齢ではない。と、自分に言い聞かせながらも、頬はそれと分かるくらい上気して真っ赤になった。
それを見て、いちも顔を赤らめた。
お互いの胸の鼓動が聞こえそうだった。
恥じらいで一杯の沈黙が続き、息をするのさえ苦しかったが、先に耐えかねたのはいちの方だった。
いちはおどけたように笑った。
「無理に決まってるのにな」
そして。大きなため息をつくと、言い訳をするかのように呟いた。
「疲れたのや……」
辰敬の胸にずしりと響いた。この若さと美しさにはそぐわない言葉だったが、身体の奥から滲み出るような実感が籠もっていたのだ。
「こんな暮らし……」
作り笑いを浮かべた。
「出雲なら食べるのに困らんやろうと思ったんや。お腹一杯食べたいのや。おかあはんにも食べさせてやりたいのや」
確かにそれもあるだろう。
「おとうはんはええわ。どうせ都を離れへん。どんなことがあっても。飢え死にしてもな」
だが、辰敬にははぐらかそうとしているとしか思えなかった。
ふと辰敬は思った。
一緒に行けたらどんなにいいだろう。たとえどんな形でも、いちと一緒に行けるなら都を捨ててもいいと思った。
が、無理な事はすぐにわかる。夢想であった。いちの夢想に、辰敬の夢想。虚しい夢想だけが、都大路の埃の中を彷徨っていた。
「あのな……」
またいちが何かを言っている。
辰敬は夢想から覚めた。
「わらわにも文を寄越す者がおるのや」
何を言い出すかと思ったら。辰敬はいちを呪いたくなった。
いちはすくいあげるように辰敬の表情を窺った。
「読んでみるか」
「読むか。そげなもの」
怒って歩き出すと、いちは張り付くように追いかけて来た。
「わらわも今年で十五や……」
今更ながら辰敬は自分の齢を思った。二つも齢下であることを。
「もう嫁に行っててもええ齢や」
言われなくても、それくらい辰敬だって分かる。
「わらわはこう見えても結構評判が立っておるのやで」
辰敬は振り返らなかった。意地になっていた。
振り返ったところでどうにもならないことが分かり切っていたから。
十三と言う齢が無性に悔しかった。
いちはもう何も言わなかった。
二人は黙って歩き続けていた。すると急に大路がざわつき始めた。
皆、足を止めて空を見上げている。
店棚から飛び出して来て、見上げる者もいる。
辰敬といちも立ち止まって、北東の空を見上げた。
遠くうっすらと煙が上がっている。
二人がいる三条大路の、ここからだと御所の方角である。御所の向こうには相国寺と言う大寺がある。煙はその相国寺のさらに向こうの賀茂郷辺りから上っているようだ。
「とうとう火をかけよったで」
「無茶しよるなあ。香西元長も」
人々の話から判った事はこうである。香西元長も丹後出兵を命じられたので、賀茂郷に役夫を課したのだ。ところが賀茂社人が応じなかったので、元長は怒り、弟の僧宗純を派遣して焼き打ちしたらしい。
相も変わらず乱暴な男だ。
人々はぞろぞろと煙の方角に向かって歩き出した。賀茂郷は鴨川の上流であるから、鴨川の堤から見物するつもりなのだろう。都の人間は町人も公家も自分達に火の粉のかからぬ戦なら、見物するのが大好きだった。
辰敬といちも人々の流れに引きずられるようにどちらからともなく歩き出した。戦見物をしたかった訳ではない。ただ一緒にいる理由があればよかったのである。だから見物人に混じって三条大路を東に向かい、台風の翌朝に再会した広い野っ原を北上し、右手に広がる荒れ地の中の林に目が止まった時、その緑が作る静けさに、二人は吸い寄せられたのであった。
小さな林だったが、一歩入ると埃と暑気を遮断した心地よい静寂が二人を迎えた。
林の中には古ぼけた小さな社があった。
二人は社の前に肩を並べて佇んだ。
じっとりと浮かんだ汗も、樹間を抜ける風が優しく拭いとって行く。
誰にも邪魔されない二人きりの別世界だった。このままずっとこうしていられたらどんなに幸せだろうか。そう神様にお願いしたかったが、いくら手を合わせたところで願いが叶うとは思えなかった。辰敬に出来ることはこの小さな空間と限られた時間をじっと噛みしめるしかないのだ。
いちが小さくそっと手を合わせた。
辰敬ははっと厳粛な気持ちになった。思わず一緒に手を合わせたくなった。
その時、静寂を突き破って、堤の方からわあっと大きな喚声が聞こえて来た。
いちが不安げに振り返った。
辰敬も振り返ると、茂みをかき分け様子を見に行った。
いちもついて来た。
林の外は畑が鴨川の堤まで続き、堤に鈴なりの見物人達が北の空を見上げていた。
遠く立ち昇る煙が一段と高くなり、幾筋にも増えていた。
香西軍の攻勢が激しくなったようだ。
その時、見物の列が怯えたように二つに割れ、堤の北から異形の一団が現れた。
その先頭の男を見て、辰敬は息を呑んだ。
あいつだった。いちから屋根板を奪い、祇園会の印地では神業とも思える石を投げていた河原者の少年だった。
いちがあっと声を上げたのと、そいつが立ち止まったのは同時だった。