
1月24日の雪。
降る降ると言った割には降らず、朝起きたらうっすらと白くなっていただけ。
父がデイサービスに行くので雪を掃く。
朝8時頃の道は凍っていたが、雪は昼には消える。。
翌25日の朝。前日よりは降っていたが、積雪量はたいしたことない。雪かきもしない。昼には消える。
翌26日の雪。
前日と同じくらい積もる。
父がデイサービスに行くので、雪かきをする。
この日も昼には消えたが、朝、恐ろしい目に遭う。
朝の凍結アイスバーン状態は3日間同じ。大社街道に出ようと右折した時のこと。
アクセル踏んでハンドル切ったら、車がずずっとスリップ。あああ~と言う間に横滑りして、斜め前の空き地に突っ込む。もし、塀があったら物損事故になっているところだった。帰郷して6度目の冬で慣れもあり、冬タイヤを履いている安心感もあったのだろう。雪道に対して真摯に向かう姿勢が失せていたことを認めざるを得ない。その後は時速20㌔で走る。
27日の朝。この日も起きたら少し積もっていた。
さらさらのパウダースノー。昼には消える。東京は大雪だったようだが、当地は4日間こんな調子。だが、連日冷えて冷えて震えあがる。
その寒い26日、母が例の胃痛が耐え切れぬというので、病院に連れて行く。
7日頃から調子が悪く、胃腸専門病院で胃カメラを呑んでも異常はなかったのだが、家族としても何とかしてほしくて、以前に入院を断られた病院へ行く。その時は、胃痛ぐらいで入院すると、かえって起きられなくなるという理由で入院できなかったのだが、他にすぐ入院できそうな病院がない。藁にもすがる気持ちで行ったら、その日は別な先生で、「入院させてあげたいけれど、今はインフルエンザが猛威をふるっているので、入院患者を受け入れないようにしているんです」よほど救急の人以外は入院させてあげることが出来ないと詫びられる。そんなことあるのかと茫然となる。このインフルが収まるのは当分先のことだろう。どうしようと途方に暮れている。
そこへ、28日朝早く、電話。隣保のお年寄りが亡くなったので、9時に集合。おどろき見舞いに行く。その後、庭や表の掃除をして、葬式の手伝いの分担を決める。
私はお昼に抜けて、特養に顔を出し、妻の昼飯の相手をして戻る。
葬祭場の受付に決まっていた。
問題は普通2日で終わる葬式が、火葬場の都合で3日かかってしまうことだ。
明日、月曜日に母を病院へ連れて行く予定。時間を縫って行かねばならぬ。
だが、いいことと言っていいのかどうか。この無常講と呼ぶ相互扶助の項目に大きな変化があった。これまで女性陣による葬家の台所援助の負担が大変だったのである。
大釜でご飯を炊き、精進料理を作り、味噌汁を作る。茶菓の世話もある。そのために、台所には葬式の度に配膳棚を組み立てる。葬式が終わったら、解体して葬家が次にどこかで葬式があるまで預かる。中には何年も預かる家もある。大きな配膳棚だから邪魔なことこの上ない。
それが、今回から葬家が食事はすべて弁当を取ってすますので、台所の援助はいらない、ついてはこれからはこういうことは止めませんかと言ってくれたのだ。ただ、約束事だから配膳棚だけは預かるが、葬式が終わってから運んでくれと頼まれる。
一同、異論なし。その場でやめようと決まる。皆、内心止めたかったのだ。となると、厄介な配膳棚も不要になる。よその隣保はとっくに止めて、処分したところもあると言う。多分、我が隣保も処分することになるだろう。
昔は本当に相互扶助の自宅葬だったが、時代とともに変わって行く。
葬式を終え、母を何とかしてどこかに入院させないと、何も始まらない。2月1日から妻の外泊を予定しているが、どうなることやら。
1月21日(日曜日)は忠霊塔の清掃に出た。
早起きして、朝飯をかき込み、『ばりん』を軽の荷台に放り込み、8時に忠霊塔へ行く。
これが、遺族年金の債権。













採ったのは左側の手前から3番目。
それでも真面目に取り組んでいる人もいる。