第一章 出会い(12)
父忠重は何事もなかったかのように、法師丸に学問と武芸に励めと言った。
改めて将棋に触れることもなかった。法師丸の心がすでに将棋から離れていることは分かっていたから。
御屋形様の上洛は法師丸にとって止めとなる出来事だった。子供ながら法師丸は元の生活に戻らねばならぬことを自覚していた。
兄達のように普通の武士の子になろうと思った。これまでのことは忘れ、尼子家で出世の道を歩む多胡家の子にならねばならぬ。それが武士の子なら誰もが歩む当たり前の道なのだから。
それが親孝行であり、尼子家への御奉公なのだ。
父も母も安心するだろう。
これまで親に心配を掛けたことを忸怩たる思いもあり、罪滅ぼしに、父の気にいる子にならねばならぬと思った。
が、学問も武芸も何一つとしてどうにも身が入らなかった。
本人は一生懸命やらねばならぬと、書物に向かい、筆を取るのだが、どうにも頭に入らぬし、どんな文章に触れても心に響かぬ。
弓を引き、剣を取っても上達せぬ。馬を攻めれば落ちて寝込む始末。
初めは時が経てばと思っていた忠重も、一年経っても変わらぬ様子に不安になって来た。その頃には、法師丸は多胡家の出来損ないの三男坊の評価がすっかり定着していたのである。将棋の天才として一時期名を轟かせたこともすっかり忘れ去られていた。
忠重は法師丸に説教した。
「これでは養子の口も見つからぬ。坊主になるしかないぞ」
次兄の重明はもう養嗣子として片寄家に迎えられることが決まっていた。
さすがに坊主になるのは嫌で、心を入れ直したのであったが、それも長続きしなかった。
御屋形様が上洛してから、たちまち一年半が過ぎ、新しい年が来て、法師丸は十一歳になった。
梅が咲き始めた頃、法師丸は父に呼ばれた。
法師丸は覚悟した。とうとう寺にやられる時が来たのだと。
案の定、厳しい顔があった。
法師丸は神妙な顔で畏まった。
父は黙って見詰めていたが、やがて軽くため息を漏らすと、一言、
「都へ行け」
と言った。
初め法師丸は父が何を言ったのか分からなかった。
(確か、都へ行けと……)
心の中で復唱した。
寺に行けと言われることを覚悟していたのに、都へ行けとは。生涯において耳にすることなど絶対にあり得ない言葉だと思っていたのに。確かに父はそう言ったのだ。
(どう言うことじゃ……)
ただ当惑するしかない顔は、呆けたように見えたであろう。
「御屋形様に御奉公するのじゃ」
「えっ」
法師丸は思わず声を上げた。
「御屋形様がお前をお召しになったのじゃ。民部(経久)様からもお許しを頂いた」
この時、法師丸は身体の奥底の一点に火が熾きる場所があることを知った。みるみる身体が熱くなって行くのが判った。血が音を立てて煮えたぎり、手足の先まで燃えあがらせた。心の臓も煮えたぎる血を集めて沸騰した。頭の天辺まで高熱を発したように熱くなり、法師丸は眩暈を覚えた。
嘘のようだった。とても現実のこととは思えなかった。だが、これは嘘ではないのだ。現実なのだ。
法師丸の身にありうべからざる奇跡としか言いようのない事が起きたのだ。
「なして急に……」
思わず声が上ずったが、忠重はにこりともせず、
「すぐに上洛の支度をする」
不機嫌な声であった。
法師丸は父がこの御奉公を歓迎していないことを悟った。守護所に通っていた時と同じように。
「はい、父上」
父の目から逃げるようにひれ伏した。
退出した法師丸は正国と重明に掴まった。
「都へ行くちゅうのは本当か」
「やっぱりこれか」
と重明は将棋を指す振りをした。
「知らん、知らん。御奉公じゃ」
と否定しながらも、昨日まで空洞だった心にぴしっと駒を打ち付ける音が鳴り響いた。将棋を忘れるのに三年かかったのに、蘇るのは一瞬だった。
(また御屋形様の前で将棋が指せる)
法師丸は御奉公の第一が将棋であると信じていた。
しかし、父の顔を思い出したら、将棋のしの字も口には出せなかった。
法師丸は兄達を振り払うように逃げ出した。
一人になりたかった。誰もいないところで、大声で叫びたかったのだ。
(都へ行けるんじゃ)
腹の底から笑って、喜んで、辺り構わず転がりたかったのだ。嬉しくて、嬉しくて、どこをどう走ったのかも覚えていなかった。夢のようだった。嬉しさの余り気を失いそうだった。
(御屋形様は我を忘れてはいなかったんじゃ)
それが一番嬉しかった。何が嬉しいと言って、御屋形様に呼ばれて都へ行けることが。
行けば御屋形様と虎御前が待っている。
もう二度とはあるまいと思っていた将棋三昧の日々が戻って来る。
御屋形様が上洛してから二年余。その前に一年近く守護所には呼ばれていないので、法師丸は三年以上将棋と離れている。が、法師丸はなぜか妙に自信があった。今度は虎御前に勝てると。必ずや御屋形様の前で勝ってみせると奮い立った。
御屋形様は言っていた。裾の子なのだから好きな事をやれと。
(将棋で名を上げてやるけん。どげん御屋形様がお喜びになることか。それこそ御奉公ではないか)
空想が果てしなく膨らむ。自分の名が都に轟き渡る。多胡博打で名を轟かせた五代前の御先祖様のように。
(御屋形様が後ろ盾になって下されば、公方様や天子様に召し出されるようなことになるかもしれん。もし、そげなことになったら……ああっ……)
走りながら、自分でも気が狂ったかと思った。どうにも我慢がならなくて、今にも叫び、笑い、手を振り、足を鳴らして踊り出しそうになるのを必死にこらえた。そんな所を見られたら、人に何と言われるか分からない。
気がついたら富田川の上流の冬枯れの河原に駆け込んでいた。町外れのここまで来ればと思ったが、喉まで出かかっていた雄叫びを呑み込んだ。
また父の不機嫌な顔が浮かんだのである。
法師丸は凍てつく静けさの中に佇んだ。
火照った身体を冷やしながら、法師丸はふと思った。こうしてしみじみと喜びを噛みしめるのもいいものだと。叫んだり、笑ったりして喜ぶのは余りにも子供っぽ過ぎる。
(我はもう子供ではない。都へ行って、御奉公するんじゃから)
法師丸は大人の入り口に立っていることに気が付き、思わず身震いした。
法師丸が御屋形様に呼ばれた事情はすぐに分かった。
北近江の騒乱が終わったのである。
この冬、近江箕浦にある日光寺で、政経の息子京極材宗と京極高清との間で和睦がなったのだ。
応仁の乱の最中から実に三十五年間にも亘って繰り広げられた気の遠くなるような戦いにようやく幕が降ろされたのだ。
御屋形様に平安が訪れた事を法師丸は喜んだ。
上洛の支度をしながら、母は涙ぐんだ。
一旦、都へ上ったら、法師丸はいつ戻って来るか分からないからである。まさか今生の別れということはないだろうが、十一歳で家を出て、一体何歳になったら戻って来れるのか、誰も分からなかったのだ。
が、法師丸は都へ行けると言うことだけで頭が一杯で、出雲に戻ることなど考えてもいなかった。もちろん親兄姉と離れることは心細くもあるが、都の魅力は何物にも勝った。
その出発前の慌ただしい最中に、忠重は法師丸の元服をすませることにした。十一歳は早いかもしれないがこの年で出て行ってしまったら、適齢期はまだ都にいる可能性が大きい。そこで急遽済ませてしまうことにしたのだ。
急のことなので烏帽子親も立てず、簡略にすませた。
元服すれば烏帽子名が与えられる。大人の名に変わるのだ。
忠重が書いて与えた名は「辰敬」とあった。
法師丸は首を捻った。読めるわけもない。
忠重は噛み砕くように優しく教えた。
「辰 ( とき )敬 ( たか )と読む。辰とは、日、月、星を意味する。すなわち天のことじゃ。天を敬う人となれと言うことじゃ」
法師丸は神妙に頷いたが、内心、誰にも読めないような、年寄り臭い難しい名に閉口していた。兄達のように判りやすく読みやすい名前を付けてくれればいいのに。どうして自分だけ、こんな変わった名前なのだろうと。
式が終わり、子供たちだけになると、早速新しい名を巡ってかまびすしいことであった。
「わぬし、天を敬うちゅうことがわかっちょるのか」
正国が問い詰めるのに、即座に答えられないでいると、
「天道に狂いなし。天を信じ、天の教えを守れば、自ずと人として正しい道を歩むことが出来る。それこそが天意にかなうことじゃ。天を敬えば自ずとそのような生き方が出来ると言うことなのじゃ」
長兄らしく解説してみせたのだが、重明が茶々を入れた。
「わかっちょらんけん、この顔は。こいつには立派過ぎるんじゃ。勿体ないわ。似合わんけん」
「ほんにどこぞの御隠居かと思うたに」
「わぬし、名前負けしそうじゃなあ」
「お兄様達は非道ございます」
たまりかねたように袈裟が抗議した。
「わらわは思うのです。遠くへ行く子を心配しない親はいません。父上は法師が行く遠い空の果てを見ながら、法師の無事を天に祈られたと思うのです。その時、辰敬と言う名を思いつかれたのではないでしょうか」
正国が感心した。
「袈裟も言うのう。いや、まさに袈裟の言う通りじゃ。法師、いや辰敬、心得よ」
「はい、兄上」
姉の言葉は辰敬の心にも素直に沁みたのであった。
仲の良い四人の子供達の声に、忠重はしみじみと耳を傾けていた。この賑やかさは、法師丸と言う一風変わった子がいたからこそのものである。あの子がいなくなればこの賑やかさもきっと消えてしまうだろう。
忠重は祈るように呟いた。
「天よ、守りたまえ」
そろそろミニトマト、ナス(早生)が成り始め、じゃが芋(はるか)もいつ掘ろうか様子を見ている。








